くじら斗りゅう

陸 理明

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りゅう

巨獣の海

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 海賊の小早舟が持ち上がった。
 舟の縁をなんとか掴んだ犬一以外の男どもは絶叫をあげて投げ出されていく。
 海に慣れたものたちでも船底からの衝撃をこらえきれなかった。
 山川も足元に横たわっていたお汐とともに落水した。
 あまりに突然のことなので、思考はおろか身体さえも動かない。
 何が起きたかでさえわかっていないのだ。
 慌てて少なくない海水を呑み込んでしまう。

(な、なんだ!)

 足の裏が不気味な圧力を感じ取る。
 陸に暮らすものは決して味わうことのない感覚であった。
 襲い掛かる波に頭をガンと殴られたかのような衝撃を受けて気が遠くなる。

 そんな山川を嘲笑うかのように、莫大な量の海水とともに黒い巨大な塊が姿を現し、宙に舞った。
 下から突き上げてきた巨大な何かの広い背に乗った海賊たちは、そのまま再びの潜水とともに滑り落ちて海面に流れ落ちた。
 現代ではブリーチングと呼ばれているクジラが水面を撥ねる行動のようであった。
 だが、それでもそいつがどんな名前なのかは誰にもわからなかった。
 尾びれで確認することすらできなかったからだ。
 猟夫たちも、最初はまたも「竜か」と疑ったが、あの長い尻尾による追撃がなかったことでやや安心してしまう。
 またも、あんな凶悪で獰猛な怪物の相手はしたくなかった。
 きっと鯨であるだろうと信じるしかなかった。
 ただし、竜に比べれば馴染みではあるが、鯨とてとんでもない巨躯を持ち猟夫たちの命を奪う危険の塊である。
 浮上しただけで殺されかねない。
 自分が海に投げ出されないことで精いっぱいで、辛うじて転落せずにすんだのですら奇跡的であった。

 海中も白い泡で埋め尽くされ、まったく先が見通せない。
 悪いことに折からの雨がさらに視界を遮り、どこにいるのかでさえ曖昧になっていく。
 このまま海水を呑んでしまえば、大量の溺死体の出来上がりである。

「みな、ふり落とされるな! 落ちたら死ぬぞ!」

 指示を出す権藤でさえ、落ちずにこらえるのが限界であった。
 平衡感覚を狂わしていく荒ぶる海は地獄の釜の底に等しい。

「無事か!?」
「二人、落ちた!」
「なんだと!」

 転覆した海賊の速さが自慢の小早舟は、捕鯨のための舟と比べて安定性に欠けるため、転覆せずになんとか保持できただけで鯨捕りの本領であったといえよう。
 それでも落下したものはいたのだ。
 権藤が海面を見渡すが、さきほどの鯨はおろか、落水したものたちの姿もない。
 荒すぎる波によってすでに攫われてしまったのだ。
 海賊も猟夫たちも見当たらないが、転覆して舟底を晒して浮かんでいる小早舟だけはわかった。
 かろうじて数人が運よくしがみついている。
 その中に、お汐もいた。
 鯨に突き上げられた瞬間に縄がほどけ、体の自由がきくようになり、泳いだりしがみついたりができるようになっていた。
 まだ生きている。
 彼女が無事だというだけで権藤は安堵し、弥多も胸をなでおろした。
 ただし、悠長なことはしていられない。
 お汐は海には滅多に出ないのだ。
 長くあのままの姿勢でいたら間違いなく力尽きることになる。
 波は激しいか泳ぎつけない距離ではない。

「弥多!」
「なんだ!」
「お汐のところへゆけ。わしはこの舟を采配を取らねばならん」
「……だけどよ、お汐は」
「はやくせい! わいつは四番刃刺なのだぞ!」

 その怒鳴り声を聞いて、ようやく弥多は立ち上がり、

「すまんの」

 と、海へと飛び込んだ。
 権藤は笑みを浮かべて、泳ぎ去る背中に言った。
 お汐のことは弥多に任せた。
 彼にはまだやることが残っている。

「わしは鯨捕りだ。それが挑まれて逃げられるものかよ」

 あの衝撃の中、なんとか手放さずにいた銛を構える。
 先ほどの巨影はいったいなんだったのだろう。
 なんのために、人間の舟を狙ったのだろう。
 追われてもいないのに人を狙うということは、かつて家族を狩られた恨み鯨の類いだろうか。
 それとも、何か、また、別のもの―――

「またも、竜か」

 鯨獲りを志したものが、おかしな成り行きで別のものになってしまうことはありうるだろう。
 強い剣士になりたかったのに、気が付いたら猟夫になっていた権藤がいい例だ。
 だが、もうなりたいものを変える気はない。
 権藤は刃刺である。
 鯨がでたのであれば、銛を打って仕留める。
 それが権藤伊左馬の辿り着いた生き方だ。

「おおい、権藤!」

 近くにいても叫ばないと聞こえないような混沌の中、木曾野が叫んだ。
 友人の視線の先に何が待っているのか、長い付き合いの彼は正確に読みとっていた。

「よく考えろ! あのでかい生き物はおぬしを求めているわけではないぞ! やつを目の前にして狂ったように求めているのは、実はおぬしの方なのだ! 正気に戻れ!」

 肩を殴られても、権藤は木曽野を一瞥だにしない。
 見据えているものは一つだった。

「そうだ、何が悪い! まだ勝負は決まっていない! わしが勝つのだ。わしを恐れさせるだって? わしの確固不動の生きざまに通じる道には航路がしかれているわけではないぞ。わし自らが決めるのだ! わしがだ! 千尋の谷をわたり、重畳たる山の懐をぬけ、海底をくぐり、ひたすら驀進する! 海に邪魔者はない! 敗退もない!」

 権藤は海に出れば一個の漢だ。
 何と出会おうとひるまず、それが鯨であれば狩りたてる。
 でなければ―――なんとするか。

「……木曽野。左の海に若白髪めが浮いている。生きているかはわからんが、懐を漁ればもしかしたら竜珠が取り返せるかもしれんぞ。それでわいつのお役目も果たせるだろう」
「権藤……おぬし……」
「急げよ」

 元武士であった鯨捕りの刃刺は舟の一番前に立った。
 生き残りたちには背中だけを晒している。

 ―――いる。

 足元のさらに深いところにさっきの大きな影はいた。
 底上がりに彼らを狙ってくる。
 人間をしつこく追ってくる。

「さっきのあいつは本当に鯨なのか? 私は見たことがないのでわからんぞ」

 木曽野はもう諦めるしかなかった。
 止めて止まる漢ではないのだから。

「さあな。海を泳いでいく、でかい生き物ならば、たぶんそいつは鯨だ」
「ふん。わかりやすい男め。まったくおぬしの相手をするものどもを気の毒に思うよ。例え化け物であってもな。……では、私はお役目を全うしに行ってくる。さらばだ」
「ああ、補陀落で会おうか」

 一瞬息を吸ってから、木曽野は躊躇うことなく海へと飛び込んだ。
 ぷかぷかとだらしなく海面に浮いている山川久三郎へ目掛けて一直線に泳いでいく。
 運があったら、ここまで泳いで戻ってこられるだろう。
 だが、そううまくいくとは限らない。

 権藤の目の前に白い水泡が大量に浮かんでくる。
 やつは真下にいる。

「……あのゆるぎない鯨、あれはわしだ。あの恐ろしい竜、あれもわしだ。あの雄々しい、不撓不屈の、勝鬨の声をあげる刃刺、あれもわしだ。何もかもがわし―――権藤伊左馬だ」

 権藤はもう何も考えていない。

 鵜殿のことも。
 お汐のことも。
 弥多のことも。
 木曾野のことも。
 親父をはめた松井のことも。
 脳裏にあるのはただ足下の海底に潜っている巨獣のことだけだ。

 ぐっと銛の柄を握りしめる。
 ひときわ大きな水泡がはじけ、昏い海がさらに黒く染まっていく。
 かつてない衝撃が足元から突きあがる。
 海が瓦礫のごとく崩れ落ちていくように見えた。

 黒すぎる水が雪崩のように権藤と小早舟の頭上に降りかかってきた。

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