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くじら
喧嘩
しおりを挟む鵜殿は、河口の鵜殿村との区別をつけるため、今はまだ「鵜殿」とだけ呼ばれていた。
もしくは「新しい方の鵜殿」。
もう少し集落としての形が定まれば、新宮藩の許可を得て別の名をつけられることになっているのだ。
村長は、和田吉右衛門。
和田一族の息子の一人だったが、本来ならば後を継ぐこともできなかったにもかかわらず鵜殿の村を任されたのは幸運と言えた。
吉右衛門は精力的に働き、数年で太地の村では将来がないと目されていたものたちを選抜し、新しい鯨方の組織を作り上げた。
権力者となりつつある角右衛門が後ろにいたとはいえ、一から組織を作るのにはやはり相応の苦労があっただろう。
漁に欠かせない勢子舟も決して安くはない買い物であり、角右衛門と藩からの支援の下、なんとか形ができたのは約三年後。
規模は太地とは比較にならないとはいえ、それなりの捕鯨量が確保できたのは成立から五年後のことであった。
鵜殿は村長のほかに、七人の刃刺による合議によって漁の方向性が決定されることになっているが、実際には筆頭刃刺の勝太夫と親父たちの意思によることとなっていた。
陸の上での出来事は山見棟梁の山旦那の勘助、台所方の宗次に決定権があり、最終的に吉右衛門が決めるという構造である。
ただし、太地の村のように完全な独立はなく、新宮藩の意向におおかた左右されるという点では不自由極まる運営であったとも言えよう。
刃刺の中では一番舟の勝太夫がもっとも発言力があり、他の刃刺はほぼ横並びの扱いであった。
ただし、もと武士である六番舟の権藤伊左馬だけは、ある意味では支配階級側からの監視的な役割を与えられていた。
形の上では。
権藤伊左馬が常日頃から生まれも育ちも鯨捕りの家系に生まれたもの以上に捕鯨に熱心であることから、そのあたりのことは忘れ去られがちではあったが。
朝の漁がなかったことから、いつものように銛の鍛錬に出ようとした権藤は、村の奥に開墾された畑に行こうとする勝太夫と偶然出会った。
鵜殿のものは、漁師であったとしても時間があれば村の畑の手伝いをするように習慣付けされていた。
沖合衆の家のものも猟夫が漁に出たら、野良仕事をする決まりである。
「権藤はん。今日もかね」
「わしは勝太夫どのたちと比べて経験が足りないのでね。一回でも多く投げておきたいのさ」
「あれだけ銛を打てれば十分な気はするがな。あんたほど早矢銛をまっすぐ打てるものは太地にすらいなかった」
「いや、勝太夫どのほど狙い通りにはいかぬ。あれでは銛打ちだけで大物は仕留められん。この村ではまだ網捕りが使えんから、もっと銛で勝負できるようにならんといかんだろう」
「なに、村の引き回しはうまくいっている。あんただけではなくて、弥多も森蔵も若いくせにいい刃刺だ。きっと先もあるさ」
勝太夫だけは、もともと太地でも捕鯨の戦力として数えられていた名人だった。
ただ、やや酒癖と女癖が悪いせいで問題ばかりを起こし、村にいるのがいたたまれなくなったからこちらに移ってきたという過去がある。
体のいい追放であるから、当初はくさっていた。
もっとも新天地ではやらなければならないことが多く、まったく暇を持て余すことがないうえ、環境が変わったことから生活習慣も変わり、太地での生活とはまったく違った結果、人が変わったように頼れる男になっていった。
肉体を持て余したときの畑仕事のおかげもあってか、酒はとにかく女遊びが極端に減ったからであると評価されていた。
彼自身、そんな自分が気に入ってしまっていた。
「どうだ、どうせ侍は捨てたのだろう。土いじりでもやらないか」
手にした鍬を掲げる。
わき目もふらず働くことは悩みを忘れるのに効果的だ。気分転換にもなる。
権藤は首を横に振った。
「銛も半人前なのに、またぞろ新しいものに手を出しては生半可になる。少なくとも、わしはみなが驚くほど大きな獲物を仕留めてからでなければ他のことはできん」
勝太夫からすれば、権藤の銛裁きは十分すぎるものであるが、なまじ武士あがりというところから必要以上に生真面目になってしまっていると睨んでいた。
鯨漁は命がけの仕事だが、だからといってそこまで思い詰めるほどのものではない。
まだ若いからこその深刻な悩みになってしまうのだろう。
鯨漁夫は肉体的にもきつい職業であるから、むしろ年のいった勝太夫の方が将来に不安があるということを教えてやりたい気分になった。
「なあ、権藤はん」
口を開いたとき、
「太夫、勝太夫!」
彼らの名前を呼んで、走ってくるものがいた。
一番舟の水夫の一人だった。
「どうしたい?」
「妙なやつが村のことを探ってやして。今、弥多が相手してまさ。ちょっと来てくだされ」
「なんじゃ、そりゃあ」
勝太夫は権藤に目で合図をして、水夫が指さす方向へと走った。
まだまだ出来立ての村だ。
もめごとの種は山ほどある。
よそ者とのぶつかり合いもしょっちゅうだ。
その度に村長の吉右衛門と勝太夫、そして山旦那の勘助は常に走り回ることになっていた。
今度もそういう面倒ごとかと考えて行くと、すでに乱闘が始まっていた。
劣勢なのは見覚えのある顔だった。
四番舟の刃刺である弥多とその郎党である。
数は多く、七人ほどいるのだが、四人ほどの相手方に押されている。
どちらも海の男らしく赤銅色に焼けた肌をしているが、体格の良さではやや負けていた。
「何をしてやがる!」
年季の入った勝太夫の怒鳴り声に、周囲のものたちは慄いたが、よそ者らしい四人は一瞥をくれただけだった。
むしろ、口元を不快そうに歪ませて、嘲っているようにさえ見える。
「なんじゃい、わいつら、よそ者がいるからといって絡まれる覚えはない」
「そうじゃそうじゃ。もとはと言えば、このチンケな村のわいつらこそよそ者じゃねえのか。つい最近やってきたもんらが、でけぇ顔すんな」
「やるんか、というからやってやっただけじゃあ」
一人が口を開くと、他の三人も追随する。
「弥多、どした。なにがあった」
「こいつらが……」
弁明をしかけたが、勝太夫の後ろにいる権藤に気がつくと止まった。
それでそっぽを向く。
権藤の前でだけは言い訳がましいことを言いたくなかったのだ。弱みといってもいい。それだけ弥多の権藤への競争意識は強いものだった。
「なんだ、言えや」
「すんません」
人数的には鵜殿側の方がはるかに多いが、状況がわからないうちは手を出すわけにもいかない。
鵜殿の若衆たちに非がないとも限らないからだ。
しかし、本来ここで自分たちが正しいという口上を述べるべき立場の弥多がじっと黙っているので勝太夫もどうにもならなかった。
埒が明かないので、仕方なく相手方の四人を見ると、かなり強い目つきで周囲を威嚇している。全員が腰に古い刀らしきものをぶら下げていることに気が付いた。
「わいつら、もしや……」
「わいらが何だって言うんや。ん、この刀か? 熊野水軍の裔が刀を持ち歩いてちゃあ、悪いことでもあるんか? それに、だ。まだまだ村の体裁もととのっていねえこんなチンケなところは天下の往来と変わりゃしねえ。そこを歩くのにいちいち行儀がいるんかあ! なあ、鯨捕りさんよ!」
わざと周りを煽るような大仰な物言いは、何かたくらみがあるとしか思えない。
偶然やってきたような言い分だが、明らかに何かをしようとしているのだ。
とはいえ、すでにひと悶着起きてしまっている。
勝太夫としては吉右衛門が来る前にこれ以上問題を大きくはしたくなかった。
だが、四人は挑発を止めようとはしない。
「なんとかいったらどうだ、おい」
「そうだそうだ!」
「腰抜けかよ、わいつら!」
すると、一人の男が進み出た。
「熊野水軍の裔だと……そんなものがまだおったのか」
権藤伊左馬であった。
いきなり割って入ってきた規格外の巨漢に四人の表情がやや硬くなった。
じろりと睨みつけ、
「いまじぶん倭寇崩れとは珍しいな。仕事の下見にでも来たのか。言うておくが、ここは紀伊新宮藩の直轄地だ。海賊ごときが手を出せば奉行所と藩士がいつまでも付きまとうぞ。最期には獄門送りだ」
「……わいらは海賊じゃねえ。いいがかりはよしてもらおうか」
「嘘をつくな。目を見ればわかる。わいつらはただの人殺し、血の臭いのする野良犬だ。おおかた、弥多たちを適当に怒らせて村の反応を見るつもりだったのだろうがそうはいかん。さあ、とっとと帰れ」
権藤が邪魔な犬を追い払うように手を振った途端、海賊と呼ばれた男の一人が刀の柄に手をかけ引き抜いた。
慣れた動きだった。
「抜いたな」
それに対して、権藤は小さく呟くと、刀を握った手首を左手で掴んだ。巨漢に似合わぬ素早さであった。掴まれた側も突然手の自由が奪われたとしか思えなかった。
そして、そのまま引き付ける。
とてつもない膂力に抵抗できず目の前に権藤の顔が近づく。
顔面を右の拳で力任せに殴り飛ばされ、男の足の裏がわずかに浮いた。
あたりどころが悪ければ死ぬ一撃であった。
「なっ!」
残りの三人も刀を抜こうとする前に、一人は仲間を吹き飛ばした手の裏拳で顎を壊され、もう一人は鳩尾に逞しい右足の膝をぶちこまれる。
なんとか得物を抜いて戦いの態勢をとった最後の一人も、振りかぶる前に顎を壊された仲間の身体を思いっきりよくぶつけられて、姿勢を崩した途端に接近した権藤の意表をついた頭突きをくらわされて意識がとんでいく。
水軍の裔を名乗る全員がうめき声をあげて地面に横になった。
時折痙攣する以外、ピクリとも動かない。
あっという間に四人の男が行動不能に陥ったのである。
それでも権藤はとどめを刺すかのように踏みつけようとした。
不動明王もかくやという苛烈さであった。
「おいおい、権藤はん……」
周囲が遠巻きに凍ったように見守る中、勝太夫だけがなんとか動けた。
海と陸との違いはあれ、修羅場を潜り抜けた経験のおかげだった。
なんとかして権藤を止めるために肩を叩いた。
「武士なら刀を抜けば切腹を覚悟せねばならんところだろうが、こいつら、ただの破落戸だ。今日のところは勘弁してやってくれよ」
「―――それもそうだな」
それを合図にしたかのようにもと武士は動くのを止め、振り上げた足を降ろした。
権藤伊左馬は、やられた四人の側からすれば、まるで人間の形をした嵐のような男であった。
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