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第三話 「くじら侍と修羅の兄妹」
佐吉と朱鷺
しおりを挟む翌日、八丁堀にある青碕家の屋敷内に今回の関係者が集まった。
町屋に近い屋敷に住む同心の中では珍しく、青碕家のものは冠木門を備えた書院造であり、十室もの間を備える伯之進と用人の老人の二人だけが住むにしては広いものだった。
集まったのは主人である伯之進、岡っ引きの欣次、引退したばかりの徳一の町方の面々に、助っ人の権藤伊佐馬。それに元吉井屋の手代である佐吉とその妹のお朱鷺である。
元、とつくのは、すでに半月ほど前に佐吉は手代を首になっていたからであった。
現在は吉井屋に奉公していた頃に貯めた金で食いつないでいた。
「このたびは、俺なんぞのために手を尽くしていただいて感謝をしておりやす」
「兄だけでなく、あたしまで助けていただきありがとうございます」
兄妹は改めて頭を下げた。
その礼の仕方があまりに堂々としたものなので、欣次などは逆にどぎまぎしてしまったくらいだ。
「なに、別に構わないよ。江戸の治安を守るのが、私とこの二人の仕事だ。権藤さんはちょっと違うけどね」
「わしのことは気にするな。ただ乗りかかった舟に便乗しただけよ」
屋敷の柱にだらしなくよりかかり、白湯をすすりながら伊佐馬は豪快に笑った。
実際、今回の事件に関し、伊佐馬は浪人を二人叩きのめしただけで大したことは何もしていない。
そんな伊佐馬を佐吉と朱鷺の兄妹はちらりと上目遣いで窺っていた。
昨日の段階からこの二人は伊佐馬に対してはやや距離をとろうとしているようにも感じられた。
最初はそうでもなかったのだが、伯之進がやってきてからその態度が顕著になっている。
とはいえ、あまりに豪放磊落であけっぴろげな態度にひいているという訳ではなさそうではあったが。
(妙な態度だよな。まあ、くじらの旦那はお武家さまといってもこんなお人だし、町人にしちゃあ品のいいこいつらからすると柄が悪く感じるのかもしれねえな)
若く経験が浅いくせに、妙なところで鋭い欣次はそう心中で結論付けていた。
「―――で、伯之進。この若いのは、どうしてあんな連中に狙われたのだ。不逞の浪人とはいっても、やがらは中々の腕っこきであったぞ。わがらたちでなければ危なかったところだ。のお、二人とも。新心流といい、釘千本の投擲術といい、感服したぞ」
兄妹とは異なり、伊佐馬の方は素直に二人のことを褒めあげていた。
(あんたもたいがい化け物なんですがね、くじらの旦那)
欣次は素直な感想を喉元で呑み込んだ。
噂では聞いていたが、確かに権藤伊佐馬という浪人は並大抵の漢ではない。
青碕伯之進ほどのとんでもない若手同心が友と呼ぶのにふさわしい相手だった。
「とりあえず、佐吉たちにはどうして私たちがあの場に駆けつけられたかについては昨日のうちに話しておきました」
「はい。―――皆様方にゃあどんなに頭を下げたってたりねえぐれえッス」
「もし、神田富松町の甚七と知り合うことがあったら礼を言っておくことです。この度の件、甚七が欣次に相談を持ち掛けなかったら手遅れになるところだったのだからね」
「へい」
「はい」
非常に気分のいい返事をする兄妹であった。
「ただ、おまえたちがどうして荻野たちに狙われたかについては、私の方で調べて、今日の朝のうちに片づけておいた。その顛末についてはおまえたちも、ここにいる欣次たちも知っておいた方がいいから呼びつけたのだ。おまえたちも知りたいだろう。薄々わかっていたとしても」
「……へい。たぶん、俺の考えている通りなんだとは思いやすが」
佐吉は沈痛な面持ちで視線を落とす。
後悔をしている顔だが、罪悪感のようなものは見当たらない。
悪いことをした結果だと思っていないのだろう。
欣次もそうであってほしいと願った。
「荻野喜千郎たちはとりあえず小伝馬町の医者に預けました。どれもこれも命にかかわるものではありませんが、十日前後は立ち上がれないほどに痛めつけられていましたから。特に、権藤さんにやられた二人が重傷でした」
「―――力は抜いたのだ。ちぃとばかり」
「あなたに木刀でおもいっきりはたかれたら私でも死にますよ。……荻野たち六人を雇ったのは、吉井屋の手代である省吉です。そこの佐吉のもとの同輩ですね。三日前に本所の三ツ目にある賭場の常連で、そこで博打をやっているところを省吉に誘われたそうです。これは省吉の方からも裏を取ってあります。ひとり五両だそうです」
「大店の手代とはいえ、合わせて三十両もだすのは豪気だな」
「いいえ。もともとの雇い主は、省吉ではなく、やつはただの使い走りだったのです。本当の雇い主は別のものでした」
すると、徳一が口を開いた。
「やはり吉井屋治兵衛なのでしたか?」
徳一からするとそのぐらいしか考えられない。
色恋沙汰のもつれだということだが、そうなると佐吉が雇い主の女房に手を出してそれで恨まれた結果なのだと推理したのだ。
この時代、不倫・密通をしたものは男も女も死罪である。
「御定書」が出る前から判例で決まっており、密通が「紛れなき(明白な)」場合には夫が妻と間男のふたりを殺しても「構無し(無罪)」となっている。
たいていの場合は示談によって解決されたが、それだけ人倫の乱れについて幕府が神経をとがらせていたことがわかるというものだ。
この事件も原因はそこにあったのではないか。
だが、吉井屋治兵衛は入り婿であり、家付きの女房と一緒になった以上、密通したとはいえ殺すわけにも表ざたにもすることがでない。
そこで不逞の浪人どもを雇って報復を計ったのではないかと睨んだのである。
しかし、伯之進は首を振って否定した。
佐吉も辛そうに言った。
「旦那さまはそんなことをなされる方じゃあねえし、俺だって奥さまに恋慕したりはしねえ。十三の頃からお世話になっている方々にそんな恩知らずな真似はしてたまるか」
「兄は悪いことは何もしていません」
「だがよ、ならどうして……」
「それは……」
佐吉は言いよどんだ。
あまり口にしたくない事柄なのは明白だった。
伯之進も無理に佐吉に口を開かせるのは酷と考え、自分から語りだした。
「佐吉は半月ほど前に自分から吉井屋を辞めている。それに関して、私が吉井屋に聞いた限り、手癖が悪いや女遊びが原因ではなく、単に病いの妹の面倒を看るためということになっている。吉井屋も随分と引き留めたそうだけど佐吉は頑として譲らなかったそうだ」
「ですが、その妹はぴんぴんしてるじゃねえですか。どうみても病持ちには見えねえ」
「もちろん、それは口実さ。十三の頃から丁稚奉公して、手代になったばかりの男が恩義のある店を強引に辞めたには理由がある。―――佐吉はある女の誘惑から逃れるために店から出たのだ。それしか道がなかったんだろうね。そうしなければ恩人と店に迷惑がかかる」
「ある女。……それが吉井屋の女房なんでしょう。主人の女房に言い寄られたら後に待つのは地獄みたいなもんですから」
店の主人の女房といい仲になった手代など百害あって一利なしである。
自分から辞めるには十分すぎる理由だ。
吉井屋の関係者で佐吉にそこまでの決意をさせるものは女房ののすぐらいしか思い当たる節はなかった。
あと、女と言えば……
「女といっても二十歳を過ぎた年増ばかりじゃないよ。十一歳の小娘だって女さ。女としてませくれば家にいる若いいい男に色目を使い出しても不思議じゃない」
「あっ」
吉井屋には十一歳になるひとり娘がいた。
江戸の時代の女子は早熟なうえ、気の強さが顕著になるようになっていた。
封建社会とはいえ、安定した社会ではえてして女性が強くなるのは当然であり、特に口が達者になる傾向があった。
男の扱いも巧みになっていき、従順なだけの女ばかりではなくなっていたのだ。
十歳ぐらいになると母親や周囲の女たちの影響を受け、男を意識するものが多くなっていたという。
「治兵衛の娘のかよは、まだ十一だけど、まだ子供だというのに普段から仕事をしている佐吉にしな垂れかかったり、戯れていたそうだ。まだ赤子の頃から見知っている佐吉からすれば、主人の娘であるし子供そのもののかよに手を出せるはずがないし、相手にしないようにしていても、そのうちに拒絶するのも難しくなっていったんだろうね」
「へい。……お嬢さんは気がついたとき、素っ裸になって俺を押し入れなんかに引きこもうとしたり、水浴びをしている俺に抱きついてきたりしてきやして……」
「小娘(十二、三歳のこと)にもならない幼女と寝たら佐吉はもう終わりだ。だから、店を辞めた。そうするしか、なかったという訳だね」
いかに相手方に誘われたとしても幼女とねんごろになれば罪に問われるのは江戸の時代とて同じことだ。
納得の上で交わったとしても変わりはない。
佐吉には逃げることしかできなかったのだ。
「本当なら、そこで終わりだ。かよは新しい男を見つけて、佐吉は罪を背負うことなく丸く収まる。ただ、かよ―――というか、吉井屋ではちょっと事情が違った。治兵衛とますはもともと十歳以上の歳の差のある夫婦だ。それはなぜかというと、おますも娘と同じように年上の奉公人を誘惑して旦那とした女だったのさ。つまり、吉井屋の女の性癖だったのかもしれない。おますは、自分と同じようなことをしたのに男に逃げられた娘に同情して請われるままに金を与えた。それが何に使われるかに目を瞑ってね。かよはその金で都合のいい手代の省吉に命じて、自分を裏切った憎い男を痛い目にあわせるために悪党どもを雇ったということです。あとは、ここにいるものたちが知っている通りと言う訳さ」
兄妹は否定しなかった。
事実だと認めたのだ。
ただ、それを口に出してしまうと、かよだけでなく吉井屋の評判にまで傷がつく。
だから黙っているしかない。
恩人のために貝になった男に欣次は同情と敬意を抱いた。
「逆寄せ―――ですかい」
「そうだね」
逆寄せとは、娘の方から使用人を誘惑することで元禄以降では珍しいことではなくなっていく。
娘から逆寄せにした婿をとり
という川柳にうたわれることになっていた。しかし、最悪の場合には主人の怒りを買って訴えられ、「主人の娘と密通いたしもの」として追放されることにもなりかねない場合もあったのである。
「まあ、そういう訳で、今回の件は私の胸に納めてしまうことにしたよ。そうすれば、吉井屋の暖簾も傷がつかないし、佐吉だって恩を仇で返すことにはならない。もともと吉井屋のためにしたようなものだしね。荻野たちだって、もう懲り懲りといった顔だったし、また権藤さんにやられる羽目にはなりたくないだろう。それでいいかい、欣次」
全員の視線が注がれた。
欣次は深く頷く。
事件が表沙汰にならなければ欣次の手柄にはならない。
だが、それでもいいと思えた。
徳一の後を継ぐために必要な漢気は手に入れられたような気がしたのだ。
佐吉たちをだしにして手柄にがつがつする必要こそ感じなかった。
「なら、これで終わりだ」
それで、この場はお開きとなった。
徳一と欣次は両国に戻っていく。
慣れない同心屋敷に緊張したのか、がちがちになった佐吉と朱鷺の兄妹は伊佐馬と共に屋敷を出た。
青碕家の門をくぐったところで、これまで伊佐馬とほとんど目を合わせなかった兄妹が深々と頭を下げる。
「権藤さま、ありがとうございやした」
伊佐馬は鷹揚に手を振った。
「なに、わしは何もしていない。わいつらの武芸の腕があったからこそのことだ。何度も言うが、よい腕前であったぞ」
「へい」
「ありがとうございます」
さらに深々と礼をする二人を相手に居心地が悪くなり、伊佐馬は去ろうとする。
その背中に問いがぶつけられた。
佐吉の声だった。
「権藤さま。……ひとつだけよろしいでございましょうか?」
「なんだ」
振り向かずに伊佐馬は応えた。
嫌な予感がしたのだ。
その予感は当たった。
この江戸では絶対に耳にしたくなった問いをぶつけられたからだ。
「あなたさまは、鵜殿の海で竜を撃ったお人ではございませぬか」
佐吉のそれはおよそ商店の手代の言葉遣いではなかった。
武家に生まれ、武士として育てられたものだけが放てる、端然として、品のある言い回しであった。
それに答えて伊佐馬は言った。
「―――知らんな」
第三話 完
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