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第2話 思い出しローズマリー
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荒々しく扉が押し開けられたのと同時に転がるように店に入ってきたのは、とても小さな女の子だった。突然のことに店主が目を丸くしていると、肩息をついていた女の子が小さく「ふえっ……」と声を上げた。
「あら、お嬢ちゃん。こんな夜にどうしたの? お父さんお母さんとはぐれちゃいましたか?」
カウンターの内側から出てきながら、店主は心配顔で女の子に声をかけた。女の子――あいの瞳のすぐそばにはダムができていて、あいは〈お母さん〉という単語を聞いた途端、今にも溢れそうだったそれを勢いよく決壊させた。
盛大に泣きじゃくるあいの様子に、店主はおろおろとするばかりだった。そんな店主を見かねたお客のひとり――壮年の女性は席を立つと、あいに駆け寄って膝をついた。
「お嬢ちゃん、お母さんと何かあったのかい? ――あら、あいちゃんじゃあないかい」
「おばちゃん、あいのこと、知ってるの?」
あいは嗚咽を飲み込むと、女性を見上げてそう尋ねた。つり目で勝ち気な雰囲気の女性は精一杯目じりを下げると、優しく微笑んで頷いた。女性は濡れそぼった頬をハンカチで拭ってやりながら、温かみのある落ち着いた調子でゆっくりとあいに話しかけた。
「もう、こんなにぐちゃぐちゃにしちゃって。可愛いお顔が台無しだろう。――さ、おばちゃんに話してごらん。お話したら、きっと気持ちも落ち着くからね」
女性はあいの両肩に手を置いてニコリと笑うと、あいの手をとった。そしてチラリと店主を見やると「ホットミルクでも用意してやって」と言い、あいを空いている席へと案内した。
店主はあいにホットミルクを勧めると、女性に向かってしょんぼりと肩を落とした。
「すみません、私まで取り乱してしまって。とても助かりました……」
「マスターは子供慣れしてないんだから、仕方ないさ。その点、あたしはプロみたいなものだからねえ。――ほら、あいちゃん。遠慮はいらないよ。フーフーしながらゆっくりお飲み」
店主に向かってカラカラと快活に笑ったあと、女性は改めてあいにホットミルクを飲むよう促した。あいは小さくコクンと頷くと、おずおずとカップを抱え持った。
時折鼻をすすりながらミルクをコクコクと飲むあいを見つめながら、店主は女性に尋ねた。
「この子――あいちゃんはお知り合いの子なんですか?」
「ああ、うん。ほら、お母さんがね――」
あいは〈お母さん〉というワードに反応すると、目にいっぱいの涙を浮かべた。どうしたの、と店主が慌てて尋ねると、あいは再び火がついたようにボロボロと泣き出した。
「どうしてあいはもらわれっ子なのー! あい、きっと要らない子だったんだ! だからきっと、お母さんもあいのこと要らなくなったんだあ……!」
店主と女性は必死にあいを落ち着かせようとあやした。その合間に、店主はチラチラと女性に目配せをした。どうしたらいいのか教えてくれと言わんばかりに、店主はすがるように女性を見つめた。女性は困ったように苦笑すると、あいに優しく言い聞かせた。
「あのね、あいちゃん、あんたは要らない子なんてことはないよ。だって、おばちゃんは知ってるからね。お母さん、ついこの前も『あいちゃんが無事に小学校に入学できてよかった。私の大事なあいちゃんが、学校でお友達をたくさん作れますように』って言ってたんだから」
「嘘だあ! お母さんが大事なのはとーまだもん! そんなこと言うはずないもん!」
「嘘じゃないよ。あんたのおうちの近くに〈八塚のお稲荷さん〉があるだろう? おばちゃんもあそこら辺に住んでいてね、〈八塚さま〉のところでお母さんがそう言うのを確かに聞いたんだから」
「絶対そんなことないー! だってお母さんずっととーまのことばっかりで、あいのこと構ってくれないもん!」
聞く耳をもたず一向に泣き止む気配のないあいに、女性はどうしたもんかと手をこまねいた。それ以上に、店主が困惑しきりだった。女性は店主に目を向けると、言いづらそうに口ごもりながらもあいの発言の補足説明をした。それによると、あいの今の両親は不妊治療を断念し、まだ物心つくかどうかだったあいを里子として迎えたのだとか。しかし最近になって奇跡的に妊娠をし、男の子を出産したという。あいが言っていた〈とーま〉というのは、その男の子の名前である。
「とーまのお世話ばっかりで、お母さん、あいがお話しても『あとでね』ばかりだもん! お母さん、前に『あいにはもうひとりお母さんがいる』って言ってたけど、きっとそのお母さんはあいのこと要らなくなったから、あいをお母さんにあげたんだ! でもとーまが生まれて、お母さん、あいのこと要らなくなったんだ! だから『あとでね』ばっかり言うんだー!」
店主が女性を見つめると、女性は口パクで「そんなことはない」と言いながら小さく首を振った。店主は小首を傾げてつかの間思案すると、いいことを思いついたと言うかのようにパアと表情を明るくした。
「ねえ、あいちゃん。自分の目で見たものだったら、あいちゃんは信じられる?」
あいは不思議そうに首を傾げながらも、小さく頷いた。店主はニッコリと微笑むと、軽くポンと手を打ち鳴らした。
「じゃあ実際に、お母さんがあいちゃんのことをどう思っているのか、自分の目で見て確かめてみましょう。見ても分からない部分は、このおばちゃんに教えてもらいながら。――申し訳ありませんが、ご協力いただけますでしょうか?」
店主はあいから女性へと視線を移すと、不甲斐ないという体で肩をすくめた。女性が「いいよ、気にしなさんな」と笑うと、あいは好奇心で目をパチパチとさせた。
「そんなこと、できるの……?」
「ええ、お姉ちゃんに任せてくださいな!」
店主は胸に手を当て得意げに頷くと、緩い三つ編みをぴょこぴょこと揺らしながらカウンターへと去っていった。しばらくして、店主はお盆にティーカップを二客乗せて戻ってきた。ほんのりと色のついたお湯らしきものの入ったそれを見つめて不思議そうに目をしばたかせるあいに、店主は隣に腰掛けながらニヤリと笑った。
「お姉ちゃんね、魔法使いのお友達がいるんですよ。正確には、仙人なんですけれど。――そのお友達はハーブ園をやっていて、仙術を使って薬草を育てているんです。それはそのお友達から分けていただいた〈魔法のかかった、特別なお茶〉なんですよ」
「お茶なの? お湯じゃなくて?」
「ええ。ローズマリーという木の葉っぱでね、とても神秘的な力を持っているんです。『変わらぬ愛』とか『私を想って』という花言葉があるので、よく結婚式にも使われるんですよ」
あいはあまり理解してはいないようだったが、結婚式という言葉に目を輝かせて「素敵ね!」と頬を上気させた。店主は笑顔で頷くと、カップに手をかけながら続けた。
「他にも『記憶』とか『思い出』という花言葉があるんです。――見ててくださいね」
店主は持ち上げたカップを口元へと運ぶと、フーフーと少し冷ましてからひと口だけお茶を飲んだ。そして店主はゴクリと下がった喉元が元の位置へと戻ろうと上がるのと同時に、ぷっくりと頬を膨らませた。続いて、店主はポワッと口を開けた。すると煙のようなものがもくもくと立ち上り、そこに何やら映像が映し出された。――小さな覆屋のある、七つの曲がり角だ。
「この風景は、このお店のあるところの〈昼間の風景〉です。――あいちゃんはこの道のどれかを走ってここに来たんですけれど、分かりますか?」
あいは驚きと興味で目を丸くしながらも、覚えていないと答えるように勢いよく首を横に振った。店主は一瞬ぽかんとした表情を浮かべると、目線だけを女性客に向けた。女性は苦笑いを浮かべると、「もしものときは、あたしが送り届けるよ」と請け負った。
店主は気を取り直すと、もう一度お茶を口に含んだ。次に映し出された風景は、蓮の花の咲く小さな沼地だった。
「これは、このお店のあるところの〈もっと昔の風景〉です。あいちゃんが生まれるずっと前は、こんな感じだったんですよ」
「すごい! すごい!! あいもやる! どうやってやるの? 飲むだけでいいの!?」
「あいちゃんが覚えていなくても、見たことのある光景ならローズマリーが思い出させてくれますから。〈お母さん〉のことを考えながら飲んでみてくださいな。――まだ熱いから、フーフーしてくださいね」
あいは元気良く頷くと、カップに顔を近づけた。そして観察するようにお茶を眺めると、スンスンと香りを確かめた。
「〈干し草のベッド〉みたい……。この前ね、遠足で牧場に行ったの。そこにね、干し草のベッドがあってね、お友達と寝転んで日向ぼっこしたの。そのときのにおいに似てる!」
「あら、そんな素敵な香りがするのかい? どれ、マスターが実演用に持ってきたそれでいいから、あたしにもおくれ。――あれ? これ、あたしがさっき食べてたハンバーグに入ってなかった?」
瞳をキラキラと輝かせながら、あいは一生懸命お茶をフーフーとしていた。その向かい側で、女性がカップを抱えたまま考え込むように眉間にシワを作った。店主はクスクスと笑うと、頷いて答えた。
「ええ。ローズマリーは肉料理の香辛料としてもよく使われるんですよ」
「はあん、お店とご家庭の味の違いは香辛料なんだね、やっぱり。あたしも今度、香辛料そろえて本格的なの作ってみようかな……」
カップの中を覗き込むように視線を落としたまま、女性は感心の声を上げた。その合間に、あいはしっかりとカップを抱え持ち、お茶に口をつけていた。あいは逸る気持ちを抑えながら、おそるおそるコックリとお茶を飲み込んだ。そして頬をプウとふくらませると、勢いよく〈最初の思い出〉を吐き出した。
最初に映り込んだのは、手術衣をまとった男性だった。彼はにっこりと微笑むと、どこかに向かって「お母さん、よく頑張りましたね」と言った。そのまま、あいは手術衣の女性に抱えられ、同じ部屋の中のどこかへと連れて行かれたようだ。
「これ、なあに? あい、こんなの知らないよ?」
「これは、あいちゃんが生まれてすぐの思い出みたいだね。多分、さっきのおじさんはお医者さんで、こっちのお姉さんは助産師さんだ。今、あいちゃんは体を拭かれているみたいだね。そろそろ、お母さんが出てくると思うよ」
あいは不思議そうに〈思い出〉を見上げてぽかんとしていた。覚えていない記憶を見ているからだろう、〈自分の思い出である〉という実感が持てずに女性客の説明を聞いても顔いっぱいにハテナを描いていた。
少しして、映像に変化が起きた。助産師があいを抱きかかえて、また部屋の中を移動したのだ。助産師はすぐに立ち止まったが、それと一緒にあいの見ていた景色が動いた。
元気な女の子ですよ、と助産師が言うのと同時にあいが目にしたのは少しやつれた女性だった。〈あいと目を合わせ、嬉しそうに涙を流す女性〉を眺めながら、あいは素っ頓狂な声を上げて驚いた。
「サンタさんだ! あい、このおばちゃん知ってる! サンタさんだよ!」
「サンタさん……?」
「うん、そう! でも、さっき、おばちゃん、『そろそろ、お母さんが出てくる』って言ったよね? てことは、このおばちゃんがあいの〈もうひとりのお母さん〉なの!?」
あいは興奮した面持ちで女性客を「そうなの?」「なんで?」と質問攻めにした。女性が答える隙なく困っていると、あいは急ぐようにカップを手に取りお茶をひと口飲んだ。女性はそのまま口をつぐむと、あいの様子を見守ることにした。
次に浮かび上がった〈思い出〉は、あいが生まれてから数ヶ月ほどのようだった。あいは優しそうな初老の女性に抱かれているようで、おばあちゃんのどアップと〈サンタさん〉とが交互に映り込んだ。〈サンタさん〉は最初に見たときよりも心なしか痩せているようだった。
まずは体を治して、と気遣ってくれるおばあちゃんに、〈サンタさん〉は泣きながら「いつか必ず迎えに来ますから」と頭を下げていた。その光景を目にしたあいは、すぐさまジイッと女性客を見つめた。説明をしてほしいと態度で訴えかけてくるあいに、女性は懐かしそうな悲しそうな、そんな表情を浮かべて応えた。
「これね、おばちゃんもよぉく知っているよ。〈あいちゃんのサンタさん〉はね、事情があってひとりであいちゃんを育てなくちゃならなくなったんだけど、病気にかかってしまったんだ」
「病気? お風邪をひいたの?」
「違うよ。もっと、ずっと治らないやつさ。だから、ひとりではどうしようもなくなって、それであいちゃんを施設に預けることにしたんだよ。決して、あいちゃんが要らなくなったからじゃあないんだよ」
「やっぱり、サンタさんがあいの〈もうひとりのお母さん〉だったんだ……」
映し出された〈思い出〉の中の〈もうひとりのお母さん〉を一心に見つめながら、あいはぼんやりと呟いた。女性客は小さく頷きながら、悲しそうに声を落とした。
「〈もうひとりのお母さん〉は『早く元気になって、あいちゃんを迎えに行けますように』と思っていたんだけれど、良くなる兆しがあまり見えなくてね。それで、断腸の思いであいちゃんを里子に出したんだよ。あいちゃんには、温かい家庭の中で育って欲しかったみたいだから」
「だんちょうのおもい?」
「悲しくて悲しくて、悲しすぎて、まるでおなかの中がはさみでジョキジョキに切られちゃったみたいに、おなかも心も痛くてたまらないようなことをそう言うんだよ。――お茶を飲んでごらん。そろそろ〈お母さん〉が出てくるころじゃあないかな」
あいは不安そうに頷きながら、おそるおそるお茶を飲んだ。飛び出してきた〈思い出〉には、両親と〈もうひとりのお母さん〉が映し出されていた。〈もうひとりのお母さん〉は今までで一番やせ細っていて、ボロボロと泣きながら「駄目なママでごめんね、あいちゃん」と声を震わせた。〈お母さん〉は〈もうひとりのお母さん〉の両肩を掴むと、〈もうひとりのお母さん〉を叱りつけた。
「あなたが〈駄目なママ〉なんてことは、これっぽっちもありません! 気をしっかりと持って! あなたは〈ママ〉をやめたわけではないんですから!」
あいは今にも泣きそうな顔つきで、女性客を見つめた。そして小さくポツリと、消え入りそうな声で尋ねた。
「どうして、お母さんはママに怒ってるの? ママは悪いことをしたの……?」
女性は遠慮がちに笑うと、そうじゃないよ、と落ち着いた調子で優しく言った。悲しげにゆらゆらと瞳を揺らすあいに、女性は困ったように唸りながら視線をさまよわせた。しかしすぐに、腹をくくったかのように小さく嘆息すると、女性はゆっくりと話し始めた。
「この世の中にはね、あいちゃんみたいに施設に預けられる子は意外といるんだよ。そしてね、残念だけれど、子供を迎えに行かなければ会いにも行かないお母さんも意外といるんだ。〈ママ〉であることをやめちゃうのさ。――でもね、事情があってすぐに迎えには行かれない、会いに行くことも叶わないけれど、必死に〈ママ〉であろうとする人もいる。あいちゃんのママは、そんな〈必死に頑張っている人〉の一人なんだよ。ママは一生懸命頑張ってて、あいちゃんのことを大事に思ってて、愛してやまないんだってことを、それを知っているから、お母さんはママに『あなたは駄目じゃない』と励ましているのさ」
「〈ママ〉をやめたわけじゃないって、どういうこと? ママはまだ、あいのママなの?」
「そうだよ。頑張ってもどうにもならなくて、嫌だけどしかたなく〈ママ〉であることをやめる人もいるんだけれどもね。あいちゃんのママは何が何でも〈ママ〉であることをやめたくなかったんだ。お母さんも、そんなママを応援したいと思ったんだ。ふたりとも、理由は違えど〈立派なお母さんになりたいけれど、なれない〉という点では同じだったからね。だからお母さんはママに『ふたりで一緒に〈立派なお母さん〉になろう』と提案したんだよ」
あいは難しい顔を浮かべていたが、「自分は要らない子ではないんだ」ということは理解できつつあるようだった。
あいは無言でカップを手に取ると、何度もお茶を口に運んだ。次々と浮んでは消える〈思い出〉の中にママは現れなかったが、その代わりに常に笑顔のお母さんでいっぱいだった。
お母さんは時折、カメラを構えてあいのことを写真に収めていた。懸命にミニアルバムを作るお母さんにあいが「これ、なあに?」と尋ねると、お母さんはニッコリと笑って答えた。
「あいちゃんのことを大切に思っている人にも〈今のあいちゃん〉を見てもらえるように作っているのよ」
あいは何故かしょんぼりと肩を落とした。店主と女性客は「どうしたの?」と声をかけようとしたのだが、言い切る前にあいがカップに口をつけた。現れた〈思い出〉はつい去年のクリスマス前のものだった。
この〈思い出〉には久々にママが登場した。ママはお母さんに何かを手渡していて、そこにあいは出くわしたのだ。母たちはギクリと頬を引きつらせたのだが、あいは気にすることなく興奮気味に声を張り上げた。
「サンタさんだ! おばちゃん、サンタさんでしょ!? それ、あいのクリスマスプレゼントなんでしょ!?」
「サンタさんは赤い服を着たおじいちゃんだし、サンタさんがプレゼントを持ってきてくれるのはクリスマスでしょう?」
「違うよー! だってこの前、お街でサンタさん見たもん! サンタのお兄さんが『ケーキのごよやく、いかがですか』って言ってたもん! それに、お母さん、前に『あいがお誕生日にふたつプレゼントをもらえるのは、サンタさんが用意してくれるから』って言ってたじゃん! だからサンタさんはおじいちゃんだけじゃないし、クリスマスじゃなくても来るんでしょ!?」
「あのね、本当は違うのよ。このおばちゃんはね――」
お母さんは必死に、あいに何かを伝えようとしていた。しかしママは笑顔でそれを遮ると、あいの顔を覗き込むようにしゃがみ、あいの頭を撫でた。
「そうよ、おばちゃんはサンタさんなの。今ね、あいちゃんへのクリスマスプレゼントをお母さんに預けていたところなのよ」
あいはいっそうしょげかえった。映像内のママのバッグの中に〈お母さんが作っていたミニアルバム〉と〈もらったばかりらしい薬の袋〉が入っているのを見てとった女性客は、優しくあいをフォローした。
「ママがあいちゃんのサンタさんだってのは、本当のことだよ。いつもは体調が悪くて自分でプレゼントを届けらんないから、お母さんがアルバムを渡しがてらママのところに取りに行っていたみたいなんだけれど。去年は体調がよかったから、病院の帰りに渡しに来たんだろうね」
「だったら、あいのママだって教えて欲しかった……」
「あいちゃんが『もうひとり、お母さんがいる』って教えてもらったの、今年に入ってからだろう? たしか、ランドセルを買いに行く前だったよねえ。『もうすぐ小学校に通うくらいお姉さんになったから、大切なことを教えるね』ということでさ」
「うん、『〈もうひとりのお母さん〉と三人でランドセル買いに行こう』って言われた……。でも、『お母さんの子じゃなかった』って悲しくて、嫌だって言っちゃったの。知ってたら、嫌って言わなかった。サンタさんだって言わないで、ちゃんと教えて欲しかった……」
「あいちゃんはそのとき、まだママのことを知らなかったんだもの。いきなり名乗り出て驚かせたくなかったんじゃないかい? 誕生日もクリスマスも全部サンタさんのおかげにしていたのも、そういう理由からだろう」
あいの顔はみるみる泣き顔へと戻っていった。完全に俯くと、あいは涙をポタポタと落とした。あいの心情を知ってか知らずか、女性はまるでトドメを刺すように続けて言った。
「お母さんがついこの前、『あいちゃんが無事に小学校に入学できてよかった。私の大事なあいちゃんが、学校でお友達をたくさん作れますように』と言っていたのを聞いたって、さっきおばちゃん言っただろう? あれね、お母さんもママも、ふたりともが言っていたことなんだよ」
「うわああああん、どうしようー! あい、本当は〈とーまは赤ちゃんだから、つきっきりでお世話しないと駄目〉って知ってたのー! なのに、お母さんにひどいこと言っちゃった! 『あいのこと、要らないんでしょ』って言っちゃったー! ママにもひどいこと言った! お母さんに、『〈もうひとりのお母さん〉はあいのこと要らなかったんでしょ』って言っちゃったの! ママが知ったら、きっと泣いちゃうー!」
堰を切ったように泣き出したあいを、女性は優しく諭した。
「きちんとごめんなさいして、大好きとありがとうをちゃんと伝えれば、お母さんは許してくれるよ」
「でも、もう本当にあいのこと要らなくなっちゃったかも! だって、あい、ひどいこと言ったんだもん……!」
あいは泣き止む気配を見せなかった。店主はあいの肩に手を置くと、あいの顔を覗き込んで微笑んだ。
「あいちゃんは〈思い出〉を振り返ってみて、〈お母さん〉のことをどう思いましたか? あいちゃんが知っていたお母さんたちは、あいちゃんが謝っても許してはくれないような人だったでしょうか?」
あいは力いっぱい首を横に振った。そんなあいを見て、店主はいっそうニッコリと笑みを浮かべると、あいの頭を撫でながら返した。
「じゃあ、もうおうちに帰りましょう。今ごろ、お母さんはあいちゃんのことが心配で気が気じゃないはずですもの。そして、きちんと謝りましょうね」
あいが力強く頷くと、女性客が嬉しそうにニッと笑った。送ってあげるよ、と言って席を立つ女性に誘われて、あいもよじよじと椅子から下りた。
あいは店の扉の近くまで移動すると、急に立ち止まってもじもじとした。どうしたの、と店主が尋ねると、あいは女性客を見上げて言った。
「あのね、おばちゃんね、あいのことも、お母さんやママのこともたくさん知ってていっぱい教えてくれたから、どうしてなのかなって。まるで、神様みたいだなって」
女性は答えることなく、ただニヤリと笑い返した。あいはそれだけで満足したようで、今度は店主を見上げるとはにかみながらペコリとお辞儀した。
「お姉ちゃん、ありがと――」
「あい!!」
あいが礼を述べている最中に、叫ぶような呼び声とともに扉が押し開けられた。あいが驚いて振り向くと、そこにはお母さんが立っていた。顔面蒼白だったお母さんはあいの無事な様子に安堵したのか、ドッと涙を溢れさせながらあいに抱きついた。
「良かった……! 無事だった……! あいー……、よかったあ……!」
突然のことにあいがぽかんとしていると、なんとママまで現れた。フラフラに倒れそうになりながら、ママは蚊の鳴くような細い声で「あい、よかった……」と呟いた。その声はお母さんにも届いていたようで、お母さんは慌ててあいから離れると土下座せんばかりに頭を下げた。
「私が至らないばかりに、本当に申し訳ありませ――」
「なんでお母さんもママもここにいるのー!」
お母さんの言葉を遮るように、あいは大きな声で泣き出した。突然〈ママ〉という単語をあいが口にしたことに母たちは面食らって目を丸くしたが、気を取り直すとお母さんが代表して「ふたりで手分けしてあいを探していたのよ」と説明した。あいは涙で顔をぐしゃぐしゃにすると、矢継ぎ早に何で、どうしてと続けた。
「あい、ひどいこと言っちゃったのに何で!? とーまは!? どうしてーっ!?」
「お母さん、あいがいなくなったら悲しくて生きていかれないもの! 冬馬はおばあちゃん家にいるから、心配しないで大丈夫よ」
「ママはご病気なんでしょ!? なのに、あい、ママを走らせちゃった! あいは悪い子だ!」
「そんなことないわ。ママは病気よりも、あいがいなくなることのほうが苦しくてつらいの。だから、あいが無事に見つかって本当によかった……!」
お母さんもママも、あいのそばに膝をつくと、あいの肩に優しく手を置いた。あいは母たちを交互に見つめたが、どんな表情をしているのかぼんやりとして見えなかった。そのくらい、あいはたくさんの涙で顔を濡らしていた。
あいは手の甲でグジグジと涙を拭った。しかし、あいの視界はすぐさま涙で遮断された。――母たちが、とても優しく微笑んでいたからだ。
「ごめんなさいーっ! お母さんのこと、本当は嫌いなんかじゃない! 大好きなのー! ママも、ランドセル一緒に買いに行くの嫌って言っちゃってごめんなさいー! あい、サンタさんがママだって知らなかったのー!」
あいは母たちの首に抱きつくようにしがみつくと、ごめんなさいとありがとう、そして大好きを連呼した。あいを抱きしめ返すと、母たちもあいと同じ言葉を繰り返した。
あいはお母さんとママに挟まれて、どちらとも手を繋いで笑顔で帰っていった。母たちの手を大切そうにギュウと握りしめ店をあとにするあいを見送るように、レジスターはチンと音を立てたのだった。
「あら、お嬢ちゃん。こんな夜にどうしたの? お父さんお母さんとはぐれちゃいましたか?」
カウンターの内側から出てきながら、店主は心配顔で女の子に声をかけた。女の子――あいの瞳のすぐそばにはダムができていて、あいは〈お母さん〉という単語を聞いた途端、今にも溢れそうだったそれを勢いよく決壊させた。
盛大に泣きじゃくるあいの様子に、店主はおろおろとするばかりだった。そんな店主を見かねたお客のひとり――壮年の女性は席を立つと、あいに駆け寄って膝をついた。
「お嬢ちゃん、お母さんと何かあったのかい? ――あら、あいちゃんじゃあないかい」
「おばちゃん、あいのこと、知ってるの?」
あいは嗚咽を飲み込むと、女性を見上げてそう尋ねた。つり目で勝ち気な雰囲気の女性は精一杯目じりを下げると、優しく微笑んで頷いた。女性は濡れそぼった頬をハンカチで拭ってやりながら、温かみのある落ち着いた調子でゆっくりとあいに話しかけた。
「もう、こんなにぐちゃぐちゃにしちゃって。可愛いお顔が台無しだろう。――さ、おばちゃんに話してごらん。お話したら、きっと気持ちも落ち着くからね」
女性はあいの両肩に手を置いてニコリと笑うと、あいの手をとった。そしてチラリと店主を見やると「ホットミルクでも用意してやって」と言い、あいを空いている席へと案内した。
店主はあいにホットミルクを勧めると、女性に向かってしょんぼりと肩を落とした。
「すみません、私まで取り乱してしまって。とても助かりました……」
「マスターは子供慣れしてないんだから、仕方ないさ。その点、あたしはプロみたいなものだからねえ。――ほら、あいちゃん。遠慮はいらないよ。フーフーしながらゆっくりお飲み」
店主に向かってカラカラと快活に笑ったあと、女性は改めてあいにホットミルクを飲むよう促した。あいは小さくコクンと頷くと、おずおずとカップを抱え持った。
時折鼻をすすりながらミルクをコクコクと飲むあいを見つめながら、店主は女性に尋ねた。
「この子――あいちゃんはお知り合いの子なんですか?」
「ああ、うん。ほら、お母さんがね――」
あいは〈お母さん〉というワードに反応すると、目にいっぱいの涙を浮かべた。どうしたの、と店主が慌てて尋ねると、あいは再び火がついたようにボロボロと泣き出した。
「どうしてあいはもらわれっ子なのー! あい、きっと要らない子だったんだ! だからきっと、お母さんもあいのこと要らなくなったんだあ……!」
店主と女性は必死にあいを落ち着かせようとあやした。その合間に、店主はチラチラと女性に目配せをした。どうしたらいいのか教えてくれと言わんばかりに、店主はすがるように女性を見つめた。女性は困ったように苦笑すると、あいに優しく言い聞かせた。
「あのね、あいちゃん、あんたは要らない子なんてことはないよ。だって、おばちゃんは知ってるからね。お母さん、ついこの前も『あいちゃんが無事に小学校に入学できてよかった。私の大事なあいちゃんが、学校でお友達をたくさん作れますように』って言ってたんだから」
「嘘だあ! お母さんが大事なのはとーまだもん! そんなこと言うはずないもん!」
「嘘じゃないよ。あんたのおうちの近くに〈八塚のお稲荷さん〉があるだろう? おばちゃんもあそこら辺に住んでいてね、〈八塚さま〉のところでお母さんがそう言うのを確かに聞いたんだから」
「絶対そんなことないー! だってお母さんずっととーまのことばっかりで、あいのこと構ってくれないもん!」
聞く耳をもたず一向に泣き止む気配のないあいに、女性はどうしたもんかと手をこまねいた。それ以上に、店主が困惑しきりだった。女性は店主に目を向けると、言いづらそうに口ごもりながらもあいの発言の補足説明をした。それによると、あいの今の両親は不妊治療を断念し、まだ物心つくかどうかだったあいを里子として迎えたのだとか。しかし最近になって奇跡的に妊娠をし、男の子を出産したという。あいが言っていた〈とーま〉というのは、その男の子の名前である。
「とーまのお世話ばっかりで、お母さん、あいがお話しても『あとでね』ばかりだもん! お母さん、前に『あいにはもうひとりお母さんがいる』って言ってたけど、きっとそのお母さんはあいのこと要らなくなったから、あいをお母さんにあげたんだ! でもとーまが生まれて、お母さん、あいのこと要らなくなったんだ! だから『あとでね』ばっかり言うんだー!」
店主が女性を見つめると、女性は口パクで「そんなことはない」と言いながら小さく首を振った。店主は小首を傾げてつかの間思案すると、いいことを思いついたと言うかのようにパアと表情を明るくした。
「ねえ、あいちゃん。自分の目で見たものだったら、あいちゃんは信じられる?」
あいは不思議そうに首を傾げながらも、小さく頷いた。店主はニッコリと微笑むと、軽くポンと手を打ち鳴らした。
「じゃあ実際に、お母さんがあいちゃんのことをどう思っているのか、自分の目で見て確かめてみましょう。見ても分からない部分は、このおばちゃんに教えてもらいながら。――申し訳ありませんが、ご協力いただけますでしょうか?」
店主はあいから女性へと視線を移すと、不甲斐ないという体で肩をすくめた。女性が「いいよ、気にしなさんな」と笑うと、あいは好奇心で目をパチパチとさせた。
「そんなこと、できるの……?」
「ええ、お姉ちゃんに任せてくださいな!」
店主は胸に手を当て得意げに頷くと、緩い三つ編みをぴょこぴょこと揺らしながらカウンターへと去っていった。しばらくして、店主はお盆にティーカップを二客乗せて戻ってきた。ほんのりと色のついたお湯らしきものの入ったそれを見つめて不思議そうに目をしばたかせるあいに、店主は隣に腰掛けながらニヤリと笑った。
「お姉ちゃんね、魔法使いのお友達がいるんですよ。正確には、仙人なんですけれど。――そのお友達はハーブ園をやっていて、仙術を使って薬草を育てているんです。それはそのお友達から分けていただいた〈魔法のかかった、特別なお茶〉なんですよ」
「お茶なの? お湯じゃなくて?」
「ええ。ローズマリーという木の葉っぱでね、とても神秘的な力を持っているんです。『変わらぬ愛』とか『私を想って』という花言葉があるので、よく結婚式にも使われるんですよ」
あいはあまり理解してはいないようだったが、結婚式という言葉に目を輝かせて「素敵ね!」と頬を上気させた。店主は笑顔で頷くと、カップに手をかけながら続けた。
「他にも『記憶』とか『思い出』という花言葉があるんです。――見ててくださいね」
店主は持ち上げたカップを口元へと運ぶと、フーフーと少し冷ましてからひと口だけお茶を飲んだ。そして店主はゴクリと下がった喉元が元の位置へと戻ろうと上がるのと同時に、ぷっくりと頬を膨らませた。続いて、店主はポワッと口を開けた。すると煙のようなものがもくもくと立ち上り、そこに何やら映像が映し出された。――小さな覆屋のある、七つの曲がり角だ。
「この風景は、このお店のあるところの〈昼間の風景〉です。――あいちゃんはこの道のどれかを走ってここに来たんですけれど、分かりますか?」
あいは驚きと興味で目を丸くしながらも、覚えていないと答えるように勢いよく首を横に振った。店主は一瞬ぽかんとした表情を浮かべると、目線だけを女性客に向けた。女性は苦笑いを浮かべると、「もしものときは、あたしが送り届けるよ」と請け負った。
店主は気を取り直すと、もう一度お茶を口に含んだ。次に映し出された風景は、蓮の花の咲く小さな沼地だった。
「これは、このお店のあるところの〈もっと昔の風景〉です。あいちゃんが生まれるずっと前は、こんな感じだったんですよ」
「すごい! すごい!! あいもやる! どうやってやるの? 飲むだけでいいの!?」
「あいちゃんが覚えていなくても、見たことのある光景ならローズマリーが思い出させてくれますから。〈お母さん〉のことを考えながら飲んでみてくださいな。――まだ熱いから、フーフーしてくださいね」
あいは元気良く頷くと、カップに顔を近づけた。そして観察するようにお茶を眺めると、スンスンと香りを確かめた。
「〈干し草のベッド〉みたい……。この前ね、遠足で牧場に行ったの。そこにね、干し草のベッドがあってね、お友達と寝転んで日向ぼっこしたの。そのときのにおいに似てる!」
「あら、そんな素敵な香りがするのかい? どれ、マスターが実演用に持ってきたそれでいいから、あたしにもおくれ。――あれ? これ、あたしがさっき食べてたハンバーグに入ってなかった?」
瞳をキラキラと輝かせながら、あいは一生懸命お茶をフーフーとしていた。その向かい側で、女性がカップを抱えたまま考え込むように眉間にシワを作った。店主はクスクスと笑うと、頷いて答えた。
「ええ。ローズマリーは肉料理の香辛料としてもよく使われるんですよ」
「はあん、お店とご家庭の味の違いは香辛料なんだね、やっぱり。あたしも今度、香辛料そろえて本格的なの作ってみようかな……」
カップの中を覗き込むように視線を落としたまま、女性は感心の声を上げた。その合間に、あいはしっかりとカップを抱え持ち、お茶に口をつけていた。あいは逸る気持ちを抑えながら、おそるおそるコックリとお茶を飲み込んだ。そして頬をプウとふくらませると、勢いよく〈最初の思い出〉を吐き出した。
最初に映り込んだのは、手術衣をまとった男性だった。彼はにっこりと微笑むと、どこかに向かって「お母さん、よく頑張りましたね」と言った。そのまま、あいは手術衣の女性に抱えられ、同じ部屋の中のどこかへと連れて行かれたようだ。
「これ、なあに? あい、こんなの知らないよ?」
「これは、あいちゃんが生まれてすぐの思い出みたいだね。多分、さっきのおじさんはお医者さんで、こっちのお姉さんは助産師さんだ。今、あいちゃんは体を拭かれているみたいだね。そろそろ、お母さんが出てくると思うよ」
あいは不思議そうに〈思い出〉を見上げてぽかんとしていた。覚えていない記憶を見ているからだろう、〈自分の思い出である〉という実感が持てずに女性客の説明を聞いても顔いっぱいにハテナを描いていた。
少しして、映像に変化が起きた。助産師があいを抱きかかえて、また部屋の中を移動したのだ。助産師はすぐに立ち止まったが、それと一緒にあいの見ていた景色が動いた。
元気な女の子ですよ、と助産師が言うのと同時にあいが目にしたのは少しやつれた女性だった。〈あいと目を合わせ、嬉しそうに涙を流す女性〉を眺めながら、あいは素っ頓狂な声を上げて驚いた。
「サンタさんだ! あい、このおばちゃん知ってる! サンタさんだよ!」
「サンタさん……?」
「うん、そう! でも、さっき、おばちゃん、『そろそろ、お母さんが出てくる』って言ったよね? てことは、このおばちゃんがあいの〈もうひとりのお母さん〉なの!?」
あいは興奮した面持ちで女性客を「そうなの?」「なんで?」と質問攻めにした。女性が答える隙なく困っていると、あいは急ぐようにカップを手に取りお茶をひと口飲んだ。女性はそのまま口をつぐむと、あいの様子を見守ることにした。
次に浮かび上がった〈思い出〉は、あいが生まれてから数ヶ月ほどのようだった。あいは優しそうな初老の女性に抱かれているようで、おばあちゃんのどアップと〈サンタさん〉とが交互に映り込んだ。〈サンタさん〉は最初に見たときよりも心なしか痩せているようだった。
まずは体を治して、と気遣ってくれるおばあちゃんに、〈サンタさん〉は泣きながら「いつか必ず迎えに来ますから」と頭を下げていた。その光景を目にしたあいは、すぐさまジイッと女性客を見つめた。説明をしてほしいと態度で訴えかけてくるあいに、女性は懐かしそうな悲しそうな、そんな表情を浮かべて応えた。
「これね、おばちゃんもよぉく知っているよ。〈あいちゃんのサンタさん〉はね、事情があってひとりであいちゃんを育てなくちゃならなくなったんだけど、病気にかかってしまったんだ」
「病気? お風邪をひいたの?」
「違うよ。もっと、ずっと治らないやつさ。だから、ひとりではどうしようもなくなって、それであいちゃんを施設に預けることにしたんだよ。決して、あいちゃんが要らなくなったからじゃあないんだよ」
「やっぱり、サンタさんがあいの〈もうひとりのお母さん〉だったんだ……」
映し出された〈思い出〉の中の〈もうひとりのお母さん〉を一心に見つめながら、あいはぼんやりと呟いた。女性客は小さく頷きながら、悲しそうに声を落とした。
「〈もうひとりのお母さん〉は『早く元気になって、あいちゃんを迎えに行けますように』と思っていたんだけれど、良くなる兆しがあまり見えなくてね。それで、断腸の思いであいちゃんを里子に出したんだよ。あいちゃんには、温かい家庭の中で育って欲しかったみたいだから」
「だんちょうのおもい?」
「悲しくて悲しくて、悲しすぎて、まるでおなかの中がはさみでジョキジョキに切られちゃったみたいに、おなかも心も痛くてたまらないようなことをそう言うんだよ。――お茶を飲んでごらん。そろそろ〈お母さん〉が出てくるころじゃあないかな」
あいは不安そうに頷きながら、おそるおそるお茶を飲んだ。飛び出してきた〈思い出〉には、両親と〈もうひとりのお母さん〉が映し出されていた。〈もうひとりのお母さん〉は今までで一番やせ細っていて、ボロボロと泣きながら「駄目なママでごめんね、あいちゃん」と声を震わせた。〈お母さん〉は〈もうひとりのお母さん〉の両肩を掴むと、〈もうひとりのお母さん〉を叱りつけた。
「あなたが〈駄目なママ〉なんてことは、これっぽっちもありません! 気をしっかりと持って! あなたは〈ママ〉をやめたわけではないんですから!」
あいは今にも泣きそうな顔つきで、女性客を見つめた。そして小さくポツリと、消え入りそうな声で尋ねた。
「どうして、お母さんはママに怒ってるの? ママは悪いことをしたの……?」
女性は遠慮がちに笑うと、そうじゃないよ、と落ち着いた調子で優しく言った。悲しげにゆらゆらと瞳を揺らすあいに、女性は困ったように唸りながら視線をさまよわせた。しかしすぐに、腹をくくったかのように小さく嘆息すると、女性はゆっくりと話し始めた。
「この世の中にはね、あいちゃんみたいに施設に預けられる子は意外といるんだよ。そしてね、残念だけれど、子供を迎えに行かなければ会いにも行かないお母さんも意外といるんだ。〈ママ〉であることをやめちゃうのさ。――でもね、事情があってすぐに迎えには行かれない、会いに行くことも叶わないけれど、必死に〈ママ〉であろうとする人もいる。あいちゃんのママは、そんな〈必死に頑張っている人〉の一人なんだよ。ママは一生懸命頑張ってて、あいちゃんのことを大事に思ってて、愛してやまないんだってことを、それを知っているから、お母さんはママに『あなたは駄目じゃない』と励ましているのさ」
「〈ママ〉をやめたわけじゃないって、どういうこと? ママはまだ、あいのママなの?」
「そうだよ。頑張ってもどうにもならなくて、嫌だけどしかたなく〈ママ〉であることをやめる人もいるんだけれどもね。あいちゃんのママは何が何でも〈ママ〉であることをやめたくなかったんだ。お母さんも、そんなママを応援したいと思ったんだ。ふたりとも、理由は違えど〈立派なお母さんになりたいけれど、なれない〉という点では同じだったからね。だからお母さんはママに『ふたりで一緒に〈立派なお母さん〉になろう』と提案したんだよ」
あいは難しい顔を浮かべていたが、「自分は要らない子ではないんだ」ということは理解できつつあるようだった。
あいは無言でカップを手に取ると、何度もお茶を口に運んだ。次々と浮んでは消える〈思い出〉の中にママは現れなかったが、その代わりに常に笑顔のお母さんでいっぱいだった。
お母さんは時折、カメラを構えてあいのことを写真に収めていた。懸命にミニアルバムを作るお母さんにあいが「これ、なあに?」と尋ねると、お母さんはニッコリと笑って答えた。
「あいちゃんのことを大切に思っている人にも〈今のあいちゃん〉を見てもらえるように作っているのよ」
あいは何故かしょんぼりと肩を落とした。店主と女性客は「どうしたの?」と声をかけようとしたのだが、言い切る前にあいがカップに口をつけた。現れた〈思い出〉はつい去年のクリスマス前のものだった。
この〈思い出〉には久々にママが登場した。ママはお母さんに何かを手渡していて、そこにあいは出くわしたのだ。母たちはギクリと頬を引きつらせたのだが、あいは気にすることなく興奮気味に声を張り上げた。
「サンタさんだ! おばちゃん、サンタさんでしょ!? それ、あいのクリスマスプレゼントなんでしょ!?」
「サンタさんは赤い服を着たおじいちゃんだし、サンタさんがプレゼントを持ってきてくれるのはクリスマスでしょう?」
「違うよー! だってこの前、お街でサンタさん見たもん! サンタのお兄さんが『ケーキのごよやく、いかがですか』って言ってたもん! それに、お母さん、前に『あいがお誕生日にふたつプレゼントをもらえるのは、サンタさんが用意してくれるから』って言ってたじゃん! だからサンタさんはおじいちゃんだけじゃないし、クリスマスじゃなくても来るんでしょ!?」
「あのね、本当は違うのよ。このおばちゃんはね――」
お母さんは必死に、あいに何かを伝えようとしていた。しかしママは笑顔でそれを遮ると、あいの顔を覗き込むようにしゃがみ、あいの頭を撫でた。
「そうよ、おばちゃんはサンタさんなの。今ね、あいちゃんへのクリスマスプレゼントをお母さんに預けていたところなのよ」
あいはいっそうしょげかえった。映像内のママのバッグの中に〈お母さんが作っていたミニアルバム〉と〈もらったばかりらしい薬の袋〉が入っているのを見てとった女性客は、優しくあいをフォローした。
「ママがあいちゃんのサンタさんだってのは、本当のことだよ。いつもは体調が悪くて自分でプレゼントを届けらんないから、お母さんがアルバムを渡しがてらママのところに取りに行っていたみたいなんだけれど。去年は体調がよかったから、病院の帰りに渡しに来たんだろうね」
「だったら、あいのママだって教えて欲しかった……」
「あいちゃんが『もうひとり、お母さんがいる』って教えてもらったの、今年に入ってからだろう? たしか、ランドセルを買いに行く前だったよねえ。『もうすぐ小学校に通うくらいお姉さんになったから、大切なことを教えるね』ということでさ」
「うん、『〈もうひとりのお母さん〉と三人でランドセル買いに行こう』って言われた……。でも、『お母さんの子じゃなかった』って悲しくて、嫌だって言っちゃったの。知ってたら、嫌って言わなかった。サンタさんだって言わないで、ちゃんと教えて欲しかった……」
「あいちゃんはそのとき、まだママのことを知らなかったんだもの。いきなり名乗り出て驚かせたくなかったんじゃないかい? 誕生日もクリスマスも全部サンタさんのおかげにしていたのも、そういう理由からだろう」
あいの顔はみるみる泣き顔へと戻っていった。完全に俯くと、あいは涙をポタポタと落とした。あいの心情を知ってか知らずか、女性はまるでトドメを刺すように続けて言った。
「お母さんがついこの前、『あいちゃんが無事に小学校に入学できてよかった。私の大事なあいちゃんが、学校でお友達をたくさん作れますように』と言っていたのを聞いたって、さっきおばちゃん言っただろう? あれね、お母さんもママも、ふたりともが言っていたことなんだよ」
「うわああああん、どうしようー! あい、本当は〈とーまは赤ちゃんだから、つきっきりでお世話しないと駄目〉って知ってたのー! なのに、お母さんにひどいこと言っちゃった! 『あいのこと、要らないんでしょ』って言っちゃったー! ママにもひどいこと言った! お母さんに、『〈もうひとりのお母さん〉はあいのこと要らなかったんでしょ』って言っちゃったの! ママが知ったら、きっと泣いちゃうー!」
堰を切ったように泣き出したあいを、女性は優しく諭した。
「きちんとごめんなさいして、大好きとありがとうをちゃんと伝えれば、お母さんは許してくれるよ」
「でも、もう本当にあいのこと要らなくなっちゃったかも! だって、あい、ひどいこと言ったんだもん……!」
あいは泣き止む気配を見せなかった。店主はあいの肩に手を置くと、あいの顔を覗き込んで微笑んだ。
「あいちゃんは〈思い出〉を振り返ってみて、〈お母さん〉のことをどう思いましたか? あいちゃんが知っていたお母さんたちは、あいちゃんが謝っても許してはくれないような人だったでしょうか?」
あいは力いっぱい首を横に振った。そんなあいを見て、店主はいっそうニッコリと笑みを浮かべると、あいの頭を撫でながら返した。
「じゃあ、もうおうちに帰りましょう。今ごろ、お母さんはあいちゃんのことが心配で気が気じゃないはずですもの。そして、きちんと謝りましょうね」
あいが力強く頷くと、女性客が嬉しそうにニッと笑った。送ってあげるよ、と言って席を立つ女性に誘われて、あいもよじよじと椅子から下りた。
あいは店の扉の近くまで移動すると、急に立ち止まってもじもじとした。どうしたの、と店主が尋ねると、あいは女性客を見上げて言った。
「あのね、おばちゃんね、あいのことも、お母さんやママのこともたくさん知ってていっぱい教えてくれたから、どうしてなのかなって。まるで、神様みたいだなって」
女性は答えることなく、ただニヤリと笑い返した。あいはそれだけで満足したようで、今度は店主を見上げるとはにかみながらペコリとお辞儀した。
「お姉ちゃん、ありがと――」
「あい!!」
あいが礼を述べている最中に、叫ぶような呼び声とともに扉が押し開けられた。あいが驚いて振り向くと、そこにはお母さんが立っていた。顔面蒼白だったお母さんはあいの無事な様子に安堵したのか、ドッと涙を溢れさせながらあいに抱きついた。
「良かった……! 無事だった……! あいー……、よかったあ……!」
突然のことにあいがぽかんとしていると、なんとママまで現れた。フラフラに倒れそうになりながら、ママは蚊の鳴くような細い声で「あい、よかった……」と呟いた。その声はお母さんにも届いていたようで、お母さんは慌ててあいから離れると土下座せんばかりに頭を下げた。
「私が至らないばかりに、本当に申し訳ありませ――」
「なんでお母さんもママもここにいるのー!」
お母さんの言葉を遮るように、あいは大きな声で泣き出した。突然〈ママ〉という単語をあいが口にしたことに母たちは面食らって目を丸くしたが、気を取り直すとお母さんが代表して「ふたりで手分けしてあいを探していたのよ」と説明した。あいは涙で顔をぐしゃぐしゃにすると、矢継ぎ早に何で、どうしてと続けた。
「あい、ひどいこと言っちゃったのに何で!? とーまは!? どうしてーっ!?」
「お母さん、あいがいなくなったら悲しくて生きていかれないもの! 冬馬はおばあちゃん家にいるから、心配しないで大丈夫よ」
「ママはご病気なんでしょ!? なのに、あい、ママを走らせちゃった! あいは悪い子だ!」
「そんなことないわ。ママは病気よりも、あいがいなくなることのほうが苦しくてつらいの。だから、あいが無事に見つかって本当によかった……!」
お母さんもママも、あいのそばに膝をつくと、あいの肩に優しく手を置いた。あいは母たちを交互に見つめたが、どんな表情をしているのかぼんやりとして見えなかった。そのくらい、あいはたくさんの涙で顔を濡らしていた。
あいは手の甲でグジグジと涙を拭った。しかし、あいの視界はすぐさま涙で遮断された。――母たちが、とても優しく微笑んでいたからだ。
「ごめんなさいーっ! お母さんのこと、本当は嫌いなんかじゃない! 大好きなのー! ママも、ランドセル一緒に買いに行くの嫌って言っちゃってごめんなさいー! あい、サンタさんがママだって知らなかったのー!」
あいは母たちの首に抱きつくようにしがみつくと、ごめんなさいとありがとう、そして大好きを連呼した。あいを抱きしめ返すと、母たちもあいと同じ言葉を繰り返した。
あいはお母さんとママに挟まれて、どちらとも手を繋いで笑顔で帰っていった。母たちの手を大切そうにギュウと握りしめ店をあとにするあいを見送るように、レジスターはチンと音を立てたのだった。
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