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しおりを挟む「戻ったか、半介。……しかと見たであろ」
「あ、あれはいったい……」
病床の秀保はまた小姓に背中を支えられ、
「猿投の猿よ。……その昔、景行天皇が伊勢国へ赴いた際に、つれていた猿が不吉なことを口走ったので気持ち悪くなり、海へと投げ捨てた。その猿は死なずに生き延び、人のいない山に隠れるように棲みついた……それが猿投の由来よ。そして、その猿は住んだとされることから、あの一帯が"猿投"と呼ばれるようになった。あの木乃伊はその猿のものよ。近くの百姓どもには神の使いともいわれておる」
「……どこかで聞いたことがありもうす」
「そうだろう。おぬしの寺にはこの猿にまつわる書き物があったはずだ。知らず知らずのうちに目にすることもあっただろう」
「景行の帝といえばかの日本武尊の父君。それほど昔の木乃伊など残っているはずが……」
「猿投の猿といっても、景行天皇がお捨てになられたものではない。その子や孫だろうさ。あのあたりは杣人すら入りたがらぬ鬱蒼とした森であったが猿ならば生きるのもたやすくはなかったであろう。ゆえに神の使いよ」
吉隆からすればあの木乃伊は猿のものとしては大きすぎた。
しかも、わざわざ木乃伊を棺桶の中に入れて保管しておいた意味がわからない。
それを秀保が強権を使ってまで手に入れた理由も。
「あれをいったい、なんのために?」
「薬よ…… わしは薬としてあの木乃伊が必要となったのだ。かつて、お婆さまがわしに教えてくれたことがあってな。称名寺には神の使いの木乃伊があると」
この時代、時折発見される即身成仏を薬として煎じて飲むことはよくあることであった。
治りにくい病に侵された秀保がその回復のために薬として、怪しげな由来のものに手を出したとてわからぬでもない。
しかも、神の使いとまで呼ばれているものならば……
猿の木乃伊を煎じて飲むなどというのは悍ましいことではあるが、それで秀保の心がやすまるのならば……
「薬でございましたか」
「最初はな。そのつもりであった。だが―――叔父上までもがあの木乃伊を欲しがっていると聞いて気が変わった。なんとしてでも手元に欲しくなったのだ。それでしくじったわ……」
「太閤殿下が? なにゆえ?」
そのとき、寺の雰囲気が変わった。
庭や境内にいる人の数が増えたような気がしたのだ。
だが、中納言の宿泊する寺に他の参拝客が来るはずもない。
いったいどうしたことだ、と立ち上がりかけたとき、ピシャリと襖が勢いよく開けられた。
吉隆は腰を抜かしそうになった。
右筆とはいえ、いくさにも参戦したことのある列記とした武士である吉隆が。
そこにいたのは―――
秀吉であった。
天下人が凄まじい眼光を発して入ってきたのだ。
「半介」
何かドロドロとしたどす黒いものを隠したまま人が平静を装うとこのような声になるのだろう。
「称名寺からあれを運び出す手引きをしたのはおまえか」
吉隆は否定の首を振った。
違う。まったく違う。自分はそれを追ってきたのだ。持ち出したのは秀保である。
それを理解してくれたのか、秀吉の興味は病気の甥へと注がれた。
近頃、まともに立つこともできないほど弱りかけているという秀吉であったが、今は二つの足で立っている。そして、生気に満ちた目で甥を見下ろした。
「―――なにゆえ、余を出し抜いた」
怒りに満ち満ちていた。時折、震えているのは耐えがたい怒張ゆえか。
「叔父上」
小さいが強い声で秀保が呼んだ。
太閤さま、ではなく身内であることを強調するための叔父上と。
「……わしの顔を見てください。酷い有様です。わしはもう長くはない。今日は生き残れたとしても、明日、または明後日にはもう死んでいるでしょう」
「中納言様、そのようなことは……」
「いいのだ、半介。わしとて自分の肉体のことだ、ようわかっておる。わしが死ぬのはもう運命じゃ。だが、死ぬにあたって、わしはこのように窶れ、知らぬあいだに毛が生え、見たくもない姿に変化しようとしている……それだけが恐ろしい」
秀保は少し黙り、
「叔父上。今のわしは叔父上によお似ておりはしませんか」
その一言をきいて、雷のように怒鳴りつけた。
「そのようなことがあるものか! 余は天下人である! いくら甥といえども余に対してつまらぬ口を叩くな!」
かつてみたことのない剣幕であった。まるで龍の逆鱗にでも触れたかのように。
だが、否定はしたが吉隆の眼にも今の叔父と甥はよく似ているような気がした。
老醜無残というよりも形相、動作からして別の何かにも……
「では、鶴松殿と拾丸殿はどうですか……きっと似てはおらぬのでしょう」
「黙れ、痴れ者が! 余になにを言いたいのだ!」
「わしは叔父上と血の繋がりがあることを誇っております。わしは母上の子として産まれて良かった。大政所様の孫としても」
「……なにがいいたい?」
「叔父上はわしのこの有り様をみてどう思われておるのですかな! あまりにあなたに似ているこのわしを! わしは叔父上との確かな血の繋がりを感じておりまする!」
「黙れ! おまえのような醜い猿面と似てなどおらぬわ!」
秀吉は老人の細い肢で病人を容赦なく蹴り飛ばした。避けるほどの体力も残っていないらしい秀保は顔にそれを受け、鼻血を流した。
それでわかった。
秀吉は自分自身を憎んでいる。
正確には猿のような醜い顔を。
だからこそ、病の果てに自分に似てきた秀保までが憎くて仕方ないのだ。
「叔父上がいつまでも恨んでおられることのすべて、すべてが、わしと同じなのでございまする。わしは女に昂り、血に狂い、わしに怒っておる。わしの病がなんなのか、きっと叔父上はおわかりでしょう! わしは返っておるのですよ! わしは、わしは……!」
そこまで叫ぶと、大声を出しすぎたせいなのか秀保は白目をむいて崩れ落ちた。
受け止めた小姓がどれだけ声をかけようとしても二度と目を覚ますことはなかった。
その有様を見て、意味はないとばかりに去っていく秀吉の背中を吉隆は見送った。
秀吉も振り向かなかった。
―――ただ、老鼠さながらの後姿が立ち去る寸前に一度だけ振り返り、恐ろしい眼で睨んだことに、秀保に気を取られていた彼は気が付くことはなかった……
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