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第2章
【2-123】絶望の淵に立つ者は
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「特にライアン様には要注意だ。今までに交流を持ったことがあるわけでもない有力貴族が何の前触れもなく王子の前に現れる確率は低いが、同じ王子同士であるライアン様なら唐突にキリエに会いに来ても不思議ではない」
「……あのときのマデリンのように?」
あのとき、という言い方でもリアムには十分伝わったらしい。彼は再びキリエの頭を撫でながら、しみじみと言い含めた。
「そうだ。あのときだって、マデリン様は唐突に現れた。あの事件が起きたとき、キリエは言ってくれただろう? 俺が疑いの目を向けた相手に関しては、自分も同じように心がけるようにすると。──今が、そのときだ。俺を信じてくれるのなら、警戒を怠らないようにしてほしい」
「分かりました。僕は、誰よりも君を信じています。ライアンと遭遇したときには気を付けるようにしますね」
キリエがしっかりと頷くと、リアムも安堵したように表情を和らげる。そんな彼を見上げながら、キリエは小首を傾げた。
「でも……、今日のライアンは随分としょんぼりしていませんでしたか? ジャスミンからきつい言葉を投げかけられて落ち込んでいたようですし、僕なんかに構っている余裕は無さそうに見えました。あっ、だからといって、警戒しないというわけじゃないですが」
慌てて両手をパタパタと振るキリエを見下ろし、リアムは長い溜息を吐き出す。そして、前のめりの体勢でキリエの顔を覗き込みながら、静かに諭すように言った。
「いいか、キリエ。絶望した人間は、どんな言動をし始めるか分かったものじゃない。マデリン様も、そうだっただろう? ライアン様は、ずっと強い気持ちを向け続けていたジャスミン様から否定されたんだ。ジャスミン様御自身は、自分の御気持ちを恋かどうか分からないと仰っていたが、……ライアン様が彼女に向けている感情は恋愛か、限りなくそれに近いものだと思われる」
「……恋している相手からあんな風に否定されてしまったら、辛いのでしょうね。絶望的な気持ちになってしまうかも」
「そうだな。程度に個人差はあるだろうが、辛いことには変わりない。……今日のライアン様の様子をキリエは『しょんぼり』と言っていたが、俺にはもっと深刻な状態に見えた。彼は絶望している。そして、絶望の淵に立った人間は何をするか分からない。──俺も、身に覚えがある」
リアムの瞳が翳り、馬車内の薄暗さが増したように感じる。不安そうなキリエと視線を合わせたまま、リアムは先を続けた。
「俺は、絶望に苛まれていたとき、ずっと引き籠っていた。最低限、与えられた任務はこなしたが、それ以外はずっと家に閉じ籠もっていた。何処にも行きたくなかったし、うちの連中以外の誰とも会いたくなかったし、何も感じたくなかったし、何も考えたくなかった。無気力で、大体のことがどうでもよかった。だが、表面上は少し気落ちしているだけの男だったと思う。任務もきちんとこなせていた。……マルティヌス教会でキリエと再会したときの俺も、お前の目から見ればおそらく普通だっただろう? だが、あのときの俺はまだ絶望から抜け出しきれてはいない状態だった」
「そうなのですか……?」
再会したときの彼は、堂々として凛とした騎士だった。──少なくとも、キリエはそう思っていた。
「完全に抜け出せたのは、キリエが友人になってくれたときだ。俺やサリバン家のことを知ってもなお、友達になってほしいとお前は言ってくれた。あのときのキリエの笑顔に、俺は救われたんだ」
「そんな、僕のほうこそ、君が握手に応じてくれたあのとき、とても救われた気持ちになったのです。僕のほうが、リアムにたくさん助けていただいています」
「ありがとう。そう言ってもらえるのは嬉しい。……だが、俺が何をしても、キリエが俺を救ってくれたことには敵わないと思っている」
リアムは幸せそうに微笑んでいたが、すぐに「話を戻そう」と表情を引き締める。
「今のライアン様は、没落当初の俺の状態にとてもよく似ていらっしゃる。心の中に混沌を抱えていても、やらねばならないことには事務的に対処できる。……だが、危険な状態だ。俺は内側に閉じ籠もることに特化していたが、絶望を他者への攻撃で発散しようとする人もいる。ライアン様がそうだった場合、一番危険なのはキリエだ」
「僕が……?」
「今日の討論会も含めて、これまでジャスミン様はずっとキリエの思考に寄り添おうとされているだろう? 実際に、ジャスミン様のキリエへの関心度は相当に高い。ライアン様が一番恨めしいと思うのは、キリエのはずだ」
ジャスミンがキリエを気に掛けているのは事実ではあるが、ライアンに対してとは違い、そこに恋だの愛だのといった感情要素は無い。そう思っているキリエは戸惑うばかりだが、リアムは真摯な眼差しで警告を重ねてきた。
「実際がどうであったとしても、ライアン様の目にどう映っているのかは分からないし、絶望感が満ちている頭でどんな邪推をし始めるかも予想できない。俺も可能な限りは傍について、お前を守る。だが、明日のように少し離れなくてはならないこともあるし、王城であればライアン様と鉢合わせしてもおかしくはない」
どうか、くれぐれも注意してくれ。
祈るような口調で訴えかけてくるリアムに対し、キリエもまた真剣に「十分に注意します」と答えるのだった。
「……あのときのマデリンのように?」
あのとき、という言い方でもリアムには十分伝わったらしい。彼は再びキリエの頭を撫でながら、しみじみと言い含めた。
「そうだ。あのときだって、マデリン様は唐突に現れた。あの事件が起きたとき、キリエは言ってくれただろう? 俺が疑いの目を向けた相手に関しては、自分も同じように心がけるようにすると。──今が、そのときだ。俺を信じてくれるのなら、警戒を怠らないようにしてほしい」
「分かりました。僕は、誰よりも君を信じています。ライアンと遭遇したときには気を付けるようにしますね」
キリエがしっかりと頷くと、リアムも安堵したように表情を和らげる。そんな彼を見上げながら、キリエは小首を傾げた。
「でも……、今日のライアンは随分としょんぼりしていませんでしたか? ジャスミンからきつい言葉を投げかけられて落ち込んでいたようですし、僕なんかに構っている余裕は無さそうに見えました。あっ、だからといって、警戒しないというわけじゃないですが」
慌てて両手をパタパタと振るキリエを見下ろし、リアムは長い溜息を吐き出す。そして、前のめりの体勢でキリエの顔を覗き込みながら、静かに諭すように言った。
「いいか、キリエ。絶望した人間は、どんな言動をし始めるか分かったものじゃない。マデリン様も、そうだっただろう? ライアン様は、ずっと強い気持ちを向け続けていたジャスミン様から否定されたんだ。ジャスミン様御自身は、自分の御気持ちを恋かどうか分からないと仰っていたが、……ライアン様が彼女に向けている感情は恋愛か、限りなくそれに近いものだと思われる」
「……恋している相手からあんな風に否定されてしまったら、辛いのでしょうね。絶望的な気持ちになってしまうかも」
「そうだな。程度に個人差はあるだろうが、辛いことには変わりない。……今日のライアン様の様子をキリエは『しょんぼり』と言っていたが、俺にはもっと深刻な状態に見えた。彼は絶望している。そして、絶望の淵に立った人間は何をするか分からない。──俺も、身に覚えがある」
リアムの瞳が翳り、馬車内の薄暗さが増したように感じる。不安そうなキリエと視線を合わせたまま、リアムは先を続けた。
「俺は、絶望に苛まれていたとき、ずっと引き籠っていた。最低限、与えられた任務はこなしたが、それ以外はずっと家に閉じ籠もっていた。何処にも行きたくなかったし、うちの連中以外の誰とも会いたくなかったし、何も感じたくなかったし、何も考えたくなかった。無気力で、大体のことがどうでもよかった。だが、表面上は少し気落ちしているだけの男だったと思う。任務もきちんとこなせていた。……マルティヌス教会でキリエと再会したときの俺も、お前の目から見ればおそらく普通だっただろう? だが、あのときの俺はまだ絶望から抜け出しきれてはいない状態だった」
「そうなのですか……?」
再会したときの彼は、堂々として凛とした騎士だった。──少なくとも、キリエはそう思っていた。
「完全に抜け出せたのは、キリエが友人になってくれたときだ。俺やサリバン家のことを知ってもなお、友達になってほしいとお前は言ってくれた。あのときのキリエの笑顔に、俺は救われたんだ」
「そんな、僕のほうこそ、君が握手に応じてくれたあのとき、とても救われた気持ちになったのです。僕のほうが、リアムにたくさん助けていただいています」
「ありがとう。そう言ってもらえるのは嬉しい。……だが、俺が何をしても、キリエが俺を救ってくれたことには敵わないと思っている」
リアムは幸せそうに微笑んでいたが、すぐに「話を戻そう」と表情を引き締める。
「今のライアン様は、没落当初の俺の状態にとてもよく似ていらっしゃる。心の中に混沌を抱えていても、やらねばならないことには事務的に対処できる。……だが、危険な状態だ。俺は内側に閉じ籠もることに特化していたが、絶望を他者への攻撃で発散しようとする人もいる。ライアン様がそうだった場合、一番危険なのはキリエだ」
「僕が……?」
「今日の討論会も含めて、これまでジャスミン様はずっとキリエの思考に寄り添おうとされているだろう? 実際に、ジャスミン様のキリエへの関心度は相当に高い。ライアン様が一番恨めしいと思うのは、キリエのはずだ」
ジャスミンがキリエを気に掛けているのは事実ではあるが、ライアンに対してとは違い、そこに恋だの愛だのといった感情要素は無い。そう思っているキリエは戸惑うばかりだが、リアムは真摯な眼差しで警告を重ねてきた。
「実際がどうであったとしても、ライアン様の目にどう映っているのかは分からないし、絶望感が満ちている頭でどんな邪推をし始めるかも予想できない。俺も可能な限りは傍について、お前を守る。だが、明日のように少し離れなくてはならないこともあるし、王城であればライアン様と鉢合わせしてもおかしくはない」
どうか、くれぐれも注意してくれ。
祈るような口調で訴えかけてくるリアムに対し、キリエもまた真剣に「十分に注意します」と答えるのだった。
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