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永遠とは永久
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「永遠とは永久(とはとはとは)」
五日で終わる世界。あなたとどうやって生きる?
繰り返しの世界。出会った瞬間始まるカウントダウン。
さようなら、はじめまして。
****
①
1day
「はぁぁ……」
窓からはさんさんと日が差し、床頭台には立派な花が飾られている空間に、腹から出たようなため息がこぼれる。それもそうだ。高校二年生、青春真っ盛りの時期に階段から落ちて足を骨折し、入院することになったのだ。何故か個室だし、やる事もなくはないがやる気にならない。また、はぁ、とため息をつくと窓の外の枯葉が一枚散ってテンションが下がった。
「……散歩しよ」
松葉杖必須だが歩き回るのは制限されていないので、気分転換に院内を散歩することに決めた。このままでは腐りそうだ。
「(あー、上着持ってくればよかったかな。ちょっと寒い)」
ぼけーっとゆったりのんびり松葉杖を使って歩いていたら、曲がり角で何かが飛び出してきて、反射的に体を逸らしたら松葉杖が着いてこれず、尻に打撃とカランという無機物が床に落ちた音がした。
「ご、ごめんなさい!!」
尻もちをついたまま目線をあげると同い年くらいの大人しそうな女子が顔を真っ青にして謝ってきた。いや、大丈夫と言う前に音を聞きつけた看護師さんがなんだなんだとやってきて、立ち上がるのを手伝ってくれた。その間も彼女は泣きそうになりながら頭をぺこぺこと下げていた。
「いや、あの、大丈夫だから……」
謝られすぎるのもなんだか気まずい。内心困っていると看護師が「折笠さんはいつもこうだから、気にしないであげて」と笑った。
「あの、あの、本当にごめんなさい!明日お詫びの品持ってくるので、簀巻きで火あぶりとかはやめてください!!」
「しないよ!?」
看護師さんがけらけらと笑っている。なんだこの子……。
「あのさ、お詫びの品とかいいから……とりあえず気をつけて歩いて」
他人のことを言えた立場ではないが、取ってつけたように言う。看護師の視線が痛くてそっぽを向いて歩き出した。あの泣きそうな顔が頭から離れない。
2day
「あのっ、これ、お詫びです!良ければ受け取ってください!」
「……」
傍から見れば一世一代の告白のようだが、中身を見てびっくり、なんともコメントしづらい。
「いや、いいってば……」
決して嫌というわけではない。しかし、申し訳ないような気持ちが先行して言葉が出てきた。それを聞いた彼女はびっくりしたように涙目になったため、俺は慌てて受け取ることとなった。
「あの、うん。ありがとう」
そう絞り出すように言うと彼女はやっと花が咲いたように笑うものだから不覚にもどきりとしてしまった。訂正するかのように受け取った紙袋の中を覗くと、手のひらサイズの箱が入っていた。中身はなんだろう。
「湯呑みです。祖父が陶芸家なんです。昨日の話をしたら持っていきなさいって」
「へえ。もしかしてここに入院してるの?」
「はい、先日転んだ拍子に足折っちゃったみたいで……」
「俺と同じだ」
不思議なくらいにとんとんと会話が続く。まるで今までもこうだったというかのように。そんなむずむずとした感覚が体を巡る。言ってしまおうか。ついさっきまで面倒だと思っていた気持ちは何処かへ飛んでいってしまったようだ。
「ねえ、」
「はい?」
頭一個分低い位置から丁寧な敬語が返ってくる。
「敬語、いらないよ。歳も同じくらいだろうし」
「えっ、えっと、私高校一年生です!」
「あ、俺一つ年上だ」
自然と笑みがこぼれる。
「良ければ仲良くしてください!」
「えっ?」
きょとん、としてしまう。何故ならば今全く同じことを言おうとしたからだ。彼女は一大決心の告白をしたかのように頬を染めてこちらを見上げている。か、可愛い。これは、返事は一つしかない。
「こちらこそ。入院中って暇なんだ。よかったらまた話しようよ」
口角が緩みっぱなしである。会うのは二度目のはずなのに、何故か彼女には何でも話せそうな、なんというか不思議な雰囲気があった。まるで、ずっと一緒にいた存在のような。
「ところで、時間は大丈夫なの?」
「あっ!もう行かなきゃ…」
「小言言われちゃう?」
俺の言葉にふわふわ笑っていた彼女ははっと我に返ったように大きく息を吸い込みすぎて噎せそうになりながら呟いた。続けて俺が言葉を付け足すと申し訳なさそうに頭を下げた。そしてほんのり頬を染めて、
「また、来てもいいですか?」
その答えは、
「もちろん。待ってるよ」
顔が、少し熱い。
3day
「あら?新しい湯呑みにしたのね」
配膳前のお茶配りの看護助手さんが昨日貰ったばかりの湯呑みを手に取る。
「貰ったんです。なんかかっこいいですよね」
「渋いね~少年」
確かに同年代の男子が持っているようなデザインではない。書道この道五十年とかの爺様が愛用していそうな渋いデザインだ。トポポ、と温かなお茶が注がれる音を聞いていると、看護助手さんが、あ、と声を漏らした。
「もしかして、折笠さん?」
「え、なんで知ってるんですか」
ぎょっとした。先日の看護師さんの言葉といい、有名な人なんだろうか。
「お孫さんのお嬢さん、可愛いわよねえ。あ、もしかして……」
「その目やめてくださいそういう関係じゃないですから」
ジト、と目を桃色ムードにさせて見つめてくる看護助手さんに早口で食い気味に返す。まだ、そんなんじゃないし。……まだ?
「……桃色が見える」
「……見えませんから」
結局けらけらと笑いながら去っていった存在が残していった空気で頬が熱くなってくる。そういえば、名前、苗字しか知らない。俺に至っては名乗りもしていない。次に会ったらちゃんと名乗ろう。
そう心に決めると、「次」は思ったより早く訪れた。
「こんにちは、来ちゃいました」
コンコンと控えめなノック音に返事をすると、セーラー服姿の彼女がすすすと静かに現れた。扉の開け方といい、立ち方や雰囲気はやたらいい所のお嬢様感が否めない。あのセーラー服だって、たしかお嬢様学校だったはずだ。
「来てくれてありがとう。普通に来ないかと思ってた」
「えっ、き、来ちゃ駄目でしたか!?」
「いや、嬉しいよ。だから静かに……」
どうにも感情の起伏の激しい子だ。面白いけど病院で大声は出さないでくれ。友人からよく落ち着いてると言われる性格だからか、正反対の彼女を見ていると飽きない。思わずくすくすと笑ってしまう。
「どうしました……?」
「ううん、なんでも。ところで名前言ってなかったよね。俺はゆきと。改めてよろしく」
なんだか緊張する。お見合いみたいだ。笑っていなければ緊張に押しつぶされていたかもしれない。
「わっ、わたしは、ゆきって言います!名前、似てますね……ふふ」
今日初めて見せてくれる笑顔に、俺も笑顔がこぼれる。
「はは、たしかに」
「……ゆきとさん」
「なに?」
唐突に呼ばれた名前に首を傾げる。
「えへ、呼んだだけです」
「……それ、他でもやってる?」
この子は全くもう。思わせぶりな態度にため息をもらすと、「初めてですよ?」と返された。どき、どき、と鼓動が跳ねているのがよく分かる。もう一度ため息をついて彼女、ゆきを見ると、頬を染めて、はにかんでいた。こんなの、勘違いしてしまうじゃないか。
「また、来てくれる?」
なんとなく、少しすがるように言うと、ゆきはぱっと花が咲いたように破顔して「はい!」と贈り物をくれた。「約束」という名の呪いにも似た優しい贈り物を。
4day
次の日、ゆきは休日だからか午前中から来てくれた。もう使い慣れた松葉杖を使って、大きな窓のある渡り廊下まで一緒に歩いてきた。
「椅子に座らなくて大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ。座ってばかりは飽きたんだ」
あの日「敬語はいらない」と言ったのに未だ敬語全開のゆきにももう慣れた。
窓の外は薄曇りで、雨が降り出しそうだ。看護師さんが言っていた天気予報では明日にかけて雨で、明日は台風らしい。
「明日は来ない方がいいかもね」
「えっ!?」
俺の言葉に一気に絶望の顔になるゆきに、慌てて言葉を付け足した。
「台風らしいからさ。危ないだろ」
「ああ、そういえば天気予報で言ってましたねえ」
一転、のほほんと縁側でお茶でも飲んでそうな穏やかな眼差しでCMがどうだこうだ言い出した。
「冷たい牛乳で溶ける抹茶オレが好きなんですよ」
だいぶ話が飛んだな。ふんふんとゆき任せに話を聞いていると話題が飛ぶ飛ぶ。おそらく彼女の中では繋がっている話なんだろうが、聞いてる側からしたらあっちこっちそっちに飛び交う話題にてんてこ舞いだ。しかし、そんな所にも愛しさを生み出してしまった。
「退院したら、俺も飲んでみようかな」
「是非!」
それから、何が好きとか苦手とか、お互いのことを笑顔片手に話し合った。話は尽きない。ゆきが頬を染めて喋る、発する言葉ひとつひとつが宝物のようで、キラキラと輝いている。Maybeに近いこの気持ち、いつか大きくなったら伝えられるだろうか。彼女も、同じだったらなんて幸せなんだろうと思ってしまう。
5day
昨晩深夜から風がごうごうと音を大きくしていき、朝になった頃には窓に叩きつける雨で外が見えないくらいだった。こんな台風なのに出勤してくる看護師さんには頭が上がらないなと心底思った。と、同時に、今日は会えないなとがっかりする自分がいた。俺が「来ない方がいい」と言ったのに。危ないから来ない方がいいのに、なんだか心細くなる台風の日にはゆきが居て欲しいと思ってしまった。
ぼーっと、雨がうちつける窓を眺める。すると、廊下からバタバタと忙しない音に続きストレッチャーの動くガラガラとした音が聞こえた。誰か移動するんだろうか。それにしては切羽詰まった雰囲気が扉越しに感じる。
耳をすましていると、「折笠さん」「御家族に連絡を」というワードが続けて聞こえてきた。
折笠さん?ゆきの家族の容態が急変したんだろうか。心配と同時に、「ゆきに会えるかもしれない」というはたからみれば不謹慎かもしれない思いが頭をよぎった。
集中治療室は階下にある。ほんの少しの下心を手に散歩と称し部屋を出た。
sideY
雨が叩きつける音に紛れて、電話が鳴り響いた。近くにいたお父さんが電話に出ると、少しして険しい顔になり、こちらもどきりとする。はい、はい、と固い声で短時間話した後電話を切り、
「ゆき、病院に行くよ」
なんとなく、察してしまった。
頭が真っ白になる。
急いで鞄を持ってお父さんと二人で家を出ると雨が横殴りで襲いかかってくる。傘が壊れそうだ。車が停めてある駐車場まで少し歩かなければならない。お父さんを先頭に、暴風雨にもまれながら先へ進む。前なんて見えない。だから、駄目だったんだ。
「ゆき!!」
聞いたことの無いくらい大きなお父さんの声がする。反射的に体が止まる。足元に大きな影が出来ていた。
sideY終
どうしてこんな時に限って整備するんだろうか。唯一のエレベーターの前には「整備中」という看板が置いてあって、周囲にはテープが貼られていた。
「(面倒だけど階段使うか……)」
エレベーターの横にある階段へ目を向け、足を進めていく。
下りの階段はなかなかに怖い。雨に濡れた皆の靴のせいで階段は滑りやすくなっているし、一段一段がやたら時間がかかる。はあ、とため息をつくと、階下から賑やかな声が聞こえてきた。子供だろうか、階段を走る音も聞こえてきたので避けなきゃ、と思い、松葉杖をずらすと、体が傾き、慌てて踏ん張ろうとした足に激痛が走り思わず松葉杖を手放してしまった。しまった。と思う頃にはもう遅く、目下には落ちていく松葉杖と落ちていく世界。そんな時にも、ゆきに会いたいという想いが胸を満たした。
「あと二人入れますか!?」
「二人!?」
「いいからそこ並べて!」
やけに切羽詰まった音が聞こえる。ガラガラと既視感のある音が体の下から聞こえてきた。酷く苦しい。痛い。息ができない。痛い。目を開けるのもつらい。やや乱暴にも感じる手つきで体を移動させられたのがわかる。少しすると名前を何度も呼ばれるが、痛みで反応できない。喉が焼けているようだ。近くで「折笠さん」と呼ぶ声にどきりとした。ああ、ゆきの家族も運ばれていたんだったな。ぎぎ、と微かに動く首を錆びたロボットのように動かし、痛みに耐えながら目を開くと、そこには信じ難い光景があった。
ゆき、ゆきだ。
頭から血を流し目を瞑るゆきが隣にいる。意識は明らかになく、顔も真っ白だ。死人のようなゆきの姿に、痛みが薄れてきたように感覚がふわふわとしてきた。なんだこの感覚は。ショックで痛みが和らいでいるのだろうか。瞬きをすると、ピーという電子音が鳴り響いた。やたら長くなる音に、嫌な予感が体中を駆け抜けた。
いや、待て。まさか、そうじゃないだろ。頭が真っ白になり、視界も暗くなり始める。嘘だろ。嘘だって言ってくれよ。ゆき、目を開けて、また控えめなノックをして会いに来てよ。まだ伝えてないことがたくさんあるんだ。まだ何も伝えてないんだ。これからの二人に向けた言葉すら、伝えられないのか。ゆき、ゆき。また、名前を、呼んで……
「御家族はまだ来ないの!?」
真っ暗で寒い世界に一人きりで立っている。涙が、一筋こぼれる。
電子音の高い音が再び鳴り響いた。
②
吾輩は猫である。名前はおそらくない。
この世に野良猫として生まれて早一年、なんとか野良の世界を生き延び道行く人間に餌をもらい、時には家の中に入れてもらい温もりを感じ、生きてきた。しかしまだ名前を呼ばれたことがない。知り合いの猫達は名前をもらっていることが大半で、時々羨ましくなる。たった一言で己を肯定する言葉。どうせ野良、長くは生きられないのだから、せめて誰かに名前を呼ばれたい。
雨上がりの団地の入口横、ぼーっとしていたせいか近付く人影に気づかなかった。
「あれ?見ない子だね、新人さん?」
柔らかな男性の声が水たまりに反響するように耳に入り込んだ。慌てて顔を洗うと男性はくすくすと目を細めて更に近づいてきた。普段なら逃げているところだが、何故だかその気が起きない。陽だまりのような声のせいだろうか。くしくしと顔を洗うのをやめて男性をじっと見やると、それはそれは嬉しそうに目の前にしゃがんだ。
「可愛い子だね。ふわふわで真っ白で雪みたい」
ゆき、とはなんだろうか。私は何に似ているのだろうか。首を傾げると男性はまたうふふと私の真似をするように首を傾げて大層楽しそうに笑った。
「今いるのは君だけみたいだね。ほら、ご飯だよ、食べる?」
缶をパカッと開ける音が心地よい。一気にいい匂いがするものだから男性に飛びついてしまった。
「おっと。あはは、お腹すいてるのかな?」
ここへ来てから男性はずっとにこにこしている。すんすんと缶を持つ手に擦り寄ると大きく温かい手が私の頭をふわりと撫でた。ほんのり香る花のような香りと共に地面に置かれる缶に、男性をじっと見つめると、
「はい、どうぞ」
花なんて数える程しか知らないが、男性から香る花はさぞ美しいんだと思う。
2day
小雨の雫が落ちる。雨は嫌いだ。生まれて間もない私は、母親に雨の中に置いてかれたからだ。屋根替わりにしている歩道橋の根元で丸まっているとふと花の香りがした。雫に混じってしっとりと香るそれは、あの人のものだった。
「今日はここにいたんだね、猫ちゃん」
大きな傘を傾けて腰を折る男性に、昨日の缶詰の味を思い出す。ああ、美味しかったなあ。
「でもごめんね。今は猫缶持ってないんだ」
申し訳なさそうに眉を下げる男性に、お腹空いてないから別にいいよと鳴くと男性はぱちくりと目を瞬かせてから花が咲くように笑った。途端、何かが満たされる感覚。
「きみはやさしいね」
また昨日のように優しく撫でられる。やめてよ。どうしよう、大好きになっちゃうよ。
離れていく手をすんすん鼻をつけてからすりすりと擦り寄ると、男性は至極嬉しそうに声をあげて笑った。
「ありがとう。お礼にきみに名前をつけたいんだけど、いいかな?」
名前。名前。呼ばれるだけで生き返れるもの。
思わず、ちょうだい!と鳴くとまた男性は笑って、「まかせて、素敵な名前を考えておくよ!」と目尻を下げた。
ぽかぽかとする。雨は大嫌いで寒いのも大嫌いで、今日は大嫌いだったはずなのに、大好きな日になってしまった。
3day
今日もまた、お兄さんがやってきてくれたが、何やらしょんぼりというかめっそりというか、とにかくテンションが低い。にゃーにゃーと人間専用の声を出して機嫌をとろうとすると、それすらバレたのかお兄さんは切なそうに薄く笑った。
「今度お見合いが決まっちゃってさ……相手方は動物が嫌いらしいから気が乗らないんだよね……」
お見合い。初めてのワードにぽかんとしているとお兄さんは丁寧に「お見合い」を教えてくれた。話を聞く限り、私も行くのは嫌になる。それでも義理を通すために行こうとするお兄さんは偉大だ。缶詰のご飯並に偉大だ。
はあ、と大きなため息をついて私の隣に座ると横で丸まる私をわしわしと珍しく音を立てるように大きく撫でた。頭がぐわんぐわんした。にゃあ、とひと鳴きするとお兄さんはようやく朗らかに笑った。
「ああ、ごめんね。まだ名前決まってなくて……きみには素敵なものを貰ってばかりなのに、全然返せなくてごめんね……」
素敵なもの?お兄さんを見つめて鳴くと、ふふ、とはにかんだ。
「癒しだよ。僕の居場所さ」
4day
「けほっ、ごほっ。……ああ、ごめんね、今朝から咳が止まらなくて」
雨はまたしとしとと降っている。咳をしながら花の香りを纏ってやってきたお兄さんはどこか具合が悪そうだ。歩道橋の陰から歩いてくるお兄さんに駆け寄ると片手で抱き上げてくれた。暖かい。また、ぽかぽかした。
「明日、お見合いなんだけどね……」
いつもより近い距離のお兄さんにちょっとどきどきしてしまう。ふと、現実逃避のようにお兄さんが顔色を変えた。
「ねえ、なんだか僕達って初めて会った気がしないよね」
じっとお兄さんを見つめる。
「きみとはずっとずっと前から一緒にいた気がするんだ」
……だなんて、猫ちゃん相手におかしな奴だよな。
そんな事ない、あなたの愛をもっと知りたい。叫ぶようにお兄さんに頭突きをして鳴く。
「……きみも、そう思ってくれる?」
冗談半分じゃない。少し垂れた瞳が揺らぐ。でもそれは希望だ。私達が一緒にいられるという小さな魔法。そんな魔法をお兄さんはかけてくれた。お兄さんがおじさんになって、私がおばあちゃんになっても、その後も一緒にいようと、プロポーズのようだ。
「あは、まるでプロポーズみたいだ」
顔色が悪いながらに楽しそうに笑うお兄さんの顔に擦り寄る。
「あっ、ねえ、やっと名前が思いついたんだ」
「メルシー」って名前はどうかな?きみはメルシー。僕の感謝の気持ちだよ。
5day
吾輩は猫である。名前はメルシー。この名前ひとつで私は何度も立ち上がれる。勇気をくれた、偉大な名前だ。
空は晴れ渡り、まさしくお見合い日和だ。しかし私は今日、悪い事を企んでいる。知られたらお兄さんにも苦い顔をされてしまうかもしれない。だが、あんな悲しそうなお兄さんの顔は見たくない。それにきっと、お見合いが成立されてしまったらもう会えなくなるかもしれない。だから、私は、お見合いを破綻させることに決めた。
お兄さんがいつも通る道の物陰に隠れて、お兄さんが通るのを待つ。あっ、お兄さんだ。いつものさらさらした布じゃなくて、ピシッとした服を着ている。かっこいい。
私は、そろそろとお兄さんの後をついて行った。
車に乗って遠くへ行ったらどうしようかと思ったが、目的地はここらで一番目立つ建物の横にある厳かかつ静かな建物へお兄さんは入っていった。集会で聞いたことがある。あれは「料亭」というらしい。話によると中庭があるようで、そこへ向かうことにした。
中庭は小さな池と時折高い音を鳴らす謎の物体がよく目立つ。木々は青々としていて、猫としても居心地が良さそうだ。ごろごろしたい。いや、だめだ。しっかりしないと。顔を洗って気を引き締めると、廊下の向こうからお兄さんと、女性の声がした。ピリリと緊張が走る。
「私、サボテンが好きなんですよ~でも虫が苦手なので虫除けは必須なんです~」
あの女性が動物嫌いな人か。猫としては警戒しなければならない。
「そ、そうなんですね……」
一方お兄さんはやはり顔色が悪くて時折咳をしている。なのに女性の方は気にせず自分の話ばかりしているのに少しカチンと来た。よし、もう出てしまおう。
「きゃっ!野良猫!?」
ガサッとわざと音を立てて中庭を駆けてお兄さんの方へ向かうと、案の定女性は悲鳴をあげた。少し申し訳なくなる。でも、お兄さんのためなんだ。我慢して欲しい。
「えっ……メルシー?」
お兄さんは目をまん丸にしてから、また咳をした。大丈夫?と言っても咳は止まらない。
「あのっ!この猫追い出してもらえますか!?私猫が一番嫌いなの!!」
半ばヒステリックに叫ぶ女性をよそにお兄さんは咳がだんだん強くなっていき、今までで一番大きな咳と共にゴプッと水の音がした。お兄さんが膝をつく。口元をおさえた手のひらの隙間から赤い液体が垂れてきた。
「え、大丈夫ですか……?っあの!誰か来てください!誰か!」
女性も膝をついて叫ぶ。どうしよう。どうしよう。お兄さん苦しそうだ。猫の自分には何も出来ない。しかしそんな私を見つめるお兄さんの瞳はいつも通り優しかった。
「……あんた、いつまでいるのよ。邪魔なのよ!」
大きなヒステリックな声と同時に腹部に衝撃が走った。あ、蹴り飛ばされたんだ。と気付いた時には水中にいた。雨は嫌いだ。水も嫌いだ。でもお兄さんが雨も花の香りに変えてくれた。ぶくぶくと己が沈んでいくなかお兄さんは大丈夫だろうかとそればかり考えてしまう。息が苦しい。体が重い。お兄さん。お兄さん。名前を呼んで。
「……メルシー?」
赤いランプが存在を主張する車にストレッチャーで乗せられると、やっと気がついたように息苦しさがやってきた。肺が刺されるように痛い。呼吸が上手く出来ない。周りで何か言っているようだが、何も聞こえない。一瞬気を失う直前に見えた、池に落ちるメルシーの姿が心配で仕方ない。だが、ひどい眠気だ。メルシー、待ってて。すぐ戻るから。だから、名前を呼んだら来てほしいな。
五日で終わる世界。あなたとどうやって生きる?
繰り返しの世界。出会った瞬間始まるカウントダウン。
さようなら、はじめまして。
****
①
1day
「はぁぁ……」
窓からはさんさんと日が差し、床頭台には立派な花が飾られている空間に、腹から出たようなため息がこぼれる。それもそうだ。高校二年生、青春真っ盛りの時期に階段から落ちて足を骨折し、入院することになったのだ。何故か個室だし、やる事もなくはないがやる気にならない。また、はぁ、とため息をつくと窓の外の枯葉が一枚散ってテンションが下がった。
「……散歩しよ」
松葉杖必須だが歩き回るのは制限されていないので、気分転換に院内を散歩することに決めた。このままでは腐りそうだ。
「(あー、上着持ってくればよかったかな。ちょっと寒い)」
ぼけーっとゆったりのんびり松葉杖を使って歩いていたら、曲がり角で何かが飛び出してきて、反射的に体を逸らしたら松葉杖が着いてこれず、尻に打撃とカランという無機物が床に落ちた音がした。
「ご、ごめんなさい!!」
尻もちをついたまま目線をあげると同い年くらいの大人しそうな女子が顔を真っ青にして謝ってきた。いや、大丈夫と言う前に音を聞きつけた看護師さんがなんだなんだとやってきて、立ち上がるのを手伝ってくれた。その間も彼女は泣きそうになりながら頭をぺこぺこと下げていた。
「いや、あの、大丈夫だから……」
謝られすぎるのもなんだか気まずい。内心困っていると看護師が「折笠さんはいつもこうだから、気にしないであげて」と笑った。
「あの、あの、本当にごめんなさい!明日お詫びの品持ってくるので、簀巻きで火あぶりとかはやめてください!!」
「しないよ!?」
看護師さんがけらけらと笑っている。なんだこの子……。
「あのさ、お詫びの品とかいいから……とりあえず気をつけて歩いて」
他人のことを言えた立場ではないが、取ってつけたように言う。看護師の視線が痛くてそっぽを向いて歩き出した。あの泣きそうな顔が頭から離れない。
2day
「あのっ、これ、お詫びです!良ければ受け取ってください!」
「……」
傍から見れば一世一代の告白のようだが、中身を見てびっくり、なんともコメントしづらい。
「いや、いいってば……」
決して嫌というわけではない。しかし、申し訳ないような気持ちが先行して言葉が出てきた。それを聞いた彼女はびっくりしたように涙目になったため、俺は慌てて受け取ることとなった。
「あの、うん。ありがとう」
そう絞り出すように言うと彼女はやっと花が咲いたように笑うものだから不覚にもどきりとしてしまった。訂正するかのように受け取った紙袋の中を覗くと、手のひらサイズの箱が入っていた。中身はなんだろう。
「湯呑みです。祖父が陶芸家なんです。昨日の話をしたら持っていきなさいって」
「へえ。もしかしてここに入院してるの?」
「はい、先日転んだ拍子に足折っちゃったみたいで……」
「俺と同じだ」
不思議なくらいにとんとんと会話が続く。まるで今までもこうだったというかのように。そんなむずむずとした感覚が体を巡る。言ってしまおうか。ついさっきまで面倒だと思っていた気持ちは何処かへ飛んでいってしまったようだ。
「ねえ、」
「はい?」
頭一個分低い位置から丁寧な敬語が返ってくる。
「敬語、いらないよ。歳も同じくらいだろうし」
「えっ、えっと、私高校一年生です!」
「あ、俺一つ年上だ」
自然と笑みがこぼれる。
「良ければ仲良くしてください!」
「えっ?」
きょとん、としてしまう。何故ならば今全く同じことを言おうとしたからだ。彼女は一大決心の告白をしたかのように頬を染めてこちらを見上げている。か、可愛い。これは、返事は一つしかない。
「こちらこそ。入院中って暇なんだ。よかったらまた話しようよ」
口角が緩みっぱなしである。会うのは二度目のはずなのに、何故か彼女には何でも話せそうな、なんというか不思議な雰囲気があった。まるで、ずっと一緒にいた存在のような。
「ところで、時間は大丈夫なの?」
「あっ!もう行かなきゃ…」
「小言言われちゃう?」
俺の言葉にふわふわ笑っていた彼女ははっと我に返ったように大きく息を吸い込みすぎて噎せそうになりながら呟いた。続けて俺が言葉を付け足すと申し訳なさそうに頭を下げた。そしてほんのり頬を染めて、
「また、来てもいいですか?」
その答えは、
「もちろん。待ってるよ」
顔が、少し熱い。
3day
「あら?新しい湯呑みにしたのね」
配膳前のお茶配りの看護助手さんが昨日貰ったばかりの湯呑みを手に取る。
「貰ったんです。なんかかっこいいですよね」
「渋いね~少年」
確かに同年代の男子が持っているようなデザインではない。書道この道五十年とかの爺様が愛用していそうな渋いデザインだ。トポポ、と温かなお茶が注がれる音を聞いていると、看護助手さんが、あ、と声を漏らした。
「もしかして、折笠さん?」
「え、なんで知ってるんですか」
ぎょっとした。先日の看護師さんの言葉といい、有名な人なんだろうか。
「お孫さんのお嬢さん、可愛いわよねえ。あ、もしかして……」
「その目やめてくださいそういう関係じゃないですから」
ジト、と目を桃色ムードにさせて見つめてくる看護助手さんに早口で食い気味に返す。まだ、そんなんじゃないし。……まだ?
「……桃色が見える」
「……見えませんから」
結局けらけらと笑いながら去っていった存在が残していった空気で頬が熱くなってくる。そういえば、名前、苗字しか知らない。俺に至っては名乗りもしていない。次に会ったらちゃんと名乗ろう。
そう心に決めると、「次」は思ったより早く訪れた。
「こんにちは、来ちゃいました」
コンコンと控えめなノック音に返事をすると、セーラー服姿の彼女がすすすと静かに現れた。扉の開け方といい、立ち方や雰囲気はやたらいい所のお嬢様感が否めない。あのセーラー服だって、たしかお嬢様学校だったはずだ。
「来てくれてありがとう。普通に来ないかと思ってた」
「えっ、き、来ちゃ駄目でしたか!?」
「いや、嬉しいよ。だから静かに……」
どうにも感情の起伏の激しい子だ。面白いけど病院で大声は出さないでくれ。友人からよく落ち着いてると言われる性格だからか、正反対の彼女を見ていると飽きない。思わずくすくすと笑ってしまう。
「どうしました……?」
「ううん、なんでも。ところで名前言ってなかったよね。俺はゆきと。改めてよろしく」
なんだか緊張する。お見合いみたいだ。笑っていなければ緊張に押しつぶされていたかもしれない。
「わっ、わたしは、ゆきって言います!名前、似てますね……ふふ」
今日初めて見せてくれる笑顔に、俺も笑顔がこぼれる。
「はは、たしかに」
「……ゆきとさん」
「なに?」
唐突に呼ばれた名前に首を傾げる。
「えへ、呼んだだけです」
「……それ、他でもやってる?」
この子は全くもう。思わせぶりな態度にため息をもらすと、「初めてですよ?」と返された。どき、どき、と鼓動が跳ねているのがよく分かる。もう一度ため息をついて彼女、ゆきを見ると、頬を染めて、はにかんでいた。こんなの、勘違いしてしまうじゃないか。
「また、来てくれる?」
なんとなく、少しすがるように言うと、ゆきはぱっと花が咲いたように破顔して「はい!」と贈り物をくれた。「約束」という名の呪いにも似た優しい贈り物を。
4day
次の日、ゆきは休日だからか午前中から来てくれた。もう使い慣れた松葉杖を使って、大きな窓のある渡り廊下まで一緒に歩いてきた。
「椅子に座らなくて大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ。座ってばかりは飽きたんだ」
あの日「敬語はいらない」と言ったのに未だ敬語全開のゆきにももう慣れた。
窓の外は薄曇りで、雨が降り出しそうだ。看護師さんが言っていた天気予報では明日にかけて雨で、明日は台風らしい。
「明日は来ない方がいいかもね」
「えっ!?」
俺の言葉に一気に絶望の顔になるゆきに、慌てて言葉を付け足した。
「台風らしいからさ。危ないだろ」
「ああ、そういえば天気予報で言ってましたねえ」
一転、のほほんと縁側でお茶でも飲んでそうな穏やかな眼差しでCMがどうだこうだ言い出した。
「冷たい牛乳で溶ける抹茶オレが好きなんですよ」
だいぶ話が飛んだな。ふんふんとゆき任せに話を聞いていると話題が飛ぶ飛ぶ。おそらく彼女の中では繋がっている話なんだろうが、聞いてる側からしたらあっちこっちそっちに飛び交う話題にてんてこ舞いだ。しかし、そんな所にも愛しさを生み出してしまった。
「退院したら、俺も飲んでみようかな」
「是非!」
それから、何が好きとか苦手とか、お互いのことを笑顔片手に話し合った。話は尽きない。ゆきが頬を染めて喋る、発する言葉ひとつひとつが宝物のようで、キラキラと輝いている。Maybeに近いこの気持ち、いつか大きくなったら伝えられるだろうか。彼女も、同じだったらなんて幸せなんだろうと思ってしまう。
5day
昨晩深夜から風がごうごうと音を大きくしていき、朝になった頃には窓に叩きつける雨で外が見えないくらいだった。こんな台風なのに出勤してくる看護師さんには頭が上がらないなと心底思った。と、同時に、今日は会えないなとがっかりする自分がいた。俺が「来ない方がいい」と言ったのに。危ないから来ない方がいいのに、なんだか心細くなる台風の日にはゆきが居て欲しいと思ってしまった。
ぼーっと、雨がうちつける窓を眺める。すると、廊下からバタバタと忙しない音に続きストレッチャーの動くガラガラとした音が聞こえた。誰か移動するんだろうか。それにしては切羽詰まった雰囲気が扉越しに感じる。
耳をすましていると、「折笠さん」「御家族に連絡を」というワードが続けて聞こえてきた。
折笠さん?ゆきの家族の容態が急変したんだろうか。心配と同時に、「ゆきに会えるかもしれない」というはたからみれば不謹慎かもしれない思いが頭をよぎった。
集中治療室は階下にある。ほんの少しの下心を手に散歩と称し部屋を出た。
sideY
雨が叩きつける音に紛れて、電話が鳴り響いた。近くにいたお父さんが電話に出ると、少しして険しい顔になり、こちらもどきりとする。はい、はい、と固い声で短時間話した後電話を切り、
「ゆき、病院に行くよ」
なんとなく、察してしまった。
頭が真っ白になる。
急いで鞄を持ってお父さんと二人で家を出ると雨が横殴りで襲いかかってくる。傘が壊れそうだ。車が停めてある駐車場まで少し歩かなければならない。お父さんを先頭に、暴風雨にもまれながら先へ進む。前なんて見えない。だから、駄目だったんだ。
「ゆき!!」
聞いたことの無いくらい大きなお父さんの声がする。反射的に体が止まる。足元に大きな影が出来ていた。
sideY終
どうしてこんな時に限って整備するんだろうか。唯一のエレベーターの前には「整備中」という看板が置いてあって、周囲にはテープが貼られていた。
「(面倒だけど階段使うか……)」
エレベーターの横にある階段へ目を向け、足を進めていく。
下りの階段はなかなかに怖い。雨に濡れた皆の靴のせいで階段は滑りやすくなっているし、一段一段がやたら時間がかかる。はあ、とため息をつくと、階下から賑やかな声が聞こえてきた。子供だろうか、階段を走る音も聞こえてきたので避けなきゃ、と思い、松葉杖をずらすと、体が傾き、慌てて踏ん張ろうとした足に激痛が走り思わず松葉杖を手放してしまった。しまった。と思う頃にはもう遅く、目下には落ちていく松葉杖と落ちていく世界。そんな時にも、ゆきに会いたいという想いが胸を満たした。
「あと二人入れますか!?」
「二人!?」
「いいからそこ並べて!」
やけに切羽詰まった音が聞こえる。ガラガラと既視感のある音が体の下から聞こえてきた。酷く苦しい。痛い。息ができない。痛い。目を開けるのもつらい。やや乱暴にも感じる手つきで体を移動させられたのがわかる。少しすると名前を何度も呼ばれるが、痛みで反応できない。喉が焼けているようだ。近くで「折笠さん」と呼ぶ声にどきりとした。ああ、ゆきの家族も運ばれていたんだったな。ぎぎ、と微かに動く首を錆びたロボットのように動かし、痛みに耐えながら目を開くと、そこには信じ難い光景があった。
ゆき、ゆきだ。
頭から血を流し目を瞑るゆきが隣にいる。意識は明らかになく、顔も真っ白だ。死人のようなゆきの姿に、痛みが薄れてきたように感覚がふわふわとしてきた。なんだこの感覚は。ショックで痛みが和らいでいるのだろうか。瞬きをすると、ピーという電子音が鳴り響いた。やたら長くなる音に、嫌な予感が体中を駆け抜けた。
いや、待て。まさか、そうじゃないだろ。頭が真っ白になり、視界も暗くなり始める。嘘だろ。嘘だって言ってくれよ。ゆき、目を開けて、また控えめなノックをして会いに来てよ。まだ伝えてないことがたくさんあるんだ。まだ何も伝えてないんだ。これからの二人に向けた言葉すら、伝えられないのか。ゆき、ゆき。また、名前を、呼んで……
「御家族はまだ来ないの!?」
真っ暗で寒い世界に一人きりで立っている。涙が、一筋こぼれる。
電子音の高い音が再び鳴り響いた。
②
吾輩は猫である。名前はおそらくない。
この世に野良猫として生まれて早一年、なんとか野良の世界を生き延び道行く人間に餌をもらい、時には家の中に入れてもらい温もりを感じ、生きてきた。しかしまだ名前を呼ばれたことがない。知り合いの猫達は名前をもらっていることが大半で、時々羨ましくなる。たった一言で己を肯定する言葉。どうせ野良、長くは生きられないのだから、せめて誰かに名前を呼ばれたい。
雨上がりの団地の入口横、ぼーっとしていたせいか近付く人影に気づかなかった。
「あれ?見ない子だね、新人さん?」
柔らかな男性の声が水たまりに反響するように耳に入り込んだ。慌てて顔を洗うと男性はくすくすと目を細めて更に近づいてきた。普段なら逃げているところだが、何故だかその気が起きない。陽だまりのような声のせいだろうか。くしくしと顔を洗うのをやめて男性をじっと見やると、それはそれは嬉しそうに目の前にしゃがんだ。
「可愛い子だね。ふわふわで真っ白で雪みたい」
ゆき、とはなんだろうか。私は何に似ているのだろうか。首を傾げると男性はまたうふふと私の真似をするように首を傾げて大層楽しそうに笑った。
「今いるのは君だけみたいだね。ほら、ご飯だよ、食べる?」
缶をパカッと開ける音が心地よい。一気にいい匂いがするものだから男性に飛びついてしまった。
「おっと。あはは、お腹すいてるのかな?」
ここへ来てから男性はずっとにこにこしている。すんすんと缶を持つ手に擦り寄ると大きく温かい手が私の頭をふわりと撫でた。ほんのり香る花のような香りと共に地面に置かれる缶に、男性をじっと見つめると、
「はい、どうぞ」
花なんて数える程しか知らないが、男性から香る花はさぞ美しいんだと思う。
2day
小雨の雫が落ちる。雨は嫌いだ。生まれて間もない私は、母親に雨の中に置いてかれたからだ。屋根替わりにしている歩道橋の根元で丸まっているとふと花の香りがした。雫に混じってしっとりと香るそれは、あの人のものだった。
「今日はここにいたんだね、猫ちゃん」
大きな傘を傾けて腰を折る男性に、昨日の缶詰の味を思い出す。ああ、美味しかったなあ。
「でもごめんね。今は猫缶持ってないんだ」
申し訳なさそうに眉を下げる男性に、お腹空いてないから別にいいよと鳴くと男性はぱちくりと目を瞬かせてから花が咲くように笑った。途端、何かが満たされる感覚。
「きみはやさしいね」
また昨日のように優しく撫でられる。やめてよ。どうしよう、大好きになっちゃうよ。
離れていく手をすんすん鼻をつけてからすりすりと擦り寄ると、男性は至極嬉しそうに声をあげて笑った。
「ありがとう。お礼にきみに名前をつけたいんだけど、いいかな?」
名前。名前。呼ばれるだけで生き返れるもの。
思わず、ちょうだい!と鳴くとまた男性は笑って、「まかせて、素敵な名前を考えておくよ!」と目尻を下げた。
ぽかぽかとする。雨は大嫌いで寒いのも大嫌いで、今日は大嫌いだったはずなのに、大好きな日になってしまった。
3day
今日もまた、お兄さんがやってきてくれたが、何やらしょんぼりというかめっそりというか、とにかくテンションが低い。にゃーにゃーと人間専用の声を出して機嫌をとろうとすると、それすらバレたのかお兄さんは切なそうに薄く笑った。
「今度お見合いが決まっちゃってさ……相手方は動物が嫌いらしいから気が乗らないんだよね……」
お見合い。初めてのワードにぽかんとしているとお兄さんは丁寧に「お見合い」を教えてくれた。話を聞く限り、私も行くのは嫌になる。それでも義理を通すために行こうとするお兄さんは偉大だ。缶詰のご飯並に偉大だ。
はあ、と大きなため息をついて私の隣に座ると横で丸まる私をわしわしと珍しく音を立てるように大きく撫でた。頭がぐわんぐわんした。にゃあ、とひと鳴きするとお兄さんはようやく朗らかに笑った。
「ああ、ごめんね。まだ名前決まってなくて……きみには素敵なものを貰ってばかりなのに、全然返せなくてごめんね……」
素敵なもの?お兄さんを見つめて鳴くと、ふふ、とはにかんだ。
「癒しだよ。僕の居場所さ」
4day
「けほっ、ごほっ。……ああ、ごめんね、今朝から咳が止まらなくて」
雨はまたしとしとと降っている。咳をしながら花の香りを纏ってやってきたお兄さんはどこか具合が悪そうだ。歩道橋の陰から歩いてくるお兄さんに駆け寄ると片手で抱き上げてくれた。暖かい。また、ぽかぽかした。
「明日、お見合いなんだけどね……」
いつもより近い距離のお兄さんにちょっとどきどきしてしまう。ふと、現実逃避のようにお兄さんが顔色を変えた。
「ねえ、なんだか僕達って初めて会った気がしないよね」
じっとお兄さんを見つめる。
「きみとはずっとずっと前から一緒にいた気がするんだ」
……だなんて、猫ちゃん相手におかしな奴だよな。
そんな事ない、あなたの愛をもっと知りたい。叫ぶようにお兄さんに頭突きをして鳴く。
「……きみも、そう思ってくれる?」
冗談半分じゃない。少し垂れた瞳が揺らぐ。でもそれは希望だ。私達が一緒にいられるという小さな魔法。そんな魔法をお兄さんはかけてくれた。お兄さんがおじさんになって、私がおばあちゃんになっても、その後も一緒にいようと、プロポーズのようだ。
「あは、まるでプロポーズみたいだ」
顔色が悪いながらに楽しそうに笑うお兄さんの顔に擦り寄る。
「あっ、ねえ、やっと名前が思いついたんだ」
「メルシー」って名前はどうかな?きみはメルシー。僕の感謝の気持ちだよ。
5day
吾輩は猫である。名前はメルシー。この名前ひとつで私は何度も立ち上がれる。勇気をくれた、偉大な名前だ。
空は晴れ渡り、まさしくお見合い日和だ。しかし私は今日、悪い事を企んでいる。知られたらお兄さんにも苦い顔をされてしまうかもしれない。だが、あんな悲しそうなお兄さんの顔は見たくない。それにきっと、お見合いが成立されてしまったらもう会えなくなるかもしれない。だから、私は、お見合いを破綻させることに決めた。
お兄さんがいつも通る道の物陰に隠れて、お兄さんが通るのを待つ。あっ、お兄さんだ。いつものさらさらした布じゃなくて、ピシッとした服を着ている。かっこいい。
私は、そろそろとお兄さんの後をついて行った。
車に乗って遠くへ行ったらどうしようかと思ったが、目的地はここらで一番目立つ建物の横にある厳かかつ静かな建物へお兄さんは入っていった。集会で聞いたことがある。あれは「料亭」というらしい。話によると中庭があるようで、そこへ向かうことにした。
中庭は小さな池と時折高い音を鳴らす謎の物体がよく目立つ。木々は青々としていて、猫としても居心地が良さそうだ。ごろごろしたい。いや、だめだ。しっかりしないと。顔を洗って気を引き締めると、廊下の向こうからお兄さんと、女性の声がした。ピリリと緊張が走る。
「私、サボテンが好きなんですよ~でも虫が苦手なので虫除けは必須なんです~」
あの女性が動物嫌いな人か。猫としては警戒しなければならない。
「そ、そうなんですね……」
一方お兄さんはやはり顔色が悪くて時折咳をしている。なのに女性の方は気にせず自分の話ばかりしているのに少しカチンと来た。よし、もう出てしまおう。
「きゃっ!野良猫!?」
ガサッとわざと音を立てて中庭を駆けてお兄さんの方へ向かうと、案の定女性は悲鳴をあげた。少し申し訳なくなる。でも、お兄さんのためなんだ。我慢して欲しい。
「えっ……メルシー?」
お兄さんは目をまん丸にしてから、また咳をした。大丈夫?と言っても咳は止まらない。
「あのっ!この猫追い出してもらえますか!?私猫が一番嫌いなの!!」
半ばヒステリックに叫ぶ女性をよそにお兄さんは咳がだんだん強くなっていき、今までで一番大きな咳と共にゴプッと水の音がした。お兄さんが膝をつく。口元をおさえた手のひらの隙間から赤い液体が垂れてきた。
「え、大丈夫ですか……?っあの!誰か来てください!誰か!」
女性も膝をついて叫ぶ。どうしよう。どうしよう。お兄さん苦しそうだ。猫の自分には何も出来ない。しかしそんな私を見つめるお兄さんの瞳はいつも通り優しかった。
「……あんた、いつまでいるのよ。邪魔なのよ!」
大きなヒステリックな声と同時に腹部に衝撃が走った。あ、蹴り飛ばされたんだ。と気付いた時には水中にいた。雨は嫌いだ。水も嫌いだ。でもお兄さんが雨も花の香りに変えてくれた。ぶくぶくと己が沈んでいくなかお兄さんは大丈夫だろうかとそればかり考えてしまう。息が苦しい。体が重い。お兄さん。お兄さん。名前を呼んで。
「……メルシー?」
赤いランプが存在を主張する車にストレッチャーで乗せられると、やっと気がついたように息苦しさがやってきた。肺が刺されるように痛い。呼吸が上手く出来ない。周りで何か言っているようだが、何も聞こえない。一瞬気を失う直前に見えた、池に落ちるメルシーの姿が心配で仕方ない。だが、ひどい眠気だ。メルシー、待ってて。すぐ戻るから。だから、名前を呼んだら来てほしいな。
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