銀鼠の霊薬師

八神生弦

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後日談 恋情

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「平和だなあ……」
 
 
 蛙でもいるのだろうか。
 田んぼの畦道あぜみちで二人の子供が騒いでいる。水の中を指差し棒切れでつついているのを眺めながら、縁側えんがわに腰掛けるくろはポツリと呟いた。
 
 三人で旅をしていたのは、もう二年も前の事か。そんな事を思いながら玄は色を変え始めた空を見上げた。
 目の前に見える山に沈もうとしている太陽が、辺りの雲を薄桃色に染め始めている、それに眩しそうに顔をしかめていると、先程の子供のひとりが足を滑らせ田んぼに片足を突っ込んだ、それを見たもうひとりの子供が愉しそうにからかっている。
 
 その光景が、初めて海に足を浸けた白銀しろがねを思い出させた。自分の足元で、寄せて返す波に驚きと感動で固まる白銀の顔が記憶によみがえり、思わずほおが緩んだ。
 
「楽しかったなあ……」
 
 
 
 ここは白雪しらゆきの里。
 桔梗ききょうと白銀が出会った土地だと聞いている。
 この里から仰ぎ見ることの出来る白狼山はくろうさんで、白銀は育ったという。
 
 三人で穏やかに暮らす場所にここを選んだのは桔梗だった。
 白銀が育ったこの場所に、彼を帰してあげたかったのかもしれない。
 
 里の人達は皆良い人ばかりで、三人でこの地に住みたいと申し出たところ、喜んで受け入れてくれた。
 
 空き家が二軒あるという事で、一軒は桔梗と白銀が。
 そこからすぐ側の、もう一軒に玄が住む事になった。
 
 桔梗達は薬売りを生業なりわいとし、桔梗が作った薬を月に一度、白銀が売りに出掛ける。その薬がだいぶ評判らしく、最近では噂が噂を呼びこの里まで薬を求め足を運ぶ者も多くなっていた。
 
 玄はというと、金が尽きると桔梗達と最初に出会った青柳あおやぎの城下町まで出掛けては、色町の用心棒やならず者を捕らえてまとまった金を手に入れまた里に戻る、という生活をしていた。
 
 桔梗は、そんな荒事で稼がなくても、薬代で十分三人暮らして行けると言う。
 だが、さすがにそんな髪結いの亭主のような真似は出来ない。
 
 金を作るために暫く留守にした後里に帰ると、桔梗はいつも心配そうに玄に駆け寄り怪我はしていないかと訊いてくる。そして、無事な事を確認すると決まって「お帰りなさい」と笑顔を見せるのだ。
 
 まるで母親だと、その度に思う。
 
 
 
 
「玄っ!!」
 
 ぼーっと夕焼けを眺めていると、突然名を呼ばれ、我に返った。
 
「やあ、来たね」
 
「ああ、いい匂いがするな」
 
 先程から辺りに漂う米の炊ける匂いに、桔梗は顔を綻ばせた。
 白銀が留守の間は、料理の苦手な桔梗の食事の面倒を見るのは玄の役割になっている。
 以前、桔梗は自分で米を炊こうとして真っ黒の墨状態にしたことがあった。どうやったらここまで真っ黒に炊けるのかと、白銀が頭を抱えていた。
 その逆に、意外な事に器用に何でもこなせる白銀は料理の腕も中々のものだった。
 
「今日はお前の家で一杯やろう。良い酒が手に入ったんだ」
 
「酒のあては?」
 
 玄が問うと、桔梗はふふんと得意気に腕を組む。
 
「昨日から準備していたんだ。一緒に来い」
 
 最近酒を覚えた桔梗は、下戸げこの白銀が相手をしてくれないので、彼が留守の時に玄と酒を酌み交わす事を密かな楽しみにしていた。
 良い酒が手に入ったのがよっぽど嬉しいのか、軽い足取りで歩きだす桔梗に「はいはい」と返事をしながら、その後ろを付いていく。
 
 
 
「ここだ」
 
 桔梗の後をついて行くと、里の外れの川にたどり着いた。
 
「罠を仕掛けておいたんだ」
 
 桔梗は言うと、草履ぞうりを脱ぎ捨て着物のすそをまくりあげた。白い細いふくはぎが露になると玄は「おいおい」と他に人は居ないかと辺りを見渡した。
 
「若い女性がそんなはしたない格好を……」
 
 玄が呆れて言うと、ぱしゃぱしゃと川入っていった桔梗はくるりと振り返る。
 
「お前と私しか居ないから平気だ」
 
 そう言って笑う。
 
 ────僕には見せていいって訳ね……。
 
 はあ、とため息をつきくせ毛の頭を掻く。
 
「気持ちいいぞ、玄もどうだ?」
 
 昼間の暑さもだいぶ和らいだものの、まだ肌には生ぬるい空気がまとわりつく。玄は汗ばんだ首筋を撫でながら、「水に濡れるの嫌いなんだ」と顔をしかめた。
 
 夕日の光を反射して、薄桃色に光る川面を桔梗は軽く蹴った。水しぶきがキラキラと輝きながら川面へ落ちていく。
 
 その様子を、玄は眩しそうに眺めながら「我が主は美しいな」と小さく呟いた。
 
 里に来てから気がついた事がある。
 知らず知らずのうちに、自分の目が桔梗の姿を追っているという事に。
 それは何故かなんて、そんな分かりきった事、いちいち自問自答するまでも無い。 
 
「お、あったぞ」
 
 桔梗は川に沈めていた竹で編んだ筒を引き上げた。
 
「軽いな。何も入ってない」
 
 言うと、数步歩いて次に掛けてある罠を引き上げた。また駄目だったのか無言で次の罠を確認する。
 
「駄目だな……」
 
「いくつ仕掛けたの?」
 
「次が最後だ」
 
 桔梗は少し深い場所まで移動し、同じように罠を引き上げる。
 
「お、何か入ってる」
 
 そう言うと、竹筒の中を覗きながら玄の方へと戻ってきた。
 その途中。
 玄の目の前で、桔梗が足を滑らせ体勢を崩す。
 
「うわっ」
 
「──っ!!」
 
 足元で水しぶきをあげ玄が桔梗に駆け寄り、川の中へ転倒しそうになっていた桔梗の身体を抱き支えた。
 
「ったく……これだから」
 
 珍しく焦った表情の玄は、腕の中の桔梗を見下ろす。
 
「目が離せない……」
 
 驚いた顔の桔梗と暫く見つめ合っていたが、ハッと我に返った桔梗は持っていた竹筒を玄に見せるように持ち上げると、少年のような笑顔を見せた。
 
「見ろ、玄。うなぎだ」
 
 嬉しそうに言う桔梗に、困り顔でため息をつくと、それに気がついた桔梗は「あ」と小さく声をあげた。
 
「すまん、濡れてしまったな……」
 
「うん? ああ、いいよ。君が怪我をするよりはましだ」
 
 玄は桔梗の身体から手を離し、川から上がるとはかまの裾の水を絞りながら桔梗を見た。
 
「鰻……僕捌けないけど、どうするの?」
 
「ああ、吾作さんに頼んである。今日はこれで酒を呑もう」
 
 言うと桔梗は不意に真顔になる。
 
「どうしたの?」
 
「……あ、いや。あいつも好きなんだ鰻。食わせてやれないのが残念でな……」
 
「……そっか。白君が帰ってきたらまた捕ろう。今度は僕も手伝うよ、罠仕掛けるの」
 
「濡れるの嫌なんだろう?」
 
「うん、まあそこは我慢するよ」
 
 玄はふふっと笑うと、「持つよ」と桔梗から竹筒を取り上げた。
 ズシッと重みを感じ、竹の隙間から中を覗くと鰻特有のぬめぬめとした質感のものが中で蠢いていた。胴の太さからして中々立派な鰻のようだ。
 
「さあ、行こうか」
 
 歩きだした桔梗の後に続き、玄はゆっくり歩きだす。
 後頭部でひとつに束ねた髪を揺らし前を歩く桔梗の、夕暮れの光に照らされたその細身の後ろ姿を見つめながら思う。
 
 相手が白銀じゃなければ……と。
 
 ────もしそうだったら、直ぐにでもさらってやるのになあ……。
 
 そんな事を不意に何度も妄想してしまう事がある。
 無意味なのは分かっているのに……。
 
「残念だ……」
 
 ぽつりと呟くと、「何か言ったか?」と桔梗が機嫌よさげに振り向いた。
 
「……いや、何でも」
 
 だいたい、男の一人所帯に夜、女がひとりで出向く意味を分かっているのだろうか。何なら酔い過ぎて一晩泊まっていく事も珍しくない。
 桔梗は玄が、自分が嫌がることは絶対にしないと信じきっている。要は安全牌あんぜんぱいだと思われているのだ。
 
 もし、彼女に自分の想いをぶつけたらどんな顔をするだろうか。
 今、その細い手首を掴んでこの胸元に抱き寄せたら……。
 無理矢理、その唇を奪ったら……。
 
 玄は紅い瞳をスッと細める。
 
 ────あんまり無防備だと、噛みついちゃうよ?
 
 
「今日はお前の卵焼きが食べたい」
 
 そう唐突に言い、桔梗が振り返った。
 玄がハッと面食らった顔をしたので、桔梗は思わず立ち止まり。
 
「……駄目か?」
 
 追い付いた玄を不安そうに見上げる。
 玄が笑顔を取り繕い「構わないよ」と答えると、彼女は満面の笑みを浮かべた。
 
「良かった。好きなんだ、お前の卵焼き」
 
 先程までの玄の空想を知るよしもない桔梗は、また鼻唄まじりに歩きだす。
 玄は罪悪感のようなものを感じ、頭をがしがしと掻くと自嘲じちょうまじりのため息をついた。
 
 
 そして、ひとつの答えに辿り着く。
 
 こんな自分に絶対の信頼を寄せてくれるのなら、それに応えなくてはいけない。
 
 
 あの笑顔を曇らせたくはないから。
  
 
 その為なら……と、玄は目の前で揺れる艶やかな黒髪を見つめ、小さく笑った。
 
 
 ────この想いは墓場まで持っていくことにするよ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ~終~
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