くじら斗りゅう

陸 理明

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くじら

恐貌 壱

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 その日は風も良く、海も穏やかで、絶好の船出日和のように見えた。
 鵜殿の捕鯨船団は陸から一里のところで沖待ちと呼ばれる鯨への待ち伏せをするために出航の準備をしていた。
 普段ならば、山見が鯨を見つけてから出航するところを、その前に停泊しつつ鯨を待ち構えるのである。
 船の数の少ない鵜殿では、時折天気の良い日を見計らって、このような沖待ちを行っていた。
 新興の鯨方の涙ぐましい努力の一つといえよう。
 日が昇る直前に、一番舟から続々と海に船を浮かべようとしているとき、勝太夫のもとへと一人の娘が近づいていた。
 お汐だった。
 息を荒げている。
 走ってきたのだろう。

「どうした、お汐」

 勝太夫には村長の娘というだけでとりわけ親しい間柄ではない。
 むしろ、すぐ後ろで四番舟の指揮を執っていた弥多が驚いた。
 幼馴染のそういう取り乱したような振る舞いをあまり見たことがなかったからだ。

「今日は沖立ちをしないほうがいいよ!」

 おかしなことをいう。

「何を言っている。よか天気だぞ」
「今日の海は荒れるよ、太夫様!」
「時化でもくるのか」
「うん!」

 嘘をついていないことがわかる真剣そのものの顔だが、勝太夫は笑い飛ばした。

「何を言っている。わしは産まれたときから海の傍で暮らしてきた。荒れるときはおおよそわかる。だが、今日はそういう潮の臭いはしないぞ」
「勝太夫さまがいうのはわかる。けれど、今日は出ない方がいい! きっと荒れるよ!」

 海の漢は逞しい眉をしかめる。
 胡乱に感じたのだ。

「何を言っている。例え、よほどの大時化が来たとしても、舟をださんほどのものじゃないぞ。わいつも知っておるだろうが、こういう日は沖立ちをして鯨を探さんとならん。わしらも遊んでいる訳にはいかんからな。いくら吉右衛門はんの娘の言うことでも聞けんことはあるぞ」

「だけれど!」

 そこに弥多が割って入ってきた。

「うるせえぞ、お汐」
「なんだ、弥多!」
「海に出るのはわいら鯨方の男衆の仕事だ。女のわいつが賢しげに口を挟むんじゃねえよ」
「わいつにはいうてない。うちは太夫にお願いしている!」
「男衆のやることにいやいやつけんな」
「だから……!」

 強引にお汐を押し戻し、突き飛ばさんばかりの勢いで遠ざける。
 若衆の中でもとりわけ大柄の部類に入る弥多にとってはたいした力もいらない。
 しかし、お汐は堪えた。
 眼に涙が滲んでおり、弥多は内心で思わず怯んでしまう。

「わいつには言うとらん!?」
「うるせえ、言うてんじゃ!」

 売り言葉に買い言葉。弥多は幼馴染の聞き分けのない態度に苛立ち、今度こそ本気で突飛ばしてしまう。
 後悔する間もない出来事だった。
 倒れ込むお汐を体で支えたものがいた。
 お汐の三倍はありそうな巨躯の持ち主にして鵜殿のもと武士。

「権藤さん!」
「なにをしている?」

 権藤伊左馬であった。
 砂浜で出航の準備をしていたところ、なにやら騒がしかったため様子を見に来たのだ。
 近づいてくる足音が波によって掻き消されていたため、誰も彼に気が付いていなかった。

「てめえ……」
「お汐。みな、出航の前だ。気が昂っている。邪魔をすると怪我をしかねないぞ。それにしても、いったいどうしたというのだ」
「……旦那、太夫に今日の漁は止めた方がいいと伝えてちょうだい」

 お汐は弥多を完全に無視して、権藤に縋りついた。

「お願い」
「―――どうしてだね? どうみても今日は絶好の漁日和だ。随分と遠くまで潮吹きが見えるから、いつまでも鯨を追える日だぞ」

 思った以上に優しい権藤の口調に勝太夫らが驚く。
 もう少し粗暴で荒々しい女あしらいをする男だろうという先入観があったからだ。
 権藤にしても忙しい時間になにを揉めているんだという呆れた気持ちはある。
 他の漁師たちもみなそう思っているだろうし、権藤からしてもお汐の言っていることは子供の駄々にしか思えない。
 ただし、以前に聞いたお汐の能力についてのことを思い出してみると、確認のために聞いてみようという気にはなった。
 もし、仮にあの話が事実であったのならば、酷い嵐が来るかもしれないのに海に出るのは危険すぎる。

「あたし、知ってんだ! こういう、潮の日はろくなことが起きないって。おとうもこんな日に海に出て死にかけた。こういう日はヤバいんだ! 海に出ちゃいけない!」

 聞けば聞くほど、女の激しい思い込みの産物としか思えない。
 本気であるのならばなおさらだ。
 だから、弥多は舌打ちをしながら、勝太夫とともに水夫を引き連れていってしまった。
 やっていられないという態度だ。
 その幼馴染の様子をお汐は寂しそうに見送った。
 昔から何度もあったことだ。わかってもらえないというのはこういうことであった。

「弥多のアホ!」

 背中に殴りかかりそうな勢いでの罵倒だったが、それを制したのは権藤だった。
 真正面からお汐を見つめ、

「わいつは、嵐が来るというのだな?」
「違うの、そういうんじゃないんだよ! いつもは時化なんだけど、今朝だけは違うんだ」
「……どういう意味だ?」
「さっき、海を見たら、ぱっとおっかないものが見えたんだ。大きくて長いもの。黒くて嫌なもの。あんなのが見えたら、絶対に海に出ちゃいけない。あたしは知っているんだよ!」

 言っている意味がわからない。
 だが、必死なのはわかる。

「大きくてでかいか。それは鯨のことだろう」
「違うよ。鯨ならあたしだって子供のころから知ってるよ。それじゃない!」

 まったくもって要領を得ないが、お汐がつまらない嫌がらせの類いで言っていないことは確かだ。
 勝太夫に警告を与えることぐらいはしてもいいだろう。
 彼女の言い分を全面的に聞き届けるだけの立場がまだ彼にはないのだ。

「勝太夫どのはもう沖に出る。弥多ももうすぐだ。わいつがいかに止めようとしてももう沖立ちはとめられん。諦めろ」

 勢子舟の一番から三番までは砂浜から漕ぎ出し、弥多の率いる四番船もでる寸前だった。
 権藤と喋るお汐に、弥多はもう見向きもしない。
 何かに怒っているのは明白だが、それに気づくほどの余裕はお汐にはなかった。
 男の嫉妬が弥多を意固地にさせていただけなのだが。
 権藤の胸を叩き、

「でも、本当におっかないものが……!」

 その手を受け止めた権藤が諭すように言った。

「いいか、わいつも知っているように鵜殿の船団は人が足りん。何かまずいことがあったら困ったことになるだろう。―――だが、例えわいつの言うようにでかい恐ろしいものが出たとしても、この海にはわしがおる。わしがおるぞ」
「権藤さん……」
「まあ、みておれ。多少の面倒などわしがなんとかしてやる」

 そういって、権藤は自分の舟へと歩き出した。
 お汐はその背中をじっと見守っていた。

     ◇◆◇
 
 陽は高く、熱く熱く肌を焼く。
 雲一つない蒼穹に吸い込まれるようだ。
 眼下に広がる大海原も空と同様に広い。
 天も海もすべてが抱きかかえられないほど大きく、誰の眼にも収められるほどに小さい。
 そんな不思議な錯覚に囚われそうだった。
 十隻の漆塗りの舟はすでに海上を弧状に散開し、列の中央には目立つように突出した一番舟がついていた。
 舟に乗る猟夫のことを沖合衆といい、一隻につき十五人乗り込んでいる。
 さらに、反りのついた長く黒い舳先に立つ、男が一人。
 赤銅色に焼かれた肌と、太い四肢、それを支えるのに相応しい分厚い胸板を持った巨漢であった。

 男は刃刺頭。
 それぞれの舟の舟長を刃刺といい、海の上でも陸の上でも長として振る舞うことが許される、男たちである。
 中でも勢子舟に乗って直接に挑むことになる七人の刃刺は別格扱いされていた。
 彼らを束ねるのが、筆頭刃刺でありこの十隻余りの船団を率いるものであった。
 沖立ちをはじめてしばらくして風が強くなりだした。
 波も激しく舟に打ち込み、水夫たちに飛沫がかかる。
 このままでは漁が始まる前にぬれねずみだ。

「まさか、あれからこんなに荒れることになるとはなぁ」

 半刻前には想像もできなかった変化だった。
 勝太夫の脳裏に先ほどのお汐の懇願が浮かんだ。

(そういえば吉右衛門はんは山見だった。最初は和田のお家のものだからだとばかり思っていたが、案外肌の敏い見張り役であったな)

 吉右衛門は眼がさほどよくないかわりに、肌で風の動きを感じ取れる稀有な山見であった。
 ただし、山見に必要なのは鯨をみつける眼力であり、それが吉右衛門には足りなかったゆえによい役割にはつけなかった。ということになっている。真実はわからない。

(もしや、吉右衛門はんの眼は娘に受け継がれたか。となると、これからもっと荒れるな。わいにはわからんが嵐になるかもしれん)

 山見を止めて鵜殿の村長にさせたのは、もしかしたら角右衛門どののしくじりであったかもしれない。
 勝太夫は船団を率いる沖合いとして、ここは漁を止めるべきだと判断した。
 二番舟と三番舟に集合の旗を上げようとしたとき、ほら貝の鳴り響く音が聞こえてきた。
 切り立った崖の上にいる山見番からの合図だ。

(でてしまったか。ならば、しかたねえな)

 西に獲物がいると旗の色で山見番が伝えてきた。
 遠眼鏡をつかっても黒いしみにしか見えない獲物を教えるためであり、同時に一番の勢子舟からもほら貝が鳴る。
 勝太夫は指図した。
 あの旗の色や種類で今回の獲物がどのような種類なのかを教え、それをみて最適な鯨狩りを行うのがここの浜のやり方であった。

 ただ、今回ばかりは普通ではない。
 なぜなら、揚がった旗が黒一色であったからだ。
 滅多に上がらない、ある意味では降参という意味の旗だった。
 つまり、「わからない」ということである。
 山見番が見つけた獲物がどんなものなのかはわからないなどということは普通あり得ない。
 彼ら山見番は事情によって船に乗ることができなくなったものが就く場合が多く、それだけ鯨にも詳しい。
 上から見下ろして種類が分からないということはまずないはずだ。
 おそらく鯨特有の潮を吹くいわゆる潮煙がないのが判別に手間がかかっている原因なのだろう。
 潮吹きには鯨の種類によって様々な特徴があり、それと大きさ、速度を加味して特定をする。
 だが、今日のこいつに限っては潮を吹く気配すらない。

 まったく鯨らしくないのだ。

 ただし、船乗りたちはそういうこともあると判断した。
 実際に、艫の先には獲物―――巨大な海棲生物が泳いでいる。
 感覚でわかる。
 ならば、臨機応変に行こうではないか。
 飾りからわかる情報では十二から十三間(約21から23メートル)であるということだ。
 大きさからするとザトウクジラかマッコウクジラの可能性が高い。
 マッコウクジラならばこの天気においても狙うべき獲物といえた。

 九月下旬から十二月にかけて南洋に向かう途中に熊野近海を通過するセミクジラやマッコウクジラを「上り鯨」といい、南洋に向かったその鯨が三月から四月にかけて戻ってくる場合を「下り鯨」という。
 紀伊半島での捕鯨の期間は九月から翌年の四月あたりが主となる。
 他の鯨組ではそれ以外の期間は通常の魚を対象とした漁を行うが、鵜殿においてはそこで新田の開墾が推奨されていた。
 熊野で獲れる鯨はいわゆる「熊野六鯨」と呼ばれ、シロナガスクジラ、ナガスクジラ、セミクジラ、ザトウクジラ、マッコウクジラ、イワシクジラである。
 そのうち、ザトウクジラとイワシクジラは網捕り法以外で捕殺すると沈下して回収できないため、鵜殿では狙うことはせず、シロナガスクジラとナガスクジラは巨大すぎて危険ということで目標からは外していた。
 今の時期だと、おそらくセミクジラだろうと鯨捕りたちは予想していた。
 これまでの経験上、マッコウクジラはあともう少し暖かくならないとやってこないはずであるから、セミクジラということに仮定してだいたいの示しを合わせる。

 浜にも旗が上がった。
 村長である和田吉右衛門からの「漁をはじめろ」という指令だった。
 大納屋、鯨始末、採油などの後処理の係の支度も整ったということである。
 そこから、はじめて漁が始まる。
 あとは、彼ら猟夫の領域だ。

 勢子舟、網舟が連絡を取り合い、仲間の動きを観察しながら、水軍のように臨機応変に呼応して連動する。
 まず動くのは、網を張る網舟である。
 これが獲物を捕えるための網を打合せ通りに広げていく。
 鵜殿では数が足りないゆえにここの見極めは慎重だ。
 銛投げだけでは追いつめられない鯨でも、網でがんじがらめにできれば泳ぎが止まる。
 そうすれば捕獲の確率はぐんと上がるのだ。

 次に勢子舟が続いた。
 鯨の通路にあたる地点で張り番をし、鯨を待ち受け、発見すると接近し、追走する。
 鵜殿の勢子舟は七隻。まだまだ通常の半分以下の数しか揃っていない勢子舟だが、そのぶん訓練を重ねて技量は高く、連携もよく取れている。
 刃刺としては経験不足の四番舟から七番舟の男たちの立場からしても、よく鍛えられているといえよう。

「前を塞げ!」

 二番舟と三番舟が鯨を追い越して、進路を遮る。
 距離の詰め方が絶妙であった。

「やっと、でてくるぞ!」

 海面に渦を生み出し、長い潜水をやめて獲物が浮上した。
 黒々とした胴体―――背中がわずかに水面からでてくる。
 鯨も生物であるため、呼吸のために二十分に一度ほど浮上しなければならない。 
 この瞬間を銛で狙うのが基本であるが、今回の獲物は信じられないほど呼吸をしない珍しいやつであった。
 もおじと呼ばれる呼吸のための水泡がほとんど見つからない。
 十二から十三間の巨体だと一回の呼吸だけで大量の空気を吸わなければならいが、ここまで耐えるものは滅多にいないだろう。
 まるで鰓で呼吸をしているかのようだ。
 随分と珍しい鯨だ。
 いつものやり方が通用しない。
 それでも勢子舟の頭である勝太夫は一投目を的確に命中させて、鯨を網へと追い込まなくてはならない。
 判断を誤れば逃げられる重要な役回りである。
 並大抵の胆力では務まらない。
 海面が揺れた。
 浮き上がってくる。

「なといせ!」

 浮上してくる獲物を睨みつけていた漁師たちは目を丸くした。
 もおじがでたが、それは彼らが視界に入れていた胴体よりも15尺ほども前方であった。
 まさか大きさを見誤ったのか。

 頭上に巨大なものがさしかけられた。
 誰もが鯨の手羽かと思った。
 だが、手羽にしては長くそして振り下ろされない。
 鼻腔に奇妙な臭気が潜り込んできた。
 鯨のものとは違う。
 吐き気のする深海からの匂い。
 例えるのならば腐った死骸の死臭。
 その臭いの元は水夫たちの頭上にあった。

 なんだ?

 この海上にいたすべての猟夫たちが思わず天を見上げた。

 悪鬼の如き貌がそこにあった。
 
 十五尺(約5メートル半)以上の高みに。

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