くじら斗りゅう

陸 理明

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くじら

権藤伊左馬

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 白い砂塵が立った。
 立てたのは一本の銛であった。
 銛先の重さが百匁(約400グラム)ほどの軽量の銛であったが、それを十丈(約30メートル)の距離で目標に命中させる膂力と腕前が凄まじかった。
 羽矢と呼ばれるこの銛は揺れる船の上から投げられることから、およそ四丈以下が有効射程距離とされているものである。
 いかに陸の上からの投擲であっても、倍以上の距離を、目標として立てていた案山子の胴を正確に貫くまでの腕前は尋常ではない。
 しかも、これを投げた男は、まっすぐに投げても、天に向かって弧を描いて投げても、どちらでも同じ結果を出せるのである。
 少し離れたところから見物していた娘は、ほうっと息を吐いた。
 漁師の家に産まれた女だ。
 小さなころから、銛を打つ男どもの姿を見て育っていた。
 しかし、今見た打ち手ほどの相手に会うのは初めてであった。

「……あんた、すごい」

 素直な気持ちだった。
 当初抱いていた反発心が、朝焼けに消える霞のようになくなっていく。
 用意していた五本の銛を振りかぶって投げると、ほとんどすべて命中するのだ。
 修繕もきかぬ襤褸布を巻いただけの案山子がみるみるまに穴だらけになっていくのは痛快とも思えた。

「そうだろう、そうだろう」

 素直に褒められて、銛の打ち手は自慢げに腕を組んだ。
 太い腕と海の男らしい赫く陽に焼けた肌をしている。
 ただ、娘が幼少のころから馴染んでいる大勢の漁師たちとはそもそもの雰囲気が違う。
 それもそのはず。
 この男は―――

「わしは剣の方は師範にまで才がないと断言されてしまったが、槍の方はなかなかに使えておったからな。槍ができれば、銛もうまく打てるというものよ」
「槍は投げて打ったりしないじゃない」
「柄が長くて穂先がついておれば同じこと」
「……浜の女ならそんなことありえないってわかるよ。あんた、変なことばっかり言って本当にお武家様なの?」
「もと、だ。今のわしはもう鵜殿の鯨組よ。武士はやめた」

 そうなのだ。
 この男はもともと武家の出身だったのである。
 とある事情によって、銛を打つ漁の特訓をしていることを、娘は前から苦々しく思っていたのであった。
 彼女たちが暮らしている、ここから少しいった場所にある村の名前は鵜殿。
 紀伊半島にある、まだまだできたばかりの鯨捕りの集落であった。

「―――それで、お汐。なといて、わいつはさっきからわしの鍛錬を覗いておるのだ」

 男は朝から昼までほぼずっと銛打ちの訓練を繰り返していた。
 羽矢銛を抱えて砂場にやってきて、同様に用意していた三体の案山子を打ち貫くという地道なものだった。
 銛を投げ終わったら歩いて行って回収し、もう一度元の位置に戻り、たまに案山子を修理するぐらいしか休憩はとらないという単調な訓練だ。
 こういう単調さは、しばらく続けているとやっている者は無性に楽しくなってくるが、ただ見ている側からするとまったくの逆になる。
 ありえないほどつまらなくなってくるのだ。
 それなのに、ずっとこの娘―――お汐という―――は一刻もの時間見物をして過ごしていた。
 男がいかに鍛錬に夢中になっていたとしても、次第に気になってくるのは仕方のないところだろう。

「あたしの好きでしょ。あんたに言うことじゃないわ」
「わいつの好きか」
「そうよ」
「なら聞くのも野暮だ。飽きるまで見ているがいい」

 勝手にすると言われては、そう答えるしかない。
 もと武士であった男はわずかな興味を捨てることにして、案山子に刺さった銛を抜くために砂浜を歩き出した。
 基本的に他人の心の内を慮ったりはしない男なのだ。
 歩き出した瞬間には、お汐への関心はきれいさっぱり失せていた。
 そんな男の心の在り様を悟ったのか、お汐は頬を膨らませる。
 自分は返答を拒絶したが、だからといってああも見事に存在まで忘れられるとずんと腹が立ってくる。
 あっちばかり狡いとまで思えてくる。
 往々にしてそういうものだが、若い女というのは酷く勝手なものである。

「ねえ、あんた、ちょっと。ねえ、権藤の旦那!」

 お汐は男の名を呼んだ。
 銛先ごと一尺ほど砂に突き刺さっていた銛を簡単に引き抜きながら、もと武士の男は意識だけを振り向かせた。
 もう関心をなくした相手のために首を動かすのも億劫になっていた。

「なんだ」

 声を出しただけ、まだマシな対応と言えた。

「あんた、なんで伊左馬いさまなんて名前に変えたんだい? 昔からの立派な武士の家の名前をもらったっていうのに」

これは特別にお汐が知りたかったことではない。
 数年前、男が鵜殿にやってきたときに、

「わしは今より権藤伊左馬と名乗ることにした。これよりよろしくな」

 と、村中で触れ回って、みなに周知させたことは覚えている。
 実は由来もよく知っていた。
 父親に聞いていたのだ。
 単に男に無視されたのが悔しくて聞いてみただけのことだった。
 本当にお汐にとってはどうでもいいことだ。
 だが、男―――権藤伊左馬は引き抜いた銛を軽々と抱え上げて、いつもの投擲位置に戻る途中でぶっきらぼうに応えた。

「頭のでかいマッコウがいるだろう」
「う、うん」
「わしが初めて太地でみた鯨があいつだった。あれはなんだと山見の爺に聞くと、巨頭ごんどうだという。わしの家名と同じよ。だから、わしはゴンドウに相応しいものを名乗ることに決めたのだ。伊左馬は勇魚に通じるだろう。わいつのいう、好きに従ったまでよ」

 わかるようでわからない理屈だった。
 しかし、それでも武士であったものが漁師になっても悔いがないくらいに、この権藤が鯨に魅了されたのは伝わってくる。
 村から離れた砂浜で、連日銛打ちの腕を磨き続け、たったの一年ほどで並みいる刃刺に引けを取らぬ海の猛者になった男なのだ。
 鯨捕りの家に産まれただけの自分や他の連中よりもずっと性根が据わっているのかもしれない。
 権藤はそれだけ語ると、すでに襤褸になっている案山子めがけてまたも銛を投げ始めた。
 疲れを知らぬかのように。
 頭上にやってきた太陽を避けるために、少し離れたところに立っている馬刀葉椎の下に娘は腰かけた。
 馬刀葉椎の幹は皮付きの丸太にして八尺に切り、萬銛の柄に使われている。
 権藤が握っているものも馬刀葉椎だ。
 何故か、権藤の背中に寄りかかっているような気がする。
 木陰に座り込んで、また延々と銛を投げる変わった男をお汐は眺め続けた。
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