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くじら
紀伊新宮藩
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紀伊新宮藩は、現在の和歌山県新宮市(紀伊国)にあった。
石高は三万五千石。
初代の藩主は紀州藩の御附家老だった水野重央。
幕府を頂点とする江戸時代の幕藩体制においては、一万石以上の藩主は大名とされ、将軍に対して直接奉公の義務をもつ者をさすにもかかわらず、水野家の身分はあくまで紀州徳川家の家臣であり、大名としては扱われなかった。
陪臣であり、又者あるいは又家来扱いだったのである。
そのことが水野重央に鬱屈とした劣等感を与え、家を継いだ子孫たちにも伝わっていく。
だが、そんな水野の殿様よりもさらに根の深い昏い感情に支配されているものがこの場にいた。
(くそっ、なんて奴だ、くそっ)
心の中で取り留めもない罵声を垂れ流しながら、逆三角形の大きな顔の男がせこせこと歩いていく。
それなりの巨躯なのだが、いかんせん大きすぎる顔のせいで布袋のようにも見える。
おかげで大方の人間にとって第一印象は悪くない。
ただし、内心がいいかというとそんなはずがなかった。
(たかだか鯨捕りの庄屋風情が! 鯨の血にまみれて頭がおかしくなった漁師の分際で! おれよりもでかい態度をとりおって! くそが!)
もし、少しでも自分よりも身分が低いものがいたら怒鳴りつけてやろうと周囲を見渡してみるが、幸いなことに誰もいなかった。
主だったものは皆、殿様のもとで、ふんだんに用意された美食と美酒の相伴にあずかっている。
誰もがうらやむ宴の途中で抜け出したのは、あの場に一瞬でもいることが男の劣等感を痛いほど刺激してくるからだ。
(くそが! あんな奴のもってきた食い物などあれ以上食ってたまるものか!)
男の名は松井誠玄。
この紀伊新宮藩の加判家老である。
家老とはいっても、数人いるうちの一人であり、しかも父親の跡を継いだだけでたいした仕事もできない、いるだけのつまらない存在であった。
どれだけつまらないかというと、一言目には「儲かる」「うまくいく」と相手にこびへつらい、ほんのわずか挨拶を交わしただけの要人のことを「親しくしている」と威を借る程度なのだ。
商才はなく、政治にかかわることもうまくいかないのは、聞きかじった知識でたいして裏も取らずに勢いだけで突っ走り、もし面倒なことになったら家老の地位と水野家の威光を盾にとるのだから、よく知る者からは軽んじられる。
誠玄のことを知らなかったものでも一年もつきあえば、底の浅さがすぐに暴露し、加判家老の地位を有するもの以外の扱いはしてもらえなくなるという芯のなさだ。
一言でいえば、小物であった。
そんな彼の怨嗟の声がとどまることもなく腹の底から噴き出してくる。
「太地角右衛門だと!」
それは、新宮城の座敷で、新宮藩三代目藩主水野重上と重臣のみならず、殿様に謁見できる身分の家臣たちをすべて集めるかのような勢いで、美酒と美食をふるまう男に対してのものであった。
男は最初、重上から褒美をもらうために城にやってきたというのに、重臣を巻き込んで大掛かりな宴を催し始めたのである。
もう五十歳をこえた重上もこの振る舞いに歓喜し、とにかく男を褒めたたえた。
この宴だけでどれだけの金が動いたかわからない。
だが、男にとってははした金に等しい額だろう。
なぜなら、暮れから春までの数か月で九十六頭の鯨を捕獲したことで一躍世に知られ、紀州藩主徳川家を通じて禁中に、新宮領主水野家を通じて将軍家に御用鯨肉を例年献上し、二代目紀州藩主徳川光貞より「太地」姓を賜った幸運な男だからである。
太地角右衛門というのが男の今の名だ。
江戸ではあまりに金を持っていることから鯨分限とまで呼ばれていた。
誠玄は金が好きだ。
人に持ち上げられるのが好きだ。
その彼の目の前で、殿様から過剰なまでの言葉をかけられ、彼が一目置く武士から称賛される角右衛門をみているとはらわたが煮えくり返ってくる。
たたっ切ってやりたいとまで思ったが、誠玄にそんな力はない。
二十以上年が上の角右衛門にすら及ばないだろう。
誠玄は武士としてもつまらない男だった。
「加半家老ではないか」
後ろから声をかけられた。
振り向かずともわかる。
山川久三郎であった。
誠玄よりも少し年上というだけなのに髷を結っているとは思えぬ白い髪をした、年老いた惨めな白鳥のような男である。
あまり城には顔を出さないのに珍しいことだと誠玄は思った。
「お主までただ飯に釣られおったか」
「馬鹿を言え。誰が、あんな成り上がりの馳走にひかれるものか。おれは様子を見に来ただけよ」
「なんのだ? 結局は同じことではないか」
「違う。おぬし、聞いておらんのか? あの太地角右衛門という庄屋の成り上がりが殿に吹き込んだ戯言を」
「……知らん」
「ふん、だからお主はたいした役につけんのよ。家柄的には江戸家老になってもいいはずなのに、猜疑心と無能のせいでいまだにごくつぶしよ」
誠玄は思わず脇差を抜きかけた。
かろうじてとどまったのは、この久三郎が新宮藩でも指折りの剣の使い手だからだ。
刀を持っているならばともかく脇差程度では簡単に制されてしまう。
ただし、侮辱されたことは許すことができない。
ぎんと睨みつける。
「そう、目くじらを立てるな。お主も知っておいて損はない話だぞ」
「なんだ、それは」
「角右衛門が殿に持ち掛けたのは、今太地でだけ行われている捕鯨を鵜殿でもどうだ、というものだ」
「鯨が獲りたいのならばいくらでも太地の岩しかない港でとればいいじゃないか」
「ところが、角右衛門の意見は違うのだ。太地ほどの水揚げは期待できずとも、その何割か程度でいい、それを藩の直轄でやってみるのはどうか、ということらしい」
誠玄は首をひねった。
「―――藩の直轄で捕鯨をやってどうするんだ?」
「わからんのか。つまり、あやつが鯨分限などと呼ばれている捕鯨の儲けと似たような金稼ぎを新宮藩でやってみてはどうかといっておるのだ」
眼をむいた。
それはつまり―――
「武士に鯨捕りのうわまえをはねろというのか?」
「現実には元締めになれということだろうがな。我が藩は黒田灘のおかげで魚は獲れる。熊野川を下る筏での材木の搬出も大きい。太地の連中の鯨獲りも結局は我が藩の管掌だ。だが、いつまた熊野の川が氾濫し、治水が必要となるかも限らん。金はいくらでもいる。殿だけでなく、藩の重臣連中もこのうまい話にはのるだろうな」
「奴の見返りは? あんな腹黒い奴が政のことなど考えているとは思えん」
誠玄の眼には角右衛門はこう映っているらしい。
「小耳に挟んだ限りでは、新田開拓を持ち掛けているらしい。開拓は自分たちでやるとのことだ」
鼻で笑った。
「漁師が百姓の真似事か。くだらんやつだ。気にかけてやるのが無駄になった。で、おぬしも一口噛もうとしておるのか」
「そうだ。鯨などとりたくもないが、あたらしいことには金が回る。噛んでおくに越したことはない」
「くだらぬ。実に下らぬ」
「そういうな。お主の家とて熊野海軍よりのつてがあるのだろう。どうだ」
「あの連中は太地の漁師と変わらぬ、ただの海賊よ。海の夜盗よ。親父様に面倒を見るようにいわれただけで、おれとしてはいなくなって欲しいとしか思わん」
太地角右衛門への怒りは減ったが、すべての些事が面倒になってきた。
深く考えず、深く取り合わず、浅い言動を放つ。
松井誠玄はそんなくだらぬ男だった。
「鵜殿で捕鯨などできんよ。ばかばかしくて話にもならん」
……これがおよそ五年ほど前の出来事である。
石高は三万五千石。
初代の藩主は紀州藩の御附家老だった水野重央。
幕府を頂点とする江戸時代の幕藩体制においては、一万石以上の藩主は大名とされ、将軍に対して直接奉公の義務をもつ者をさすにもかかわらず、水野家の身分はあくまで紀州徳川家の家臣であり、大名としては扱われなかった。
陪臣であり、又者あるいは又家来扱いだったのである。
そのことが水野重央に鬱屈とした劣等感を与え、家を継いだ子孫たちにも伝わっていく。
だが、そんな水野の殿様よりもさらに根の深い昏い感情に支配されているものがこの場にいた。
(くそっ、なんて奴だ、くそっ)
心の中で取り留めもない罵声を垂れ流しながら、逆三角形の大きな顔の男がせこせこと歩いていく。
それなりの巨躯なのだが、いかんせん大きすぎる顔のせいで布袋のようにも見える。
おかげで大方の人間にとって第一印象は悪くない。
ただし、内心がいいかというとそんなはずがなかった。
(たかだか鯨捕りの庄屋風情が! 鯨の血にまみれて頭がおかしくなった漁師の分際で! おれよりもでかい態度をとりおって! くそが!)
もし、少しでも自分よりも身分が低いものがいたら怒鳴りつけてやろうと周囲を見渡してみるが、幸いなことに誰もいなかった。
主だったものは皆、殿様のもとで、ふんだんに用意された美食と美酒の相伴にあずかっている。
誰もがうらやむ宴の途中で抜け出したのは、あの場に一瞬でもいることが男の劣等感を痛いほど刺激してくるからだ。
(くそが! あんな奴のもってきた食い物などあれ以上食ってたまるものか!)
男の名は松井誠玄。
この紀伊新宮藩の加判家老である。
家老とはいっても、数人いるうちの一人であり、しかも父親の跡を継いだだけでたいした仕事もできない、いるだけのつまらない存在であった。
どれだけつまらないかというと、一言目には「儲かる」「うまくいく」と相手にこびへつらい、ほんのわずか挨拶を交わしただけの要人のことを「親しくしている」と威を借る程度なのだ。
商才はなく、政治にかかわることもうまくいかないのは、聞きかじった知識でたいして裏も取らずに勢いだけで突っ走り、もし面倒なことになったら家老の地位と水野家の威光を盾にとるのだから、よく知る者からは軽んじられる。
誠玄のことを知らなかったものでも一年もつきあえば、底の浅さがすぐに暴露し、加判家老の地位を有するもの以外の扱いはしてもらえなくなるという芯のなさだ。
一言でいえば、小物であった。
そんな彼の怨嗟の声がとどまることもなく腹の底から噴き出してくる。
「太地角右衛門だと!」
それは、新宮城の座敷で、新宮藩三代目藩主水野重上と重臣のみならず、殿様に謁見できる身分の家臣たちをすべて集めるかのような勢いで、美酒と美食をふるまう男に対してのものであった。
男は最初、重上から褒美をもらうために城にやってきたというのに、重臣を巻き込んで大掛かりな宴を催し始めたのである。
もう五十歳をこえた重上もこの振る舞いに歓喜し、とにかく男を褒めたたえた。
この宴だけでどれだけの金が動いたかわからない。
だが、男にとってははした金に等しい額だろう。
なぜなら、暮れから春までの数か月で九十六頭の鯨を捕獲したことで一躍世に知られ、紀州藩主徳川家を通じて禁中に、新宮領主水野家を通じて将軍家に御用鯨肉を例年献上し、二代目紀州藩主徳川光貞より「太地」姓を賜った幸運な男だからである。
太地角右衛門というのが男の今の名だ。
江戸ではあまりに金を持っていることから鯨分限とまで呼ばれていた。
誠玄は金が好きだ。
人に持ち上げられるのが好きだ。
その彼の目の前で、殿様から過剰なまでの言葉をかけられ、彼が一目置く武士から称賛される角右衛門をみているとはらわたが煮えくり返ってくる。
たたっ切ってやりたいとまで思ったが、誠玄にそんな力はない。
二十以上年が上の角右衛門にすら及ばないだろう。
誠玄は武士としてもつまらない男だった。
「加半家老ではないか」
後ろから声をかけられた。
振り向かずともわかる。
山川久三郎であった。
誠玄よりも少し年上というだけなのに髷を結っているとは思えぬ白い髪をした、年老いた惨めな白鳥のような男である。
あまり城には顔を出さないのに珍しいことだと誠玄は思った。
「お主までただ飯に釣られおったか」
「馬鹿を言え。誰が、あんな成り上がりの馳走にひかれるものか。おれは様子を見に来ただけよ」
「なんのだ? 結局は同じことではないか」
「違う。おぬし、聞いておらんのか? あの太地角右衛門という庄屋の成り上がりが殿に吹き込んだ戯言を」
「……知らん」
「ふん、だからお主はたいした役につけんのよ。家柄的には江戸家老になってもいいはずなのに、猜疑心と無能のせいでいまだにごくつぶしよ」
誠玄は思わず脇差を抜きかけた。
かろうじてとどまったのは、この久三郎が新宮藩でも指折りの剣の使い手だからだ。
刀を持っているならばともかく脇差程度では簡単に制されてしまう。
ただし、侮辱されたことは許すことができない。
ぎんと睨みつける。
「そう、目くじらを立てるな。お主も知っておいて損はない話だぞ」
「なんだ、それは」
「角右衛門が殿に持ち掛けたのは、今太地でだけ行われている捕鯨を鵜殿でもどうだ、というものだ」
「鯨が獲りたいのならばいくらでも太地の岩しかない港でとればいいじゃないか」
「ところが、角右衛門の意見は違うのだ。太地ほどの水揚げは期待できずとも、その何割か程度でいい、それを藩の直轄でやってみるのはどうか、ということらしい」
誠玄は首をひねった。
「―――藩の直轄で捕鯨をやってどうするんだ?」
「わからんのか。つまり、あやつが鯨分限などと呼ばれている捕鯨の儲けと似たような金稼ぎを新宮藩でやってみてはどうかといっておるのだ」
眼をむいた。
それはつまり―――
「武士に鯨捕りのうわまえをはねろというのか?」
「現実には元締めになれということだろうがな。我が藩は黒田灘のおかげで魚は獲れる。熊野川を下る筏での材木の搬出も大きい。太地の連中の鯨獲りも結局は我が藩の管掌だ。だが、いつまた熊野の川が氾濫し、治水が必要となるかも限らん。金はいくらでもいる。殿だけでなく、藩の重臣連中もこのうまい話にはのるだろうな」
「奴の見返りは? あんな腹黒い奴が政のことなど考えているとは思えん」
誠玄の眼には角右衛門はこう映っているらしい。
「小耳に挟んだ限りでは、新田開拓を持ち掛けているらしい。開拓は自分たちでやるとのことだ」
鼻で笑った。
「漁師が百姓の真似事か。くだらんやつだ。気にかけてやるのが無駄になった。で、おぬしも一口噛もうとしておるのか」
「そうだ。鯨などとりたくもないが、あたらしいことには金が回る。噛んでおくに越したことはない」
「くだらぬ。実に下らぬ」
「そういうな。お主の家とて熊野海軍よりのつてがあるのだろう。どうだ」
「あの連中は太地の漁師と変わらぬ、ただの海賊よ。海の夜盗よ。親父様に面倒を見るようにいわれただけで、おれとしてはいなくなって欲しいとしか思わん」
太地角右衛門への怒りは減ったが、すべての些事が面倒になってきた。
深く考えず、深く取り合わず、浅い言動を放つ。
松井誠玄はそんなくだらぬ男だった。
「鵜殿で捕鯨などできんよ。ばかばかしくて話にもならん」
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