陸のくじら侍 -元禄の竜-

陸 理明

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第二話 「くじら侍と河童騒動」

仙台掘

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 徳一の恋女房であるお麻は、四十になるぷっくりとした女だった。
 子供ができなかったことを吐くほど気に病んでいたこともあったが、今では樽のように横に広がっている。
 目方があるせいで古い木造りの上がり框を踏むと耳障りな音がした。
 真新しい障子が朝日によって眩しく光っている。
 つい先日、徳一が女房に頼まれて張り替えたばかりであった。
 お麻は手先がぶきっちょな女であり、そういう細かい仕事が苦手なため、刷毛と糊を奪うようにして障子張りをやった。
 障子は普段から目にするものであるから、下手に張られたものをずっと目につくところにあると、お麻が落ち込むためである。
 強面の十手持ちでありながら、彼はそういう面のある、女房思いの男であった。

「あんた、あんた」

 お麻が声をかけてきた。
 慌てて障子を開ける。
 どうやら飯の支度ができたという訳ではなさそうだった。
 
「どうした? 騒々しいぞ」
欣次きんじさんが来ているよ。あんたに会いたいって。お上の御用でしょ」

 欣次は徳一が使っている下っぴきだ。若くて活きがいい。
 徳一が目をかけて、いずれは自分の後を継がせようとも考えている。
 頭の回転が速く、度胸も据わっている。
 お麻の後ろからやってきた欣次はまだ小僧といってもいい十七歳の若者だった。
 もともと魚のぼてふりの息子だったが、父親が博打で身を持ち崩したのをきっかけでぼてふりから下っぴきになった。
 厄介な賭場やくざに絡まれていたところを徳一が助けてやって、それ以来、まるで職人の親方と弟子のような関係になっている。
 鋭い三白眼の目付きの悪さと眉が薄いので、普通の町民にはとても思えない御面相を気にしているが、威圧感があるということではむしろ岡っ引き向きだと徳一は褒めていた。

「親分、ちぃといいですかい?」
「なんだ」
「親分に言われて、もう少し大川を歩き回って色々と話を聞いてみたんですがね」
「おう。首尾はどうだった」

 二人で色々と聞き込みをして回ったが、さすがに陽が落ちるころには徳一は根をあげて帰宅したが、まだまだ元気そうだった欣次は残してきた。
 夜になれば夜鷹たちが河原に湧きだしてくる。
 幾人か訳ありそうなのをひっ捕まえて聞きだしてこいと発破をかけたのだ。
 徳一を尊敬する欣次は言われた通りにしてきたらしい。
 そして、こんな朝になってやってきたということは何か掴んできたのかもしれない。

「河童についてですがあ、こっちはたいしたものはでやせんでした。饅頭みてえに舟なんかを使っちゃいねえということぐらいですか。あと、随分とよく泳ぐらしくてわりとあちこちで見かけた野郎がいやした」
「そんなこたあ、おれも知っているよ。新大橋から川口橋のあたりで客を物色してんだろ。松平さまの御用地の方にゃいかねえらしいのも聞いた。あんまり川を下ると御厩河岸の渡しに近くに御船手の向井将監さまのお屋敷があるから、舟だらけでそっちにはさっぱり近づかねえ。たまに両国ここらあたりまできていたようだが……」
「―――で、昨日は親分と川沿いにあたりましたよね」

 身振り手振りを交えながら欣次が説明をする。
 欣次の癖であり、子供でも老人でもわかるようにいちいち大きく動くのだ。
 すると、凶状持ちのような顔が妙な愛嬌をみせるようになる。
 意外と人たらしなのだった。

「おう。一日、収穫なしだったがよ」
「あっしが親分と歩いたのは隅田川のこっち。河童が客を取っていた河原の周りを虱潰しでした」
「そうだな」
「ただ、例の河童はよく泳いであちこちで見られている。両国から新大橋まで。歩いたって結構な距離ですよ」

 欣次の言いたいことが今一つわからなかった。

「何が言いてえ」
「あっしはですね。上から下へ、下から上へ、大川を泳いでいけるようなタマでしたら、右から左、左から右へいけても不思議じゃねえと考えたんですわ」
「……なんだと」
「つまり、河童は川向うでも客を取ってんじゃねえかと
「欣次、そりゃあ、てめえ」

 腕を組んで考える。
 確かに大川は川幅がだいたい二町(約218メートル)ほど、泳ぎの達者なものなら簡単に渡りきることができる。
 両国橋と新大橋の二つがあるから普通は泳いで渡ろうと思うものはいないが、水に慣れた男なら容易いことだ。
 河童の夜鷹の目撃例がこちら側に限定されていたこと、そして「女」であるということから、夜の皮を女が泳ぎ渡ることができないと高を括っていたのかもしれない。
 加えて、徳一ら岡っ引きの縄張り意識が無意識に大川の向こう側を避けていたこともあるだろう。
 川を越えれば本所・深川だ。夜鷹が客を取るにはもしかしたら両国界隈よりも絶好の場所かもしれなかった。
 まだ若く、この職業に染まりきっていない欣次だったからすぐに気が付いたのだろう。

「おめえ、それで探ったのか」
「へい」
「見つけたか?」
「いえ、全然。河童どころか、この時期は夜鷹もあまりいやせんでした」
「なんでえ、期待させておいてそれかよ」

 弟子のような欣次のすわお手柄かと興奮したのに肩透かしを受けた気分であった。
 だが、親分の呆れ顔に衝撃を受けた様子もなく、欣次は言った。

「新大橋を渡って、万年橋、上ノ橋、中ノ橋、下ノ橋と川を下っていきやすと、もうすぐ永代の大橋が見えてきやす。まだできていねえ大橋のために働いているそこらの人足どもに聞いてみますと、妙なことを言うんですよ」
「なんだ」
「河童の夜鷹は知らねえが、仙台掘なら陸奥国から伊達の殿様が連れてきた河童が陣取っているってことでした。今の藩主の何々さま―――よく知らねえんですいません―――の領地が陸奥の仙台だから仙台掘の河童一派と呼ばれているらしいでさ」

 河童の産地など知ったことか。
 徳一が知りてえのは河童の夜鷹の氏素性なのだ。

「欣次、てめえ……」
「いや、親分、この話にゃあまだつづきがありやすんで、その拳固を下ろしてくだせえ!」
「なんだよ」

 殴られてはたまらんとばかりに頭を庇いながら、欣次は必死な顔で言った。

「―――仙台掘に河童が棲みついているっていう噂の元が、去年、その伊達さまの蔵屋敷から死体が流れてきたからなんだそうでさ」
「死体だって?」
「ええ。しかも、首の骨が折れてぷらぷらとまるで蛇の尻尾のようになった死体が、上ノ橋の足に引っかかっているところを漁師がみつけやした。で、奉行所に水死体だと伝えようとしたら、仙台藩のお侍がやってきたそうです」

 仙台藩士と名乗った武士は、これはうちの屋敷のものでたまたま足を踏み外して川に落ちて死んだものだ。
 当家の恥になるゆえ黙っていてくれぬか、と漁師たちに大金を渡して、舟を出させて死体を回収させるとついでに屋敷まで運び込ませたという。

 堀を上がると、仙台藩の蔵屋敷がある。
 実際には、収穫された米穀も名産品も貯蔵されていない扱いは下屋敷であった。
 そこは名目上、蔵屋敷であるため、直接伝馬船や猪牙船がつけられる艀があり、屋敷内に続く水路もあるということで死体はここから掘に流れ出たのだろう。
 漁師たちは口止めの金こそ貰ったが、実際はこの話を面白おかしく噂しまくった。
 仙台堀には河童が棲んでいて、仙台藩の屋敷に忍び込んで暴れ回ったのだ、と。
 それ以来、仙台掘は河童が陣取る地として明治に至るまで伝承されることになる。

「今度は河童が殺しをしたってのかよ……」

 首の骨が折れている死体という、河童の夜鷹事件との共通項をどう考えるべきか、徳一は脳みそをぶんぶんと回転させて考えるしかなかった……









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