くじら斗りゅう

陸 理明

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くじら

恐貌 弐

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 鼻づらがせり出し、横に裂けた口が三日月のように広がっていて、そこから無数の牙がのぞいている。
 人間を飲み干せそうな大きく四角い頭にどんよりとした光る目をもって海上を睥睨する……例えるのならば獰猛な大蛇。
 だが、大蛇にはこんな鯨のようなでかい胴体はなく、四肢が手羽になっているということもない。
 口の中にずらりと並んだ鋭い剣山のような牙もない。
 咬まれて毒を流し込まれるのではなく、噛みつかれて咀嚼されるための歯並びであった。
 尋常な生き物とは思えず、妖気すらも感じさせる。
 そいつに睨まれただけで猟夫たちは腹の底から震え上がった。
 吐き出す息はあまりにも臭すぎて、鼻が潰れそうになった。
 恐怖に痺れすぎて呼吸さえも止まりかける。
 まさしく悪鬼であった。
 視えているかどうかもはっきりしない白い眼に、舟の上でぼうっと突っ立っている水夫たちが映っているような気がした。

「いがん、こいつから離れっど!」

 真っ先に正気に戻った二番舟の刃刺の命令に従い、水夫たちが止まっていた手を動かし漕ぎ続けようとしたとき、

「り、りゅ、竜じゃあああああ!」

 見習いの一人が叫んだ。
 最悪の行動だった。
 現状を認識させてしまう禁断の一言であったからだ。
 猟夫たちの胆力にひびが入る。
 小便をちびるものが続出した。

 同時に、それが合図であったかのようにもう一本の海蛇が海の下から跳ね上がり、強烈な波を発する。
 波濤の如き荒ぶる波が舟に襲い掛かる。
 その激しい煽りを受けて、一艘の船がなすすべなく転覆していった。
 化け物の後方にぴったりとつけていた勝太夫の一番勢子舟であった。
 銛を打つ為にちょうどいい距離をとっていたことが仇になったのだ。
 一番舟のあまりに巧みな操船が逆に跳ね返った結果である。
 ひっくり返されて、底をさらした一番船の乗員たちが我先に浮上してくる。
 それなのに筆頭刃刺の姿は見えない。
 転覆の衝撃で気絶してしまったのかもしれない。
 沖合も兼ねた頭領の勝太夫がいないということは、つまりは、船団を操る頭脳が停止したことを意味する。

 猟夫たちは恐慌状態に陥りかけた。
 しかも、この鯨とは確実に違う生き物の猛攻はまだ終わっていなかったのだ。
 彼らは自分たちを沈めたのが、もう一匹の海蛇などではなく、いつまでも海の上から水夫たちを睨みつけるこの大蛇のごとき尻尾であることを察していた。
 別の生き物のようにうねり、水面に叩きつけられ、不規則な波を執拗に巻き起こす。
 この尾は鯨の尾羽など比べ物にならぬ危険物であった。
 どことなくウミガメに似た手びれも同様である。
 水掻きにしてはかなりの大きさがあり、うっかり近寄ろうものなら、海水が舟に伸し掛かってくる。

 そして、もう一つ。

 皆が本能的に理解してしまったのだ。
 先ほどの狂ったような見習いの叫びが、まさに的を射ていたということを。
 この鯨とは明らかに違う生き物は―――伝説の―――

 海面が揺らぐような衝撃とともに、また一艘転覆する。
 今度は二番舟。
 勝太夫の次に経験豊富な刃刺の舟であった。
 捕鯨については他の追随を許さない親父という猛者たちの乗る舟が相次いで転覆していく。
 これで船団の指揮系統は完全に混乱した。
 各舟ごとの独自の判断が要求されることになる。
 だが、そんなものが通用する状況ではない。
 現実に踏みとどまっていられるだけでもたいした幸運だとしか思うしかない、悪夢のごとき時間なのだから。
 高みから人間たちを見下ろす醜悪な貌は、まだまだ彼らを逃がそうとはしてくれなかった。
 それどころか、次の獲物を選び出すようにゆっくりと周囲を睥睨したのだ。

 食われる!!

 捕鯨は命がけの戦いである。
 ただでさえ海という場所は死と隣り合わせであるというのに、人間を遥かに凌駕する巨大生物と対峙するのだからいつ死んでもおかしくはない。
 鯨に食われる、ということはない。
 鯱や鱶に襲われるのもないわけではないが、群れをなしている人間の船に海の殺し屋どもはまず近づいてこない。
 だが、今、ここで長い頸を伸ばしている生き物は確実に人を食らうであろうことが本能的に理解できていた。
 だから、食われる、のである。
 鵜殿の船団の全員に恐怖が伝染していく。
 腰が抜けて崩れ落ち、小便はおろか脱糞するものまででた。
 完全に伝染し終わったとき、男たちの魂は壊れ、弱い精神は砕け、なけなしの勇気は消え、あっというまに総崩れするだろう。
 そう思われたとき―――斜め右に位置をとっていた六番舟から放たれた銛が、巨獣の左眼に敢然と突き刺さったのである。

「おお、見ゆっと!」

 竜が痙攣した。
 そして、かすれ気味の咆哮をする。
 長い頸からの水飛沫が周囲に撒き散らかされた。
 ドス黒い血も降り注いだ。
 隙が生まれたといっていい。
 いつものように鯨が狩りの対象の場合であるならば、漁の継続よりも転覆した舟の救助を優先するのが掟である。
 対象の鯨を逃がしてしまうことによって、人を警戒する個体―――恨み鯨を放ってしまうおそれもあるが、なによりも人命重視が漁師たちの掟なのだ。

 しかし、今日は違う。
 目の前の竜は、猟夫たちを敵と認識しているようだった。
 狩りではなくいくさ。
 これは殺すか殺されるかの境地に至っていたといえる。
 それほどまで目の前の竜は凶暴そのものなのだ。
 戦わなければ殺される。
 だが、生物の血に慣れているとはいえ、彼らは兵士ではない。
 戦うためにもきっかけが必要だった。
 そのとき、

「かかれぃ! かかれぃ!」

 先ほどの銛を投げた六番舟の刃刺が刺水夫から受け取った銛を、まるで槍のように振り回した。
 これは捕鯨のための叫びではなかった。
 戦場で侍大将がやるべき鼓舞であった。
 怯懦を捨てよ、背を見せれば死ぬぞ。
 男はそう喚いてみせたのだ。
 この刃刺は、武士でもあったのだ。

「かかれぃ! かかれぃ! いかねば、死ぬぞ! 死にたくなければかかれぃ!!」

 刃刺―――権藤伊左馬が吼えた。
 竜のものよりももっともっと強かったかもしれない。
 だが、それだけで猟夫たちは奮い立った。
 血を流すにしても、それはこの化け物の血であって仲間たちのものにしてはならない。
 手に手に銛と剣を握り、猟夫たちは長く太い頸に挑みかかった。
 そして、人間たちと竜のかつてない死闘が始まった……

     ◇◆◇

 竜の体色は茶色から灰色、皺で波うった外皮はマッコウクジラのものによく似ていたが、そのどう猛さは比べものにならなかった。
 人からみれば狂ったかのように長い頸を振り、尾びれを叩きつける。
 何しろ大きいのだ。
 身じろぎするだけで脅威なのである。
 マッコウやザトウの倍はある広さの足びれを使い、海面に君臨し続ける竜によって水面は荒れ、舟先にたつことすらできなくなっていく。

「落ちるな、死ぬぞ!」

 水夫たちは舟が転覆しないように櫓で海面を押さえつけるのが精一杯であった。
 権藤のように銛を打って反撃するなど不可能。
 逆に竜は自在に動きまくる。
 長い頸を回し海上に君臨した。
 そして、自らの眼を奪ったものを本能で探し当てると目移りをせずに執拗に追い続けだした。
 他の勢子舟が邪魔をしても無視する。
 追うのは一つ。
 竜が睨み続けていたのは六番舟―――権藤伊左馬だけであった。
 狙いを定められたと気づくと、権藤は舵を握る艫押に、

「左側に回り込め! 奴の左目はもう使えん!」

 権藤にとってこれは賭けであった。
 彼が最初に刺し貫いた左目に突破口があると考えたのだ。
 鯨の生態がまだまだ解明されていない時代であり、太地の経験ある猟夫でさえ、未知の部分は存在している。
 その特性ゆえに意表を突かれて海で亡くなるものも少なくないのだ。
 権藤としてはその数少ない鯨の知識をあてはめてみるしかなかった。
 おそらく鯨とはまったく違う種の生き物だろうが、藁にもすぐる思いで対策をひねり出すしかない。
 この竜のごとき化け物が鯨同様に眼を頼りに敵を探っているのではなく、人知の及ばぬ能力を持っていないとも限らない。
 だが、それでもまだ運がいいと権藤は楽観していた。

(こいつは、潜らぬ。鯨とは違う)

 鯨は命の危険を感じると、すぐに潜行を開始し、逃げだそうとする。
 この竜のようにその場に留まって人間と争うなどという愚かな真似はしない。
 人間が舐めてはいけない危険な生き物だと本能的にわかっているのだ。
 だから舟をあえて襲うなど、子を失った母がなるうらみ鯨ぐらいしかいない。
 だが、こいつはでかい図体と恐ろしい貌をしているだけの、鯨よりもはるかに賢さのない野生の生き物でしかない。
 蜥蜴や蛇のごとき、知能のない生き物と権藤は決めつけた。
 真実は分からぬ。
 対格差からくる傲慢かもしれない。
 しかし、そう考えることで権藤に余裕が生まれてきた。
 時化が近づき、荒れていく一方の海の様子に飲み込まれることなく、なんとかこの窮地をくぐり抜けて生き残るという余裕が。

(体長はあるが、胴体が四枚の手びれに比べると小さい。あれだと海中での方向転換が容易だろう。つまり、泳ぎについては鯨よりも小回りが利くはずだ。餌としては魚を食っているのだろうが、鰓で呼吸する魚のように潜りっぱなしではいられないし、見たところ腹に浮袋も入っていない様子だ。つまり、こいつは海面に浮いたままで、わしたちを食おうとしておる)

 浮上したまま海面にその長い頸を出していてくれる方がまだマシといえた。
 つまり、急所をさらけだしていることだから。
 転覆した二艘には三艘の網舟が救助に向かっている。
 勢子舟はこの化け物の相手をするだけで手いっぱいなので助かったと言えよう。

 その中でも権藤は必死に艫押に指示を出し、水夫たちは櫂を漕いだ。
 竜の左側面に回り込み、羽矢銛を背負って構える。
 鍛錬ならば怠っていない。
 毎日千本近く案山子に向かって打ち続けてきた。
 足腰に関しては誰にも負けん。

 権藤は吠えた。
 釣られたように竜も咆哮する。

 胴体ではだめだ。頭部を。頭に突き立てねば。
 奮える限りの力を全身に滾らせて、強く拳を握りしめ、最高の投げを決めた。
 竜の側頭部、人であれば耳のある場所に銛が刺さった。
 銛に結ばれていた綱の先にある浮き輪が飛び上がる。
 これが回転し、長い頸に絡みついた。
 奇跡的な偶然だった。

 グオオオオ

 竜は巻き付いてきた綱によって身体の自由がわずかに奪われていたことを不快に感じたのか、左右に頭を振り、網をほどこうともがいた。
 本能的な動きのようだった。
 あれほど権藤の六番舟を目の敵にしていたのに、それさえも忘れてしまったかのように。
 権藤の目が光った。
 舟の態勢を維持するのは難しいが、この機を見逃すことはありえない。

「いまだおまえたち! かかれぃ! かかれぃ! この機を逃すなア!」

 権藤は莞爾と笑い、足元の銛を拾い上げると振り回した。
 残り五艘の勢子舟の猟夫たちも奮い立つ。
 死ぬことはもう頭に入れない。
 壮烈な権藤の戦いぶりに惹かれずにはいられなかった。
 鯨との生活のための狩りではなく、生き残るための、華々しく血を滾らせるための振る舞いに憑りつかれてしまったのだ。
 太地でも、鵜殿でも、二度とこんな化け物とやりあうことはないだろう。
 もう二度と海に出ることもないだろう。
 だが、ここで負けて殺されることだけは堪えられない。
 糞尿塗れのものたちでさえ、再び立ち上がる。

 猟夫たちは力の限り銛を握った。
 訳の分からぬ叫びをあげながら、悉く戦いに酔った。
 権藤に嫉妬していた弥多でさえもこの一瞬すべてを忘れて興奮に溺れた。
 竜にもし知性があったのならば、自分の胴体に槍衾のように突き立っていく銛の山に信じられぬものを感じたであろうであろう。
 餌に反撃されることなどまずない海の怪物だったのだから。

 巧妙に左に左に死角に動いた六番舟のせいで網舟がかけていた網の一角に手びれが絡みついてしまっていて、さらに身動きが取れなくなっていく。
 傷口から流れる血のせいで真っ赤に染まった海面に頭が垂れる。
 血の地獄がこの世に現出していた。
 いかに図体がでかくても、ここまで好き放題にやられれば弱ってくる。
 竜は完全に窮地に陥った。
 ほとんど動けなくなってきていた。
 そして、完全に停止した。

(やれるか?)

 権藤はこの場でどうすればいいのかを考え、またも賭けることにした。
 こいつには鯨と違って鼻切りをすることできない。
 ならば生物にとって致命傷を負わせる一手を打たなければならなかった。

「弥多! 逆からこい! 頸に飛び乗って脳に銛を立てる!」
「なんだと! 馬鹿な真似をすんな! わしは手伝わんぞ!」
「いくぞ!」

 一声喚くと、弥多の返事も聞かずに、権藤は大剣を握ると海へと飛び込み、竜めがけて泳ぎだした。
 あっという間に、動かなくなった竜の首にしがみつく。
 波状のひだがあり、ぬるぬると水苔がついていて気持ち悪い皮膚をしていたが、なんとか跨って、馬乗りになる。
 腰を激しく前後させて、徐々に頭部へと近づく。
 あと二尺というところでぶんと胴体が持ち上がる。
 竜は死んでおらず、気絶しただけだったのか蘇ったのだ。
 権藤は大剣を両手でつかんで荒々しく振り下ろした。
 刀身が半分まで突き刺さる。
 悪くない手応えだった。
 これで振り落とされない。
 なんだかんだ言って弥多も竜の背に飛び乗ったようだが、まだ距離があってこっちに追いついてくるのを待っている余裕はない。

「仕方あるまい!」

 腰紐に結わいてった小刀を引き抜く。
 鵜殿にきたとき、太地角右衛門からもらった権藤のただ一つの所持品だった。
 自分を助けた父への詫びの品だといっていた。
 肌身離さずもち歩いていた一振りを血を流し続ける竜の左目に再び突き刺した。
 鯨と違って、竜に瞼はなかった。
 ゆえに血と体液に塗れた眼球は無防備になっている。
 妙な感触が掌に残るが、刺しただけで終わらせず一気に拳で叩いて押し込む。
 鮮血と黒い脂が迸り、権藤の上半身をびしょ濡れにした。

 堅い反応。 

 それは頭蓋骨に達した手応えだった。
 びくんと権藤の股間あたりから竜の生命の最期の悶えを感じ取った。
 二波、三波と生命が途切れる震動がやってきた。
 最後に大きく痙攣をすると、長い長い蛇のような首が海面へと落ちて、一度だけ浮かび上がったがそれ以上動くことはなかった。
 静かだった。
 いつのまにか時化がやんでいた。
 もう暴風圏からは逸れていたのだ。
 そんなことにすら気が付かないほどの凄まじい死闘であった。
 黒い雲から差してくる美しい陽光を認めて、権藤は大きく息を吐いた。
 怠さのあまり瞼が閉じそうになる。

(首、獲らせてもらったぞ)

 満足であった。
 これ以上の戦いはこれから先もないかもしれないほどに。

(眠いな……)

 死力を尽くした権藤はふらふらになっていたせいで、股の下の血に滑って、竜の死骸から海へと落ちていった……
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