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くじら
お汐
しおりを挟む夜のとばりはおりていた。
セミクジラの血の臭いがまだ漂っている鵜殿の砂浜を権藤は歩いていた。
結局、解体にはいつもよりも時間がかかり、日課となっている銛打ちの鍛錬をしている時間はなくなった。
夜には鍛錬しないことにしていた。
月と星灯りの下でする夜狩りは捕鯨ではない。
ただでさえ危険な鯨漁を夜の海ですることは馬鹿げているからだ。
どんなにクジラに対して優勢であったとしても、日が暮れたら狩りを中止するというのが通常の方式である。
わざわざ夜に銛の鍛錬をする必要はないということだ。
権藤はそれでもやってよかったのだが、さすがに昼の漁で疲労困憊していたこともある。
大物解体後に振る舞われた酒に酔っていたのもあった。
たまにはあてもなく散策するのもよいだろう。
「ん?」
草鞋を履いていない素足の裏に何かを踏んだ。
しゃがみこんで砂をかいてみると、肉の塊らしきものが埋まっていた。
鮮度からするとさっきの鯨の一部だろう。
水揚げしたときに落ちたにしては手ごろな大きさだ。
「壮吉さんのとこの子供が隠したのよ」
「お汐か」
大納屋の裏手で鯨衆のためにずっと汁を作っていたため、昼間は顔をみせなかったお汐がやってきた。
姿を見つけて後をつけてきたのであるが、当の権藤は気がついてもいなかった。
「なといせ、童が肉を隠す?」
「食べるためでしょ」
「割り当てでない肉を持ち出せば盗みだぞ。村で獲った鯨のものを盗めば、子供と言えども罰を受ける。手首を斬り落とされるだけではすまん」
「いいところじゃなくて、捨ててもいい端肉程度ならけっこう番士も見逃してくれるのよ。壮吉さんとこはおかみさんが病で動けないし、みんなそのことはよく知っている。だから、砂に落ちてどこかにいってしまったということにすれば、ならしょうがないってなるさ」
「わしにいえば割り当てをくれてやる」
「そこがお武家さまあがりの権藤の旦那とうちらの違いだよ。鯨捕りは乞食じゃないんだ。お恵みをはいはいとはもらえない」
同じ鵜殿のものではないかとは思ったが、それ以上は口にしなかった。
食うために苦労しているものと権藤は違う。
身分制度の枠の話ではなく、生き方の話だった。
権藤は飯を食うために生きているのではないが、それが武士であったものの傲慢であるというのならばそうかもしれない。
鯨捕りをしていたいだけの権藤に、必死になってごみのような肉を盗む人々の気持ちは推し量れなかった。
「おいでよ」
お汐が手招きをすると、薄汚れた子供が近寄ってきた。
見覚えのある子供だ。
そういえば海の水を汲んで鯨の血を流す作業をもくもくとやっていた記憶がある。
あのとき、桶の底にでも肉を隠してばれないようにここらに埋めたのだろう。
「埋めたのはいいけれど、夜だからね。見つけられずにべそをかいていたのさ」
「……わしが運よく見つけなければ朝まで探していたのか」
「だろうね。それだけで一家が二日は食えるから」
子供はお汐はともかく権藤は苦手のようだった。
途中から近づこうともしなくなった。
小さなものは、意味があろうとなかろうと最初のうちはでかい生き物を恐れるものである。
座り込んでいてさえ、その目線が子供よりも高いうえ、元武士という素性は知れ渡っている。
警戒されて当然だろう。
「ほれ」
権藤は無造作に肉の塊を差し出した。
砂は払ってある。
眼を合わせないようにそっぽをむく。
気遣われたことは子供なりにわかるのだろう、
「あ、う、う」
どもりながら、子供は何かを言おうとしたが、しばらくして意を決したのか、震えながら黙って肉を受け取った。
権藤からすれば掌に収まる程度だが、子供にとってはそれなりの大きさだ。
「懐に隠しな。もし万が一にでも大人に見つかったら殴られるよ」
肉を仕舞う鼠のような動きは微笑ましかった。
思わず権藤の口元に浮かんだ男らしい笑みに子供が気づき、にっと返してきた。
鼻水を垂らした汚い小僧ではあったが、それはそれなりに心が温かくなる、いい気分にさせられる。
帰り際に何度も振り返り、手を振ったり、頭を下げたりしながら子供は夜の奥へと消えていった。
そこには彼の家族が待つ家があるはずだ。
権藤にはもうないものだった。
「お武家様もやるものだね」
「わしはもう武士じゃない。わしの家は十歳のときに潰れた。それ以来、浪人のままだ。しかも、鯨漁師になることになってからは士籍すら削られるかもしれん。そうなったら、もう二度と武士になど戻れん。まあ、そのつもりもないが」
「どうして潰れたのさ?」
口さがない部類の質問だった。
偏屈な浪人相手なら切れられていてもおかしくない。
だが、権藤にはどうということもない内容だった。
お汐に背を向け、昏い海を眺めながら、
「わしの親父どのは、太地付きの小役人でな。ご家老の意向をそれとなく太地の角右衛門殿に伝えたりするお役についていた。使い走りみたいなものだ。もともと三輪崎の出身で、それなりに捕鯨に詳しいことから押し付けられた役回りだったらしい」
「角右衛門さまと旦那の親父様が?」
「武士としてはそこそこうまく立ち回っていたそうだ。わしもあの頃は家が潰れるとは欠片も思うておらんかった」
悲劇が起きたのは、権藤が十歳になったときだった。
当時、試行錯誤の結果網捕り捕鯨を考案し、鯨方の経営が軌道に乗り始めた角右衛門を刺客が襲った。
のちに判明した相手は、もともと熊野水軍にいたものの子孫で、諸国をめぐって凶状働きばかりをしている破落戸だった。
新宮の城下町に行く途中、珍しく陸を歩いたときに狙われたのだ。
そこに居合わせたのが権藤の父であった。
角右衛門の命こそ救ったが、その際に持っていた献上品の最上鯨肉をすべて奪われてしまう。
もともと角右衛門の命よりもそちらが狙いだったのだと後に噂された。
なぜなら、最上鯨肉は京の御所にも贈られる価値の高いものだったからである。
それを不覚にも賊に奪われたということで、角右衛門を救った功績は無視されて、酷く激しい非難の挙句、権藤の父は責めを負い、切腹を申しつけられた。
理不尽な沙汰だと抗議をしようとしたために母親は捕らえられ、牢内で病によって倒れて死んだ。
さらに権藤自身も、母の抗議が没義道だといういいがかりめいたことを擦り付けられ、またたくまに家までも潰された。
嫡男の伊左馬がいながら、十歳の彼の家はとり潰されたのである。
「お殿様もおかしなことなされるのね」
「知らん。長じてから、裏の流れを教えてくれたものもいたが、わしにはどうにもならんよ。まあ、それでもしばらくは剣術の道場には通わせてもらったが、なにせ浪人。金がない。その日暮らしを何年もしていた」
そして、ある日。
彼を訪ねてきたものがいた。
太地角右衛門だった。
新宮藩の役人も一人連れてきていた。
「角右衛門どのはな、わしに鯨猟夫になれというのさ」
「まだ武士だったのに?」
「要するに、鵜殿で捕鯨をはじめて、裏に田んぼを作って開墾した新しい村を起こしたいという話だった。そこは、三輪崎よりもずっと藩の息が強くかかったものにしたいということで、中心にもと元藩士を据えたいのだという。それでわしが選ばれたと言われたのさ」
「……もしかして、それって」
「角右衛門殿の親父殿への償いだろう。今更とは思ったが、そのころはあの御仁もちょうど忙しいころだ。例の九十六頭が釣り上がったころだからな。色々と派手に遊び暮らしながらでも、親父殿のことを頭の端に覚えていてくれただけでもましだったろうさ」
この頃の鯨分限としての角右衛門の豪遊ぶりは歴史に残るものであった。
なにせ、金があって仕方がない。
湯水のごとく湧いて出るのだから。
もっともそれを使って次の商売につなげることすら本来ならば並大抵の苦労ではない。
遊びの範疇ですら真剣勝負だったと言ってもいい。
ただし、その中でも角右衛門は大庄屋として新しい民の食い扶持を探りつづけていたのである。
「それから鯨漁を始めたのに、よくあんなに銛打ちが上手くなったもんね」
「なに、たまたまだ」
腕前について褒められるとにやついてしまうのが、なんとも調子に乗りやすい男であった。
「あとはお主の知っている通りよ。ちぃとばかり船乗りの鍛錬を積んだ後に、角右衛門どのが選んだ鯨衆とともに新しい鵜殿のためにやってきたというわけだ」
お汐は少し複雑な気持ちだった。
武士と漁師という身分の違いこそあるが、ここにやってきた事情は権藤とあまり変わっていない。
彼女の父親の和田吉右衛門はもともと山見だ。
和田家の四男に生まれたが、身体が弱く沖へ出られないうえ、理由があって山見になった男である。
太地では使えない部類に含まれてしまう男で、きっと棟梁の山親父にはなれずに終わるだろうと目されていた。
見目整った美貌のお汐はそのうちに村の有力者の子息にでも嫁ぐことになっていただろうが、それはなんとなく嫌だった。
太地の男たちが父を扱う態度が嫌いだったというのもある。
だから、角右衛門の誘いにのって、海のものとも山のものとも知れない新しい村を作るという言葉を信じ、父親とともに移り住むことにした。
太地に比べれば質こそ悪いが、色々と固まっていない新しい村での暮らしはまだましだと考えたこともある。
なんにせよ、そんな成行きでもお汐自体は満足していた。
きっと目の前の大男もそうだろう。
由来は違えども、鯨漁が好きになり、銛を打つことだけを考えているような偏屈のくせになんとなくふわっとした怖さのある、得体のしれぬ男。
お汐が初めて見る種類の男に激しく惹かれているのは事実だった。
「……時化がみえるんだ」
お汐はぽつりと呟いた。
権藤は応えない。
「おとうの血なのかな。うち、海が荒れそうなときがわかるんだ。空にぼうっと流れが見える。これまでに何回か見て、その度に嵐が見えた。大きな奴じゃなくて、小さな、黒い点みたいな嵐が」
「それは凄いな。時化の予兆がわかれば、船乗りの助けになろう」
「おとうはそれがわかるから、船乗りにならなかった。村のみんなは荒れるのが分かっていても漁に出なくちゃならないのに、おとうはどうしても嫌がった。怖かったんだろうね。だから、漁夫の子なのに海に出ずに山見になったの。でも、そんな腰抜けは漁夫には嫌われる。だからおとうは太地では臆病者扱い。和田のお家の出だけれど」
「吉右衛門どのは村長であるし、山見を仕切る山親父の勘助も率いておるからな。文句を言うものは誰もいまい」
「ここでは昔のことはあまり口にしないように皆が気をつけているからね。でも、太地の生まれの人は陰で言っているよ。権藤さんには聞こえないだけ」
「わしなどはもっといろいろと言われておる。面と向かって罵倒されても蚊に刺されたよりも気にならんがな。―――よし、いざとなったら、わいつも親父様ごとわしの後ろにくればいい。さっきの童の鯨肉のように隠してやるぞ」
お汐の何かが止まった。
目の前にあるのは、ひと際大きな壁のような背中。
ああ、この人の背中にならだれでも隠れられる。
お汐は心の底からそう思ったのであった。
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