くじら斗りゅう

陸 理明

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りゅう

詮議

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 もともと、吉之助と勝太夫が若い刃刺と水夫をつれて那智詣でを考え出したのは、やはり例の竜の祟りを恐れてのことだった。
 かつて見たこともない獲物を仕留め、それが竜ではないかという疑心はぬぐいきれなかった。
 そして、海という最大の大自然とともに生きる船乗りにとって、やはり迷信ではすまされない脅えが存在する。
 実際に竜に銛を打ち、とどめを刺し、浜辺にあげて解体したまでは良かったが、そのあとがいけない。
 胴体と手羽までは鯨と変わらぬものと目を逸らせたが、首から先、つまり頭部は誰も手を付けることができなかった。
 そのため、異常に長い頸の骨三つのあたりで強引に切断し、首だけにして海に捨てることになった。
 あまりにも恐ろしかったので、茣蓙を巻いて、それでもう修理も聞かない襤褸船に乗せて海に流したのだ。
 その後を知ろうとする者はいない。
 無事に沖に出て、海の藻屑となったのを願うだけである。

 肉と油は鯨同様に獲れたが、こびりついたなんとも嫌な臭いというのは濾しても消えず、多くの部分は捨てる羽目になった。
 おそらく、滅多に水上には現れず、深海の泥の中に潜って生きていたのだろうと生き物に詳しい者たちは推測した。
 そのために、鼻をつまみたくなるような泥の悪臭が染みついていたのだ。
 煮て食おうとしても臭みが酷くて食べられたものではない。
 そして、捨てるために穴を掘るのも一苦労だった。
 つまり、竜を獲ったのはいいが、鵜殿にとってはほとんど利益の出ないものだったのである。
 そのくせ、一部の住民たちには重いしこりを残した。
 海上で戦って仕留めた猟夫たちはいいが、それを持ち込まれた納屋衆の一部からは酷い貧乏くじを引いたようなものだという不平があがった。
 彼らはあんな薄気味悪いものを海に捨てずに曳航してきた勝太夫をはじめとする水夫たちのことを口汚く罵った。
 勝太夫についてまで悪し様に言い、皆の人気者であった彼が一部のものたちとはいえ、ここまで憎まれることはかつてなかったことである。
 同時に、竜に一番銛を打っただけでなく、実際にとどめまでさした権藤も彼らには嫌われた。
 水夫たちの人気とは裏腹に、納屋衆の一部からは蛇蝎のごとく無視されたのである。
 もと武士であるという身の上がさらに状況を拗れさせた。
 漁民の心の分からぬ男だとさえ陰口をたたかれたのである。
 吉右衛門が気づいたときには、一致団結していたはずの鵜殿が大小二つに分かれようとしていた。

 たかだか数年しか経ていない集落である。
 このままでは、大きな村としてまとまる前に分裂してしまう。
 危機感をいだいた吉右衛門は勝太夫と相談し、竜退治に特に功労のあったものを率いて、那智神社に詣でることにした。
 熊野神社の霊験あらたかな祈祷を受け、納屋衆が嫌がる祟りを祓ったことにするべきだと考えた。
 紀州の人間にとって熊野は故郷のような場所である。
 集落の不和は竜のせいであり、そこでお祓いを受けたということでわだかまりをなくそうということにしたのだ。
 それに、竜の死体で儲けられなかったため、命がけで立ち向かった水夫たちへの報償が出せなかったこともあり、途中で勝浦の宿で羽目を外させてやろうという親心もあった。
 これが、今回の熊野行きの発端である。

 このとき、吉右衛門に落ち度があったとしたら、それは二つである。
 一つは、竜を退治したことを集落の中だけの秘事として納めてしまい、太地角右衛門にすら伝えなかったことである。
 もう一つは、竜の腹から見つかった竜珠のことを、逆に新宮藩のお偉方に告げてしまったことであろう。
 あまりにも正しい行動であったが、このしくじりのせいで、この後に起きる面倒をあらかじめ防ぐことができなかったのである。

 ……かなり夜遅くまで飲み明かし、座敷の中はそこかしこに酔いつぶれた男どもが転がっていてまるで魚市場と化していた。
 あれほどの乱痴気騒ぎも永遠に続くものではない。
 様々な格好でだらしなくいびきをかいている。
 その中を、権藤伊左馬は一人でいつまでもちびちびと盃を煽っていた。
 深夜になったあたりで、すでに付き合えるものはいない。
 吉右衛門はともかく、勝太夫にいたっては女を連れて部屋へとしけこみ、床入れしていた。
 他の羽振りのいいものも同じように女と寝ているはずだ。
 権藤は金があったが、それよりもすべきことがあったので、ずっと座敷に居座っていた。
 目的は、二階から見下ろせる場で見張りをしていた若白髪こと山川久三郎とその取り巻きの動きである。
 何か理由があれば討ち入りにきてもおかしくない男だ。
 そんな奴に率いられるものどもに見張られるというのは油断できない話である。
 要するに、よっぴいての警戒に入ったのである。
 夜討ち朝駆けは奇襲の常だ。
 権藤は朝になり、勝浦の宿が生き返るまで、仲間の水夫たちを守っていたのである。

 朝日が昇り、人々が姿を現すと、山川たちの姿もない。
 かなり前からいなくなってはいたが、見張る場所を変えただけかもしれず、油断はできなかったが、この時間になると人目に付きすぎる。
 もう安全だろうと判断すると、権藤は厠へといって胃の中の酒を吐き出した。
 こうするつもりだったので、途中から上等な酒はやめて、吐いても惜しくもない安酒だけにとどめておいた。
 その分酔いは酷いが、胃に物が詰まっていては機敏には動けない。
 水で口をゆすいで汚物を取り除き、釣瓶一杯分を飲み干した。
 井戸端に行って水を被りたいところだったが、そこまで勝手放題もできないだろう。

「あんた、その腰の刀は変わってるね。お武家様のものじゃないみたい。そんなのを差していたらお役人さまに咎められるよ」

 井戸に飯炊き用の水を汲みに来た、若い女が権藤に言った。
 こんなでかい男が突っ立っていたら井戸が使えないが、旅籠の客であることは知っていたので無碍にも扱えない。
 じっと見ていたら、権藤が腰に佩いた刀のようなものに気が付いたのである。
 武士でもないのに佩刀は珍しい。
 というよりも紀州藩では禁じられている。

「こいつはぁ刀じゃあない。だから、役人にも何も言われん」
「そうなの。じゃあ、何?」
「鯨に投げつける大剣だ。場合によってはこれでとどめも刺せる」
「あんた、太地の人なんだ」
「いや、鵜殿だ」
「へえ、鵜殿で鯨捕りなんかやってんだ。知らなかったぁ」
「うむ、そのうち、太地よりも大きな猟場になるぞ。港もでかくなる」

 権藤は鵜殿が気に入っていた。
 百姓の真似事はあまり性に合わないが、捕鯨はなによりも楽しかった。
 だから、例え見ず知らずの飯炊き女からであっても鵜殿が褒められると嬉しかった。

「でも、どうしてそんなのを持ち歩いてるの? とても邪魔じゃないのさ」
「いつでも鯨に投げられるように気を付けておるのだ。いくさはどこで起きるかわからんからな」
「変なの。あんた、お武家様みたい」

 飯炊き女は肩をすくめて小さく笑ってみせた。
 朝早くのきつい作業が少しの軽口で気晴らしができたからだ。

「どれ、貸してみろ」
「いいよぉ。あたしの仕事だよお」
「この程度軽いものだ」

 権藤はどうせだからと飯炊き女のために井戸から水を汲んでやると、炊事場へと運んでやった。
 彼からすれば重くもない量だ。
 ただ、それだけで飯炊き女には十分に感謝された。

(武士だったころではありえない感謝のされ方だな)

 権藤は首をひねってから、わずかばかり苦笑した。

「それではな」

 そろそろ仲間のところに戻らねばならない。
 こちらに向かって仲居らしき女が駆け寄ってくる。
 権藤のことは眼中にないらしい。
 一直線にどこか向かおうとしている。
 必死な形相に嫌な予感がした。
 腋をすり抜けようとした仲居を捕まえて聞く。

「おい、何があった?」

 できる限り優しく聞いたつもりであったが、いっぱいいっぱいの女には恫喝にでも聞こえたのかもしれない。
 怯える小動物のように丸い眼をして、びくつく女は口をパクパクさせるだけで何も答えない。
 これ以上は無駄だと判断して、権藤は仲居の来た方向へいく。
 そちらは旅籠の宿の部分となっていた。
 権藤達だけでなく、吉右衛門や勝太夫も泊っている場所だ。
 巨漢ならでは歩幅の広さで辿り着いた場所は、捕り物支度をした役人たちが動き回っていた。
 だが、奉行所の役人には見えない。

「なんだ、おまえたちは!?」

 思わず、紀伊訛りが消えて、かつて浪人であった頃の喋りに戻っていた。
 突然、現れた大男にも役人たちはたいして驚いた様子もない
 権藤のことを知っているのだ。
 ここにいる理由も。

「詮議である」

 奥から白髪の武士が顔を出した。
 さらにその奥には罪人のように縄をかけられた吉右衛門と勝太夫がいた。
 他にも何人かの刃刺のものたちも捕まっている。
 明らかに鵜殿の主幹を狙った捕り物劇であった。

「久しぶりだなあ、権藤」

 山川久三郎はいやらしい笑みを口元に湛えていた。

「貴様ら、いったい何のつもりだ!」

 権藤伊左馬のあまりの大音声に役人たちは怯んだ。
 腰の大剣を抜きもせずに、ただ叫んだだけなのに反射的に刀の鯉口に手をかけるものばかりであった。
 かろうじて抜きこそしていないが、もし抜刀していたら事態は厄介になっていたかもしれない。
 それほどまでに権藤の怒鳴り声は大きかった。

「―――詮議だ。おまえを含めた鵜殿の主幹どもについては、抜け荷の疑いがかけられている。新宮の奉行所まで出頭してもらおう」
「ならば、なぜ縄をかける。長である吉右衛門殿まで捕縛するのは没義道であろう」
「なに、もともと吉右衛門は治外法権とでもいうべき太地のものだ。あそこに逃げられては敵わぬので用心させてもらうというだけのこと。密輸などしておらんというのであれば、奉行所で申し開きをすればいい」
「鵜殿は、殿の御名において守られた土地。それを奉行所、ましてやその方風情が縄をかけることなど越権ではないのか。誰が命令をだしておる?」
「おまえには関係がないことだ。それに、おまえも捕縛の対象にはふくまれているのだぞ。神妙にし、お縄につけい」
「なんだと? 山川久三郎、おぬし、このわしを軽々に止められるとでも思うておるのか。舐めてくれたものだな」

 ずいっと権藤は進み出た。
 旅籠の狭い廊下を独りで占められるような巨漢の前進に役人たちは震え上がった。
 ほとんどのものが権藤のことを噂で知っていた。
 そもそも城下町の剣術道場では、かつてよく知られた名前の持ち主なのだ。
 目につく巨躯だけでなく、剣の腕前でも。
 思わず、山川久三郎を盾にするような形で一歩引いてしまう。
 すると、盾にされた方は面目もあって下がることはできない。
 柳生新陰流の師範代であった以上、意地でも退くことはできぬのだ。

「お上の御用に逆らうか、権藤」
「それが理不尽であるのならばな」
「おまえはそれでいいだろう。だが、鵜殿の鯨衆にとってはそうはいかんぞ。おまえ一人のやったことがどんな形で裁きにくだるかわからんのだぞ。それでもいいというのならば、このおれが相手をしてやろう。では、抜け」

 わかりやすい挑発だ。
 武士であるのならばその面子のために容赦なく叩き切ってしまえばいい。
 この大剣は剣術での決着をつけるためには包丁過ぎたが、刀に劣るものではなかった。
 それに刀を使っての修羅場こそほとんど体験していないが、鯨捕りといういくさはたんまりと熟してきた。
 命のやり取りならばなまなかな武士に負けるものではない。
 だが、抵抗をすることもなく縄を打たれた吉右衛門と勝太夫の姿を見て、自分勝手に争うことなど権藤にはできなかった。
 山川の言う通りに、権藤の抵抗が鵜殿にとっては不利益にしかならないのは明らかだった。
 そして、何より今の権藤は武士ではない。
 武士のように体面や誇りを重んじてすべてを捨て去れる刹那な生き方は選べなかった。

(仕方あるまい)

 権藤は大剣を鞘に納めて、ゆっくりと足元に置き、それから床に正座をした。
 好きにしろ、という明白な降伏の姿勢だった。
 山川は内心で安堵の吐息を漏らすと、手下どもを顎でしゃくる。
 すると、おそるおそる役人たちが近寄ってきて、権藤に縄をかけた。
 何重に巻いても拘束しきれたか断言できない相手であるから、丸く膨らんで見えるほどの厳重であった。

「よし、ひったてい」

 こうして、鵜殿の主だった者たちは新宮へと縄を打たれて連行されていった。
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