9 / 32
くじら
五節句 重陽のお祝い
しおりを挟む紀州藩は五十五万五千石。
藩主は徳川御三家の一つ、紀州徳川家。
石高には御附家老の水野家の新宮領も含まれている。
もともと駿府藩主だった徳川家康の十男・徳川頼宣が浅野の旧領に南伊勢を加えた五十五万五千石で入部したことで成立した藩である。
頼宣は紀州大納言と呼ばれ、自らを南海の竜と称し、慶安四年(1651年)の慶安の変ではその首謀者・由井正雪との関係を幕府に疑われたこともある。
慶長七年に産まれ、関ヶ原の戦いを子守歌の代わりに聞いて育ち、大坂の役にも参加した、戦国の世に遅れてきた野心ある若者だからだったのであろう。
力があるのに発揮できなかった悔しさが常に滲み出ていたとも伝えられている。
その頼宣以降、紀州徳川家は御三家として尾張徳川家とともに虎視眈々と次の将軍の座を狙い続けていくことになる。
その御附家老である水野家の当主は水野土佐守重上であった。
一万石ありながら、大名としては認められぬ男であった。
彼が大名と同じ立場で江戸城に登城することが許されるのは、年頭と五節句、月並みの登城日だけであった。
五節句のうち、九月九日の重陽のお祝いには、各諸侯がそれぞれの家のお宝を持参して将軍や御台さまの上覧を賜ることになっている。
各家の門外不出の品が展覧会のごとく現れるため、江戸城の重臣や大奥の女たちまで陪観の栄に浴するという行事であった。
もちろん、幕府の威を天下に示すためのものであるが、大名たちからすれば他の者どもに先んじる機会でもある。
この機を生かそうとするものは少なくなく、国宝級の刀剣や、物珍しい石、古く由緒ある茶器などがぞくぞくと上覧されていった。
大名のみならず、普段は登城もならぬ陪臣までが将軍のおほめにあずかろうと貴重なものを差し出すこともあるほどであった。
このとき、貞享二年(1685年)。
御三家となる紀州徳川家二代目である光貞は七十代の高齢のため登城することができず、また、一子綱教も長い病がどうしても癒えずいったん国許に戻っていたため、殿様の代理として御附家老である水野家の当主水野土佐守重上が名代として参上することになっていた。
五節句の日まで紀州徳川の御附家老として登城することになったため、いつもの彼ならば内心忸怩たる思いを抱いていたであろうが、今日だけはやや違っていた。
重上は書院の端から膝行していく。
「紀州徳川藩綱教さまの名代として参上仕りました。御附家老水野土佐守重上でござりまする」
将軍の横にいた老中が言う。
陪臣ごときに真っ先に上様が口を開くなどということはあり得ない。
「この度は紀州藩からではなく、新宮藩からのお宝ということでございまする」
「ほお、それはなんじゃ」
重上の供をしていたものどもが、そそくさと台に乗った黒いものを差し出した。
石ではなく、かといって金属のようなものではない。
随伴した家臣が一人で軽々と運んでいたことからも重さはそれほどでもなさそうだ。
将軍綱吉の好奇心がほどよく刺激される。
古今の名品とはいえいつもいつも同じものばかりでは飽きが来る。たまにはこういう趣向をかえたけったいなものも面白い。
「竜涎香でござりまする。しかも、この世でももっとも巨大なマッコウクジラからとれたばかりのもので、さまざまな効能もあり、将軍家に贈るに相応しいものかと」
綱吉は少し意表を突かれた。
この年の七月十四日、綱吉は後に生類憐みの令と呼ばれることになる一連の通達の第一号を発布していたばかりである。
それは、
「先日も申し渡したように、御成遊ばされる道筋に犬や猫が出てきても苦しゅうないから、どこへ御成なさる場合でも、犬猫をつないでおかなくてよろしいぞ」
という指示であった。
これは将軍の行列の間、犬や猫が迷い出てくるのは非礼であるとあらかじめつないでいるようだが、苦しゅうないので放しておいていいぞ、という通達であり、この直前に「馬の筋を伸ばすことを禁じる」という禁令、そしてすぐ後の11月には「城内の厨房での鳥・貝・海老の使用を停止する」という指示を立て続けにだしていた。
綱吉は、これによって「仁心をはぐくむべし」として、生類を憐れむことによって下々のものたちまで「慈悲の志」をもった世の中にしようという理想論を語ったものと目されている。
そのため、彼の治世の間は犬や猫、馬から始まり、鳥などにいたるまで保護されるという極端な政策が行われた。
だが、その中には鯨は含まれていない。
生類憐みの令は陸の生き物が中心であり、イモリや虫類にまでも及んでいたのに、なぜか鯨や海豚といったものは対象となっていなかったのだ。
このことについて、綱吉がどのような考えを持っていたかは定かではない。
ただしおふれの通りであるとすると、マッコウクジラの腹からとれる龍涎香を咎める筋合いはどこにもないはずである。
その意味で意表を突かれたのであった。
しかも、龍涎香は薬としての効用も高い。
これほど見事なものならば値段もはかりしれないものだろう。
綱吉は内心一本取られたと苦笑いした。
「そういえば新宮藩の領には太地という日本一の捕鯨の村があるといいます。そこでは最上の肉は京の御所かこの江戸城に運ばれてきます。上様もよくお召しになられているものでございまする」
「む、あれよな……」
老中による補足で、綱吉は大晦日に食する習慣のある鯨肉の味を思い出した。
美味なるものは嫌いではない。
むしろ好物といえよう。
そうなると、わざわざマッコウクジラの龍涎香を用意してきたこの陪臣を無理に咎める気にもならない。
称賛してやりたいぐらいだ。
「まあ、面白い趣向ではあるな」
「はっ」
「しかし、そのようなものが体の中に詰まっておるとは、鯨というのはやはり大きなものなのだな」
「はい。太地においては十二間以上のものも仕留められたことがあるということでございまする」
十二間ときいて、さすがの綱吉も目を丸くした。
そんな大きな生き物など想像もできなかった。
思わず、感想が漏れた。
「それは、まるで竜のようじゃの」
「はっ、耳にした話では、太地に限らず鯨の漁師のものどもは毎日伝説の竜と戦っている気分だということです」
「ほほお」
綱吉は面白い顔をした。
そういえば、こんな昔話をきいたことがある。
「うぬ、竹取物語をしっておるか」
「はっ」
重上は話についていけそうになかったが、とりあえず頷くことにした。
将軍綱吉の博識ぶりは有名である。
唐音まで用いて四書を読みこなし、孔子の精神の神髄を論ずることもでき、自ら儒学の講義を行うこともできたという。
とはいえ、その彼も少年の頃は物語を嗜むことがあり、その中の一つのことを思いだしたのである。
万事お堅い綱吉にしては珍しい諧謔だったのかもしれない。
「その中に大納言大伴御行が捜す龍の首の珠という悲報がある。竜の首についているというが、まあ実際は腹の中じゃろう。大納言は竜珠を見つけることがかなわなかったので世にはどういうものかはまったく知られておらぬ。だが、もしあるとすれば、どうだ、その龍涎香のようなものではないか」
「……それは、まさに」
「どうだ、水野土佐守。もし、うぬの領地の鯨漁師どもが竜を捕まえて、竜珠なるものを手に入れたらすぐにでも余のもとに献上するがよい。うぬが石高に見合う大身になるのを、余が手伝うてやるぞ」
綱吉にしては珍しい遊び心であった。
このとき、自らが発した言葉を覚えており、彼の生きている間は鯨に関する禁令はでなかったほどである。
それほどまでに彼にとって愉快な思い付きであったのかもしれない。
この言葉を耳にして、重上は平伏した。
まさにそれこそが彼と一族の望みであったからだ。
もし、竜珠が手に入れば彼は大名になるとができる!
将軍家からの言質がとれたのは大変すばらしいことであった。
重上はほくほくとした顔で書院を後にした。
主君と並ぶ大名になれる時が来たかもしれないのだ。
竜珠さえ手に入れれば。
ついに、ついに。
……もっとも、果たして―――竜などというものがこの世にいれば、の話なのではあったが。
0
お気に入りに追加
6
あなたにおすすめの小説
陸のくじら侍 -元禄の竜-
陸 理明
歴史・時代
元禄時代、江戸に「くじら侍」と呼ばれた男がいた。かつて武士であるにも関わらず鯨漁に没頭し、そして誰も知らない理由で江戸に流れてきた赤銅色の大男――権藤伊佐馬という。海の巨獣との命を削る凄絶な戦いの果てに会得した正確無比な投げ銛術と、苛烈なまでの剛剣の使い手でもある伊佐馬は、南町奉行所の戦闘狂の美貌の同心・青碕伯之進とともに江戸の悪を討ちつつ、日がな一日ずっと釣りをして生きていくだけの暮らしを続けていた……


百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
大奥~牡丹の綻び~
翔子
歴史・時代
*この話は、もしも江戸幕府が永久に続き、幕末の流血の争いが起こらず、平和な時代が続いたら……と想定して書かれたフィクションとなっております。
大正時代・昭和時代を省き、元号が「平成」になる前に候補とされてた元号を使用しています。
映像化された数ある大奥関連作品を敬愛し、踏襲して書いております。
リアルな大奥を再現するため、性的描写を用いております。苦手な方はご注意ください。
時は17代将軍の治世。
公家・鷹司家の姫宮、藤子は大奥に入り御台所となった。
京の都から、慣れない江戸での生活は驚き続きだったが、夫となった徳川家正とは仲睦まじく、百鬼繚乱な大奥において幸せな生活を送る。
ところが、時が経つにつれ、藤子に様々な困難が襲い掛かる。
祖母の死
鷹司家の断絶
実父の突然の死
嫁姑争い
姉妹間の軋轢
壮絶で波乱な人生が藤子に待ち構えていたのであった。
2023.01.13
修正加筆のため一括非公開
2023.04.20
修正加筆 完成
2023.04.23
推敲完成 再公開
2023.08.09
「小説家になろう」にも投稿開始。

檻の中の楽園
白神小雪
歴史・時代
フセイン政権下のイラクに暮らす主人公。彼は、独裁政権の下で何不自由無く過ごしていた。しかし、彼はある日、外国の新聞を見てしまう。その刹那、彼の中の何かが壊れていく音がした。
果たして、真実は人を幸せにできるのだろうか?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる