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第1話 柘榴色の健やかグミ
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康夫の足取りは鉛のように重たかった。一歩踏み出すごとに地面がひび割れて、そのまま奈落に落ちていきそうな。そのくらいに、康夫の歩みは重たかった。
空には綺麗な真ん丸のお月さまが昇っているというのに、仰ぎ見ることもない。顔はげっそりと青ざめて、ため息をつく余裕すら康夫には残っていなかった。
ふと足を止めると、康夫はぼんやりと辺りを見回した。
(おや、ここはどこだろう……)
何も考えることすらできずにフラフラと歩いていたからであろう、いつもの帰路とは違う道を歩いていたようだ。電柱についている区街区表示板には〈|賀珠沼町「かづぬまちょう》〉と書かれている。この周辺に引っ越してきてもう数年経つというのに、初めて見る町名だった。
眼の前には七つの曲がり角。帰るには一体どの道を曲がればいいのか――そのように思案しながら角を順に見ていると、影が不自然にするすると伸びていった。影はそのまま、八つ目の角へと曲がっていった。
(さっきまで、そこに角はなかったような……?)
月明かりに照らされているから、暗がりが死角になっているということもない。しかし、たしかに先ほどまでは角は七つしかなかった。
眼の前でいきなり不可思議なことが起こったというのに、康夫は不思議とそれを恐怖と感じなかった。むしろ抱えていた絶望が幾ばくか去っていったような、胸のうちが少しだけ軽くなったような――。
突如現れた八つ目の角に興味が湧いた康夫は、奇妙に伸びる自分の影をたどりながら角を曲がってみることにした。
角を曲がると、すぐ目の前に雰囲気の良い一軒家が現れた。大きな窓の端にはカーテンが引かれておらず、お茶をしている人が数人見てとれた。どうやらここは喫茶店のようで、軒先にも〈喫茶月影〉という看板が下げられている。窓から漏れる暖かな明かりに吸い寄せられるかのように、康夫はその喫茶店に入っていった。
店に足を踏み入れてすぐ、カウンターの内側にいた若い女性がふんわりと笑って「いらっしゃいませ」と声をかけてきた。鈴が転がるような、心地の良い声だ。彼女は手にしていたグラスと布巾を置くと、一転して表情を暗くした。
「あら、お客さん。顔色がとてもお悪いですよ。今すぐお水をお出ししますから、どうぞゆっくり休んでいってくださいな」
康夫は薄っすらと愛想笑いを浮かべると、空いている席を適当に見繕って腰を掛けた。そこに、先ほどの女性――他に店員は見当たらないから、きっと店主なのだろう――が水の注がれたグラスを持ってパタパタと駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか? お医者様、お呼びいたしましょうか?」
テーブルにグラスを置きながら、彼女は心配そうに康夫の顔を覗き見た。康夫は小さく首を横に振ると、小さな声で返した。
「大丈夫です。今、行ってきたばかりですから」
「そうでしたか。もし今よりもご気分が悪くなられたら、遠慮なくおっしゃってくださいな。すぐにお医者様をお呼びいたしますから」
店主は笑いかけたが、康夫は笑い返すことができなかった。それどころか、今にも康夫自身を吸い込んで消えてしまいそうなほどに、暗い瞳がいっそう暗く淀んだ。
「大丈夫です。これ以上悪くはなりようありませんから。良くもなりませんけれどもね」
絶望色の返答に、店主はとても胸を痛めた。それに気がついた康夫がすぐさま謝ると、何故か店主は康夫の向かい側の席に腰を落ち着かせた。
「よかったら、お話いただけませんか?」
「いや、話したところでどうにかなるわけではないですし……」
「もしかしてですけれど、帰るに帰れない気分でいらしたから、気分転換のためにご来店くださったんじゃあありません? でしたら、どうぞ思いの丈を吐き出しちゃってくださいな。きっと、帰るために必要な気持ちの整理くらいは、できるかもしれませんし」
まるで子守唄でも歌っているかのように、とても優しく店主はそう言った。それだけで無性に泣きたくなるような、救われたような気持ちに康夫はなった。
店主はハッと息を飲むと、申し訳なさそうにうつむいた。
「私ったら、さしでがましいことを。すみません」
「いえ、いいんです。いいんです……」
康夫は恐縮すると、ポツリポツリと話し始めた。
康夫が妻と出会ったのは、会社でそこそこの肩書がついたころだった。がむしゃらに仕事に打ち込んでいたからか若いころには出会いがなく、気がつけば周りには既婚者ばかりになっていた。暖かな家庭に生まれ育ち、自分も両親のように素敵な家庭を築きたいと思っていた康夫は、慌てて結婚相談所に登録した。――そこで出会ったのが妻だった。
妻はとても気持ちの良い性格で、笑顔の素敵な人だった。彼女は人としても尊敬のできる相手で、康夫から言わせれば、引く手あまただろうという印象だ。しかし彼女もキャリアウーマンとしてバリバリと働いていて、中々出会いに恵まれなかったのだとか。彼女と出会ってすぐに恋に落ちた康夫は、結婚を前提とした付き合いを申し込んで承諾の返事をもらえたことが天にも昇るほど嬉しいと思った。
素晴らしい彼女とは、夢に描いていたような家庭を築くことができた。しかし、二人の前に大きな壁が立ちはだかった。それは、子作りだった。二人とも晩婚だったからか、中々子供を授かることができなかったのだ。一時は養子も検討したが、どうしても血の分けた子供が欲しいということになった。そして二人三脚で妊活に挑んだ末に、ようやく男の子を授かることができた。
「妻が典子と言いますんで、私の名前と一文字ずつとって、息子には康典と名付けたんです。妻に似て利発的ないい子でね、目元が私に似て、ちょっと垂れ下がってて。――あ、写真、ありますよ。ほら、これです、これ」
言いながら、康夫はポケットから携帯電話と取り出して、店主に待受画面を見せた。そこには、可愛らしい男の子と笑顔の素敵な女性が寄り添っているのが表示されていた。
「とても可愛らしい子ですね。奥様も素敵」
店主が目を細めると、康夫は嬉しそうに「そうでしょう」と言いながら何度も頷いた。康夫は画面の中の息子を愛おしそうに指の腹で撫でながら、訥々と話を続けた。
「康典が幼稚園に上がるのに合わせて家を購入しまして、もうこの春には小学生です。ご近所付き合いも良好で、何もかも順風満帆でした。――順風満帆なはずだったんです」
康夫は言葉を詰まらせると、目頭をじわりと湿らせた。
健康診断で病気の疑いありと診断され、家族に無駄な心配をさせるわけにはいかないと内緒で検査を受け直したという。それで本日、仕事帰りに検査結果を聞きに行ったわけなのだが、康夫は余命幾ばくもないと医師に宣告されてしまったのだ。
「最近、少し体重が落ちたかなとは思っていました。でも、それ以外は特に何も違和感を覚えることはなかったんです。全然元気だし、むしろこれからもっと愛する家族のために頑張るぞ、三人でもっと幸せになるぞと思っていたのに。なのに、お医者様はすぐにでも緩和ケアをと言うんです。――孫の顔を見るまではと思っていたのに、私は康典の成長すら、もう見届けられないんですよ……!」
とうとう、康夫は泣き出してしまった。そして少しだけ泣いてズッと鼻を鳴らしたあと、ハンカチで涙を拭いながら肩を落とした。
「すみません、みっともないところをお見せして……」
店主はただ優しく首を振るだけだった。つらい気持ちを吐き出して少しは楽になったのか、それとも重たい身の上話をしてしまって申し訳ないと思ったのか、康夫はほんのりと情けない笑顔を浮かべた。そして、あ、と何かに気づいたというかのような表情を浮かべると、おろおろとし始めた。
「喫茶店に来ておきながら、お水しかいただいていないだなんて。ひどいお客ですね、私は。すみません、何か注文します」
「あら、お水をお出ししてすぐに『よかったらお話を』と促した私も悪いですから。そんな謝らないでくださいな。――では、何になさいますか? お客様」
「えっと、じゃあ、紅茶を一杯。アールグレイがいいな」
店主はにっこりと笑って「かしこまりました」と言うと、立ち上がってカウンターへと戻っていった。
店主が紅茶を淹れる準備をしているのを眺めつつ、康夫は店の中にも視線を巡らせた。気持ちの余裕がなくて全然気づかなかったのだが、改めて見てみるとこの店が本当に雰囲気の良い店だということが分かる。――古めかしくも品が良い調度品がここそこに飾られており、壁の一部は全て本棚になっていた。ラジオかレコードかは分からないが、心の落ち着くような音楽がゆるゆると流れている。古き良き時代の純喫茶といった感じだ。
しばらくして、みずみずしいオレンジのような香りがふんわりと漂ってきた。とてもよい茶葉を丁寧に淹れているのだろう、心が穏やかになる香りに、まるでみかん畑でポカポカとひなたぼっこをしているような気分になった。
「お待たせ致しました。ご注文のアールグレイです」
眼の前に置かれたカップから立ち上る湯気が、康夫の鼻をくすぐった。康夫は心なしか顔をほころばせると、触り心地の良い陶磁の持ち手に指をかけた。
「とても美味しそうだ。――妻がね、紅茶が趣味でして。それで、家でもよく淹れてくれて飲むんですよ」
「あら、じゃあ、お口に合うか心配だわ。奥様の愛情こもった一杯に、敵うはずがありませんもの」
「いやいや、すごく美味しいですよ」
コクンとひとくち飲んでから、康夫はそう答えた。店主は嬉しそうにはにかむと、カップの傍に小さなボウル状の皿を置いた。
「これはちょっとしたおまけです。どうぞ召し上がってください」
皿にはグミのようなものが数粒盛り付けられていた。アーモンドのような丸い形の、透き通るような深い紅色のものだ。まるで宝石のように輝いており、康夫は思わず呟いた。
「綺麗だ。柘榴石みたいだなあ」
「ええ、そうなんです。それ、柘榴石なんですよ」
クスクスと笑って頷く店主を、康夫はぽかんとした表情で見上げた。すると康夫から離れた席で本を読んでいた客――初老の男性が、おっとりとした口調で声をかけてきた。
「それね、マスターが手作りしているんだよ。美味しいから食べてごらんなさい」
「グミって手作りできるんですか。知らなかった」
康夫が驚いてそう言うと、店主は頷きながら「ええ、作れますよ」と答えた。そして少しだけ自慢げに胸を張ると、作り方をつらつらと話しだした。
まず、純度の高い柘榴石を丸く磨き上げ、清水でしっかりと洗う。月の光をたっぷりと浴びた月桂樹の葉に溜まった朝露だけを集めたら、鍋に入れた柘榴石がひたひたになるくらい注ぎ入れる。そして、蓮の花から採った蜜と一緒に火にかけ、弱火でじっくりコトコトと煮込んでいく。焦げつかないように時折かき混ぜながら、水気が飛ぶまでだ。
「さすがに石を磨くのは自分ではできませんので、それはいつも石を分けてくださる方にお願いしているんですけれど。――ね? 根気はいりますけれど、手順は簡単でしょう?」
康夫は狐につままれたような気分になった。店主もお客も優しくて品があり、胡散臭さなどは微塵も感じられない。なのに、それがまさか、「柘榴石みたいだ」という何の気ない呟きを、こんなおとぎ話めいた冗談に仕立て上げるだなんて。
康夫は困惑して、後ろを振り返り初老の男性を見た。男性はただ優しくにこにこと笑っているだけだった。もう一度店主を見上げると、彼女は少しばかり困った表情を浮かべた。
「えっと、あの、柘榴石は生命力を高めてくれるので、健康長寿に良いとされているんです。困難に打ち勝つためのお守りにもいいんですよ」
しどろもどろにそう言う店主を、康夫は悲しい瞳で見つめた。すると康夫の気持ちを察したのか、店主はいっそう申し訳なさそうに肩をすくめた。
「もちろん、それでご病気がよくなられるわけがないのは承知しています。あなたに残された時間がわずかだというのも……。だから、その、これはちょっとしたおまじないです。その残り少ない時間を、あなたが少しでも健やかに過ごせるように。少しでもいいから健やかでいられたら、康典くんとの思い出も増やせるじゃないですか」
この店に足を踏み入れる前の気分のままだったら、康夫はきっと「人の気も知らないで。馬鹿にしているのか」と立腹していたことだろう。しかし優しく迎え入れてもらって、話を聞いてもらって、そして美味しいお茶を丁寧に淹れてもらえたからだろうか。店主のこの気遣いを「要らぬお節介」ではなく「心からの優しさ」であると、康夫は捉えることができた。
「あ、あの、私、またさしでがましいことをしましたよね。でも、康夫さんの〈強い願い〉をたしかに感じたので……。すみません……」
完全にうつむいて縮こまる店主に、康夫は笑いかけて感謝を述べた。そしてグミをひと粒つまみあげると、口の中に放り込んだ。
グミは、市販されている固い食感のものよりも固く弾力があった。まるで、柔らかめのキャンディーをグッと噛んで歯が食い込むときのようだ。味はというと、見た目そのままだった。甘酸っぱくて、ほんの少しだけ鉄のような苦味のする柘榴である。ただ、花の蜜を使っているというだけあって上品な甘さがあった。それと、何となく後味の鉄風味が濃い気がした。
「見た感じよりも固いんですね。……うーん、ふうっと心が軽くなるような、優しい甘さと酸っぱさがいいですね。この甘さ、感じれば感じるほどに優雅な気持ちになっていくといいますか。でも、だからか、あとからやってくる苦味をとても強く感じるというか。――すごく、鉄です」
「そうでしょう? だって、もともとは鉱物ですからね」
おどけてウインクをする店主に笑顔で頷き返すと、康夫はふた粒、三粒とグミを口に運んだ。不思議なことに、グミを噛めば噛むほど体のすみずみにまで血が巡っていく気がした。実際、冷たかった手や足の先がポカポカと温かくなった。そして、重くのしかかっていた何かがスウと消えていくような感覚を覚えた。
皿に盛られたグミを食べ終えるころには暗く沈んでいた気分も晴れて、落ち込んでいるのが馬鹿らしいとさえ思えるようになった。
「顔色、よくなりましたね。土気色に痩けてた頬が、少しだけですけど赤らんでふっくらしてますよ」
「そうですか? 気持ちも、店に来たときよりもいくらかは楽になった気がします。――マスターさん、本当にありがとう」
自分のことのように喜んでくれる店主に笑顔を返すと、康夫はそろそろ家に帰ることにした。しかし康夫が荷物をまとめて席を立っても、店主は康夫のそばから動く気配がなかった。
「そろそろ帰ろうと思いますんで、すみませんがお会計を……」
不思議に思いつつ、康夫はそのように店主に声をかけた。するとさらに不思議なことに、店主は笑顔のまま「また今度でいいですよ」と言うのだ。グミの件もあっていよいよ不安になってきた康夫は少しだけ眉をひそめた。
「うちは、康夫さんみたいなお客様からは、お支払いを現金ではいただいていないんですよ」
「いやでも、次いつ来店できるかも分かりませんし、それって代金を踏み倒す人が出てきやしませんか? ちなみに、何でお支払いをすればいいんです?」
心配と嗜めを混ぜたような、そんな声色と表情でそう言うと、康夫はありえないと言いたげに小さく首をひねった。店主は苦笑いを浮かべながら、それに頷いて返した。
「みなさん同じことをお言いになるんですけれど、そこは心配していただかなくて大丈夫ですよ。ちなみに、お代は〈笑顔〉です」
「笑顔?」
「ええ。心の底からの、明るい笑顔をお代としていただいております。――いつかまた、お店にいらしてください。そのときは今日みたいな土気色じゃなくて、太陽か真ん丸お月さまかと見紛うくらいの明るい笑顔で。だから今は、どうぞご家族との時間のことだけをお考えくださいな」
優しい笑顔をたたえている店主の言葉には、一切の迷いもなかった。背筋も真っすぐ綺麗に伸びていて、人を誑かしてやろうという雰囲気はひとつもなかった。――彼女がそう言うなら、きっと再び来店できるだろうし、そのときには愛想笑いではない本気の笑顔を彼女に見せることができるだろう。何故かは分からないが、康夫は不思議とそう強く信じることができた。
康夫が店の出入り口まで移動すると、店主もあとをついてきた。扉の前で足を止めると、康夫は店主を振り返って笑った。
「グミ、ありがとうございました。あと、紅茶、本当に美味しかったですよ。あれはミルクティーにしても美味しそうですね。いつか、いただいてみたいなあ」
「そう言っていただけて、嬉しいです! じゃあ、次にいらしたときはとびきりのミルクティーをお淹れいたしますね!」
嬉しそうに笑った店主のそれは、康夫が来店してから今までで一番の、眩しいほどのものだった。――自分もいつか、このように笑えるのだろうか。そんな思いを胸にいだきながら、康夫は「是非」と頷いた。そしてグミを食べるよう勧めてくれた男性にも礼を述べると、康夫は店をあとにした。
しかし、それから康夫が店を訪れることはなかった。何ヶ月経っても、何年経っても、康夫が笑顔で店の扉を押し開けることは決してなかった。
康夫が来店してから十二年ほど経ったある日、高校の制服に身を包んだ青年が店を訪れた。彼は店主が「いらっしゃいませ」と声を掛けると、小さくペコリと会釈をした。
とても賢そうで、ちょっと垂れ目なのが可愛らしい子だった。どこかで見たことがあるなと店主がまじまじ彼を見つめていると、彼は緊張した面持ちで何か言おうと口を開いた。しかし、彼が言葉を発する前に店主が嗚呼と驚嘆した。
「あなた、もしかして康典くん? ずいぶん大きくなったわねえ!」
「俺のこと、知っているんですか?」
戸惑う彼――康典に店主は笑顔で頷くと、濡れた手を布巾で拭きながら返した。
「ええ。以前、あなたのお父様がご来店くださったときに、写真を見せて頂いて。――康夫さんは、あれからどうなさっているのかしら? 今もご健在?」
店主が小首を傾げると、康典は少しだけ顔をくしゃりと歪めてうつむいた。その様子だけで十分に、康夫がすでにこの世にいないということを店主は理解した。
肩を落とす店主に代わって、店の奥で珈琲をたしなんでいた初老の男性が康典に声をかけた。
「康典くん、こちらにおいで。何か一杯、おごってあげよう。そしてよかったらだが、お父さんの話を聞かせてくれないかな。――私も、君のお父さんがこの店に来店したときにちょうど居合わせていてね。お父さんのこと、気になっていたんだよ」
康典は無言で男性に近づくと、向かい側の席に静かに腰を下ろした。そして目の端をちょいちょいと拭った。来店してすぐのあの顔をしかめた際に、少し涙ぐんでいたのだろう。店主が水の入ったグラスを目の前に置いてやると、康典は早速話し始めた。
「父は二年ほど前に亡くなりました」
まだ康典が幼かったある日、父・康夫は仕事から帰ってくるなりこのように打ち明けた。
「父さんな、実はもうじき死ぬんだ」
言葉とは裏腹な、穏やかな笑顔だった。むしろこの数ヶ月の中で一番元気なように見えて、そんな哀しい未来が待っているだなんて微塵も感じさせなかった。なので康典はもうすぐにでも父がいなくなってしまうのだとは到底信じられなかったし、母も康典と同じように感じたそうだ。
別の病院で再度検査を、と言って聞かない母を納得させるために康夫は後日もう一度検査を受けた。するとどうだろう、手術可能という判断が下されたのだ。しかも、前の病院で宣告された「余命幾ばくで手術も手遅れ」というのは、どうやら誤診ではなかったらしい。つまり、奇跡が起きたとしか言いようがなかった。
康典が小学校に上がってすぐのころ、康夫は入院し手術を受けた。退院後は無理のない程度に働きながら、家族との時間を最優先に過ごしたという。一分一秒を慈しむように、毎日を丁寧に生きていたそうで、康夫の日々は幸せそうな笑顔で彩られていたらしい。
「でも、俺が高校に入学してすぐに病気が再発したんです。てっきり、手術で完全に治ったと思ってたのに。父は手術してから十年後の生存率が五分五分だって知ってたみたいで、特に驚いたり悲しんだりはしていませんでした」
そこで一旦言葉を切った康典の目は、みるみる涙で滲んでいった。泣くまいと堪えて目を真っ赤にしながら、康典は辛そうに顔をくしゃくしゃにして続けた。
「俺、父に言ったんです。『せっかく奇跡が起こって手術できたのに、結局治っていないんじゃあ意味がない。もしも神様がいるんだとしたら、中途半端にしか治してくれなかったその神様は、とてもケチくさくてひどいヤツだ』って。そしたら父は、『本当なら手術を受けたあの日にはもう消えていたかもしれない命のろうそくを、十年も灯し続けてくれたんだ。こんなにありがたいことはない』って。『本当なら見られなかったはずの〈康典が新しい制服に袖を通す〉という風景も、おかげで二度も見ることができた。こんなに幸せなことはない』って。そう言って、すごくいい笑顔で笑ったんですよ」
耐えきれずにボロボロと泣き出してしまった康典は、勢いよくうつむくと制服の袖でぐじぐじと涙を拭った。そしてそのままポケットに手を突っ込むと、学生手帳を取り出した。その中からさらに、何やらを取り出してテーブルの上に置いた。――それは、康典たち家族の集合写真だった。
康典が父の病気再発について、康夫本人と話したという日からそう経っていないときに撮ったのであろう。少し大きめのブレザーが、康典がまだ幼いというのを主張しているようだった。表情は、何やら釈然とせず怒っているようにムスッとしている。母は必死に微笑んではいたが、やはりどこか無理をしているようだった。
対して康夫は、太陽のように眩しくて健やかな笑顔を浮かべていた。体はやせ細って弱々しいのに、だ。まるで、命の灯火が最期の大見栄とばかりに力の限りを尽くして燃え盛っているようだった。
「すごく、いい笑顔ですね」
店主が涙ぐんでそう言うと、カウンターに置いてあるレジスターがチンと音を立てた。
不思議そうにカウンターを振り返って見る康典に、店主は小さく笑って穏やかに言った。
「今、お代をいただいたんです。あの夜、康夫さんがここでお茶をしたときのお代を」
康典は意味が分からずにぽかんとしていた。すると、男性が写真をにこやかに見つめながら腕を組んだ。
「それにしても、本当にいい笑顔だな。とても幸せで、心残りも全くないという感じだなあ」
口を半開きにして呆けていた康典は、みるみると顔をこわばらせた。そして来店当初の緊張を取り戻すと、申し訳なさそうに肩を落としながらも捲し立てた。
「そうだ、あの、俺、父の代わりにお代を払いに来たんです! 俺、父から〈不思議な喫茶店の話〉をたびたび聞かされてて、いつか一緒に行こうって誘われてたんです。この写真を撮った日にも『今から行こう。今日なら行ける気がする』って言われたんですけど、『これから入院するっていう人が何を言っているんだ。何かあったらどうするんだ』って、母と二人でとめたんですよ。でもそのせいで心残りができてしまったみたいで、入院する日に『この前撮った写真を持って、あの店に行って欲しい。きっと、あの写真ならお代になるはずだから』と頼まれて」
「あらまあ、そうだったの」
「『店主さんと来店の約束をしていた』って言っていたし、本当は自分で支払いに来たかっただろうに、俺がとめちゃったから。でもまさか、本当にお代を支払っていないとは思わなくて。しかも写真がお代になるとか意味分からないし、俺も気持ちに折り合いがつけらんなくて、気がつけば二年も経っちゃって……。――父にも店主さんにも、悪いことをしました。本当にすみません……」
康典は顔を真っ赤にして縮こまった。店主は優しく笑って「お気になさらないで」と声をかけたが、康典は背中を丸めて恐縮し、よりいっそう縮こまった。
男性は康典から店主へと視線を移すと、ニヤリと笑った。
「よし、康典くんにおごると約束した一杯、何にするのかを勝手ながら決めさせてもらったぞ」
「ミルクティーでしょう? 今、ご用意いたしますね」
男性が深くうなずくと店主は心得たと言わんばかりに笑みを浮かべ、ぴょこぴょこと飛ぶようにカウンターへと去っていった。
康典はこの春、遠くの大学の医学部に進学するという。父が体験したような奇跡が、可能であればそれ以上の奇跡がひとりでも多くの患者に訪れてくれるような。もしくは、最期のその日まで父のように笑顔で過ごせるような。そんな新薬を開発する研究医になりたいのだそうだ。
そんな大きな夢を語りながらミルクティーを飲んだ康典は、あの写真の父と同じ太陽のような笑顔で笑ったのだった。
空には綺麗な真ん丸のお月さまが昇っているというのに、仰ぎ見ることもない。顔はげっそりと青ざめて、ため息をつく余裕すら康夫には残っていなかった。
ふと足を止めると、康夫はぼんやりと辺りを見回した。
(おや、ここはどこだろう……)
何も考えることすらできずにフラフラと歩いていたからであろう、いつもの帰路とは違う道を歩いていたようだ。電柱についている区街区表示板には〈|賀珠沼町「かづぬまちょう》〉と書かれている。この周辺に引っ越してきてもう数年経つというのに、初めて見る町名だった。
眼の前には七つの曲がり角。帰るには一体どの道を曲がればいいのか――そのように思案しながら角を順に見ていると、影が不自然にするすると伸びていった。影はそのまま、八つ目の角へと曲がっていった。
(さっきまで、そこに角はなかったような……?)
月明かりに照らされているから、暗がりが死角になっているということもない。しかし、たしかに先ほどまでは角は七つしかなかった。
眼の前でいきなり不可思議なことが起こったというのに、康夫は不思議とそれを恐怖と感じなかった。むしろ抱えていた絶望が幾ばくか去っていったような、胸のうちが少しだけ軽くなったような――。
突如現れた八つ目の角に興味が湧いた康夫は、奇妙に伸びる自分の影をたどりながら角を曲がってみることにした。
角を曲がると、すぐ目の前に雰囲気の良い一軒家が現れた。大きな窓の端にはカーテンが引かれておらず、お茶をしている人が数人見てとれた。どうやらここは喫茶店のようで、軒先にも〈喫茶月影〉という看板が下げられている。窓から漏れる暖かな明かりに吸い寄せられるかのように、康夫はその喫茶店に入っていった。
店に足を踏み入れてすぐ、カウンターの内側にいた若い女性がふんわりと笑って「いらっしゃいませ」と声をかけてきた。鈴が転がるような、心地の良い声だ。彼女は手にしていたグラスと布巾を置くと、一転して表情を暗くした。
「あら、お客さん。顔色がとてもお悪いですよ。今すぐお水をお出ししますから、どうぞゆっくり休んでいってくださいな」
康夫は薄っすらと愛想笑いを浮かべると、空いている席を適当に見繕って腰を掛けた。そこに、先ほどの女性――他に店員は見当たらないから、きっと店主なのだろう――が水の注がれたグラスを持ってパタパタと駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか? お医者様、お呼びいたしましょうか?」
テーブルにグラスを置きながら、彼女は心配そうに康夫の顔を覗き見た。康夫は小さく首を横に振ると、小さな声で返した。
「大丈夫です。今、行ってきたばかりですから」
「そうでしたか。もし今よりもご気分が悪くなられたら、遠慮なくおっしゃってくださいな。すぐにお医者様をお呼びいたしますから」
店主は笑いかけたが、康夫は笑い返すことができなかった。それどころか、今にも康夫自身を吸い込んで消えてしまいそうなほどに、暗い瞳がいっそう暗く淀んだ。
「大丈夫です。これ以上悪くはなりようありませんから。良くもなりませんけれどもね」
絶望色の返答に、店主はとても胸を痛めた。それに気がついた康夫がすぐさま謝ると、何故か店主は康夫の向かい側の席に腰を落ち着かせた。
「よかったら、お話いただけませんか?」
「いや、話したところでどうにかなるわけではないですし……」
「もしかしてですけれど、帰るに帰れない気分でいらしたから、気分転換のためにご来店くださったんじゃあありません? でしたら、どうぞ思いの丈を吐き出しちゃってくださいな。きっと、帰るために必要な気持ちの整理くらいは、できるかもしれませんし」
まるで子守唄でも歌っているかのように、とても優しく店主はそう言った。それだけで無性に泣きたくなるような、救われたような気持ちに康夫はなった。
店主はハッと息を飲むと、申し訳なさそうにうつむいた。
「私ったら、さしでがましいことを。すみません」
「いえ、いいんです。いいんです……」
康夫は恐縮すると、ポツリポツリと話し始めた。
康夫が妻と出会ったのは、会社でそこそこの肩書がついたころだった。がむしゃらに仕事に打ち込んでいたからか若いころには出会いがなく、気がつけば周りには既婚者ばかりになっていた。暖かな家庭に生まれ育ち、自分も両親のように素敵な家庭を築きたいと思っていた康夫は、慌てて結婚相談所に登録した。――そこで出会ったのが妻だった。
妻はとても気持ちの良い性格で、笑顔の素敵な人だった。彼女は人としても尊敬のできる相手で、康夫から言わせれば、引く手あまただろうという印象だ。しかし彼女もキャリアウーマンとしてバリバリと働いていて、中々出会いに恵まれなかったのだとか。彼女と出会ってすぐに恋に落ちた康夫は、結婚を前提とした付き合いを申し込んで承諾の返事をもらえたことが天にも昇るほど嬉しいと思った。
素晴らしい彼女とは、夢に描いていたような家庭を築くことができた。しかし、二人の前に大きな壁が立ちはだかった。それは、子作りだった。二人とも晩婚だったからか、中々子供を授かることができなかったのだ。一時は養子も検討したが、どうしても血の分けた子供が欲しいということになった。そして二人三脚で妊活に挑んだ末に、ようやく男の子を授かることができた。
「妻が典子と言いますんで、私の名前と一文字ずつとって、息子には康典と名付けたんです。妻に似て利発的ないい子でね、目元が私に似て、ちょっと垂れ下がってて。――あ、写真、ありますよ。ほら、これです、これ」
言いながら、康夫はポケットから携帯電話と取り出して、店主に待受画面を見せた。そこには、可愛らしい男の子と笑顔の素敵な女性が寄り添っているのが表示されていた。
「とても可愛らしい子ですね。奥様も素敵」
店主が目を細めると、康夫は嬉しそうに「そうでしょう」と言いながら何度も頷いた。康夫は画面の中の息子を愛おしそうに指の腹で撫でながら、訥々と話を続けた。
「康典が幼稚園に上がるのに合わせて家を購入しまして、もうこの春には小学生です。ご近所付き合いも良好で、何もかも順風満帆でした。――順風満帆なはずだったんです」
康夫は言葉を詰まらせると、目頭をじわりと湿らせた。
健康診断で病気の疑いありと診断され、家族に無駄な心配をさせるわけにはいかないと内緒で検査を受け直したという。それで本日、仕事帰りに検査結果を聞きに行ったわけなのだが、康夫は余命幾ばくもないと医師に宣告されてしまったのだ。
「最近、少し体重が落ちたかなとは思っていました。でも、それ以外は特に何も違和感を覚えることはなかったんです。全然元気だし、むしろこれからもっと愛する家族のために頑張るぞ、三人でもっと幸せになるぞと思っていたのに。なのに、お医者様はすぐにでも緩和ケアをと言うんです。――孫の顔を見るまではと思っていたのに、私は康典の成長すら、もう見届けられないんですよ……!」
とうとう、康夫は泣き出してしまった。そして少しだけ泣いてズッと鼻を鳴らしたあと、ハンカチで涙を拭いながら肩を落とした。
「すみません、みっともないところをお見せして……」
店主はただ優しく首を振るだけだった。つらい気持ちを吐き出して少しは楽になったのか、それとも重たい身の上話をしてしまって申し訳ないと思ったのか、康夫はほんのりと情けない笑顔を浮かべた。そして、あ、と何かに気づいたというかのような表情を浮かべると、おろおろとし始めた。
「喫茶店に来ておきながら、お水しかいただいていないだなんて。ひどいお客ですね、私は。すみません、何か注文します」
「あら、お水をお出ししてすぐに『よかったらお話を』と促した私も悪いですから。そんな謝らないでくださいな。――では、何になさいますか? お客様」
「えっと、じゃあ、紅茶を一杯。アールグレイがいいな」
店主はにっこりと笑って「かしこまりました」と言うと、立ち上がってカウンターへと戻っていった。
店主が紅茶を淹れる準備をしているのを眺めつつ、康夫は店の中にも視線を巡らせた。気持ちの余裕がなくて全然気づかなかったのだが、改めて見てみるとこの店が本当に雰囲気の良い店だということが分かる。――古めかしくも品が良い調度品がここそこに飾られており、壁の一部は全て本棚になっていた。ラジオかレコードかは分からないが、心の落ち着くような音楽がゆるゆると流れている。古き良き時代の純喫茶といった感じだ。
しばらくして、みずみずしいオレンジのような香りがふんわりと漂ってきた。とてもよい茶葉を丁寧に淹れているのだろう、心が穏やかになる香りに、まるでみかん畑でポカポカとひなたぼっこをしているような気分になった。
「お待たせ致しました。ご注文のアールグレイです」
眼の前に置かれたカップから立ち上る湯気が、康夫の鼻をくすぐった。康夫は心なしか顔をほころばせると、触り心地の良い陶磁の持ち手に指をかけた。
「とても美味しそうだ。――妻がね、紅茶が趣味でして。それで、家でもよく淹れてくれて飲むんですよ」
「あら、じゃあ、お口に合うか心配だわ。奥様の愛情こもった一杯に、敵うはずがありませんもの」
「いやいや、すごく美味しいですよ」
コクンとひとくち飲んでから、康夫はそう答えた。店主は嬉しそうにはにかむと、カップの傍に小さなボウル状の皿を置いた。
「これはちょっとしたおまけです。どうぞ召し上がってください」
皿にはグミのようなものが数粒盛り付けられていた。アーモンドのような丸い形の、透き通るような深い紅色のものだ。まるで宝石のように輝いており、康夫は思わず呟いた。
「綺麗だ。柘榴石みたいだなあ」
「ええ、そうなんです。それ、柘榴石なんですよ」
クスクスと笑って頷く店主を、康夫はぽかんとした表情で見上げた。すると康夫から離れた席で本を読んでいた客――初老の男性が、おっとりとした口調で声をかけてきた。
「それね、マスターが手作りしているんだよ。美味しいから食べてごらんなさい」
「グミって手作りできるんですか。知らなかった」
康夫が驚いてそう言うと、店主は頷きながら「ええ、作れますよ」と答えた。そして少しだけ自慢げに胸を張ると、作り方をつらつらと話しだした。
まず、純度の高い柘榴石を丸く磨き上げ、清水でしっかりと洗う。月の光をたっぷりと浴びた月桂樹の葉に溜まった朝露だけを集めたら、鍋に入れた柘榴石がひたひたになるくらい注ぎ入れる。そして、蓮の花から採った蜜と一緒に火にかけ、弱火でじっくりコトコトと煮込んでいく。焦げつかないように時折かき混ぜながら、水気が飛ぶまでだ。
「さすがに石を磨くのは自分ではできませんので、それはいつも石を分けてくださる方にお願いしているんですけれど。――ね? 根気はいりますけれど、手順は簡単でしょう?」
康夫は狐につままれたような気分になった。店主もお客も優しくて品があり、胡散臭さなどは微塵も感じられない。なのに、それがまさか、「柘榴石みたいだ」という何の気ない呟きを、こんなおとぎ話めいた冗談に仕立て上げるだなんて。
康夫は困惑して、後ろを振り返り初老の男性を見た。男性はただ優しくにこにこと笑っているだけだった。もう一度店主を見上げると、彼女は少しばかり困った表情を浮かべた。
「えっと、あの、柘榴石は生命力を高めてくれるので、健康長寿に良いとされているんです。困難に打ち勝つためのお守りにもいいんですよ」
しどろもどろにそう言う店主を、康夫は悲しい瞳で見つめた。すると康夫の気持ちを察したのか、店主はいっそう申し訳なさそうに肩をすくめた。
「もちろん、それでご病気がよくなられるわけがないのは承知しています。あなたに残された時間がわずかだというのも……。だから、その、これはちょっとしたおまじないです。その残り少ない時間を、あなたが少しでも健やかに過ごせるように。少しでもいいから健やかでいられたら、康典くんとの思い出も増やせるじゃないですか」
この店に足を踏み入れる前の気分のままだったら、康夫はきっと「人の気も知らないで。馬鹿にしているのか」と立腹していたことだろう。しかし優しく迎え入れてもらって、話を聞いてもらって、そして美味しいお茶を丁寧に淹れてもらえたからだろうか。店主のこの気遣いを「要らぬお節介」ではなく「心からの優しさ」であると、康夫は捉えることができた。
「あ、あの、私、またさしでがましいことをしましたよね。でも、康夫さんの〈強い願い〉をたしかに感じたので……。すみません……」
完全にうつむいて縮こまる店主に、康夫は笑いかけて感謝を述べた。そしてグミをひと粒つまみあげると、口の中に放り込んだ。
グミは、市販されている固い食感のものよりも固く弾力があった。まるで、柔らかめのキャンディーをグッと噛んで歯が食い込むときのようだ。味はというと、見た目そのままだった。甘酸っぱくて、ほんの少しだけ鉄のような苦味のする柘榴である。ただ、花の蜜を使っているというだけあって上品な甘さがあった。それと、何となく後味の鉄風味が濃い気がした。
「見た感じよりも固いんですね。……うーん、ふうっと心が軽くなるような、優しい甘さと酸っぱさがいいですね。この甘さ、感じれば感じるほどに優雅な気持ちになっていくといいますか。でも、だからか、あとからやってくる苦味をとても強く感じるというか。――すごく、鉄です」
「そうでしょう? だって、もともとは鉱物ですからね」
おどけてウインクをする店主に笑顔で頷き返すと、康夫はふた粒、三粒とグミを口に運んだ。不思議なことに、グミを噛めば噛むほど体のすみずみにまで血が巡っていく気がした。実際、冷たかった手や足の先がポカポカと温かくなった。そして、重くのしかかっていた何かがスウと消えていくような感覚を覚えた。
皿に盛られたグミを食べ終えるころには暗く沈んでいた気分も晴れて、落ち込んでいるのが馬鹿らしいとさえ思えるようになった。
「顔色、よくなりましたね。土気色に痩けてた頬が、少しだけですけど赤らんでふっくらしてますよ」
「そうですか? 気持ちも、店に来たときよりもいくらかは楽になった気がします。――マスターさん、本当にありがとう」
自分のことのように喜んでくれる店主に笑顔を返すと、康夫はそろそろ家に帰ることにした。しかし康夫が荷物をまとめて席を立っても、店主は康夫のそばから動く気配がなかった。
「そろそろ帰ろうと思いますんで、すみませんがお会計を……」
不思議に思いつつ、康夫はそのように店主に声をかけた。するとさらに不思議なことに、店主は笑顔のまま「また今度でいいですよ」と言うのだ。グミの件もあっていよいよ不安になってきた康夫は少しだけ眉をひそめた。
「うちは、康夫さんみたいなお客様からは、お支払いを現金ではいただいていないんですよ」
「いやでも、次いつ来店できるかも分かりませんし、それって代金を踏み倒す人が出てきやしませんか? ちなみに、何でお支払いをすればいいんです?」
心配と嗜めを混ぜたような、そんな声色と表情でそう言うと、康夫はありえないと言いたげに小さく首をひねった。店主は苦笑いを浮かべながら、それに頷いて返した。
「みなさん同じことをお言いになるんですけれど、そこは心配していただかなくて大丈夫ですよ。ちなみに、お代は〈笑顔〉です」
「笑顔?」
「ええ。心の底からの、明るい笑顔をお代としていただいております。――いつかまた、お店にいらしてください。そのときは今日みたいな土気色じゃなくて、太陽か真ん丸お月さまかと見紛うくらいの明るい笑顔で。だから今は、どうぞご家族との時間のことだけをお考えくださいな」
優しい笑顔をたたえている店主の言葉には、一切の迷いもなかった。背筋も真っすぐ綺麗に伸びていて、人を誑かしてやろうという雰囲気はひとつもなかった。――彼女がそう言うなら、きっと再び来店できるだろうし、そのときには愛想笑いではない本気の笑顔を彼女に見せることができるだろう。何故かは分からないが、康夫は不思議とそう強く信じることができた。
康夫が店の出入り口まで移動すると、店主もあとをついてきた。扉の前で足を止めると、康夫は店主を振り返って笑った。
「グミ、ありがとうございました。あと、紅茶、本当に美味しかったですよ。あれはミルクティーにしても美味しそうですね。いつか、いただいてみたいなあ」
「そう言っていただけて、嬉しいです! じゃあ、次にいらしたときはとびきりのミルクティーをお淹れいたしますね!」
嬉しそうに笑った店主のそれは、康夫が来店してから今までで一番の、眩しいほどのものだった。――自分もいつか、このように笑えるのだろうか。そんな思いを胸にいだきながら、康夫は「是非」と頷いた。そしてグミを食べるよう勧めてくれた男性にも礼を述べると、康夫は店をあとにした。
しかし、それから康夫が店を訪れることはなかった。何ヶ月経っても、何年経っても、康夫が笑顔で店の扉を押し開けることは決してなかった。
康夫が来店してから十二年ほど経ったある日、高校の制服に身を包んだ青年が店を訪れた。彼は店主が「いらっしゃいませ」と声を掛けると、小さくペコリと会釈をした。
とても賢そうで、ちょっと垂れ目なのが可愛らしい子だった。どこかで見たことがあるなと店主がまじまじ彼を見つめていると、彼は緊張した面持ちで何か言おうと口を開いた。しかし、彼が言葉を発する前に店主が嗚呼と驚嘆した。
「あなた、もしかして康典くん? ずいぶん大きくなったわねえ!」
「俺のこと、知っているんですか?」
戸惑う彼――康典に店主は笑顔で頷くと、濡れた手を布巾で拭きながら返した。
「ええ。以前、あなたのお父様がご来店くださったときに、写真を見せて頂いて。――康夫さんは、あれからどうなさっているのかしら? 今もご健在?」
店主が小首を傾げると、康典は少しだけ顔をくしゃりと歪めてうつむいた。その様子だけで十分に、康夫がすでにこの世にいないということを店主は理解した。
肩を落とす店主に代わって、店の奥で珈琲をたしなんでいた初老の男性が康典に声をかけた。
「康典くん、こちらにおいで。何か一杯、おごってあげよう。そしてよかったらだが、お父さんの話を聞かせてくれないかな。――私も、君のお父さんがこの店に来店したときにちょうど居合わせていてね。お父さんのこと、気になっていたんだよ」
康典は無言で男性に近づくと、向かい側の席に静かに腰を下ろした。そして目の端をちょいちょいと拭った。来店してすぐのあの顔をしかめた際に、少し涙ぐんでいたのだろう。店主が水の入ったグラスを目の前に置いてやると、康典は早速話し始めた。
「父は二年ほど前に亡くなりました」
まだ康典が幼かったある日、父・康夫は仕事から帰ってくるなりこのように打ち明けた。
「父さんな、実はもうじき死ぬんだ」
言葉とは裏腹な、穏やかな笑顔だった。むしろこの数ヶ月の中で一番元気なように見えて、そんな哀しい未来が待っているだなんて微塵も感じさせなかった。なので康典はもうすぐにでも父がいなくなってしまうのだとは到底信じられなかったし、母も康典と同じように感じたそうだ。
別の病院で再度検査を、と言って聞かない母を納得させるために康夫は後日もう一度検査を受けた。するとどうだろう、手術可能という判断が下されたのだ。しかも、前の病院で宣告された「余命幾ばくで手術も手遅れ」というのは、どうやら誤診ではなかったらしい。つまり、奇跡が起きたとしか言いようがなかった。
康典が小学校に上がってすぐのころ、康夫は入院し手術を受けた。退院後は無理のない程度に働きながら、家族との時間を最優先に過ごしたという。一分一秒を慈しむように、毎日を丁寧に生きていたそうで、康夫の日々は幸せそうな笑顔で彩られていたらしい。
「でも、俺が高校に入学してすぐに病気が再発したんです。てっきり、手術で完全に治ったと思ってたのに。父は手術してから十年後の生存率が五分五分だって知ってたみたいで、特に驚いたり悲しんだりはしていませんでした」
そこで一旦言葉を切った康典の目は、みるみる涙で滲んでいった。泣くまいと堪えて目を真っ赤にしながら、康典は辛そうに顔をくしゃくしゃにして続けた。
「俺、父に言ったんです。『せっかく奇跡が起こって手術できたのに、結局治っていないんじゃあ意味がない。もしも神様がいるんだとしたら、中途半端にしか治してくれなかったその神様は、とてもケチくさくてひどいヤツだ』って。そしたら父は、『本当なら手術を受けたあの日にはもう消えていたかもしれない命のろうそくを、十年も灯し続けてくれたんだ。こんなにありがたいことはない』って。『本当なら見られなかったはずの〈康典が新しい制服に袖を通す〉という風景も、おかげで二度も見ることができた。こんなに幸せなことはない』って。そう言って、すごくいい笑顔で笑ったんですよ」
耐えきれずにボロボロと泣き出してしまった康典は、勢いよくうつむくと制服の袖でぐじぐじと涙を拭った。そしてそのままポケットに手を突っ込むと、学生手帳を取り出した。その中からさらに、何やらを取り出してテーブルの上に置いた。――それは、康典たち家族の集合写真だった。
康典が父の病気再発について、康夫本人と話したという日からそう経っていないときに撮ったのであろう。少し大きめのブレザーが、康典がまだ幼いというのを主張しているようだった。表情は、何やら釈然とせず怒っているようにムスッとしている。母は必死に微笑んではいたが、やはりどこか無理をしているようだった。
対して康夫は、太陽のように眩しくて健やかな笑顔を浮かべていた。体はやせ細って弱々しいのに、だ。まるで、命の灯火が最期の大見栄とばかりに力の限りを尽くして燃え盛っているようだった。
「すごく、いい笑顔ですね」
店主が涙ぐんでそう言うと、カウンターに置いてあるレジスターがチンと音を立てた。
不思議そうにカウンターを振り返って見る康典に、店主は小さく笑って穏やかに言った。
「今、お代をいただいたんです。あの夜、康夫さんがここでお茶をしたときのお代を」
康典は意味が分からずにぽかんとしていた。すると、男性が写真をにこやかに見つめながら腕を組んだ。
「それにしても、本当にいい笑顔だな。とても幸せで、心残りも全くないという感じだなあ」
口を半開きにして呆けていた康典は、みるみると顔をこわばらせた。そして来店当初の緊張を取り戻すと、申し訳なさそうに肩を落としながらも捲し立てた。
「そうだ、あの、俺、父の代わりにお代を払いに来たんです! 俺、父から〈不思議な喫茶店の話〉をたびたび聞かされてて、いつか一緒に行こうって誘われてたんです。この写真を撮った日にも『今から行こう。今日なら行ける気がする』って言われたんですけど、『これから入院するっていう人が何を言っているんだ。何かあったらどうするんだ』って、母と二人でとめたんですよ。でもそのせいで心残りができてしまったみたいで、入院する日に『この前撮った写真を持って、あの店に行って欲しい。きっと、あの写真ならお代になるはずだから』と頼まれて」
「あらまあ、そうだったの」
「『店主さんと来店の約束をしていた』って言っていたし、本当は自分で支払いに来たかっただろうに、俺がとめちゃったから。でもまさか、本当にお代を支払っていないとは思わなくて。しかも写真がお代になるとか意味分からないし、俺も気持ちに折り合いがつけらんなくて、気がつけば二年も経っちゃって……。――父にも店主さんにも、悪いことをしました。本当にすみません……」
康典は顔を真っ赤にして縮こまった。店主は優しく笑って「お気になさらないで」と声をかけたが、康典は背中を丸めて恐縮し、よりいっそう縮こまった。
男性は康典から店主へと視線を移すと、ニヤリと笑った。
「よし、康典くんにおごると約束した一杯、何にするのかを勝手ながら決めさせてもらったぞ」
「ミルクティーでしょう? 今、ご用意いたしますね」
男性が深くうなずくと店主は心得たと言わんばかりに笑みを浮かべ、ぴょこぴょこと飛ぶようにカウンターへと去っていった。
康典はこの春、遠くの大学の医学部に進学するという。父が体験したような奇跡が、可能であればそれ以上の奇跡がひとりでも多くの患者に訪れてくれるような。もしくは、最期のその日まで父のように笑顔で過ごせるような。そんな新薬を開発する研究医になりたいのだそうだ。
そんな大きな夢を語りながらミルクティーを飲んだ康典は、あの写真の父と同じ太陽のような笑顔で笑ったのだった。
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