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第一部『帰還』_一、聖者の旅路
3 『無知』
しおりを挟む「リツ様。お尋ねしてもよろしいですか」
王国内の港町を抜ける門を前にして、役人による手続きを待っているあいだ、二人は手荷物を確認して時間をつぶしていた。
「なんだ?」
「あの、女の質問です。貴方はなぜあの様な返答したのですか」
「……もしかすると。ゲッカ、怒っているのか」
リツは上目がちにゲッカを見上げる。二人の身長差は頭ひとつ分程度だ。
ゲッカはリツを見返す事なく被りを振った。
「いえ。そのようなことはございません。ただ…気に留まりましたので」
「そうか。…満足な答えはできないかもしれない」
リツは首を傾げる。
「勝手に口をついて出た言葉だった。故意はない…」
そして俯き、考え込む素振りをみせる。
ゲッカはその頓狂な返答に、黙り込むしか為せなかった。
「でも。あの言葉はきっと本物になるという確信は、ある」
リツはもう一度顔を上げると、彼女を見返したゲッカと目を合わせた。瞬く。視線が交わると、彼は僅かに瞳を泳がせた。彼の視線のたどり着いた先に、港町の門番が立っていた。鎧を身につけ、目深にかぶった軍帽の影から大男の陰険な視線がのぞいている。彼は二人の様子を暗い表情で観察していた。それは何かをとがめるような鋭いものに見える。それを一瞥したゲッカはリツに視線を戻した。
「頼もしく思います。殿下」
殿下。そのひとことに、リツは瞳孔を開く。そしてゲッカに何か言おうと口を開いたが、手続きを終えた役人に声を掛けられ、既に彼はその場を離れていた。リツは諦めて視線を門外に移す。視界に写る景色が暗くなっている。日が落ち、今や夜刻だ。門の外は街の灯りが見当たらない、鬱蒼とした地帯だった。
「…もう出ましょう」
ゲッカはリツを振り返って言った。門番の緊張した肩が、安堵におろされる。門番は門の前に立った二人に業務的に声をかけた。
「…ここから先は、制御を外れた神奈備山が。魔獣が出没する危険地域です」
大男は顎で門の外を示して言ったが、声には警告の意図を少しも感じさせない。暗い陰険な眼光でゲッカを睨んでいる。
「御忠告に感謝致す」
その意中を察したゲッカは、一息で言い放った。それからリツを視線で促し、門外に片足を踏み入れ、そのまま進んだ。石垣が積層されたアーチ状の門の外からは冷えた夜風が吹き込んでくる。門番は二人に背中を向けた。軍帽の浅いつばを持ち、空を仰いだ男は、冷たい夜空に向かって低くぼやいた。
「…予測どおりの時間だ。後はあいつらが…」
***
彼らは出国した。同時に背後より街の鐘の音が、夜が始まりを告げた。遠くの山嶺に紅の日が沈み落ち、深浅葱の空が頭上から降り注いだ。空を見上げた二人の瞳にその色が映り込む。ゲッカの瞳の色に酷似した空には薄雲が、風にそよいで進路とは反対方向に移動していた。リツの髪と外套がその向かい風にひらめく。その運動に従いふと後ろを振り返ったリツは、目の前に広がっていた景色に思わず足を止めた。
「……この海を、私たちは渡ってきたのか」
消え入りかけたリツの声。ゲッカもまた足を止める。彼の視線の向こうには、朝歩いた街と、その向こうの船着場、そして海洋だった。坂を登った彼らには、宵闇にくっきりと線を描く水平線が見えた。彼らはその向こうから定期船で神聖王国に入国したのだ。そう、ここより東の孤島から。彼らは孤島の馬屋にて出会いを果たし、果てない旅を始まった。今日で旅は五日目を迎える。五日目の夜、二人は一つ目の国を出て国家領地外の荒野に踏み出した。次なる国_共和国へ向かうために。
リツはしばらく海を眺め呆けていたが、空の暗さに、はと我に返った。目の前は山道、夜明け前には山を一つは超えたいところである。ゲッカはもう歩き出している。リツはそれを早足で追いかけた。
***
山道の中腹まで差し掛かったころ、二人は二人を囲む森林から違和感を察知した。時は満月の夜。二人は上空の緋い月光を頼りに獣道を進んでいたが、その道中に妖しい気配を感じたのだ。
ゲッカは袖口に素早く手を入れた。リツは腰に下げていた鉱石を掲げて光らせる。無色透明の硬い鉱石のかけらは月光を受けていながら白く輝いた。それを利用した灯りでリツは後ろの木々を照らし、周囲を注意深く観察した。光を受けて景色は僅かに白むが、気配の正体は姿を表さない。二人は警戒態勢を強化した。リツは背に右手を持っていき、肩から伸びる剣の柄のような棒を掴む。膝を軽く曲げ、いつでも飛び出せるよう前屈みの姿勢になると、森林の中に目を凝らした。
「来ます」
押し殺した一声。静謐だった暗闇の中から、草木が揺らぐ音が聞こえる直前だった。たちまちその音は大きく、こちらへ近づいて来る。それが小さな獣の群れのものとわかると同時に、獣の咆哮が迫り、暗闇に異形の影が生じた。
のちの瞬刻。リツは手中にあった柄を背から引き抜いた。彼女の背後から珊瑚色に淡く発光する長剣が出現し、空に振り下ろされる。
魔獣は二体現れた。猛虎のかたちをしており、角のような長い牙と爪が特徴的である。刺すような黄に発光する瞳でしかと二人を剣客として認識していた。林中から躍り出たそれらはそのまま山道に突っ込み、一頭はゲッカに、もう一方はリツに襲いかかった。__彼らは各々落ち着き払って、迫る魔獣を紙一重に躱す。ゲッカは袖口から何かを抜き取っていた。鉱石の光にきらりと反射する、金属製の何かだ。
そして取り出すや否や、それを投げた。…と思われる。彼の手の動きは誰彼にも視認し得なかった。
魔獣の首筋に、苦無のような形状の刃物が刺さっている。細い切っ先は確かに急所を捉え、痛みに強い魔獣でさえ悶え苦しみ始めた。獣は鉄を爪で引っ掻いたような金切り声を上げ、地面に転がる。「金属製の何か」とは、ゲッカのみが所持する武器であった。
「飛刀」と、彼は呼称している。
一方はリツ。彼女はゲッカに背を向け、獣と対峙していた。戦慄し、総毛立つ獣の視線を一身に受けたままで、リツはその瞳をぴくりとも揺るがせない。人形のような出立ちに、人の心を知らぬ獣物でさえ戸惑いを覚えたほどだ。先ほどの突進もものともせず、その後もこのように恐れの姿勢を一切取らないとは。そして、この姿はなんだ。__獣は本能より恐れ慄いた。
剣が空を切り裂く鋭い音は彼女にとっては聞き慣れたものだ。幼少より握りしめ、振り下ろしてきたもの。柄にはたしかに擦り切れた痕がある。リツは片手で剣を操る。よく手入れされ、しなやかに伸びる剣身を軽々と振り回すことができる。それも長期にわたる戦いの際もまったく疲労の色を見せない。それがリツという女のもつ能力だ。
__目の前には死を約束する女の剣が。
「私たちは道を急いでいる。そこをどいてくれ」
リツは静かに言いさえはしたが、剣を構える姿勢はそのままだ。冷風を呼ぶが如しその顔面。獣は尻込みする。同時に屈辱心が芽生えた。人間如きに、戦わずして慄くなど。あってはならない。単純思考のみを持ち合わせる生き物だからこそ、そのような感情にも一切忠実だ。果たしてそれは、引ける腰を無視して女に飛びかかった。
__地面に転がる獣の下敷きになった飛刀を回収しつつ、ゲッカはリツを見上げた。
「どうした、抜けないか」
「…いえ。すぐ取れます。そうではなく、リツ様」
ゲッカは発しかけた言葉を寸前で止めた。逡巡し、再びリツの顔を見ると、無表情ながらきょとんと言葉の続きを待つ彼女に気づく。止めていた言葉を再び用意した。
「あのように剣を扱えるようになったのは、いつからなのですか」
「…。私の“従者”を名乗るお前は知らないのか」
リツは瞳をしばたかせ、剣を鞘に納める。その剣は帝国古来の伝統技術で鍛えられたものとみられ、装飾の銀箔は所々が削げ落ちており、古きから彼女まで代々受け継がれてきたものと思われた。
そのような剣の創りまでは理解できるが、ゲッカは首を振った。
「いえ。あなたにお仕えした最初は、あなたが国外へ出る直前の時でしたから」
ふむ、とリツは唸る。それから俯いて少しばかり頭を巡らせた。
しかし、彼女もまたかぶりを振った。
「…すまないが。私もわからない。覚えていないのだ」
「……」
飛刀が魔獣の頭蓋から抜けた。ゲッカは軽く血糊を払い、袖口に仕舞い込む。立ち上がると、リツを真正面から見つめた。
「…それも、覚えていないと」
「ああ。まったく記憶にない。私はあの時…お前に助けられたあの日からずっと、過去のことを思い出せないから」
リツは真顔でそのようなことを言う。「しかし、」と彼女はそのまま続けた。
「そうか。ふつうは、幼き頃の思い出も記憶にあるものだ。私はそれさえも…無い」
リツはそこで初めて、眉を僅かに曲げた。困ったような表情を作ったようだ。帝国にいた頃の記憶が無いこと。_すなわち記憶を失っていること。彼女はその事実をこの今までまったく不快とも、危機とでさえ感じなかった。
ゲッカは真顔を決め込みつつ、腕を組んだ。
「…信じられない」
そんなことが、あり得るのか。
続けてそう言いたげであったが、ゲッカはそれきり口を聞かなかった。
二人は山道を歩む。
鬱蒼とした気配の山奥からは何やらが汚れた臭気が漂ってきた。先程魔獣がふたりを襲った様に、この地には血肉を欲す野生の獣共が至る所に潜んでいる。潜んでいるとはいえ、ここが本来彼らの生息地なのだから、それに侵入した人間が襲われるのは自然の摂理に酷く適っているといえよう。その為に、やんごとなき事情がない限りここには人間は立ち入らない。国家でさえ手を出せない。これまで開拓を試みた人間は一人残らず喰い殺され、遺体でさえ残されていない。
それでも、このふたりを除いて命知らずな者も世には存在するものだ。
血生臭い。それも襲われて__餌食にされてから__そう時間は経過していないようだ。彼らの進行方向から、夜風に乗って臭っている。
月光と、リツが持つ鉱石に照らされた道を行くふたりは、山の中腹まで到達した所でふと足を止めた。
先程までやわく感じていた臭いが急激に強くなったからだ。常人では耐えられぬ、血液となまものの腐乱臭だ。リツは咄嗟に身を凄めて、服の襟を鼻まで捲し上げた。ゲッカは布に口もとを埋めつ、目を凝らす。また襲撃か。近くに魔獣がいる。
「これ。屍体の臭いか」
リツの声が少々掠れている。ゲッカは顎を引いた。肯定の合図だ。
「…御覚悟を。数が多いようです」
先手を打ちましょう。そう続けて彼が取り出したのは飛刀。暗闇に切っ先を構え、計四本の飛刀を空に投げた。銃弾の如く走ったそれらは森の闇に飲み込まれ、消える。と同時に、獣の鳴き声がかすかに聞こえた。
「この数を引きつけるつもりか」
リツは剣の柄に手をかけ、闇を見つめるゲッカに問うた。褒められたものではない、人喰いの魔獣はゲッカが投げた刀の数以上にいるのだ。どうやら__リツは考察した。どうやら。“ここから”が、魔獣どもの本拠地のようだ。侵入者はすなわち敵。そして、今宵の晩餐。すでに、夕食となったものがこの近くにいる。すぐ近くに。
リツがそこまで思い至った頃、土を踏み鳴らす獣特有の足音が聞こえてきた。
ゲッカは眉一つ動かさない。その暗い瞳はただ、標的のいる方向を映し出している。
「そのつもりです」
「…なぜ」
「そちらの方が早く片がつきます」
…これ以上話している暇はない。すでに七体の猛獣が姿を現していた。そのうち数匹の口元には血液と思わしき赤い液体が付着している。彼らはふたりに向かって視線を一斉に向け、牙を剥き出した。その中には虎とは別に狼の姿をしたものもいる。狼は二匹。虎よりも一回り図体が大きく、開けた口は人を丸呑みにできる程に巨大で暴力的だった。
二対七。並ぶ二人と、それを取り囲む人喰い獣たち_。
リツはゆっくりと呼吸を繰り返した。剣を握った時の記憶、初めて技を身につけた時の記憶、初めてこの剣で実技訓練を行った記憶。その全てが抜け落ちたこの脳で、しかしこの体に染み付いた否が応にも抜けない感覚と腕力のみで、リツは“その時”だけ何も考えずに戦うことができた。
_そう、私は戦わねばならない。そうでなければ志なかばで死ぬことになるから。死にたくはない。死んだらあの国はどうなってしまうのか、それを考える時をこの上なく恐れているのかもしれない。恐れの感覚は知らない。おそらく体験したことがないのだろう。
リツには帝国の皇女として帝国で過ごした時代の記憶がない。ゲッカが動揺の色を見せた通り、何故の現象なのか、如何にして記憶が戻るのかは誰にもわからないのだ。
__しかし。“国へ還る”という明確な目的だけ、リツは持ち合わせていた。
私は祖国へ帰還しなくてはならない。そしてやるべき事をなさねばならない。
…国を統べる者として。
「ゲッカ。お前の作戦に成功の確証はあったのか」
「もちろんあります。リツ様、前です」
リツは胸元を掠めた爪を剣で弾き返す。布が破れる音がして、心臓が強く脈打った。鼓動を諌めないまま、剣を素早く持ち直し、狼との間合いを詰める。一気に詰めた事で狼の隙は消えた。狼は体が大きい。そのために、覆い被さる行為のみで人間を失神させることなど難くないのだ。彼も当然ながらそうしようと両腕を振り上げた。
「っ!」
その胸を貫いたのはリツの剣だった。腕を上げたままで、狼は一瞬固まり、しかしすぐに剣を体から抜くために暴れ出す。リツはその腹にブーツ底で蹴りを入れ、無理矢理剣を引き抜いた。血液の露が舞い、リツの外套が汚れ、彼女の頬に赤いものが付着する。そのままで、リツはもう一度剣を振りかざした。仰向けに伏した狼の喉元に。片手で逆手持ち、自身の体重をかけて刺し入れる。一回、浅い。_二回。今度こそ脛骨が壊れる音と伴って狼は力尽きた。
リツが倒した狼で最後の一体だった。リツが三体と、ゲッカは四体。彼はあらかじめ飛刀で損傷を与えていた四体を容易に倒していた。彼らは七体の魔獣の屍を確認し終えると、互いに負傷がないか確かめる。ゲッカは破れたリツの肩掛けを見つけた。
「痛みますか」
「いや。破られただけだ。大丈夫」
ゲッカは頷く。彼に怪我はなかった。
「行きましょう。酸素が薄くなりかけている。体力を温存しながら進みます。この先の山頂付近は安全なはずです」
続けてゲッカは言ったが、足を踏み出そうとしてすぐ何らかに勘づいて傍らに目を移した。
「どうした_…」
リツもその視線に従って林中の叢に目を凝らす。
__二人は見つけた。
「子供…?」
__神が残した罪業の犠牲を。
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