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第2章
【2-41】拭えない不安
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◆◆◆
──御披露目の儀、前日。
先週嫌な思いをした王立教会ではなく王都郊外の小さな教会で礼拝に参加して帰宅した後、キリエはずっと挨拶文の原稿を見つめ続けていた。
「キリエ、原稿は読み上げればいいんだから、丸暗記する必要はないんだぞ? いい加減、その紙を手離して気を休ませたほうがいい」
自室内をそわそわと歩き回っているキリエを見て苦笑しながらリアムが言うが、銀髪の青年は不安げな表情で首を振るばかりだ。
「どうしましょう。僕、絶対に途中で言い間違えたりしちゃいます」
「大丈夫だ」
「そもそも、大きな声なんて全然出したことないんです。御披露目の儀って、あの大広間でやるのですよね? あそこに声を響き渡らせなければならないなんて、そ、そんなの無理です」
「大丈夫だ、キリエ。王家の方があそこで全員に聞こえるように声を張り上げている姿など、見たことがない。前方にいる重鎮に聞こえれば十分だ。……ほら、キリエ。一回落ち着こう」
「あっ……」
歩み寄ってキリエの手から原稿を奪ったリアムは、そのまま主の腕を引いて無理やりソファーへ座らせる。自身も隣に座った騎士は、不安そうな銀色の瞳を覗き込んだ。
「原稿はコンラッド殿にも確認していただいたし、上位文字での清書も終わっている。正装も無事に完成して届いているし、試着しても問題なかっただろう? そんなに不安を感じなければならないことなんて、もう無いはずだ」
「でも……」
「御披露目の儀なんて大仰な名前がついているが、要はただの自己紹介だ。しかも、事前に用意した紙を読み上げるだけだ。そのうえ、キリエは王子で、誰かに気を遣って進行しなければならない立場でもない。堂々と紙を読み上げればいいだけだ」
大した行事ではないのだと言い含めてくるリアムだが、ああいった豪奢な場所にも人前に出ることにも慣れていないキリエにとっては、荷が重く緊張するのはどうしようもないことだった。
顔が曇ったままのキリエの様子を見て、リアムは細い手首を掴みながら腰を上げる。つられて立ち上がったキリエへ、騎士は明るく言った。
「よし、息抜きしに行こう!」
◇
外套を着せられたキリエは、玄関でジョセフと共にリアムが迎えに来るのを待っている。ジョセフが持っているバスケットの中には、キャサリンが用意してくれた茶のポットとカップ、そして茶菓子が詰められていた。
「あの……、お出掛けしている場合ではないと思うのですが」
そわそわとした気持ちが収まらないキリエがそう言うと、ジョセフは優しく目を細めて笑う。
「いいえ。キリエ様は少し息抜きされたほうがよろしいかと。私も、リアム様のお考えに賛成でございます」
「そうでしょうか……」
「はい。お顔の色が優れませんので、外の空気を吸って気分転換されたほうがよいでしょう。大切な式典の前ですし、リアム様も遠出はされないはず。おそらく、アーサーと共に裏手の森へ行かれるのでしょうね」
「アーサー……?」
聞いたことがない名前だ。誰だろうと首を傾げるキリエを、ジョセフは微笑ましげに見守っていた。
そのとき、ドアが開いてリアムが入ってくる。
「待たせたな、キリエ。行こうか」
「えっ、あ、はい」
「では、ジョセフ、少し出てくる。明日のこともあるから、早めに戻るつもりだ」
「承知いたしました。こちらは、キャシーがご用意いたしましたお茶とお菓子です。途中でお召し上がりになられるとよろしいかと」
「分かった、ありがとう。……よし、行こうキリエ」
「は、はい。ジョセフ、行ってきます。キャシーにもありがとうとお伝えください」
「かしこまりました。キリエ様、リアム様、行ってらっしゃいませ」
きっちりと腰を折った礼で見送られ、キリエはリアムに連れられて外へ出た。そこには、普段の外出時に乗っている馬車──ではなく、真っ黒で艶やかな毛並みの馬が一頭いる。黒馬は、じっとリアムを見つめた後、その隣に佇むキリエを観察してきた。
「よしよし、いい子だ。……キリエ、こいつはアーサー。ここ最近は乗る機会が無かったんだが、俺の愛馬だ」
まさか、アーサーが馬だったとは。予想外ではあるが、嬉しい驚きでもある。キリエはおずおずと近付き、そっと胴を撫でてみた。アーサーは暴れることも嫌がることもせず、おとなしくしている。
「こんにちは、アーサー。初めまして。……あれっ? 初めまして、ですか? 十年前に助けられたときも、リアムは黒い馬に乗っていましたよね?」
「そのときの馬はアレクサンドラといって、アーサーの母親だ。アレクサンドラは七年前に亡くなって、今は息子のアーサーが相棒となってくれている」
「そうだったのですね。……アーサー、僕は十年前、君のお母さんとご主人様に助けていただいたんですよ」
キリエの言葉を聞いたアーサーは、返事をするように鼻を鳴らした。彼の穏やかな眼差しは、十年前のアレクサンドラに通じるものがあるように感じられる。
「キリエ、アーサーと一緒に散歩に出よう。きっと良い気分転換になる」
「はい、よろしくお願いします」
ようやく表情が解れてきたキリエが頷くと、リアムも嬉しそうに笑った。
──御披露目の儀、前日。
先週嫌な思いをした王立教会ではなく王都郊外の小さな教会で礼拝に参加して帰宅した後、キリエはずっと挨拶文の原稿を見つめ続けていた。
「キリエ、原稿は読み上げればいいんだから、丸暗記する必要はないんだぞ? いい加減、その紙を手離して気を休ませたほうがいい」
自室内をそわそわと歩き回っているキリエを見て苦笑しながらリアムが言うが、銀髪の青年は不安げな表情で首を振るばかりだ。
「どうしましょう。僕、絶対に途中で言い間違えたりしちゃいます」
「大丈夫だ」
「そもそも、大きな声なんて全然出したことないんです。御披露目の儀って、あの大広間でやるのですよね? あそこに声を響き渡らせなければならないなんて、そ、そんなの無理です」
「大丈夫だ、キリエ。王家の方があそこで全員に聞こえるように声を張り上げている姿など、見たことがない。前方にいる重鎮に聞こえれば十分だ。……ほら、キリエ。一回落ち着こう」
「あっ……」
歩み寄ってキリエの手から原稿を奪ったリアムは、そのまま主の腕を引いて無理やりソファーへ座らせる。自身も隣に座った騎士は、不安そうな銀色の瞳を覗き込んだ。
「原稿はコンラッド殿にも確認していただいたし、上位文字での清書も終わっている。正装も無事に完成して届いているし、試着しても問題なかっただろう? そんなに不安を感じなければならないことなんて、もう無いはずだ」
「でも……」
「御披露目の儀なんて大仰な名前がついているが、要はただの自己紹介だ。しかも、事前に用意した紙を読み上げるだけだ。そのうえ、キリエは王子で、誰かに気を遣って進行しなければならない立場でもない。堂々と紙を読み上げればいいだけだ」
大した行事ではないのだと言い含めてくるリアムだが、ああいった豪奢な場所にも人前に出ることにも慣れていないキリエにとっては、荷が重く緊張するのはどうしようもないことだった。
顔が曇ったままのキリエの様子を見て、リアムは細い手首を掴みながら腰を上げる。つられて立ち上がったキリエへ、騎士は明るく言った。
「よし、息抜きしに行こう!」
◇
外套を着せられたキリエは、玄関でジョセフと共にリアムが迎えに来るのを待っている。ジョセフが持っているバスケットの中には、キャサリンが用意してくれた茶のポットとカップ、そして茶菓子が詰められていた。
「あの……、お出掛けしている場合ではないと思うのですが」
そわそわとした気持ちが収まらないキリエがそう言うと、ジョセフは優しく目を細めて笑う。
「いいえ。キリエ様は少し息抜きされたほうがよろしいかと。私も、リアム様のお考えに賛成でございます」
「そうでしょうか……」
「はい。お顔の色が優れませんので、外の空気を吸って気分転換されたほうがよいでしょう。大切な式典の前ですし、リアム様も遠出はされないはず。おそらく、アーサーと共に裏手の森へ行かれるのでしょうね」
「アーサー……?」
聞いたことがない名前だ。誰だろうと首を傾げるキリエを、ジョセフは微笑ましげに見守っていた。
そのとき、ドアが開いてリアムが入ってくる。
「待たせたな、キリエ。行こうか」
「えっ、あ、はい」
「では、ジョセフ、少し出てくる。明日のこともあるから、早めに戻るつもりだ」
「承知いたしました。こちらは、キャシーがご用意いたしましたお茶とお菓子です。途中でお召し上がりになられるとよろしいかと」
「分かった、ありがとう。……よし、行こうキリエ」
「は、はい。ジョセフ、行ってきます。キャシーにもありがとうとお伝えください」
「かしこまりました。キリエ様、リアム様、行ってらっしゃいませ」
きっちりと腰を折った礼で見送られ、キリエはリアムに連れられて外へ出た。そこには、普段の外出時に乗っている馬車──ではなく、真っ黒で艶やかな毛並みの馬が一頭いる。黒馬は、じっとリアムを見つめた後、その隣に佇むキリエを観察してきた。
「よしよし、いい子だ。……キリエ、こいつはアーサー。ここ最近は乗る機会が無かったんだが、俺の愛馬だ」
まさか、アーサーが馬だったとは。予想外ではあるが、嬉しい驚きでもある。キリエはおずおずと近付き、そっと胴を撫でてみた。アーサーは暴れることも嫌がることもせず、おとなしくしている。
「こんにちは、アーサー。初めまして。……あれっ? 初めまして、ですか? 十年前に助けられたときも、リアムは黒い馬に乗っていましたよね?」
「そのときの馬はアレクサンドラといって、アーサーの母親だ。アレクサンドラは七年前に亡くなって、今は息子のアーサーが相棒となってくれている」
「そうだったのですね。……アーサー、僕は十年前、君のお母さんとご主人様に助けていただいたんですよ」
キリエの言葉を聞いたアーサーは、返事をするように鼻を鳴らした。彼の穏やかな眼差しは、十年前のアレクサンドラに通じるものがあるように感じられる。
「キリエ、アーサーと一緒に散歩に出よう。きっと良い気分転換になる」
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