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第二話 「くじら侍と河童騒動」

河童の夜鷹

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「―――あ、青碕さま」

 近所に住むぼてふりが突然家まで飛び込んできて、

「親分、緑橋のちいせえ祠の裏で女が死んでやすぜ、来てくだせえや。おそらく、夜鷹の死体だ!!」

 と、叫ぶ声で昼寝の途中を起こされた岡っ引きの徳一はとるものもとらずに飛び出して、現場に到着した。
 今年で四十になるというのに軽く走ったせいか、顔が紅潮し、額を滝のように汗が流れている。
 そろそろ沈む太陽の残光にあてられて肌も熱くなっていた。
 もうそろそろ無理はできないと思わなくもないが、馬喰町一帯は彼の縄張りだ。
 他の岡っ引きに荒らされたくはないし、何より検屍にやってくるだろう担当の同心よりも先に到着しておきたかった。
 しかし、それは叶わない。

 徳一が到着したときには、すでに八丁堀の同心が一人、現場に辿り着いていたのだ。
 隅田川の流れる傍にある祠の前には死体発見現場にしてはひとだかりもなく、彼以外の岡っ引きもいなかったが、代わりに北町奉行所所定廻り同心の青崎伯之進が一人立ち尽くしていた。
 補佐をする小者はいない。
 伯之進だけだ。
 まるで美しく化粧を施されて華美に彩られた青々とした竹のようであった。
 徳一が思わず名前を口にすると、ちらりと彼を一瞥をする。

「早かったね、徳一」

 同心より遅くやってきた岡っ引きに対して、一見皮肉にしか聞こえない台詞だが、この若者が言う限り混じりっ気なしの本心なのだろう。
 若干二十歳の、青春の輝きそのものが人の姿をなしたような美貌と、華奢と呼んでもいいほどに細くしなやかな身体をもったこの同心は、身分が下のものを嘲って楽しむ男ではない。
 息を切らして駆けてきた徳一を素直に褒めているのだ。

「青碕さまこそお早い……」

 そのとき、はじめて徳一は伯之進が、黒の紋付羽織の裾を帯の中に内に巻き上げ、挟んだ巻羽織に格子の着流しという、御成り先着流し御免という同心の制服ともいえる格好をしていないことに気が付いた。
 二本差しの刀も閂差しではなく、ごく普通の武士らしく斜めに差されている。
 なにより十手を帯に差していない。

 南北の町奉行所に与力二十五騎、その配下として百二十いる同心、その中でも六人しかいない定町廻同心は自分の屋敷からでるときは、ほとんど御成り先着流し御免の格好が半ば義務付けられている。
 わずかな場合だけしか通常の着物での外出は許されていない。
 つまり、今でいう私服姿だったのである。
 伯之進の顔を知らなければとても八丁堀の同心には見えなかっただろう。

「お珍しいお姿で……」
「増上寺の近くにある道場に稽古にいってきた帰りなんだよ。一日汗を流してきたら、夕暮れ道で女子おなごの死体を見つけてしまった。ちょうど通りがかりのぼてふりがいたので、声をかけておまえを呼びに行ってもらったんだ」
「つぅことは、青碕さまがこの死骸おろくを見つけなさったんで?」
「ああ。気持ちのいい風を愛でながらこの祠の前を通りがかったら妙な胸騒ぎがしてね。覗きこんでみたら、若い女が死んでいたのさ」

 徳一は内心舌を巻く。
 ざっと見た限りでは、前の道を歩いていただけでは死骸の存在に気が付くとは思えない。
 角度からして完全に死角となる位置に倒れているのは明白だからだ。
 しかも、もうすぐ陽が暮れる時間だ。

 太陽の翳も濃く、じっくりと周囲を凝視していたとしてもおいそれと気が付くものではない。
 どんな勘働きがあれば、隠れたところに死体があると気が付くのだろう。
 下手をしたら伯之進自身の狂言を疑わなければならない状況だ。

(それでも、まあ青碕さまの仕業とは思いやしないがね)

 ただ一つ奇妙なのは、増上寺は下目黒にあり、八丁堀の伯之進の屋敷からはだいぶ遠回りをしている。
 むしろ反対側だ。
 少しだけ不審なものを感じると、顔つきから思考を読み取られたのか、

「権藤さんに会いに行こうとしていたところだったんだよ。あの人、最近は柳橋あたりで糸を垂らしているそうだからね」
「ああ、釣り侍さまですかい」
「そうさ。私と権藤さんは馬が合うんだ」

 こういう鋭いところも苦手だった。
 お上から十手を預かって二十年以上、様々な与力・同心をみてきたが、はっきりいって伯之進ほど恐ろしい男は初めてだった。

 この若者はつい先日、浅草を縄張りにしていた源三という岡っ引きが金に殺されて盗賊の一味になったことをつきとめ、刑場で盗賊もろとも首を刎ねさせている。
 悪事こそ働いてしまったが、源三は他の岡っ引きたちにも強い人望があったため、仲間を獄門台に送った伯之進のことを良く思わないものたちもたくさんいたが、表立って態度に出すものは一人もいなかった。
 なぜなら、伯之進はその時の捕物で、十七人の盗賊のうち首魁を含める六人を見事に討ち取っていたからである。
 その前にも源三が雇った九人の破落戸による襲撃も退け、逆に源三を捕らえるという真似をしてのけている。

 元禄の世にそこまでできる強さをもった武士はまずいない。
 江戸に幕府ができた戦国の気風が溢れていた頃や、武芸が盛んで将軍家主催の御前試合が行われた寛永期などと比べれば、武士が目も当てられぬほど軟弱になっている時代なのだ。
 比較的争いごとに関わりやすい奉行所の同心の中にも、伯之進ほどの剣腕の持ち主は数えるほどだろう。

 しかもまだ二十歳だ。
 喧嘩っ早い破落戸に毛が生えたぐらいの岡っ引きでは相手にもならないのは誰の目にも明らかだった。
 加えて、伯之進は天性のものともいうべき事件探索の勘があった。
 この間の盗賊どもを一網打尽にしたのもその勘のおかげだろう。
 これだけ条件がそろうと、岡っ引き連中も渋々とではあるが従うしかない。
 それだけのものがこの若く美貌の同心にはあるのだった。
 もっとも、でもなかったが。

「青碕さま、ご検分はお済みになったので?」
「うん、可哀想に。まだ私と同い年ぐらいでこんな無残な殺され方をするとはね。はやく弔ってやりたいよ」
「ちょいと拝見」

 徳一は座り込んで、横たえられた女の死体を見た。
 二十代になったばかりかもう少しいったぐらい、黒い着物をきている夜鷹のようであった。
 話を伝えに来たぼてふりの言う通りだ。
 この若さで夜鷹とは珍しいと思うし、顔もこの手の春を捧ぐ女にしては信じられないほど綺麗な肌をしていた。
 徳一が顔を背けたのは、上半身を持ち上げようとした瞬間、死体の首が異常な角度でぐにゃりと曲がり背中に垂れ下がったからである。
 クラゲのようであった。
  
「首の骨が……」

 すぐに徳一も気が付く。
 この死体は首の骨が完全に粉砕されてしまっているのだと。
 喉から頚椎にかけての部分が黒くあざになっている。
 どうやら下手人は、素手でこの夜鷹の首を力の限り絞めて骨を破壊したのだろう。
 かなりの膂力の持ち主に違いない。
 
「下手人は化け物じみた怪力の持ち主の男ですか。……女の細い首でもここまで酷く叩き折るとなると相当な力が必要ですぜ」
「力はともかく、いい腕だとは思うよ」
「はっ?」
「徳一、首を絞めた場合はもう少し指の跡がつくものだろう? でも、この女子の喉にはそんなものはない。かといって腕で絞めただけでもこうはならない」
「では、青碕さま。どうすればこんな風に」
「多分、私の見立てが正しければ、これはによるものだろう」
「むくり……たあなんですかい?」

 岡っ引きの疑問には答えず、伯之進は死体の周りを探りだした。
 さっきまでは一人だったせいでろくな調べもできなかったが、今は徳一がいるので死体を放っておいて勝手に動けるようになったおかげだ。

「……むしろがないね。あれは夜鷹の商売には必要なものだろうに。筵がみつからないということは、船饅頭なのかな」

 船饅頭というのは、歩くのに支障をきたした夜鷹が小舟に客を乗せて、大川を一回りしている間に交情するという安い売春婦のことである。
 夜鷹は筵を持ち歩いて、その上で男と寝るのが基本なのだ。
 ちなみに筵は、夜鷹屋という女衒の仕切る店に登録しておけば、手数料と引き換えに小道具として貸し出してもらうことができ、彼女らの大半はそれを利用していた。
 この死体となった女の傍に筵がないということは、筵を使わない身の売り方をしていたとしかいいようがない。

「確かにそうですなあ―――。あ、もしかして、河童なのかもしれやしませんぜ」
「河童? どうみても人だけれども」
「あ、ああ、違うんでさあ。おれもお目にかかったことはねえんですが、ちょいと前から大川で河童みてえなけったいな夜鷹が客を取っているという噂がありやしてね。もしかしたら、この死骸おろく、そいつかもしれませんや」
「河童が春を売って回っているってのかい?」

 伯之進にしては珍しく目を丸くしている。
 それだけ、興味をそそる話だということだ。
 
「ええ、枯れ柳の陰からじゃなくて、大川の真ん中から泳いでやってきて客と寝るっていうおかしな売り方をするそうなんでさ。―――魚のように泳いでくるっていうので、男どもは河童の夜鷹と呼んでいるって話ですぜ。しかも、けっこう若え女で、ババアばかりの夜鷹とは思えねえらしいんです」




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