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第二話 「くじら侍と河童騒動」

伊達家河童騒動

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 大川(隅田川)と繋がる仙台掘に直結する松平陸奥守―――伊達家の下屋敷は、上屋敷と比べれば派手さはないが広壮な建物であった。
 だが、内部には人の気配はほとんどせず、奉公人の姿も一切見当たらなかった。
 掃除だけはなされているらしく、大きな綿埃などは見当たらないが、ところどころに小さな塵が集まっていてとても伊達家ほどの大大名の下屋敷とは思えない。

「先ほどの留守居役の老人以外、誰も住んでいないように見えますね」

 門前で伊佐馬と伯之進を待っていた老人が、彼らを案内してかなり広い間に通された。
 華美さはない。地味な襖と誰が描いたのかもわからぬ掛け軸があるだけの質素な場所であった。
 老人は、この下屋敷の留守居役をつとめる谷澤何がし(名前の部分はほとんど聞き取れなかった)と名乗ったが、物腰からして武士の出のようではなかった。
 谷澤という姓ももしかしたら虚偽であるかもしれない。
 とても大名家の奉公人とは思えなかった。

 留守居役はそれ以降まったく口もきかず、二人を案内すると、無言のまま退出した。
 腰にさした刀を取りあげようとすらしない不用心さである。

「それに、大名屋敷に町奉行所の同心を招き入れるなんて、普通ではありませんよ」
「だろうな」

 伊佐馬はまだ気絶している馬冶外記をぐるぐるに縛りあげている荒縄が解けていないのを確認した。
 暴れられては困るからだ
 まだ半刻も立っていないが、まだ目を覚ます様子がない。
 陸岸の武士は鍛え方が足りんな、と外記が耳にしたらすべてをなげうってでも斬りかかってきそうな感想を抱いていた。

「大名家の側室になるというのは不自由なものですね」
「―――そうか」
「ええ。昔、聞いたことがあるのですが、一度側室になって殿様のお子を産んでしまうと、たとえ当の殿様が不慮の事故や病いで亡くなったとしても、実家に帰ることもできず、再縁することもかなわず、生涯適当な下屋敷で念仏を唱えていなければならないそうです」

 伯之進がつまらなそうに言った。
 実際、本当につまらないことだと思っているのかもしれない。
 伊佐馬が短い相槌をうつだけしか反応しないので、独り言のように話を続ける。

「切り髪にして、尼のようにして暮らすだけで下屋敷からは死ぬまで出られない。自分の産んだ子が何とかしてくれない限り、ほとんど例外はないそうです。特にこの伊達家ぐらいの大大名になるとまず例外などにはならないでしょうけれど」

 切り髪は身分の高い武家の後家が結うもので、有髪の尼のための髪形といっていい。
 前正面からだと通常の女髷との違いはみられないが、後ろを短く切り払って、髷を結わないようにするのである。

「この屋敷の女主人は、陸奥仙台藩の四代伊達綱村さまの御側室でありましたが、当の綱村さまが藩の経営に際して家臣たちと対立し、今ではほとんど実権を奪われたまま押し込められているそうです。もともと悪い噂のたえなかった三代綱宗さまのご嫡子でありますから、どうにも家臣たちに嫌われていたのでしょう。今では参勤の際に江戸にきたとしてもほとんど上屋敷からでてこられない有様とのこと。仙台藩の国元では、次の藩主として従弟の吉村さまをたてる準備で忙しいとも聞いています」

 伯之進はただ朗々と説明を続ける。
 たまたま聞いた話を装っているが、よほど精力的に調べ上げなければこれほど詳しくはならないはずであった。

「―――殿さまがそんな様子ならば、側室の扱いなどしれたことでしょう。この下屋敷には、御側室の身の回りの世話をするために下働きの女中と老婆、留守居役の家僕の老人がいるだけ。他の屋敷からたまに藩の侍が生活に必要な金子をもってやってくるだけの寂しい生活です。誰にも顧みられない。誰からも覚えていてもらえない。そんな暮らしに何か意味があるんでしょうか」

 伊佐馬は無言。
 珍しく、正座である。
 大名家の屋敷にあがりこんだからといって神妙になる男ではない。
 伊佐馬には伊佐馬なりの筋というものがあった。
 この場で尽くすべき礼があった。

「……意味はないのでしょうね」

 襖が開き、女が入ってきた。
 部屋の外で伯之進の話を聞いていたことは明らかであったが、美貌の同心は動揺したそぶりの一つもみせない。
 身分の高い武家の妻女らしい地味だが金のかかった着物を着ていた。
 まだ若く、二十代半ばといったところだった。
 背筋はまっすぐに張り、凛として、下屋敷全体のさびれた空気の中でただ一つだけ輝く行燈のようである。
 たおやかな女ぶりだった。
 それでいて慎みと品も兼ね備えた、不思議な女だった。
 二人の前にそっと座る。

「あなたは南町奉行所の同心と聞いております」
「青碕伯之進と申します。御側室さま」
「……わたしはお堀。伊達綱村さまの側室でござります」
「お堀の方でございますね。お初にお目にかかりまする」
 
 お堀の方は伯之進しか見ていない。
 隣に正座する伊佐馬は一切見ない。
 ちらりとも。
 それは逆に意識しすぎているからこその動きであった。

「それで、青碕どの。わたしに何か、御用なのですか。谷澤が申すには、わたしに是非つたえたいことがあるとのことですが」

 それに対して、伯之進は言った。

「先日、馬喰町において町人の女がひとり、首の骨を折られて殺されました。下手人は、そこに縛られている仙台藩の藩士です。名はわかりませんが、これほどの柳生心眼流の使い手ならばすぐにでも調べがつくことでしょう。柳生心眼流のムクリでの、ああまで見事な技の冴え、尋常ではない使い手でありますので」
「……我が仙台藩のものがどうして市井で女子おなごを殺めたのですか」
「その女は夜鷹でした。夜鷹の中でも、隅田の川を泳いで行き来し、岸にいる男に声をかけて客を取るという変わった女で、知るものには河童の化身と噂されていた女です。残念なことに本当の名前はわかっておりません」

 お堀の方は動じない。
 汗一つかいていなかった。

「なぜ、この仙台藩士がそのような真似を仕出かしたのかはわかりません。ただ、この男は去年、別の男数人まで手にかけていたと思われます。その動機もまだわかりません。わかっているのは、こやつはそこの―――仙台掘と呼ばれる堀に棲むという河童をひどく敵視していて、その名前を話すもの、聴くもの、名乗るもの、すべてを無差別に襲っていたのだということだけです。今日も、わたしが飼っている岡っ引きのひとりを殺そうとしたため、その現場を押さえ、こうして捕らえたというわけです」
「それで我が藩に引きとれというのですか?」
「ええ。ただし、仙台藩にも世間に知られたくない恥というものはありますでしょう。ゆえに、私としてはこの男が二度と江戸でこのような凶行をしないのであれば、と条件をつけさせていただければよしとします」

 空気が凍る。
 伊佐馬の横で縛られている男が寝返りを打つように動いた。
 どうやら気がついているようだ。

「武士とはいえ、罪なき町民を殺めたものを奉行所の裁きもなく引き渡すというのは天下の御法に反するものではないのですか。あなたは奉行所の同心として間違っているのではありませんか」
「いいえ、構いません。殺されたのは、所詮、夜鷹。いてもいなくても変わらない夜の女です。ちり芥のように掃除されても誰も気にもしない。それよりも、これ以上、河童などという与太咄で江戸の安寧が乱されることの方が遥かに困ります」

 その冷徹ともいえる台詞を聞いて、お堀の方は立ち上がった。
 眦がつり上がっている。
 
「い、命をなんだとおもっているのさ、あ、あんた!?」

 だが、伯之進は顔色一つ変えない。

「知りません。誰かが好き勝手に振舞った挙句に、別の者が害を被ったというのならば、すべての責めはその誰かにあるのです。どんなに汲むべき哀れな事情があろうとも、死んだものは浮かばれやしません。死んだ哀れな河童の夜鷹はもう口を利かない。すべてを承知の上で誰かの身代わりになったとしても、恨み言の一つを生きているものに聞かせることもできない。橋に引っかかった死人を運んだ漁師たちにとっても」

 お堀の方は唇をぎゅっと噛みしめた。
 皮が破れ、血が零れ落ちる。

「あなた様がどうして夜鷹のふりをして男を漁っていたのかわたしは知りません。ただ、そのことで殺される羽目になってしまったものたちはいる。そのことについて一切の責めを負わずに終わらせることなど許されるはずがない」
「―――なにがわかるってんだ……」
「わかりませんね。死んだ人間にどんな未練があったかなんて。わかるはずもない」

 伯之進の淡々とした弾劾の言葉は間違いなく刃となってお堀を斬り裂いていた。

「う、うるさい! うるさい! あんたにあたしの何がわかる!! 十五の歳に殿さまにかどわかされて妾にされて、こんなところに連れてこられた挙句にずっとずっと放っておかれたあたしの何がわかる!? 何が殿さまだ! 何が侍だ! あたしを安い金で買って抱いてくれた連中どもの方があんたら侍なんかよりもずっといい男だったよ!! あたしのすべてを腐らせたくせに!! あたしを仙台に帰せ! どこよりも綺麗だった広瀬の御川に帰せ!! くそ侍どもが!!」

 噛み切られた皮膚の下から血がつばとともに飛んだ。
 その姿はまるで夜叉のようだった。
 大粒の涙とともにくしゃくしゃになった美しい女の顔は千々に乱れた。
 あらゆる武士というものを呪詛で滅ぼそうとするかのごとき叫びだった。
 伯之進はただその叫びを冷たい美貌で受け止めた。

「―――!!」

 そのとき、縛り上げられていた馬冶外記が無音のまま跳びあがった。
 関節を外し、縄から抜け出したのだ。
 両手を伸ばして、お堀の方に襲い掛かった。
 外記の両腕が女の細い首にかかる。
 どちらかの手にほんのわずかに力を籠めるだけで簡単に殺すことができる。

 外記がお堀の方の首をひねった瞬間、その両足首が吹き飛んだ。
 伯之進の居合による目にもとまらぬ斬撃のせいだった。
 ほとんど同時に外記の背中から腰にかけての骨が横一文字に爆ぜるように両断される。
 伊佐馬の大剣だいすによる抜き打ちのおそるべき破壊力であった。
 柳生心眼流の使い手は何が起きたかもわからず即死した。

「―――旦那」

 お堀の方は―――夜鷹のお堀の顔になって、伊佐馬をじっと凝視した。
 ぞっとするほど青白い色をしていた。
 細い首がありえない方向に曲がっていた。

「どうしてあたしがここにいるとわかったの?」

 生きているのが不思議な角度を向いた女に伊佐馬はぽつりと言った。

「いつだか、わいつが逃げるように大川へ逃げ出したときにあとを追わせてもらった」
「……川を泳いでいるあたしについてくるなんて出来るはずがないじゃないか。川の水にはどんな足跡だってつきやしないのに」
「わしは鯨獲りだ。海の中で逃げる鯨を追うことができる。ましてや波の少ない川だ。さして難しくはなかった」

 もっとも例え川であったとしても、夜の暗闇の中、音も立てずに逃げる水練の達人のあとを泳いでつけるなど普通のものにはできるはずがない。
 権藤伊佐馬の人並み外れた野生の勘と五感の働きがあったからこその、化け物じみた能力の発露としか言いようがない。

「そう。じゃあ、知ってたんだ。みーんな」

 お堀は柱にもたれかかるようにして座り込んだ。
 すでに大大名の側室の面影も品もない。
 そこにいたのは生きることに疲れたひとりのちっぽけな女だった。
 柳生心眼流の男の覚悟がお堀の命を奪いかけていた。
 優しく抱えあげて、畳の上に横にならせる。
 首が赤子のようにぐらぐらしていた。
  
「少し待て。医者を呼んでくる」

 伊佐馬も伯之進もこんな風に首が傾いたものを救う術は知らない。
 もしかしたら医者にもないかもしれない。
 だが、このまま放っておいてもお堀の方―――河童の夜鷹―――お堀は死んでしまうだろう。

「いいよ、旦那。天井が白くなってきた。もう駄目みたい」
「そうはいかん」
「……盗人がね……庭の水門を潜って抜けてやってきたんだ……警護の侍なんて誰もいないってわかっていたから」
「口をきくな」

 朦朧としている様子なのはすぐわかる。
 伊佐馬の忠告等届いていないのだろう。

「少し嫌なことをされてさ……でも、おかげでいいことを二つ教えてもらった。ここから外に出るには堀を泳いで大川まで行けばいいってことと男のあそこの気持ちよさをさ。あたしは、夜になったら泳いで外に出た。仙台にいたころには女河童って言われていたからね」
「それでどうして夜鷹のまねごとを?」
「無理やりでもなんでも男と寝ているときだけ、落着けたのさ……綱村さまの顔なんて覚えてもいないから、雄だったら誰でもよかったのさ。……ただね」
「ただ、なんだね?」

 尋ねる声色は優しかった。
 この武骨な大男のものとは思えないぐらいに。

「旦那が、一番よかったよ。男とつがっているって思えた。―――あたし、旦那に惚れちゃってたのかもね」
「馬鹿を言うな」
「旦那の後はもう誰とも寝れなくなっちゃった。責任とってよ」

 少しだけ口元が緩んだ。
 頬笑みのつもりだったのかもしれない。
 
「―――眠いね」

 そのまま河童と呼ばれた夜鷹であった女は動かなくなった。
 目をつむっていたので眠っているようであった。

「葬りますか?」

 伯之進が背中越しに声をかけた。
 顔を見ない方がいいだろうという計らいだった。
 
「……あっしにお任せ下せェ」

 襖を開けると、谷澤という留守居役の老人がいた。
 
「任せろとは?」
「もともとお堀の方は藩のお歴々に厄介ものだと思われておりやした。遅かれ早かれ、この方ァ、そこの馬冶みてェなのに狙われて命を落としてらしたでしょうや」
「この柳生心眼流はやはり仙台藩士で間違いないのか」
「へえ。もともとこのお屋敷に金子を届ける役目だったのでごぜえやすが、ほんとうは江戸家老さまからの目付ですわ。お堀の方さまァ、こいつの目を盗んで抜け出すことも楽しみにしてやした。しかし、お方さまのことが藩に知れたら自分も腹を切らなければならないと思っていたのでしょう、最近はいつも狼みてえな顔をしてやしたね」

 谷澤は膝をついて、お堀の死体を拝むと、

「―――この屋敷で起きたことはァ、どのみち誰にも知られちゃならねェことです。ですから、あっしにお任せくだせェ」

 と、歳の割にはきびきびとした動きで静かに亡骸を片付け始めた。
 伊佐馬がなかなか動こうとしないので、伯之進が袖を引くと、ようやくその場から離れ出した。

「あの留守居役の老人の娘か、孫が女中として奉公していたようですがどこにも見当たりませんね」
「―――死んだのだろう、馬喰町で」
「おそらく」

 大大名の下屋敷の中でどんな秘密なことがなされていたのか、結果として何が起こったのか、伊佐馬たちにはわからない。
 伯之進の探索もすべてが快刀乱麻のごとくに説明することができるほどの材料を与えてはくれなかった。
 だが、そんなことを知る必要はなかった。
 伊佐馬は屋敷の外に出て、朧に輝く月を見上げて、

「やはり夜は鯨捕りには向いとらんのお」

 と、つまらなそうに呟いたのであった……







                                       第二話 完
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