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りゅう
後始末
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男たちの荒々しい掛け声が砂浜に響く。
彼らをまさに鼓舞するための太鼓の音も轟くが、効果はほとんどなかった。
誰もかれも調子が狂ってしまっていたからだ。
頭から少しずつ、そいつは海から上がり、砂浜をのぼってくる。
胴体がでてくるまでに、首だけで十五尺以上(5メートル半)はある規格外の巨体は、それだけ途方もない重さであり、すべてを含めればマッコウクジラほどはあるだろう。
鼻から尾までの体長がとてつもなく長いのだ。
丸い胴体と四枚の手びれがなければ大蛇に見紛うばかりの威容だった。
かつてない光景に、村のものたちがすべて集まってきていた。
しかも、誰一人としてこの場を去ろうとしない。
中には御仏に唱える真言を口ずさむ者もいる。
それはそうだろう。
村人たちは海から引き上げられるあまりも珍しい―――いや、初めて見る巨大で恐ろしい生き物の死骸にくぎ付けになっていたからである。
人の上半身を食いちぎれそうな歯並びをもつ四角い頭、四つの手羽だけで五尋もありそうだった。
すでに一人の水夫が噛みつかれて死んでいる。その事実だけで明らかに鯨ではない。
鯨はあんな長い頸をもっておらず、尾もあれほど長くないからだ。
しかも、肥え具合いだけでいえばまるまるとした鯨には及ばず、全身から恐ろしいほどの臭気をばらまき、横ひだのついた皮膚の下の肉はどうみてもまずそうだった。
何よりも、ここは鯨捕りの専門家だけの村であり、誰もがこの生き物を鯨とは認めないだろう。
―――竜。
すべてのものが、その生き物の名を知っていて、それだろうと断定した。
噴き出す血液のために、砂浜は赤く染まり、地獄のようになっているため、さらに巨大な妖魅のようにさえ思える。
解体のための頭衆《かばちしゅう》が道具をもって現れたが、誰も一歩たりとも近寄ろうとはしない。
いつもならばぬめぬめした鯨の皮膚で滑らぬようにわらじを履いて、まっさきに登っていく最も勇気のある男でさえ、近づこうとせず、皆が遠巻きに見て動く素振りさえも見せない。
村長の吉右衛門でさえ、どうすればいいか迷っているぐらいである。
その指示を受けて動く男たちが一歩たりとも踏み出せないのは当然である。
(こいつを、これ以上傷つけていいものか?)
あまりにも不吉な姿であるからだ。
誰しもがそう考えた。
海に出て漁にとりかかった沖合衆のものたちは仕方ない。
変わった鯨だと思っていたものが、実は見たこともない巨大な生き物で、しかも凶暴極まりなく、命を守るためにも必死で銛をうたねばならなかったのだから。
生き残ったのは運の良さと、権藤伊左馬の獅子奮迅の働きのおかげだと理解していた。
本来ならば全員が死んでいてもおかしくない死闘であった。
だが、だからといって、こいつを砂浜に打ち上げて解体することまでが許されるのだろうか。
これは―――我らヒトが手を出していい存在なのか。
「村長、漁師たちを引き上げさせていいかね」
第六舟から降りたひときわ大きな男が言った。
それほど声を張り上げたわけではないが、その場にいたすべてのものが聞き取れた。
権藤であった。
手に何一つ持っていない。
持ち込んだ銛のすべてを、この巨大な獲物に叩き込んだのはこの男だけだった。
そのことは、すでに村のすべてのものに伝わっていた。
そして、この男が真っ先に、あれに銛を打ったということと、脳に小刀を差し込んでとどめを刺したということも。
鵜殿に戻ってくるわずかな間に歩いて話せるまで体力が回復したというのは、ある意味でこの男も化け物であった。
「権藤はん、おぬし、こいつをどうして引き揚げようとした。海に流しても同じであったろう」
村長の問いに、権藤伊左馬は答えた。
「こやつが暴れたことで第二舟が潰れた。主の錦太夫はまだ見つかっておらん。他にも幾人かの水夫が死んだことだろう。となると、せめてこいつを売らねば死んだ者の家族に払う金も出せなくなる。鵜殿はまだ貧しいところだ。背に腹は代えられぬ」
「しかし、こいつは―――おぬし……」
竜という言葉を口にしようとした村長の口をふさぐ。
伊左馬の掌は長の顔を包み込めるほどに大きかった。
「口にせぬ方がいい。海の男の迷信深さを考えるとな。―――いいか、吉右衛門どの。あれは鯨だ。多少おかしげに見えぬこともないが、所詮はいつも獲っておる鯨だ。それでいいのではないか」
「権藤はん……」
吉右衛門は鯨方棟梁の和田家の出である。ただ、この事業のために選ばれた男であり、立ち止まることができぬ自分の立場はよくわかっていた。
士気が下がることを口にするわけにもいかなかった。
「……あとで角右衛門どのに相談するとしよう。ともかく、急いで頭衆と包丁方の長にも仕事をさせることにしたほうがいいか。権藤はん、あんたは水夫どもともに休め」
「わしは海に流されたものどもに生き残りがおらぬか探してみる。錦太夫もみつけねばならんしな。元気そうなのを何人か借りるぞ」
「―――大丈夫なのか」
「なに、おかしな鯨一匹、獲ったところでいつもと苦労はさして変わらぬよ」
そう言い放つと、必要な指示をだし、伊左馬は再び海へと向かっていった。
「そういえば、わいつの娘、時化るのを予測しておったぞ。女だがよい山見になるかもしれんぞ。親父殿譲りだというておった」
「嘘じゃ。わしにそんなものはない」
「そうとは限らんぞ」
吉右衛門はその背中に親しみと頼もしさを感じつつも、恐ろしさも覚えていた。
あんなとんでもないものに銛を打つなど、予想以上にとんでもない男だ。
だが、頼りになるのは確かだ。
娘の見る目に信頼を置きたくなっていた。
それから、振り向くと同時に、獲物の解体のための工程に頭をひねり、作業を始めるように指示をだし始めた。
まずいことに、このまま砂浜にほうっておいて太陽に照らされて腐りだしたりしたら、さらに手に負えなくなるのは間違いない。
その前に鯨と同じ要領で解体してしまうのが一番だろう。
肉と油にしてしまえば同じだ。
吉右衛門はそう腹を決めた。
例え、目の前に運び込まれたこの死骸が―――伝説の竜であったとしても。
だが、その吉右衛門もその腹の中から想像もしていなかったものが転がり出てくるとは夢にも思っていなかった……
彼らをまさに鼓舞するための太鼓の音も轟くが、効果はほとんどなかった。
誰もかれも調子が狂ってしまっていたからだ。
頭から少しずつ、そいつは海から上がり、砂浜をのぼってくる。
胴体がでてくるまでに、首だけで十五尺以上(5メートル半)はある規格外の巨体は、それだけ途方もない重さであり、すべてを含めればマッコウクジラほどはあるだろう。
鼻から尾までの体長がとてつもなく長いのだ。
丸い胴体と四枚の手びれがなければ大蛇に見紛うばかりの威容だった。
かつてない光景に、村のものたちがすべて集まってきていた。
しかも、誰一人としてこの場を去ろうとしない。
中には御仏に唱える真言を口ずさむ者もいる。
それはそうだろう。
村人たちは海から引き上げられるあまりも珍しい―――いや、初めて見る巨大で恐ろしい生き物の死骸にくぎ付けになっていたからである。
人の上半身を食いちぎれそうな歯並びをもつ四角い頭、四つの手羽だけで五尋もありそうだった。
すでに一人の水夫が噛みつかれて死んでいる。その事実だけで明らかに鯨ではない。
鯨はあんな長い頸をもっておらず、尾もあれほど長くないからだ。
しかも、肥え具合いだけでいえばまるまるとした鯨には及ばず、全身から恐ろしいほどの臭気をばらまき、横ひだのついた皮膚の下の肉はどうみてもまずそうだった。
何よりも、ここは鯨捕りの専門家だけの村であり、誰もがこの生き物を鯨とは認めないだろう。
―――竜。
すべてのものが、その生き物の名を知っていて、それだろうと断定した。
噴き出す血液のために、砂浜は赤く染まり、地獄のようになっているため、さらに巨大な妖魅のようにさえ思える。
解体のための頭衆《かばちしゅう》が道具をもって現れたが、誰も一歩たりとも近寄ろうとはしない。
いつもならばぬめぬめした鯨の皮膚で滑らぬようにわらじを履いて、まっさきに登っていく最も勇気のある男でさえ、近づこうとせず、皆が遠巻きに見て動く素振りさえも見せない。
村長の吉右衛門でさえ、どうすればいいか迷っているぐらいである。
その指示を受けて動く男たちが一歩たりとも踏み出せないのは当然である。
(こいつを、これ以上傷つけていいものか?)
あまりにも不吉な姿であるからだ。
誰しもがそう考えた。
海に出て漁にとりかかった沖合衆のものたちは仕方ない。
変わった鯨だと思っていたものが、実は見たこともない巨大な生き物で、しかも凶暴極まりなく、命を守るためにも必死で銛をうたねばならなかったのだから。
生き残ったのは運の良さと、権藤伊左馬の獅子奮迅の働きのおかげだと理解していた。
本来ならば全員が死んでいてもおかしくない死闘であった。
だが、だからといって、こいつを砂浜に打ち上げて解体することまでが許されるのだろうか。
これは―――我らヒトが手を出していい存在なのか。
「村長、漁師たちを引き上げさせていいかね」
第六舟から降りたひときわ大きな男が言った。
それほど声を張り上げたわけではないが、その場にいたすべてのものが聞き取れた。
権藤であった。
手に何一つ持っていない。
持ち込んだ銛のすべてを、この巨大な獲物に叩き込んだのはこの男だけだった。
そのことは、すでに村のすべてのものに伝わっていた。
そして、この男が真っ先に、あれに銛を打ったということと、脳に小刀を差し込んでとどめを刺したということも。
鵜殿に戻ってくるわずかな間に歩いて話せるまで体力が回復したというのは、ある意味でこの男も化け物であった。
「権藤はん、おぬし、こいつをどうして引き揚げようとした。海に流しても同じであったろう」
村長の問いに、権藤伊左馬は答えた。
「こやつが暴れたことで第二舟が潰れた。主の錦太夫はまだ見つかっておらん。他にも幾人かの水夫が死んだことだろう。となると、せめてこいつを売らねば死んだ者の家族に払う金も出せなくなる。鵜殿はまだ貧しいところだ。背に腹は代えられぬ」
「しかし、こいつは―――おぬし……」
竜という言葉を口にしようとした村長の口をふさぐ。
伊左馬の掌は長の顔を包み込めるほどに大きかった。
「口にせぬ方がいい。海の男の迷信深さを考えるとな。―――いいか、吉右衛門どの。あれは鯨だ。多少おかしげに見えぬこともないが、所詮はいつも獲っておる鯨だ。それでいいのではないか」
「権藤はん……」
吉右衛門は鯨方棟梁の和田家の出である。ただ、この事業のために選ばれた男であり、立ち止まることができぬ自分の立場はよくわかっていた。
士気が下がることを口にするわけにもいかなかった。
「……あとで角右衛門どのに相談するとしよう。ともかく、急いで頭衆と包丁方の長にも仕事をさせることにしたほうがいいか。権藤はん、あんたは水夫どもともに休め」
「わしは海に流されたものどもに生き残りがおらぬか探してみる。錦太夫もみつけねばならんしな。元気そうなのを何人か借りるぞ」
「―――大丈夫なのか」
「なに、おかしな鯨一匹、獲ったところでいつもと苦労はさして変わらぬよ」
そう言い放つと、必要な指示をだし、伊左馬は再び海へと向かっていった。
「そういえば、わいつの娘、時化るのを予測しておったぞ。女だがよい山見になるかもしれんぞ。親父殿譲りだというておった」
「嘘じゃ。わしにそんなものはない」
「そうとは限らんぞ」
吉右衛門はその背中に親しみと頼もしさを感じつつも、恐ろしさも覚えていた。
あんなとんでもないものに銛を打つなど、予想以上にとんでもない男だ。
だが、頼りになるのは確かだ。
娘の見る目に信頼を置きたくなっていた。
それから、振り向くと同時に、獲物の解体のための工程に頭をひねり、作業を始めるように指示をだし始めた。
まずいことに、このまま砂浜にほうっておいて太陽に照らされて腐りだしたりしたら、さらに手に負えなくなるのは間違いない。
その前に鯨と同じ要領で解体してしまうのが一番だろう。
肉と油にしてしまえば同じだ。
吉右衛門はそう腹を決めた。
例え、目の前に運び込まれたこの死骸が―――伝説の竜であったとしても。
だが、その吉右衛門もその腹の中から想像もしていなかったものが転がり出てくるとは夢にも思っていなかった……
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