くじら斗りゅう

陸 理明

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くじら

五節句 重陽のお祝い

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 紀州藩は五十五万五千石。
 藩主は徳川御三家の一つ、紀州徳川家。
 石高には御附家老の水野家の新宮領も含まれている。
 もともと駿府藩主だった徳川家康の十男・徳川頼宣が浅野の旧領に南伊勢を加えた五十五万五千石で入部したことで成立した藩である。
 頼宣は紀州大納言と呼ばれ、自らを南海の竜と称し、慶安四年(1651年)の慶安の変ではその首謀者・由井正雪との関係を幕府に疑われたこともある。
 慶長七年に産まれ、関ヶ原の戦いを子守歌の代わりに聞いて育ち、大坂の役にも参加した、戦国の世に遅れてきた野心ある若者だからだったのであろう。
 力があるのに発揮できなかった悔しさが常に滲み出ていたとも伝えられている。
 その頼宣以降、紀州徳川家は御三家として尾張徳川家とともに虎視眈々と次の将軍の座を狙い続けていくことになる。
 その御附家老である水野家の当主は水野土佐守重上しげたかであった。
 一万石ありながら、大名としては認められぬ男であった。

 彼が大名と同じ立場で江戸城に登城することが許されるのは、年頭と五節句、月並みの登城日だけであった。
 五節句のうち、九月九日の重陽のお祝いには、各諸侯がそれぞれの家のお宝を持参して将軍や御台さまの上覧を賜ることになっている。
 各家の門外不出の品が展覧会のごとく現れるため、江戸城の重臣や大奥の女たちまで陪観の栄に浴するという行事であった。
 もちろん、幕府の威を天下に示すためのものであるが、大名たちからすれば他の者どもに先んじる機会でもある。
 この機を生かそうとするものは少なくなく、国宝級の刀剣や、物珍しい石、古く由緒ある茶器などがぞくぞくと上覧されていった。
 大名のみならず、普段は登城もならぬ陪臣までが将軍のおほめにあずかろうと貴重なものを差し出すこともあるほどであった。

 このとき、貞享二年(1685年)。
 御三家となる紀州徳川家二代目である光貞は七十代の高齢のため登城することができず、また、一子綱教も長い病がどうしても癒えずいったん国許に戻っていたため、殿様の代理として御附家老である水野家の当主水野土佐守重上が名代として参上することになっていた。
 五節句の日まで紀州徳川の御附家老として登城することになったため、いつもの彼ならば内心忸怩たる思いを抱いていたであろうが、今日だけはやや違っていた。
 重上は書院の端から膝行していく。

「紀州徳川藩綱教さまの名代として参上仕りました。御附家老水野土佐守重上でござりまする」

 将軍の横にいた老中が言う。
 陪臣ごときに真っ先に上様が口を開くなどということはあり得ない。

「この度は紀州藩からではなく、新宮藩からのお宝ということでございまする」
「ほお、それはなんじゃ」

 重上の供をしていたものどもが、そそくさと台に乗った黒いものを差し出した。
 石ではなく、かといって金属のようなものではない。
 随伴した家臣が一人で軽々と運んでいたことからも重さはそれほどでもなさそうだ。
 将軍綱吉の好奇心がほどよく刺激される。
 古今の名品とはいえいつもいつも同じものばかりでは飽きが来る。たまにはこういう趣向をかえたけったいなものも面白い。

「竜涎香でござりまする。しかも、この世でももっとも巨大なマッコウクジラからとれたばかりのもので、さまざまな効能もあり、将軍家に贈るに相応しいものかと」

 綱吉は少し意表を突かれた。
 この年の七月十四日、綱吉は後に生類憐みの令と呼ばれることになる一連の通達の第一号を発布していたばかりである。
 それは、

「先日も申し渡したように、御成遊ばされる道筋に犬や猫が出てきても苦しゅうないから、どこへ御成なさる場合でも、犬猫をつないでおかなくてよろしいぞ」

 という指示であった。
 これは将軍の行列の間、犬や猫が迷い出てくるのは非礼であるとあらかじめつないでいるようだが、苦しゅうないので放しておいていいぞ、という通達であり、この直前に「馬の筋を伸ばすことを禁じる」という禁令、そしてすぐ後の11月には「城内の厨房での鳥・貝・海老の使用を停止する」という指示を立て続けにだしていた。
 綱吉は、これによって「仁心をはぐくむべし」として、生類を憐れむことによって下々のものたちまで「慈悲の志」をもった世の中にしようという理想論を語ったものと目されている。
 そのため、彼の治世の間は犬や猫、馬から始まり、鳥などにいたるまで保護されるという極端な政策が行われた。
 だが、その中には鯨は含まれていない。
 生類憐みの令は陸の生き物が中心であり、イモリや虫類にまでも及んでいたのに、なぜか鯨や海豚といったものは対象となっていなかったのだ。
 このことについて、綱吉がどのような考えを持っていたかは定かではない。
 ただしおふれの通りであるとすると、マッコウクジラの腹からとれる龍涎香を咎める筋合いはどこにもないはずである。
 その意味で意表を突かれたのであった。
 しかも、龍涎香は薬としての効用も高い。
 これほど見事なものならば値段もはかりしれないものだろう。
 綱吉は内心一本取られたと苦笑いした。

「そういえば新宮藩の領には太地という日本一の捕鯨の村があるといいます。そこでは最上の肉は京の御所かこの江戸城に運ばれてきます。上様もよくお召しになられているものでございまする」
「む、あれよな……」

 老中による補足で、綱吉は大晦日に食する習慣のある鯨肉の味を思い出した。
 美味なるものは嫌いではない。
 むしろ好物といえよう。
 そうなると、わざわざマッコウクジラの龍涎香を用意してきたこの陪臣を無理に咎める気にもならない。
 称賛してやりたいぐらいだ。

「まあ、面白い趣向ではあるな」
「はっ」
「しかし、そのようなものが体の中に詰まっておるとは、鯨というのはやはり大きなものなのだな」
「はい。太地においては十二間以上のものも仕留められたことがあるということでございまする」

 十二間ときいて、さすがの綱吉も目を丸くした。
 そんな大きな生き物など想像もできなかった。
 思わず、感想が漏れた。

「それは、まるで竜のようじゃの」
「はっ、耳にした話では、太地に限らず鯨の漁師のものどもは毎日伝説の竜と戦っている気分だということです」
「ほほお」

 綱吉は面白い顔をした。
 そういえば、こんな昔話をきいたことがある。

「うぬ、竹取物語をしっておるか」
「はっ」

 重上は話についていけそうになかったが、とりあえず頷くことにした。
 将軍綱吉の博識ぶりは有名である。
 唐音まで用いて四書を読みこなし、孔子の精神の神髄を論ずることもでき、自ら儒学の講義を行うこともできたという。
 とはいえ、その彼も少年の頃は物語を嗜むことがあり、その中の一つのことを思いだしたのである。
 万事お堅い綱吉にしては珍しい諧謔だったのかもしれない。

「その中に大納言大伴御行が捜す龍の首の珠という悲報がある。竜の首についているというが、まあ実際は腹の中じゃろう。大納言は竜珠を見つけることがかなわなかったので世にはどういうものかはまったく知られておらぬ。だが、もしあるとすれば、どうだ、その龍涎香のようなものではないか」
「……それは、まさに」
「どうだ、水野土佐守。もし、うぬの領地の鯨漁師どもが竜を捕まえて、竜珠なるものを手に入れたらすぐにでも余のもとに献上するがよい。うぬが石高に見合う大身になるのを、余が手伝うてやるぞ」

 綱吉にしては珍しい遊び心であった。
 このとき、自らが発した言葉を覚えており、彼の生きている間は鯨に関する禁令はでなかったほどである。
 それほどまでに彼にとって愉快な思い付きであったのかもしれない。
 この言葉を耳にして、重上は平伏した。
 まさにそれこそが彼と一族の望みであったからだ。

 もし、竜珠が手に入れば彼は大名になるとができる!

 将軍家からの言質がとれたのは大変すばらしいことであった。
 重上はほくほくとした顔で書院を後にした。
 主君と並ぶ大名になれる時が来たかもしれないのだ。
 竜珠さえ手に入れれば。
 ついに、ついに。


 ……もっとも、果たして―――竜などというものがこの世にいれば、の話なのではあったが。

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