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第九章 戦役
幕間 暗殺者
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ヴィンスは月の明かりだけが照らす草原を駆けていた。それだけで、隠密スキルを持つ彼を見つける事は困難を極めていた。そして更に、彼の持つアーティファクト【影歩の外套】の力は、彼を目の前にしたとしても、その存在を感じる事が出来ないほどの隠蔽の力を与えていた。
「クソがッ! あの馬鹿王子は何も分かってねえ……。俺に死ねっていうのかよ……」
ヴィンスは苛立ちを募らせ悪態を吐いた。
彼は自分に命じられた任務の困難を考え、達成できるとは微塵も感じていないのだ。
国王の名代としてシーレッド王国第一王子から下された命令は、エゼル王国に突如現れた魔槍と呼ばれる男の暗殺だった。
「魔槍じゃねえよあれは……どう考えても魔王だろ……」
普段の彼はこれほど独り言などはしない。暗部という組織の長だが比較的陽気な性格だからだ。だが、下された命令の難しさを考えると、無意識に言葉が口から出ていた。
ヴィンスは一人草原を駆ける。その途中では多くの死骸が目に入る。先の戦いで散っていった兵士達が野ざらしのまま放置されているのだ。
ヴィンスは横目で死骸を見て呟いた。
「……エゼルの兵は回収してあるのか」
彼の視線に入ったのは、全てシーレッド兵の死骸だった。多くの死体からは鎧などの価値がある物は回収されているが、残っている服や旗などから、それは容易に判断がついた。
死骸を見たヴィンスは、それが自分の未来の姿に見え、喉を鳴らした。
「不意は突けても、その次の瞬間殺されるのが落ちだろ……。何だよあれは、レキウスの旦那を呆気なく殺すなんて、ドラゴンでも難しいだろ」
ヴィンスは先の戦いを思い出しそう言った。
「バイロンの旦那を殺して、レキウスの旦那も赤子扱いか。あの最初の一撃を外した時点で、俺には二度と勝機がなくなった気がするぜ……。いっその事逃げるか……いや、駄目だな」
一人愚痴るヴィンスは一瞬このまま逃走しようかと考えた。だが、自分には多くの部下がいる。彼らの中には冒険者時代から共にのし上がった友もいる。そんな仲間を置いて、自分だけが逃げる事はヴィンスには出来なかったのだ。
「やれるだけやるか……。もう少し長く生きたかったけどな……」
ヴィンスは諦めるようにそう言うと、改めて襟を正し【影歩の外套】の存在を感じた。
そうすると自然と心が落ち着いた。
一度深く呼吸をしたヴィンスは、見えてきたエゼル軍の陣の中へと密かに侵入したのだった。
暫く陣内を歩き続けたヴィンスは、覚えのある気配を探知で捉えた。
その気配に近付いていくと陣幕の中にその人物はいた。先の戦いで対峙していたアルンだ。
ヴィンスは陣幕に近付くと、隙間から中を覗き込んだ。
陣幕の中には三人の人物、アニア、アルン、そしてセシリャがいた。
「アルン、次の戦いはそんなに大事なのです?」
「うん、次の戦いが今後を大きく作用するだろうね。だから、アニアには前線を維持するために、セシリャさんと一緒に行動をしてほしいんだ。動き回って危ないところを回復して」
アニアの質問にアルンが返事をすると、それを聞いていたセシリャが口を開いた。
「なるほどー、じゃあ私はアニアちゃんを守りながら、馬の強化をしてればいいんだね。あっ、オルトロスはどうしよう。守備? それとも乗らないで突っ込ませた方がいい?」
「そうですね……アニアが捕まるのが一番怖いので、護衛に回してください」
アルンの意外な一言を聞き、アニアは少々驚いた表情を見せる。
「あら? 私を心配してくれるのです? 大丈夫、加護の力でそう簡単には死なないのです!」
「心配はもちろんするけどさ、アニアが落ちると前線の維持が難しいしんだよ。単純にシーレッドの方が数が多いからね。それに、アニアに何かがあったら、ゼン兄さんが怖い。一人で突っ込んでいっちゃいそうだ」
三人の会話はその後少しの間続いた。その間、ヴィンスは物音一つ立てずに、状況を窺っていた。
「それじゃあ、僕は自分の隊に戻るよ。明日はがんばろう」
「はーい、おやすみアルン」
「アルン君、おやすみー」
話を終えたアルンは陣幕から出ると、潜んでいるヴィンスに気付く様子を見せずに、自分の隊へと戻っていった。
アルンがいなくなり、セシリャはアニアを見て言った。
「とりあえず、寝床だけ作っちゃおうか?」
「そうですね。でも、まだ時間は早いから、スキル上げでもするのです」
「アニアちゃんは頑張るねえ。私はどうしようかな……魔法はもう十分だし」
会話を続ける二人を見て、ヴィンスは今この陣幕にいる人物が誰なのか。そして、どれほどエゼルにとって重要な人物なのか把握していた。
魔槍の恋人である、聖女アニア。そして、魔槍の部下であり、先の戦いで初めて二つ名が広まった獣姫セシリャ。彼女もまた魔槍の恋人とシーレッドは認識していた。
ヴィンスは二人を見て呟いた。
「シーレッドの将軍としては、あの娘らを殺すべきか……。はぁ……馬鹿か俺は……相手は無防備な若い娘だぞ……」
ヴィンスは寝床を作る二人の様子を見て殺せると判断した。
だが、それは彼の任務ではない。致し方なく強力な敵の女兵士を殺した事はある。だが、ヴィンスは王からの直接の命令でも、子供を殺す事は決してしない男だった。
ヴィンスは自分がそんな思考になるほど追い詰められている事に、今更ながら気が付くと頭を振ってアニア達に向けた殺意を消すことにした。
「だが、どうする……魔槍は何処なんだ。もう少し待つか……?」
ヴィンスは先の戦いで、ゼンの気配を捉えられていなかった。ではどうやって、ゼンを探すかといえば、身近な人間の近くに潜む事が近道だと考えていた。
その考えは正しく、ほどなくすると陣幕にゼンが姿を現した。
ヴィンスは自然と体に力が入った事に気付いた。
「何だアニア、もう寝るのか?」
「あっ、ゼン様! これは用意をしただけなのです」
「そうか、まだ寝るには時間があるから、少し話でもしようと思っ……」
「ゼン様?」
突然会話を止めたゼンに、アニアは何事かと声を掛けた。
その瞬間、ヴィンスは駆け出した。
その顔には明らかな焦りと恐怖の表情が浮かんでいる。
彼は自分が敵陣で潜んでいた事など忘れて、一心不乱に駆けていた。
「何だアイツはッ! 俺を見やがった!」
ヴィンスはブツブツとそう呟きながら走り続けた。
人の多い陣の中を走っているが、彼とすれ違った兵士は、一瞬聞こえた物音と、何か風のような物が通り過ぎた程度しか感じていなく、警戒する事はなかった。
ヴィンスは逃げ続けた。
既にエゼル王国軍の陣からは脱していたが、背後には魔槍が迫っているという恐怖に包まれ、足を止める事が出来なかった。
ヴィンスは走り続けた。
あの不敵な笑みを見せる魔槍が、明らかに自分を認識していた事に恐怖しながら走り続けた。
ほどなくすると彼は、何時の間にかに暗部の多くが集まっている森の中へと足を踏み入れていた。
「はぁ……はぁ……俺はどれだけあれを恐れたんだよ……」
ヴィンスは、自分が恐怖から仲間の下へ無意識に逃げていた事に気付いた。
なかなか戻らない呼吸を少し苦しく思いながら、両膝に手を置き身体を休めた。
ヴィンスは大きく深呼吸をした。高レベルの肉体を持つヴィンスはすぐに呼吸を取り戻していた。
その時ふと、自分の背後から言いようのない何かを感じた。
「そんなに急いで逃げなくてもいいじゃないか。俺と少し話をしよう」
「ま、魔槍ッ!!」
突然背後から声を掛けられ、ヴィンスは驚き声を出して振り返ってしまった。
自分の姿が相手に見えない事を前提の動きを心掛けているヴィンスだが、今の彼にその余裕はなかった。
だが、そこはシーレッド王国において将軍の地位にまで上り詰めた男だった。すぐに、腰からナイフを振り抜くと、腰を落として構えた。
「まあ、待て。俺はお前に話があるんだ」
対するゼンは至って冷静に話をする。それどころか、どこか興味深げにヴィンスがいる方向を見ていた。
「……殺さないのか」
どう考えても、自分の場所を分かっていると判断したヴィンスは、怪訝な表情を浮かべながらも、返事を返した。しかし、ナイフを握る手の力は緩めない。すぐにでも動けるように腰を落とし、ゼンを見据えていた。
「今すぐ死にたいならそれに応じるが、お前もいきなりは死にたくないだろ。まあ、少し話をしよう」
話しかけたゼンだったが、実のところヴィンスの姿は見えていない。ゼンはわずかな気配だけを頼りに追跡をし、声を掛けたのだった。
そして、相手の声色、そして耳にした金属音から、何となく相手が武器を構えている事は分かっていた。
「返事ぐらいしてくれよ……」
ゼンがそう呟くが、ヴィンスのから返事はない。ゼンは仕方なしといった様子で話を続けた。
「お前はこの前、俺の背中を刺してくれた奴だろ? あれは少し痛かったぞ」
ゼンの言葉にヴィンスは緊張の色を濃くした。ナイフを握る手に力が入る。
「まあ、それはいい、大した怪我でもなかったからな。俺が聞きたかった事は簡単だ。何故アニア達に手を出さなかった? お前は俺が来る前からあの場所にいたはずだ。どれほど長くいたかは知らないが、その力があれば、アニア達に害をなす事は出来たはずだ」
ゼンの言葉にヴィンスは、質問を飲み込む事に少し時間を要した。
どのような質問をされるか、ある程度は予想出来ていた。
だが、思い浮かんでいた内容とは異なっていたからだ。
考え込んでしまったヴィンスに、ゼンは話を続けた。
「だんまりは止めてくれないか? しかし……お前にその気がないのであれば、話し合いは意味がないな」
ゼンが溜息混じりにそう言った。一見したところでは、その様子は単に呆れたといった仕草だ。
だが、ヴィンスは以前見たゼンの投擲を知っていた。わずかに引いた右足は、投擲の用意だと気付き、慌てて口を開いた。
「俺の任務は魔槍の暗殺だ。あんな娘っ子を暗殺するほど腐ってはいない……」
「そうか、俺だけを狙ってくれたのか。その点に関しては礼を言いたくなるな。あの子らを失っていたら、シーレッドの奴らは、一人残らず皆殺しにしないと気がすまなくなるだろうからな」
ゼンはそう言いながら少し笑って見せた。
ゼンとしては本心から出た笑みだったのだが、ヴィンスには何かとても恐ろしい存在に見えた。
額から流れてきた汗が目に入る。だが、それを拭う事は今のヴィンスには出来なかった。
「それにしても、そのアーティファクトは見事だな。俺もあそこまで不意を突かれるとは思わなかった?」
「……あんたには効かなかったけどな」
「そんな事はないぞ。大将軍にもあれほどの怪我を負わされてないんだ」
ヴィンスは楽しそうに会話をするゼンに、ただ返事を返す事しか出来なかった。
「さて、お前に一ついい事を教えてやる。実はな、次の戦いでメルレインはこちらに寝返る予定だ」
ゼンから突然与えられた情報に、ヴィンスはそれほど動揺はしなかった。情報を司る暗部に所属するヴィンスは、既に東部にある元カフベレ国周辺の混乱を把握していたからだ。
詳細まではまだ伝わっていなかったが、その事を考慮すれば推測は容易だった。
「ところで、お前は重要情報を聞いてしまったな? そんなお前の扱いをどうするかだが、お前に二つの選択肢を与えよう。どうだ、俺の部下にならないか? もちろん当分は戦奴として扱うがな」
ヴィンスはゼンの言葉を聞いて、大きく目を見開いた。しかし、当然ゼンからは見えていない。ゼンはそんな事は関係なく更に続けた。
「もしそれを断るならば、この森に潜んでいる奴らもろともお前の命をもらう。この先にお前の仲間もいるんだろ?」
ヴィンスは驚愕した。まだヴィンスの探知スキルの範囲には、部下達の気配は捉えていないからだ。だが、その力がゼンにある事は、すぐに本当なのだと理解した。アーティファクトの力を使った自分を捉える事が出来るのだ、その程度は簡単なのだろうと。
服従か死か、その選択を与えられ、ヴィンスは何時しか冷静になっていた。
自分が死ぬことは恐怖だ。だが、自身は散々殺している。だから、それも仕方がないとは思っている。しかし、仲間は別だった。
「部下達を助けてくれるならば、俺の事など好きにしてくれ……」
「おっ、そうか。いい返事が聞けて嬉しいぞ。前にバイロンにも同じ事を聞いたんだが奴は断ったからな。頭を縦に振っていれば、今頃アルンの教育係ぐらいはやっていたはずなのにな」
ゼンの笑顔にヴィンスは一先ず安堵した。だが、次の言葉を聞いてその表情は固まった。
「そうそう、お前の部下ってのもお前と同じ扱いだぞ。部下って事は、シーレッドの暗部だろ? だったら、全部捕まえないと面倒だからな。衣食住はちゃんとするし、無理な事はさせるつもりはない。まあ、俺は奴隷にも休みを出す優良主人だと、受けはいいから安心してくれ」
ゼンは笑顔でそう言いきった。
それを見たヴィンスは、引きつった表情を浮かべながら口を開いた。
「は、ははは、すまねえな、みんな……。でも、命が助かるんだ、恨むなよ……」
ヴィンスは自分の判断が、あっているのか間違っているのか、全く判断がつかなかった。
だが、とりあえず死は回避できたのだと、心の中で仲間に謝りながら力なく笑ったのだった。
「クソがッ! あの馬鹿王子は何も分かってねえ……。俺に死ねっていうのかよ……」
ヴィンスは苛立ちを募らせ悪態を吐いた。
彼は自分に命じられた任務の困難を考え、達成できるとは微塵も感じていないのだ。
国王の名代としてシーレッド王国第一王子から下された命令は、エゼル王国に突如現れた魔槍と呼ばれる男の暗殺だった。
「魔槍じゃねえよあれは……どう考えても魔王だろ……」
普段の彼はこれほど独り言などはしない。暗部という組織の長だが比較的陽気な性格だからだ。だが、下された命令の難しさを考えると、無意識に言葉が口から出ていた。
ヴィンスは一人草原を駆ける。その途中では多くの死骸が目に入る。先の戦いで散っていった兵士達が野ざらしのまま放置されているのだ。
ヴィンスは横目で死骸を見て呟いた。
「……エゼルの兵は回収してあるのか」
彼の視線に入ったのは、全てシーレッド兵の死骸だった。多くの死体からは鎧などの価値がある物は回収されているが、残っている服や旗などから、それは容易に判断がついた。
死骸を見たヴィンスは、それが自分の未来の姿に見え、喉を鳴らした。
「不意は突けても、その次の瞬間殺されるのが落ちだろ……。何だよあれは、レキウスの旦那を呆気なく殺すなんて、ドラゴンでも難しいだろ」
ヴィンスは先の戦いを思い出しそう言った。
「バイロンの旦那を殺して、レキウスの旦那も赤子扱いか。あの最初の一撃を外した時点で、俺には二度と勝機がなくなった気がするぜ……。いっその事逃げるか……いや、駄目だな」
一人愚痴るヴィンスは一瞬このまま逃走しようかと考えた。だが、自分には多くの部下がいる。彼らの中には冒険者時代から共にのし上がった友もいる。そんな仲間を置いて、自分だけが逃げる事はヴィンスには出来なかったのだ。
「やれるだけやるか……。もう少し長く生きたかったけどな……」
ヴィンスは諦めるようにそう言うと、改めて襟を正し【影歩の外套】の存在を感じた。
そうすると自然と心が落ち着いた。
一度深く呼吸をしたヴィンスは、見えてきたエゼル軍の陣の中へと密かに侵入したのだった。
暫く陣内を歩き続けたヴィンスは、覚えのある気配を探知で捉えた。
その気配に近付いていくと陣幕の中にその人物はいた。先の戦いで対峙していたアルンだ。
ヴィンスは陣幕に近付くと、隙間から中を覗き込んだ。
陣幕の中には三人の人物、アニア、アルン、そしてセシリャがいた。
「アルン、次の戦いはそんなに大事なのです?」
「うん、次の戦いが今後を大きく作用するだろうね。だから、アニアには前線を維持するために、セシリャさんと一緒に行動をしてほしいんだ。動き回って危ないところを回復して」
アニアの質問にアルンが返事をすると、それを聞いていたセシリャが口を開いた。
「なるほどー、じゃあ私はアニアちゃんを守りながら、馬の強化をしてればいいんだね。あっ、オルトロスはどうしよう。守備? それとも乗らないで突っ込ませた方がいい?」
「そうですね……アニアが捕まるのが一番怖いので、護衛に回してください」
アルンの意外な一言を聞き、アニアは少々驚いた表情を見せる。
「あら? 私を心配してくれるのです? 大丈夫、加護の力でそう簡単には死なないのです!」
「心配はもちろんするけどさ、アニアが落ちると前線の維持が難しいしんだよ。単純にシーレッドの方が数が多いからね。それに、アニアに何かがあったら、ゼン兄さんが怖い。一人で突っ込んでいっちゃいそうだ」
三人の会話はその後少しの間続いた。その間、ヴィンスは物音一つ立てずに、状況を窺っていた。
「それじゃあ、僕は自分の隊に戻るよ。明日はがんばろう」
「はーい、おやすみアルン」
「アルン君、おやすみー」
話を終えたアルンは陣幕から出ると、潜んでいるヴィンスに気付く様子を見せずに、自分の隊へと戻っていった。
アルンがいなくなり、セシリャはアニアを見て言った。
「とりあえず、寝床だけ作っちゃおうか?」
「そうですね。でも、まだ時間は早いから、スキル上げでもするのです」
「アニアちゃんは頑張るねえ。私はどうしようかな……魔法はもう十分だし」
会話を続ける二人を見て、ヴィンスは今この陣幕にいる人物が誰なのか。そして、どれほどエゼルにとって重要な人物なのか把握していた。
魔槍の恋人である、聖女アニア。そして、魔槍の部下であり、先の戦いで初めて二つ名が広まった獣姫セシリャ。彼女もまた魔槍の恋人とシーレッドは認識していた。
ヴィンスは二人を見て呟いた。
「シーレッドの将軍としては、あの娘らを殺すべきか……。はぁ……馬鹿か俺は……相手は無防備な若い娘だぞ……」
ヴィンスは寝床を作る二人の様子を見て殺せると判断した。
だが、それは彼の任務ではない。致し方なく強力な敵の女兵士を殺した事はある。だが、ヴィンスは王からの直接の命令でも、子供を殺す事は決してしない男だった。
ヴィンスは自分がそんな思考になるほど追い詰められている事に、今更ながら気が付くと頭を振ってアニア達に向けた殺意を消すことにした。
「だが、どうする……魔槍は何処なんだ。もう少し待つか……?」
ヴィンスは先の戦いで、ゼンの気配を捉えられていなかった。ではどうやって、ゼンを探すかといえば、身近な人間の近くに潜む事が近道だと考えていた。
その考えは正しく、ほどなくすると陣幕にゼンが姿を現した。
ヴィンスは自然と体に力が入った事に気付いた。
「何だアニア、もう寝るのか?」
「あっ、ゼン様! これは用意をしただけなのです」
「そうか、まだ寝るには時間があるから、少し話でもしようと思っ……」
「ゼン様?」
突然会話を止めたゼンに、アニアは何事かと声を掛けた。
その瞬間、ヴィンスは駆け出した。
その顔には明らかな焦りと恐怖の表情が浮かんでいる。
彼は自分が敵陣で潜んでいた事など忘れて、一心不乱に駆けていた。
「何だアイツはッ! 俺を見やがった!」
ヴィンスはブツブツとそう呟きながら走り続けた。
人の多い陣の中を走っているが、彼とすれ違った兵士は、一瞬聞こえた物音と、何か風のような物が通り過ぎた程度しか感じていなく、警戒する事はなかった。
ヴィンスは逃げ続けた。
既にエゼル王国軍の陣からは脱していたが、背後には魔槍が迫っているという恐怖に包まれ、足を止める事が出来なかった。
ヴィンスは走り続けた。
あの不敵な笑みを見せる魔槍が、明らかに自分を認識していた事に恐怖しながら走り続けた。
ほどなくすると彼は、何時の間にかに暗部の多くが集まっている森の中へと足を踏み入れていた。
「はぁ……はぁ……俺はどれだけあれを恐れたんだよ……」
ヴィンスは、自分が恐怖から仲間の下へ無意識に逃げていた事に気付いた。
なかなか戻らない呼吸を少し苦しく思いながら、両膝に手を置き身体を休めた。
ヴィンスは大きく深呼吸をした。高レベルの肉体を持つヴィンスはすぐに呼吸を取り戻していた。
その時ふと、自分の背後から言いようのない何かを感じた。
「そんなに急いで逃げなくてもいいじゃないか。俺と少し話をしよう」
「ま、魔槍ッ!!」
突然背後から声を掛けられ、ヴィンスは驚き声を出して振り返ってしまった。
自分の姿が相手に見えない事を前提の動きを心掛けているヴィンスだが、今の彼にその余裕はなかった。
だが、そこはシーレッド王国において将軍の地位にまで上り詰めた男だった。すぐに、腰からナイフを振り抜くと、腰を落として構えた。
「まあ、待て。俺はお前に話があるんだ」
対するゼンは至って冷静に話をする。それどころか、どこか興味深げにヴィンスがいる方向を見ていた。
「……殺さないのか」
どう考えても、自分の場所を分かっていると判断したヴィンスは、怪訝な表情を浮かべながらも、返事を返した。しかし、ナイフを握る手の力は緩めない。すぐにでも動けるように腰を落とし、ゼンを見据えていた。
「今すぐ死にたいならそれに応じるが、お前もいきなりは死にたくないだろ。まあ、少し話をしよう」
話しかけたゼンだったが、実のところヴィンスの姿は見えていない。ゼンはわずかな気配だけを頼りに追跡をし、声を掛けたのだった。
そして、相手の声色、そして耳にした金属音から、何となく相手が武器を構えている事は分かっていた。
「返事ぐらいしてくれよ……」
ゼンがそう呟くが、ヴィンスのから返事はない。ゼンは仕方なしといった様子で話を続けた。
「お前はこの前、俺の背中を刺してくれた奴だろ? あれは少し痛かったぞ」
ゼンの言葉にヴィンスは緊張の色を濃くした。ナイフを握る手に力が入る。
「まあ、それはいい、大した怪我でもなかったからな。俺が聞きたかった事は簡単だ。何故アニア達に手を出さなかった? お前は俺が来る前からあの場所にいたはずだ。どれほど長くいたかは知らないが、その力があれば、アニア達に害をなす事は出来たはずだ」
ゼンの言葉にヴィンスは、質問を飲み込む事に少し時間を要した。
どのような質問をされるか、ある程度は予想出来ていた。
だが、思い浮かんでいた内容とは異なっていたからだ。
考え込んでしまったヴィンスに、ゼンは話を続けた。
「だんまりは止めてくれないか? しかし……お前にその気がないのであれば、話し合いは意味がないな」
ゼンが溜息混じりにそう言った。一見したところでは、その様子は単に呆れたといった仕草だ。
だが、ヴィンスは以前見たゼンの投擲を知っていた。わずかに引いた右足は、投擲の用意だと気付き、慌てて口を開いた。
「俺の任務は魔槍の暗殺だ。あんな娘っ子を暗殺するほど腐ってはいない……」
「そうか、俺だけを狙ってくれたのか。その点に関しては礼を言いたくなるな。あの子らを失っていたら、シーレッドの奴らは、一人残らず皆殺しにしないと気がすまなくなるだろうからな」
ゼンはそう言いながら少し笑って見せた。
ゼンとしては本心から出た笑みだったのだが、ヴィンスには何かとても恐ろしい存在に見えた。
額から流れてきた汗が目に入る。だが、それを拭う事は今のヴィンスには出来なかった。
「それにしても、そのアーティファクトは見事だな。俺もあそこまで不意を突かれるとは思わなかった?」
「……あんたには効かなかったけどな」
「そんな事はないぞ。大将軍にもあれほどの怪我を負わされてないんだ」
ヴィンスは楽しそうに会話をするゼンに、ただ返事を返す事しか出来なかった。
「さて、お前に一ついい事を教えてやる。実はな、次の戦いでメルレインはこちらに寝返る予定だ」
ゼンから突然与えられた情報に、ヴィンスはそれほど動揺はしなかった。情報を司る暗部に所属するヴィンスは、既に東部にある元カフベレ国周辺の混乱を把握していたからだ。
詳細まではまだ伝わっていなかったが、その事を考慮すれば推測は容易だった。
「ところで、お前は重要情報を聞いてしまったな? そんなお前の扱いをどうするかだが、お前に二つの選択肢を与えよう。どうだ、俺の部下にならないか? もちろん当分は戦奴として扱うがな」
ヴィンスはゼンの言葉を聞いて、大きく目を見開いた。しかし、当然ゼンからは見えていない。ゼンはそんな事は関係なく更に続けた。
「もしそれを断るならば、この森に潜んでいる奴らもろともお前の命をもらう。この先にお前の仲間もいるんだろ?」
ヴィンスは驚愕した。まだヴィンスの探知スキルの範囲には、部下達の気配は捉えていないからだ。だが、その力がゼンにある事は、すぐに本当なのだと理解した。アーティファクトの力を使った自分を捉える事が出来るのだ、その程度は簡単なのだろうと。
服従か死か、その選択を与えられ、ヴィンスは何時しか冷静になっていた。
自分が死ぬことは恐怖だ。だが、自身は散々殺している。だから、それも仕方がないとは思っている。しかし、仲間は別だった。
「部下達を助けてくれるならば、俺の事など好きにしてくれ……」
「おっ、そうか。いい返事が聞けて嬉しいぞ。前にバイロンにも同じ事を聞いたんだが奴は断ったからな。頭を縦に振っていれば、今頃アルンの教育係ぐらいはやっていたはずなのにな」
ゼンの笑顔にヴィンスは一先ず安堵した。だが、次の言葉を聞いてその表情は固まった。
「そうそう、お前の部下ってのもお前と同じ扱いだぞ。部下って事は、シーレッドの暗部だろ? だったら、全部捕まえないと面倒だからな。衣食住はちゃんとするし、無理な事はさせるつもりはない。まあ、俺は奴隷にも休みを出す優良主人だと、受けはいいから安心してくれ」
ゼンは笑顔でそう言いきった。
それを見たヴィンスは、引きつった表情を浮かべながら口を開いた。
「は、ははは、すまねえな、みんな……。でも、命が助かるんだ、恨むなよ……」
ヴィンスは自分の判断が、あっているのか間違っているのか、全く判断がつかなかった。
だが、とりあえず死は回避できたのだと、心の中で仲間に謝りながら力なく笑ったのだった。
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俺 「確かに俺の神聖魔法はレベルが高い。神様であるアンタとこのダンジョンを成仏させるというのも出来るかもしれないな」
ハーデス 「では……」
俺 「だが断る!」
ハーデス 「むっ、今何と?」
俺 「断ると言ったんだ」
ハーデス 「なぜだ?」
俺 「……俺のレベルだ」
ハーデス 「……は?」
俺 「あともう数千回くらいアンタを倒せば俺のレベルをカンストさせられそうなんだ。だからそれまでは聞き入れることが出来ない」
ハーデス 「レベルをカンスト? お、お主……正気か? 神であるワシですらレベルは9000なんじゃぞ? それをカンスト? 神をも上回る力をそなたは既に得ておるのじゃぞ?」
俺 「そんなことは知ったことじゃない。俺の目標はレベルをカンストさせること。それだけだ」
ハーデス 「……正気……なのか?」
俺 「もちろん」
異世界に放り込まれた俺は、昔ハマったゲームのように異世界をコンプリートすることにした。
たとえ周りの者たちがなんと言おうとも、俺は異世界を極め尽くしてみせる!
元外科医の俺が異世界で何が出来るだろうか?~現代医療の技術で異世界チート無双~
冒険者ギルド酒場 チューイ
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魔法は奇跡の力。そんな魔法と現在医療の知識と技術を持った俺が異世界でチートする。神奈川県の大和市にある冒険者ギルド酒場の冒険者タカミの話を小説にしてみました。
俺の名前は、加山タカミ。48歳独身。現在、救命救急の医師として現役バリバリ最前線で馬車馬のごとく働いている。俺の両親は、俺が幼いころバスの転落事故で俺をかばって亡くなった。その時の無念を糧に猛勉強して医師になった。俺を育ててくれた、ばーちゃんとじーちゃんも既に亡くなってしまっている。つまり、俺は天涯孤独なわけだ。職場でも患者第一主義で同僚との付き合いは仕事以外にほとんどなかった。しかし、医師としての技量は他の医師と比較しても評価は高い。別に自分以外の人が嫌いというわけでもない。つまり、ボッチ時間が長かったのである意味コミ障気味になっている。今日も相変わらず忙しい日常を過ごしている。
そんなある日、俺は一人の少女を庇って事故にあう。そして、気が付いてみれば・・・
「俺、死んでるじゃん・・・」
目の前に現れたのは結構”チャラ”そうな自称 創造神。彼とのやり取りで俺は異世界に転生する事になった。
新たな家族と仲間と出会い、翻弄しながら異世界での生活を始める。しかし、医療水準の低い異世界。俺の新たな運命が始まった。
元外科医の加山タカミが持つ医療知識と技術で本来持つ宿命を異世界で発揮する。自分の宿命とは何か翻弄しながら異世界でチート無双する様子の物語。冒険者ギルド酒場 大和支部の冒険者の英雄譚。
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