陸のくじら侍 -元禄の竜-

陸 理明

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第二話 「くじら侍と河童騒動」

背中合わせ

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 それからしばらく。

 両国を縄張りとする岡っ引きの徳一は、元ぼてふりの下っぴきである欣次とともに、縄張りの外である本所・深川の大川沿いを調べて回った。
 川向うならばともかく、こちら側ではあまり徳一の顔も知られていないので、十手をこれ見よがしに見せたりはせず、欣次と親子や職人衆の親分弟子のふりをしたりして、町民の中に溶け込みながらの探索であった。
 河童の夜鷹という女については抑え気味に、むしろ一年前にあったという仙台藩の下屋敷に運び込まれたという水死体についてのことが主である。

 これは青碕伯之進からの指示でもあった。
 彼もやはり馬喰町で殺された女とその水死体との共通点を怪しいと睨んだのだ。
 首が垂れさがるほどに骨を折られた死体というのは、江戸の町の数十年の歴史においてもそれほど多いものとはいえない。
 少なくとも徳一は聞いたことがなかった。
 事故ならばともかく、故意に引き起こされた殺しではなおさらである。
 生憎、最初の死体については奉行所の同心による検視もなされておらず、噂で聞ける程度のことしかわからなかった。
 わかったことといえば、男の死体だったということだけだ。
 年齢も職業もわからない。
 さらに問題は―――

「伊達さまの下屋敷に舟で運び込んだという漁師が見つからねえということだぜ」

 お麻がもたせてくれた麦の握り飯を頬張りながら、徳一は欣次きんじに言った。
 欣次もそのぐらいはわかっている。

「仙台藩の河童のことを面白おかしく触れ回っていたのは確かみてえですが、去年の暮れ辺りから姿が見えねえというのはおかしすぎやすぜ」
「―――舟を出したのは二人。その二人ともどこに消えたのかわからねえ。となるとそもそも本当に水死体を見つけたのかどうかさえも怪しくなってくるってもんよ」
「仲間の気を引くための戯言だった、とか……」
「それなら、それでいいんだが、実際目撃したのが二人ともいなくなるってのは薄気味悪すぎンだろ」
「へい」

 ―――始末されたか。
 徳一はそう考えていた。
 竹筒に詰めた水を喉に流し込み、最後の一口を呑み込んだ。
 同時に喉のつっかえみてえに答えが落ちてくれればいいとは思ったが、そううまくはいかない。
 目撃者の漁師が二人も殺されたとすると、今度は別の悩み事が浮かんでくるからだ。

(大川の水死体をやったのと同じ下手人だとすると、伊達家の人間が怪しいが、いくらなんでも六十二万五千六百石のお大名伊達さまの家臣の方々だ。意味もなく漁師なんぞを殺すもんか。最初の一人目はまあ盗みに入った泥棒を無礼うちにしてしまって、たまたま川に流されて橋まで行ってしまったということもありうるが、それだったら普通に奉行所に届け出ればそれで終わりのはずだ)

 盗賊の類いが武家屋敷に忍び込んで狼藉を働いた場合、発見されたと同時に屋敷の主人たちに成敗されても文句はいえない。
 武士はその後に公儀に子細を綴った書き物を作り、届け出をだせばそれで終わることがほとんどだった。
 だが、奉行所の同心である伯之進の調べでは、その頃の伊達家からそういった届け出はされていない。
 大大名らしく内内で処理したのだろう。

 しかし、そうなると消えた漁師二人の行方が気になる。
 いや、十中八九殺されてどこかに埋められているとは思うが、どうしてそんな目にあったのかがさっぱり見当がつかないのだ。
 大大名伊達家のものがそんなことをするものだろうか。
 もし、幕閣にでも露見すればいかに東北の雄の家でも無事では済まない。

 考え事を続けていると、欣次の顔が朱くなっていた。
 西の空が紅く染まりかけている。
 そろそろ日が暮れる、
 今日の探索も一区切りと言ったところか。

「欣次、てめえは今日のところは帰れ。おれは夜になってから、夜鷹連中をしめあげて色々と聞きだしてみる」
「あっしも付き合いますぜ、親分。ここ三日ほど、あまり寝てねえでしょう。おかみさんが心配しやすぜ」
「ふざけんな。おめえは、おれよりも寝てねえだろう。この山では妙に張り切り過ぎだ。少しは休め」
「でも、親分……」

 十七歳の下っぴきはしつこく袖を掴んで食い下がったが、にべもなく振り払う。
 最終的には背中に隠していた十手をとりだして、威嚇しなければならないぐらいにしつこかった。
 それでもしっしと犬のように追い払って徳一は草むらに横になった。
 夜鷹が現われる時間まで時間がある。
 ここで一休みしておかないといざというときに動けない。

 数刻たって目を覚ますと、徳一は灯りもつけずに川沿いに歩き出す。
 反対側にわずかに灯が見える。
 三角州の田安殿の屋敷の奥には両国の町並みがある。
 普段ならば意識したこともない、徳一の守るべき場所を遠目に見やった。
 あそこにはお麻もいるし、馴染みの町民たちが山のようにいる。
 お上の十手持ちとして守ってやらねばならないものたちだ。
 徳一は戦うことのできる武士ではないが、いざというときに芋をひくような男にはなりたくないと常々願っていた。

 歩いていると、ところどころに蠢く影が湧き始めた。
 夜鷹とその客だ。
 どちらも江戸の町では最底辺の連中だが、それでも十手を預かる徳一にとっては守ってやらなきゃならねえものたちに含まれている。
 誰にも知られずに首の骨を折られて死んだ馬喰町の女のような目には合わせたくない。
 
「んー、どいつにしようか」

 まだ宵の口でそんなに多くはない影を物色する。
 片っ端から聞こうとしたら逃げ出されてしまうのがオチだ。
 それなりに厳選しないとならない。
 
「ん?」

 反対側から編み笠を被った痩身の武士が歩いてくる。
 おかしいとは感じた。
 見た目からして浪人ではなく、主君持ちだろう。着ているものはそれなりだ。捨扶持だけ与えられた身分の低い武士ではない。
 だからおかしい。
 この時代、主君のいる武士は夜中は自分の屋敷に居なければならないのが決まりである。
 例外は夜回りや捕物に向かう奉行所の同心などだけだ。
 単に事情があって屋敷に帰り損ねただけだろうか。

 徳一と武士はすれ違った。
 当然、町民に過ぎない徳一が道を譲る形になるが。
 ひやりとした。
 今どき珍しい物騒な雰囲気を持つ武士だったからだろうか。
 すれ違い、背中と背中が対角線上に重なる寸前、背筋にひやりどころか真冬にできる氷柱でも刺しこまれたような痛みが襲った。

 それは徳一の気のせいに過ぎない。
 なぜなら、徳一の襟首が後ろからむんずと掴まれ、次の瞬間に後方に激しく引っ張られそうになったからだ。
 このままこめられた力に従っていけば、徳一は頭から宙を回転して投げ飛ばされていたであろう。
 脳天から地面に叩き落されて、頭蓋骨を粉々にされていたかもしれない。

 だが、そうはならなかった。
 徳一と背中合わせの位置に移動し、後方を見もせずにその襟首を両手で掴み、ややしゃがんだ頭越しに投げつけようとしていたのはたった今すれ違った武士であった。
 あまりにも速い運足の結果によるものであった。
 投げられる相手を確認するために振り向くという無駄はせず、鍛えぬいた観法で正確に襟首の位置を計って、無音のまま脳天から投げるという荒業だったが、それは不発に終わる。

 武士の足下、踏ん張った両脚の狭いまたぐらにびぃぃんと突き立つものがあったせいだ。
 徳一は一瞬で呼吸が困難になりそのまま気を失いかけた。
 もしも背中から投げられていたら死んでいたかもしれない。
 だから、襟首を離されても何があったかわからずに地面に崩れ落ちるしかなかった。

 一方で、投げの形を崩され邪魔された武士は編み笠の中から睨みつける。
 彼の邪魔をしたものは、無骨に木を削って造られたらしい手槍のようだった。
 つまり、まっすぐにそれを投げたものがいる。
 彼の目の前に。
 背中越しに岡っ引きを投げようとする寸前を見計らって。

「……」

 誰何はしない。
 ここで声を出すのは愚の骨頂だ。

「ことにおいては、口を貝のようにつぐみ、敵に一切何も教えない。暗夜に編み笠で顔を隠すのもそのためであるか。うーむ、わいつ、実に見事な刺客っぷりだな」

 月明かりの下、大川のかすかな水の音だけが聞こえる川端の歩道に大柄な浪人ものが、片肌脱いで立ち尽くしていた。
 何故、片肌を脱いだ姿かと言えば答えは決まっている。
 
 ―――この手槍を投げるためだ。

 武士は背中越しに掴んでいた徳一をすでに離していた。
 こんな小者を相手にしている暇はない。
 あの……浪人は通り一遍ではいかぬ相手だ。
 しかも、今のムクリを見られている以上、断じて逃がすわけにはいかない。
 無手のまま深く腰を落として構える。
 右手を高く上げ肘を突きだし、左手は後方に回して平衡を保つ―――山勢厳さんせいがん
 手槍でこちらを仕留めなかったのは岡っ引きを救うためでもあるだろうが、それよりも自分を捕らえるためにわざとやったのだ。
 つまり……

(俺を逃がさないという自信があるのかよ)

 舐められたものだと、武士はかつてない憤怒で我が身を包んだ。



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