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私のなかの、なにか 後編
しおりを挟む第三章
1
ビートクラウドに新譜全五曲をリリースして一ヶ月あまりが経過する。
四月が訪れ、私は二年生になった。
修くんとの音楽活動は停止状態のまま、音信不通になってしまった。何度電話してもメッセージを送っても、あの深夜の通話を最後にして連絡が取れない。心配になってマンションにも二度行ったけど、オートロックの扉は開かなかった。あれから状況が改善されたわけではなく、私たちのリスタートは暗礁に乗り上げたままなのだろう。
こうなってくると、ますます自分からビートクラウドのアプリを開く気がしなくなる。
もちろん私も残念な気持ちでいっぱいだったけど、そんなに甘くない世界なんだということを、この間、真紀さんの話を聞いていて感じた。
「もう音楽なんて、ネットがあるからタダでいくらでも聴ける時代でしょ。CDだってぜんぜん売れないし。それだけで食べていくのは大変な世界なんだよ」
昔、バンドマンと付き合っていて、えらい目に遭ったらしい。「それでいてライブハウスで働いているんだから私もダメダメだよね」なんてこぼして笑っていた。
たしかにその通りだと思う。大学の子たちは誰もがスマホで好きな音楽をディグっている。私だってCDなんて生まれて一枚も買ったことはない。つまり、ネットの世界には無料の音楽があふれ返っている。一流アーティストの楽曲だって、ほとんどタダで楽しめてしまうという。そう考えると、トッププロがしのぎを削るビートクラウドで、私たちアマチュアが楽曲をアップしたところで勝てるわけがない。
一方では、咲南ちゃんはすごいと思う。真紀さんの話だと、ビートクラウドにアップして、いきなり再生回数が百倍くらい跳ね上がったということだった。
修くんはあの男の人と勝負して敗北したと考えているのかもしれない。
だからここまで落ちこんでいるのかもしれなかった。
やがて五月が足早に過ぎ、関東甲信は梅雨入りしたと天気予報で伝えられた。
私はハタチになった。修くんからの一方的な断絶が三ヶ月以上に及んでいた、六月第二週のことだ。青天の霹靂というべき事態が勃発する。
いつものように『o'clock』のバイトを終え、終電で帰宅後、ぱたんと倒れるようにベッドで眠りこんでいた深夜、スマホが震えて目を覚ます。
モニターには修くんの名前。一気に眠気が吹き飛ぶ。飛び起きてスマホを握りしめた。
「もしもし? 修くん? 私がどれだけ心配したか――」
「ヤ、ヤバい」開口一番、修くんが叫ぶ。
「ど、どうしたの?」
「REMのプロデューサーから、ダイレクトメッセージが送られてきた」
すぐには私の頭が働かない。
「もしもし、聞いてる、莉子ちゃん?」
「――あ、う、うん――」じんわりと脳へ血がめぐる。REMといえば国内屈指の超メジャーの大手レコード会社。所属するアーティストの名は、私でも片手くらい挙げられる。
「う、嘘でしょ?」
「どうしよう――」
「だって、そんなことって――」
「僕だってまだ半信半疑だ」そう言う修くんの声色はガチガチに強張っている。
「で、なんて書いてあったの?」
「どうしよう、莉子ちゃん?」
「ね、なんて書いてあったの?」
「どうしよう? ねえ、どうしよう?」
震える声で同じ言葉を繰り返す修くんは、完全にパニック状態だ。
「落ち着いて。だから、メッセージにはなんて書いてあったの?」
「あ、ああ、うん。会いたいって。僕らに」
「ほんとに?」
「ねえ、どう思う? 莉子ちゃん」
「どうって――」こんな展開、まったく想像してなかった。
「偽物ってことはないの?」
一拍、沈黙があって、
「あ、それはない、と思うな」とたんに修くんの声が落ち着いてきた。
「どうして?」
「ちゃんと名刺をスキャンした画像が添付されてあったから」
そこで呼吸を整えるような間が空く。直後、急に真面目な口調になって彼はつづける。
「そうだよ。これは千載一遇のチャンスなんだ。なに慌ててたんだろ。さすがに予想外の展開だったけど、これこそ神様が与えてくれたお導きなんだ。よし、莉子ちゃん、会おう!」
「ほ、本気なの、修くん?」
「うん、もう心は決まった」
さっきまでのパニックはどこへ? というくらい、修くんはきっぱり断言する。
「莉子ちゃんも会うよね?」
そんなこと、急に訊かれても答えられるわけない。つい三分前まで、いつもの日常の世界で、くたくたになってうたた寝していたのだから。
「もしもし、莉子ちゃん?」
「あ、はい――」
「だから、会うでしょ?」
私は無言になる。修くん、ずるいよ。こんなときだけ連絡してきて。この三ヶ月、どれだけ心配したかわかってる? 言いたかったけど言えない。
「――ご、ごめん」
「それ、どういう意味?」
「私、無理だよ」
いきなり沈黙が会話を止める。修くんが深く息を吐く音がかすかに聞こえる。
「どうして?」
「だって、そういう話じゃなかったし」
ふたたび重い沈黙が座する。今度は私に聞こえるように、修くんが重いため息をつく。
「そりゃ突然こういう展開になるなんて、僕だって想像すらしてなかったし。莉子ちゃんが驚くのもよくわかるよ。だけど、音楽サイトにリリースするだけの活動より、はるかに前進するかもしれない、大チャンスなんだよ。それはわかるよね?」
「そうかもしれないね。でも、私には無理」
「あのね」修くんが固い声で切り出す。
「なに?」
「莉子ちゃんも僕も、いろいろあったし、無茶振りしてるかもしれない、っていうのは僕なりにわかってるつもりだよ」
私は唇を結んだまま瞼を閉じる。
「だから、自分の都合だけで、ぐいぐいいきすぎてるのは反省してる」
「だったら――」私がそこまで言いかけたところ、
「僕、ようやく光の当たる場所に、出られるかもしれないんだ」
切実な声だった。「世界が、やっと変わるかもしれないんだよ」
吃音症でひとり屋上に上がってきて、ピアノアプリを弾いていた修くんが脳裏に蘇る。拠り所も心の支えも、そして未来への希望も、白と黒の鍵盤にかかっていたんだ。
なおも修くんは縋るように訴えてくる。「これからも死んだように生きていたくない。みんなに認められたい。僕はここに存在するって主張したい。音楽なら僕が作れる結び目で、世界とつなぐことができるし、きっと未来を変えることができるんだ。だからもう一度、力を貸してほしい。高校のときのまま終わりたくないんだ」
聞いているうち、ゆっくりと心が傾いてくる。修くんは音楽で私の未来をも変えようとしてくれた。大学とバイトだけの生活に、新しい可能性を見させてくれた。それがひと時の夢であっても、この数ヶ月間、うしろを振り返ることなく、前を向くことができた。
「聞いてる、莉子ちゃん?」
「わかったよ。会うから」
「え? ほんとに?」
「うん」
「いいの?」
「うん」
「あとになって、やっぱやめたとか、なしだよ」
「くどいよ、修くん」
ははっ、と、力が抜けた素の感じで彼は笑う。「ありがとう、莉子ちゃん」
できるだけ早くということで、いつ頃、どのあたりで会うとか、スケジュールと場所の実務的な確認をした後、私は心に引っかかっていたことを訊いてみる。
「あのさ、修くん?」
「なに?」
「もし、私が大反対しても、修くんひとりで、その人に会えばよかったんじゃないの? どうして私にそんなこだわるわけ?」
これまでとは一線を画す、不可思議な間があった。
「正直に言うよ」修くんは複雑な迷いを含んだような声を返す。
「まだ、なにかあるわけ?」
「プロデューサーの人、ボーカルの女の子にぜひ会いたいって、そうメッセージに書いてあったんだ。エフェクトがかかってない、素の声が聴きたいとも」
〝なにか〟が私のなかでざわめき蠢く。それがなにを意味しているのかはわからない。
ただ、そんなふうに内側から自分を揺らす波動は感じたことがなかった。
*
REMレコードのプロデューサーは、澤建志さんと言う人だった。
修くんがメッセージを返信して何度かやりとりし、私たちは代々木公園に面したガラス張りのカフェで会うことになった。
六月半ば。梅雨の合間の、よく晴れた真夏のような午後のこと。約束の午後二時まで五分近くあった。[すみません、少し遅れそうですので、先にコーヒーでも飲んでいてください]と、つい今しがた修くんのスマホに届いたメッセージにはそう書いてある。
「じゃ、とりあえず席に座ってなにか飲んでようか」
落ち着かない様子で修くんは告げ、四人掛け用のテーブル席の椅子に腰を降ろす。私は彼の隣に座る。間もなくウエイトレスが来て、私たちはアイスティをオーダーした。
「どんな話になるんだろ?」
きょろきょろ目を動かしながら、修くんが気もそぞろな声を出す。「なんか緊張するね」
「――うん」答えながら、私は大きなガラス窓の外に目を向ける。公園に生い茂った緑が陽ざしを浴びてきらきら輝いていた。
修くんは彼の名前をググったけど、ネットに澤建志という人は見当たらなかったらしい。
「緊張しすぎじゃない?」
今日の私は不思議なくらい落ち着いていた。ボーカルの女の子に会いたいと書かれてあっても、冷静に考えてみれば、自分には関係のない話だと思う部分が大きかった。
「す、するよ。だって、相手は一流のレコード会社だよ」
「とりあえず修くんの音楽に興味を持ったから、会うことになったんでしょ?」
「そりゃそうだろうけど。あ、澤さんて人の名刺、新人開発部って書いてあったよ」
脈絡なく話が飛ぶ。いつも音楽に関しては理路整然としているのに。それくらいナーバスになっている証拠だ。
「だったら、悪い話にはならないんじゃない?」
修くんを落ち着かせるように言うものの、私もどういう話になるのか見当がつかない。
「ということは、僕らのメジャーデビューの話?」
「先走らないほうがいいと思う」
「どうして? 悪い話じゃなければ、そういう話じゃないの?」
私は横に座る修くんの顔をまじまじと見つめる。
「――な、なに?」
「ううん、なんでもない」
澤さんという人との話し合いが修くんにとってプラスになればいいと願う反面、そうならなかったときの失望を考えると、どうしていいかわからなくなる。
それからしばらく私たちはお互いに黙りこんで、運ばれてきたアイスティを飲んだ。
「お待たせして申し訳ありません」
よく通る声が背後から聞こえて、瞬時に居ずまいを正す。
私たちの前に現れたのは、まだ二十代前半としか映らない若い大人だった。大手メジャーレコード会社のプロデューサーというから、三十代、いや四十代以上を想像していただけに、その見た目に修くんも私も目が点になる。
「えっ、えええ、さ、さささ、さ、さわ、さん、で、ですか――?」
高一のときみたいに口ごもり、とたんに平静を失いかける修くん。
テーブル越しに立つのは、身長百八十センチ以上あるほっそりとした男性。鮮やかな金髪にまだらの無精髭。夏だというのに黒のジャケットに黒のデニム。かなり目立つ。
「初めまして。澤建志です。突然、お呼び立てしてしまって申し訳ありません」
派手な外見に似合わず、私たちみたいな子どもにきちんとおじぎする姿勢が凛としている。音楽業界に生きている人だから、くだけた感じで、威圧的な怖い大人を想像していた。修くんも私も意外な感じの連続で戸惑ってしまう。席についた澤さんにウエイトレスがオーダーを訊きにきた。彼もアイスティを注文し、そしてあらためて私たちに向き合う。
「倉澄さんへのメッセージにも書きましたが、ビートクラウドへアップロードされていた五曲、どれもが素晴らしかったですよ。正直、驚きました」
面と向かって第一声で褒められ、いやぁ、なんて修くんは頬を赤らめ、うしろ頭をぽりぽり掻いている。
「あ、その前に ちゃんとした自己紹介が先ですよね」
言いながら澤さんはジャケットの内ポケットから名刺入れを取り出す。
「REMレコードの新人開発部SDで働いています、澤です。担当はA&R、アーティスト・アンド・レパートリーと呼ばれる、まだメジャーデビューしていない新人発掘と育成の担当プロデューサーをしています」
よく通る声で澤さんはつづける。
「もう察しはついているとは思いますが、単刀直入に申し上げます」
隣に座っている修くんが、ごくりと息を飲む音が聞こえる。彼は両膝の上にぎゅっと握りしめた拳を置き、全身を硬直させて話に聞き入っている。
「あなたの歌声を聴いて全身に鳥肌が立ちました。それくらい素敵で、特別な歌声でした」
そう言うなり、澤さんは私を直視する。切れ長の二重で見つめられ、緊張してしまう。
「雪野莉子さん、ぜひ、僕にプロデュースを担当させてもらえないでしょうか。うちはレコード会社内でマネジメントもする体制を取っていて、すべて自社でアーティストをフルサポートする、いわゆる360度ビジネスを展開しています」
え? 声にならない私たちの驚きの疑問符が宙に溶けて消える。横に目をやると、修くんは一瞬で表情を失って、呆然自失状態になっている。
澤さんは彼のことが視界に入っていないみたいに、私のほうへ真顔を向けたまま、
「やってみませんか? 厳しい道のりですが、限りない夢もまたあります。デビュー契約を前提としてプロデュースとマネジメントを任せてほしいんです。あなたならきっとやれる。きっとたくさんの人に歌声を届けて、感動させることができます」
真摯に訴えるように言う。
聞きながら、これまでとは別の新たな〝なにか〟がほのかに発火し、熱を帯びていく。
即座に思う。お父さんとお母さんに届けることができるかもしれない――この人となら、そんな途方もない願いを叶えることができるのだろうか。
いえ、違う。ううん、違うわ。絶対に違う。私は思い直す。
去年の八月に修くんと再会したから、ふたたび音楽をはじめることができた。諦めかけていた私をふたたび音楽の世界に導いてくれたのは修くんだ。それに、と冷静に考える。ネットで公開処刑の標的にされるような自分がデビューなどできるわけない。
けど、修くんの夢は、音楽で圧倒的な人気と認知と力を手に入れて、光の当たる場所に出ることなんだ。彼は私の隣で頭を垂れたまま、動けなくなっている。
だとしたら、なんとか協力したい。私の露出についての問題とか、一流のレコード会社ならなにかいいアイデアを考えてくれるかもしれない。今の優先順位はそこじゃないんだ。
「あ、あの――」初めて私が声を発すると、弾かれたように二人が注視するのがわかる。
「はい」澤さんが神妙な面持ちで受け応える。修くんも顔を向けている。
「わ、私は、倉澄くんがいるから、もう歌えないと思いこんでいたのに、歌うことができました――」喉元の言葉を押し出す。
この場が沈黙で支配される。二人は動きを止めて、じっと私を見ている。
高校のときの自分なら、頭がくらくらして、なにも言えなかったに違いない。
だけど、私のなかでほのかに発火しつづけている〝なにか〟が、次の言葉を紡ぐ。
それはこれまで私を暗闇に閉じこめていた得体の知れない〝なにか〟とは異質のものだ。
「彼が一緒でないと、私の歌声は、誰にも届かないと思います」
隣で修くんが首を振る。絶望しながらも私を庇おうとしている。前へ進めと。けど、その判断は違うよ、修くん。ずっとくすぶっていた私に歌を与えてくれたのはあなたなの。
「もし、限りない夢があるのなら、ここにいる三人で見ることはできないのでしょうか?」
その瞬間、澤さんはかすかにまなざしをすがめた。
私は感じる。目の前に座るこの人も〝なにか〟を抱えている。
寸時の間があった。澤さんは私をじっと見据えて返す。
「そんな理想が通る世界じゃないんです」
厳しい顔だった。厳しい声だった。さらに強く、この人が抱える〝なにか〟を感じ取る。
私は目を逸らさなかった。退かなかった。
「それならそれで、いいです。私は歌いません。いえ、歌えません」
「あ、ああ、あわわ、す、すみません。か、か彼女、ちょっと、動揺して、こ、混乱してるっていうか、驚いちゃってて、そ、その、そそそんなことないですから。すみません」
横から修くんが慌てて声を上げる。「ち、ちょっと、莉子ちゃん、なに言ってるんだよ。お、落ち着けって。どうしたって、いうんだよ――」
私の肩を揺すりながら小声でささやく。「ぼ、僕のことなんて、どうだっていいんだよ」
私は顔を動かす。「修くんが一緒でないと、私、無理だから」
そう言って、ふたたびまっすぐに澤さんを見返す。
「そういうことですから。もう結構です」
「それが、お二人の望む道なんですね?」
静かな声で澤さんが私たちに確認する。
「倉澄さんも同じ意見なんですね?」
話を振られて、修くんは「え、あ、い、いえ、だ、だから、ぼ、僕は――」と答えにならないしどろもどろな声を返すだけで、それ以上なにも言えない。かわりに私が言う。
「――はい。私はひとりでは歌えません。彼が引き上げてくれて、いつもそばで励ましてくれたから、歌う楽しさを取り戻せました。倉澄くんが一緒でなければ歌えないんです」
数秒間、私たちのテーブルに完全な沈黙が居座る。
澤さんは複雑な表情で考えこみ、黙りこくった。
その間、私たちは動けなかった。本当ならすぐに立ち上がってこのお店から出ていきたかったけど、眉根を寄せて真剣に思案している澤さんを残してそんなことはできない雰囲気があった。それくらい深く思い悩むように考えごとに集中している。
初対面のハタチの学生を前にして。大手レコード会社のプロデューサーなら、ましてや新人発掘と育成を担当しているのなら、もっとうまい言葉を使って私たちを捻じ伏せることもはぐらかすことも、いくらでもできそうなのに。不思議な人だと思う。
しばらく無言の時間が流れた後、澤さんがゆっくりと口を開く。
「――わかりました。ちょっと考えさせてください。少し時間がかかるかもしれませんが、必ずまたご連絡いたします」
*
その後、澤さんとの打ち合わせは早々と終わってしまい、そのまま修くんと別れるのもなんとなく気まずい感じがして、カフェの真向いにある代々木公園へと足を向ける。彼も同じ気持ちだったみたいで、特になにも言わず歩調を合わせた。
「なんであんなこと、言ったんだよ?」
西門をくぐって、視界いっぱいに濃い緑が生い茂る坂道を昇りかけたところ、修くんは唇を尖らせて言葉をぶつけてくる。
「よく、あんなふうに言えるよ。相手はREMのプロデューサーだよ」
とりあえず気持ちが落ち着いたのか、修くんはいつも通りに戻っていた。
「だって――」
「失礼だろ。莉子ちゃん、スカウトされたんだぞ」
「けど――」
「こんなチャンス、もう二度とないかもしれないんだよ。わかってんの?」
責めるように言われても、口から出てしまった言葉は取り消せない。なんであんなふうに初対面の澤さんに言えたのか、自分でも驚いている。
「――でも、うれしかった」歩きながら修くんが顔を向ける。
「めっちゃうれしかったよ。だけど、僕は莉子ちゃんの足かせにはなりたくない。あの人、僕のこと眼中になかったし。どのみち、僕にはこの先はないから」
「私は違うと思う」
「は?」
「今気づいたんだけど、あの人は私たちを試そうとしたんじゃないかな」
「試す? なに言ってるの、莉子ちゃん」
ちょうど坂道を昇り切ったところで、修くんは足を止める。
「よくわからないけど、あの人は悪い人じゃない。少なくとも私たちをうまく利用しようとか考えてない。あの人、画策も作戦もなく、直球を投げてきた。そして私たちも直球を投げ返した」
「ど、どういう意味?」
「うまく説明がつかないことなの。自分でもよくわからない。でも、そうなのよ」
修くんは小首を傾げるようにして、それ以上なにも訊いてこない。
「とにかく、私たちの希望は伝えたわけだし、あとは澤さんからの連絡を待ってみようよ。あれこれ考えてもしょうがないことだし。きっと、なるようになるよ」
そう言うと修くんは曖昧に肯いた。
直後、南風が吹きすさんで、濃い緑がさわさわと擦れる音に包まれる。
真夏のような青空を見上げて深く息を吸ってみる。東京にいるのに、両親と過ごした小学生の頃をふいに思い出してしまい、私のなかの新たな〝なにか〟がまたも微動する。
2
あっという間に七月が訪れ、前期テストが終了すると、第三週半ばから夏休みに入った。
私の生活は変わらない。朝イチのシフトから『くるみベーカリー』に入り、夕方になると『o'clock』で終電間際まで働いた。
澤さんと代々木公園そばのカフェで会って間もなく一ヶ月が経過しようとしていた。
連絡はない。修くんは意外なほど立ち直りが早かった。あるいは本人が言ったように、すでにREMレコードとの一件は完全に見切りをつけているのだろう。
梅雨明け頃からふたたび音楽制作へのモチベーションが復活し、「なる早で新譜をビートクラウドにアップロードしよう!」と、新曲のトラックを次々とメールしてくる。
正直、私の心境は複雑だった。澤さんは最後に言った。
『――わかりました。ちょっと考えさせてください。少し時間がかかるかもしれませんが、必ずまたご連絡いたします』と。その言葉を信じたいという思いがあった。
初対面だけど、あの人はたやすく嘘をつくような大人には見えなかった。
右も左もわからない、まだ大学生の私たちに向き合おうとしてくれた。
そんな矢先のことだ。その晩は『o'clock』は珍しく、ジャズ系のアンプラグド少数編成のバンドによる、大人向けの静かなライブだった。お客さんは普段より年齢層が高く、オール着席ということもあって、満席ながらも落ち着いた雰囲気に満ちている。遅番の八時から出勤した私がバーカウンターに入るなり、物珍しげにステージを眺めていると、
「いつもこんなふうだと楽だよね。今夜はマナーのいいお客さんばかりよ、莉子ちゃん」
ウォッカ・ギムレットを作りながら真紀さんが言う。
たしかにロックやヒップホップやEDMの夜とはまったく違う。別のお店みたいだ。
直後、ホール担当の子からオーダーが入る。
私は白のグラスワインを八番テーブルへ運んでいった。そこで目が点になる。
淡い暖色系のピンライトに照らされるテーブル席に座っていたのは曜子ちゃんだった。
「よ!」
ダークグレーのジャケットに白いドレスシャツというシックな身なりの彼女が、こっちを見ながら笑顔で手を振っている。
「ど、どうして、ここに――?」あまりの驚きで、その先の言葉がつづかない。
「ちょっと早めの夏休み。あなたが帰ってこないなら、私がへ行けばいいんだって、気づいたのよ」
ふふと笑って彼女は店内を見回す。
「素敵なお店ね。ライブハウスで働いてるっていうから、ちょっと心配してたんだけど」
「い、いつからいるの?」
「ん? 東京には夕方着いて、そのままこのお店にやってきたのよ」
「わ、私に会いに、わざわざ?」
「あら、わざわざってお言葉ね。もう一年半近くも離れてたんだから、会いたくもなるでしょ。だって、あなたは私の娘なんだから」
田舎から家族が来ているという話は、いち早く真紀さん経由で竹中店長の耳へと届き、曜子ちゃんの飲食チャージは無料になったうえ、ライブ終了の午後十時に早上がりさせてもらえることになる。頑なに代金を支払うといってきかない曜子ちゃんだったけど、真紀さんもまた頑なに固辞し、結局私が間に入って、サービスに甘えることで落ち着いた。
曜子ちゃんは今日のお昼休みにオフィス街を歩いていて、衝動的に私に会いたくなったそうで、そのまま午後半休をとって新幹線に乗りこんだと話した。このところずっと忙しかった私は、メッセージアプリにばかり頼っていて、電話すらかけていなかった。
「うち、泊まるでしょ? 曜子ちゃん」
『o'clock』を出て駅まで向かう途中、なんとなく展開を読んでいながらも一応訊いてみる。
「お、さすが、莉子ちゃん。察しがいいわね」
「わかるよ、それくらい」思わず笑ってしまう。
「よかった。あなたが元気そうで」
きらびやかな渋谷の夜の光を眺めながら、曜子ちゃんがぽつりと言う。
「こんな都会でたくましく生きてるんだから、すごいね。私はいろいろあって、離婚の後はすぐ田舎に戻っちゃったし」
「別にすごくないよ。全部、曜子ちゃんのおかげだもん。東京の大学に通わせてもらってるのも、ひとり暮らしさせてもらってるのも」
「それは違うよ」
「どうして?」
「こっちでの生活をつづけられているのは、莉子ちゃんががんばってるからじゃない。大学の成績だっていいし、しかも二つのバイトをかけもちして。すごいなあって感心してるの。さっきのお店でも、あの女性の先輩や店長さんから可愛がられてて安心したわ」
ちらりと横目で彼女を見ると、本当に安堵の表情を浮かべていた。少し胸が痛む。こんなことなら、もっとマメに電話したり里帰りしたりすればよかった。
電車を乗り継いでコンビニ経由でアパートに着くと、彼女は「へえー」と声を漏らす。物件を決めたとき、スマホで撮影して画像を送っていたけど、実物を見て驚いたようだ。
「古くてびっくりした?」
「そんなことない。写真より立派だなあって」
「嘘」
「嘘。ほんとボロいなあって」
「ひ、ひどい!」
「冗談よ」くすくす笑う曜子ちゃんを促して、私たちは二階の部屋へ入った。
交代でシャワーを浴びた後、三角チーズをつまみながら、彼女はビールを、私はウーロン茶を飲み、たわいもないおしゃべりをしているうち、気がつけば午前一時を過ぎていた。明日も朝イチから『くるみベーカリー』だ。そろそろ就寝することにして布団を敷く。
「お客様の曜子ちゃんはベッドで寝て」と言っても、「お仕事で疲れてるあなたがベッドで寝なさい」と首を振ってきかない。こういうやりとりで曜子ちゃんに敵うはずない。素直に従うことにして私はベッドに横になる。曜子ちゃんもすぐ隣の布団に横たわった。
「電気、消すね」と言って、照明を落とす。すっぽりと闇に覆われた六畳の部屋が静まる。
私はすぐに寝付けそうになかった。突然の曜子ちゃんの来訪で気が高ぶっていた。
音なく深呼吸しながら、瞼を開けて視界に広がる暗がりをぼんやり見つめる。
そうやってしばらく無音の時間が流れた。
「まだ、起きてる? 莉子ちゃん」
「うん」
「いろいろ、少しは、大丈夫になった?」
遠慮がちに、そして精いっぱい気を遣う声で問われる。
なにを訊かれているかはすぐにわかる。けど、答えられない。
私は自身に問う。大丈夫になったのだろうか。正直まだよくわからない。
「お金のこととか、そういうの、ぜんぜん気にしなくていいのよ」
そのひと言で察する。曜子ちゃんはすべてをわかっていて、会いに来てくれたのだろう。
「あ、ありがとう。でも、迷惑かけたくないから」
「私は迷惑だなんて感じたことないから。無理だけはしないで。アルバイトもいいけど、大学生なんだから、好きなこと見つけて打ちこんでみるとか、もっと青春を楽しまなきゃ」
明るく言ってくれる、その優しさにあらためて感謝する。
彼女がいなかったら、絶対に立ち直れなかったはずだ。あの町を出て、東京の大学に通うことも不可能だった。どれだけ離れていても、彼女の存在が心の支えになっているから、私は生きていられる。大げさじゃなくそう痛感する。
「あのね、曜子ちゃん」
「なに?」
「私、また音楽はじめたの」
「ほんと?」
「うん、ほんと。しかもね、驚くことに岬回高校で一緒だった、倉澄修くんと東京で再会して、彼と演ってるんだよ」
「へえ。倉澄くんも東京へ来てたんだ」
「うん。しかもK大法学部なんだよ。現役で」
「すごい。優秀ねえ」
「恥ずかしいから黙ってたんだけど、ネットの音楽サイトに私たちの楽曲がアップされてるの。明日、URLを送っておくから聴いてみて」
「そんな本格的に活動してるの?」
「修くんがけっこうマジで取り組んでるの。私はオマケっていうか、そんな感じかな」
REMレコードの澤さんのことは黙っておいた。よけいな心配をかけたくなかったから。
「ふうん、そうなんだ」
「だから心配しないで。バイトもやってるけど、私なりに好きなこと、がんばってるから」
一拍の間が空いた。
打ち明けようかどうしようか束の間悩んだけど、気がつけば声が口をついて出ていた。
「私ね、自分の歌がお父さんとお母さんに届きますようにって祈ってるの。だから音楽を再開したんだ。今の気持ちとか想いとかを歌詞に書いて、それをメロディに乗せて、二人に届けたいの。そうすればきっと、私に会いたいって思ってくれて、いつか会えるはずだって、信じてるの。前に曜子ちゃん、言ってくれたでしょ。あなたがしっかりと生きていけば、この先、必ず再会できるって。だから私は音楽もバイトもがんばれてるんだよ」
しばし沈黙になった後、
「よかった」
曜子ちゃんがしみじみ言う。「東京に来てよかった。莉子ちゃんが元気でがんばってるのを知ることができて、本当によかった」
「――よ、曜子ちゃん」
彼女の声に深く安堵する気持ちが滲み出ていて、私は胸が詰まった。
「歌、きっと届くよ。莉子ちゃんの気持ちや想いも。絶対に二人に届いて、また戻ってくれるから。だからがんばって。そしてもしなにか悩むこととかあれば、いつでも言ってね。頼りない叔母さんだけど、ずっと私はあなたの味方で、家族だから」
「あ、ありがとう――――」口を動かすと、いつの間にか両目に滲んでいた涙がこぼれる。
「私、明日、帰るからね、莉子ちゃん」
唐突に彼女が言う。
「えっ、え? もう? そんな、二、三日くらいいてよ。バイト休ませてもらうから」
「ううん、あんまり長居しても気を遣わせちゃうし。それに莉子ちゃんには莉子ちゃんの世界が、この場所で回ってるわけだから」
「気なんか遣わないよ。家族なんだから。だからもう少しいてよ。一緒にいたいの」
「そうしたいのも山々だけど、私みたいに仕事ができる女が長く休むと、会社が困るのよ」
冗談っぽくそう言って曜子ちゃんはくすっと笑う。最初から決めていたのだろう。東京へは一泊だけで、私の元気な顔を見たらすぐ帰ろうって。裏を返せば、それほどまで私のことが心配になって、なかば衝動的に会社を飛び出して会いに来てくれたんだ。
「ね、莉子ちゃん」
「なに?」
「もし気が向いたらでいいから、年末には帰ってきて。無理のない範囲でいいから。ね」
「うん。わかった」
「お正月くらい、家族で一緒に過ごしたいしね。私ひとりだと寂しいもん」
「うん。そだよね」
「じゃ、おやすみ」
「おやすみなさい」
間もなく、静かな寝息がかすかに届く。私はなかなか眠れなかった。親代わりの曜子ちゃんの想いが痛いほど伝わってきて、胸が熱くなったままだった。
言葉通り、曜子ちゃんは翌朝帰っていった。
真夏の陽ざしが降り注ぐ早朝、私たちは駅前で別れる。
「体だけは気をつけてね。しっかり食べて、よく寝るのよ」
そう言って曜子ちゃんは、昔みたいに私の前髪をさらさら撫でてくれる。
彼女が去ってしまうと、心にぽっかりと穴が開いたような寂しさだけが残った。
それからしばらく静かな日々が流れた。都会の短い夏が終わりを告げるように、いくつもの台風が訪れはじめ、やがて秋の気配が朝夕の空気に濃くなっていく。
*
澤さんからの連絡はない。それでも修くんの音楽熱は高まる一方だった。
九月中旬にはビートクラウドにリリースする新譜を三曲も録音した。
楽曲のクオリティは確実に上がっている。スローバラードからアップテンポなナンバーまで、修くんはコンピュータやさまざまな楽器を駆使して、多彩な曲調で仕上げていく。大学がない夏休みはほぼマンションのスタジオにこもっていたみたいだった。
彼はいっさい口にしないけど、おぼろげに私は勘づいていた。辛い過去や両親のこと以外に、彼を支えつづける音楽への新たなモチベーションの源がなんであるかを。
咲南ちゃん――LANAは今年の春あたりからついにバズって、今やネットを賑わすアーティストのひとりになりつつあった。同時期、満を持してLANAはTAKASHIというサウンドクリエイターとのユニットをネット上で正式発表した。真紀さんが教えてくれた。作詞作曲やアレンジにとどまらず、SNSをはじめとするネットのマーケ戦略から、LANAのプロモーション動画、アートワークのプロデュースまでこなすTAKASHIの存在があるからこそ、彼女は短期間でスマッシュヒットを連発するアーティストに育ったらしい。TAKASHI。秋山さんの下の名は隆だ。間違いない。真紀さんからその話を聞いた瞬間、私は二人がいまだ組んでいるのだと確信する。
修くんもまた、その記事を読んでいないわけがない。
高校時代の秋山さんの出現は、瞬く間に私たち屋上トリオを自然消滅に追いこんだ。
そして彼が教育実習を終えると、咲南ちゃんは退学し、あとを追うように東京へ行ったと噂された。修くんと私にとって秋山さんは不吉なアイコンでしかない。実際に彼がなにかをした事実はなくても、タイミング的には負の象徴として記憶のなかに刻まれている。
修くんは咲南ちゃんと秋山さんが今もユニットを組んで活動していることに苛烈なライバル心を燃やしている。彼は今でも咲南ちゃんのことが好きだ。だからビートクラウドに固執し、ハイペースで新譜をアップロードして対抗しようとしている。
そんなよこしまな憶測が浮かんだり沈んだりしている九月下旬のこと。
修くんのマンションスタジオで歌の収録を終えた直後、耳を疑うような話を聞かされる。
「咲南ちゃんが――?」
「うん」
「ほんとに?」
「うん」
「なんで?」
何気にポーカーフェイスを装うように答える修くんだけど、短い返事が上ずっている。昔から修くんはわかりやすい。
「なんでって、僕らに会いたいんだって。ビートクラウド経由でダイレクトメッセージが送られてきたんだ。昨夜っていうか、今朝の四時頃。ビートクラウドで僕らの楽曲を聴いて、すぐにわかったんだってさ。莉子ちゃんと僕のユニットだって」
「匿名で、写真もプロフィールもなんにも載せてないのに? それに私の声だって」
「同じ屋上トリオだよ。お互いの音楽性は知り尽くしてるよ」
「四年以上も経つのに?」
「彼女の耳、侮ってはいけないと思う。すごいから」
修くんが真顔で、どこか誇らしげに私に告げる。「莉子ちゃん、会うでしょ?」
「私も?」
「当然だよ。さっき、僕らって言ったよね?」
咲南ちゃんに会いたい気持ちはあるけど、彼女のバックには秋山さんがいる。なんとなく嫌な予感を覚えてしまう。私たちへのコンタクトを発信する背後で、秋山さんの存在が見え隠れしてしまうのは考えすぎだろうか。一方の修くんは動揺しながらも会う気満々の様子だ。秋山さんのことなんかまるで気にする素振りも見せない。むしろビートクラウドに新譜をアップしていた甲斐があったといわんばかりの表情にも見て取れる。
断ることは無理そうだと、私は諦めながら肩で息をつく。彼女と再会することが修くんにとってのひとつの目標なら協力するしかない。先の澤さんの一件もあったわけだし。
その後、九月末日に咲南ちゃんと会うことが正式に決まった。
場所は彼女の自宅、港区のマンション。修くんはうれしそうに電話してきた。やっぱり私は気乗りしなかったけど、今さら反対することも拒否することもできなかった。
3
「やっほー、莉子ちゃん! 超おひさー」
高級タワーマンションの重々しいドアが開いたとたん、ハイテンションな咲南ちゃんが玄関口に飛び出し、思い切りハグしてきた。とたん、むせ返るほどの甘くて濃厚な香りに包まれる。動画ではわからなかったけど、彼女は高校一年生の頃よりずっと背が高くなっていた。それだけじゃない。ネットで観た以上に実物は大人っぽくなっている。
私は胸騒ぎがした。元気いっぱいに振る舞う彼女なのに、内側には不穏な〝なにか〟が破裂しそうなほど詰まっている。かつてと比べものにならないくらい。それがわかった。
「ん? どうかした? 超ひさびさなのにフリーズしちゃって」
黒系のアイラインとまつ毛エクステで装飾されたふたつの瞳で私をのぞきこんでくる。さすがにカラコンは入れてなかった。
「あ、ううん、別に。なんでもない。なんかひさしぶりすぎて、しかも咲南ちゃん、すごいきれいになってるから、ちょっと驚いちゃって」
すると、くすっと彼女は笑う。「そういうとこも変わんないね、莉子ちゃんって」
咲南ちゃんはどうしてそんなに変わってしまったの? 歌でみんなに認められたいっていう念願が叶ったから? とはもちろん声になるわけない。
「あ、あの、咲南ちゃん、ごぶさたしてます」
背後から修くんの遠慮がちな声が届く。直後、私の顔から視線を動かした咲南ちゃんは、
「えー! 修くんなの?」大声を上げて、黒い瞳を丸くする。
「ども、修です。おひさしぶり。かなりご活躍みたいで――」
「なに? そのしゃべり方。あ、治ったんだね。ていうか、声変わりしてるし、すごい背が高くなってるし。しかも、なんかイケメン風じゃん」
「あ、いや、そ、そういうことは、そんな――」
咲南ちゃんの勢いにたじろぐように修くんの声は弱々しい。けど、その顔はまんざらじゃないみたいだ。照れながらうしろ頭をぽりぽり掻いている。
「まあ、いつまでも玄関にいてもあれだから、さ、入って。狭いおうちだけど、どうぞ」
完全に咲南ちゃんのペースで迎え入れられ、私たちは室内へと招かれる。
和やかな場が一瞬で凍りつくのは、リビングへとつづくドアを彼女が開けたと同時だ。
修くんと私の歩がぴたりと止まる。嫌な予感に限って当たってしまう。
「よ。ごぶさた」
ソファーに背をもたれ、足を組んで座っている秋山さんがにやついた顔で片手を上げる。
見た目が四年前よりさらに若く映るのは、アッシュブラウンだった髪の毛が、咲南ちゃんそっくりのシアーなブロンドになっているせいだろうか。さらに目を引くのが、真っ赤なフレームの半透明の眼鏡と、ビビッドな赤いドレスシャツだ。胸元をはだけて、いかにも高級そうなシルバーネックレスが鈍く輝いている。
教育実習で高校へ来たときも、どこかチャラさが残る雰囲気だったけど、今はそれに輪をかけて、軽薄そうな空気が全身から放たれている。
「なに、ぼーっと突っ立ってるんだよ。早く入りなよ」
まるで我が家のように言いながら手招きする。
「――な、なんで?」
私の隣に立つ修くんが力なくつぶやく。明らかにその表情は混乱している。というか、彼はこういう事態をまるで想像していなかったのだろうか。咲南ちゃんから連絡があって、それくらい舞い上がっていたのかもしれない。
「あ、伝えてなかったっけ? せっかくだから隆さんも一緒のほうが楽しいかなって思って。それに彼も君たちの音楽に興味持っててね、ぜひ会いたいって」
まるで修くんの混乱など気にもとめないみたいに、咲南ちゃんが笑顔でしれっと言う。隆さん、そして彼という表現に深い意味合いを感じ取ってしまう。それは修くんも同じだったようで、眉根を寄せ、下唇を噛みしめていた。
「聞いてないよ。てっきり三人だけだと思ってた」
つい、私は本音が声になる。それでも語気が強くならないよう極力抑えた。
咲南ちゃんとの再会を喜ぼうという気持ちの高ぶりが一気に醒めていく。
「まあ、いいじゃん。みんな音楽仲間なんだし。さ、どうぞ、ソファーに座ってよ」
彼女はいっこうに意に介さない感じで私たちを促す。しょうがなく修くんも私も、秋山さんが座っているL字型ソファーの一番離れた場所にちょこんと腰を降ろす。
「なに飲む?」すかさず訊いてくる咲南ちゃんに、
「俺、ビールな。よく冷えたやつ」と、秋山さんが馴れ合いな感じで告げる。
「じゃ、莉子ちゃんと修くんもビールでいいよね?」
キッチンのほうへ歩きながら咲南ちゃんが念を押す。
「いえ、私はこの後バイトがあるし、それにお酒飲めないから、お茶をお願いします」
「ぼ、僕も。お茶でいい」
修くんも口を揃えると、とたんに咲南ちゃんの顔が曇る。
「なに? なんか乗りが悪いね。四年ぶりなのにさ」
「そんなことより君らがビートクラウドにアップしてた曲、全部聴かせてもらったよ。咲南から聞いてさ。正直、驚いたな」
秋山さんが真顔を向ける。その一瞬、鋭い視線を私に定めた気がして思わず俯く。
「どっちが曲を書いてるんだ?」ぶしつけに訊かれて、
「き、共作です」修くんが返すと、
「どうしてバンドで演らないんだ?」
すかさず次の質問してくる秋山さん。おずおずとまたも修くんが口を開く。
「バンドなんて今どき流行らないし、メンバーが増えれば負担や問題ばかり増えていくし。莉子ちゃんと僕さえいれば理想の音作りができます。あとはコンピュータがあればいい」
「俺と同じだな。音楽活動にバンドなんて必要ない。音作りにはコンピュータだけでいい」
「は、はい、その通りだと、僕も思います」
明らかに秋山さんには苦手意識というか嫌悪感をも抱いているはずなのに、音楽の話になると、修くんは生真面目に答える。
いや、もしかすると、咲南ちゃんをプロデュースする彼にライバル心を燃やす一方で、音楽家としては一目置いているのかもしれない。インディーズとはいえ、LANAを売り出した張本人だ。ビートクラウドという同じ土俵に立ちながら、悪戦苦闘しているだけに、心のどこかでリスペクトしていてもおかしくない。
「分担はどうなってる?」
「えっと、原曲トラックとアレンジ、打ちこみと楽器演奏は僕のパートで、莉子ちゃんはメロディラインと歌詞、そしてもちろん、ボーカルを担当しています」
「あの超絶ピアノのトラックは君の持ち味なんだな。で、メロはやっぱ彼女が作ってるってわけか」
ふたたび秋山さんが私に鋭い視線を定めてくる。半透明の眼鏡越しのまなざしの奥に宿る不可解なぎらつきが気になるというか嫌になって、またも目を逸らしてしまう。
「はい、お待たせ」
そのタイミングで咲南ちゃんがそれぞれのドリンクをトレイに乗せて持ってきた。きらきら光るアクリルのソファーテーブルに並べていく。
「なあ、二人とも。咲南とコラボしてみない?」
「は?」
思いがけないことを切り出され、修くんと私の声が重なる。
「咲南とはこれから斬新なトライアルを次々と打ち出そうって企画してたんだよ。ネットはコンテンツの消費サイクルが短いからさ。そしたら君らがビートクラウドに出てきた。高校時代の学友との再結成コラボって、ネタとして話題性があると思わないか?」
そこまで言って秋山さんは缶ビールをグビッとあおって、わずかに身を乗り出す。
「どうだ、倉澄くん、いいアイデアだろ? アクセス数が低迷したままの君らの知名度もグッと上がるどころの話じゃないぜ。もしかしたらこれがきっかけになって、咲南みたくSNSで拡散して、バズる可能性だってじゅうぶんある。アーティストLANAのフォロワーが君らのコンテンツをシェアしていけば、マジ激アツになるかもしれない」
修くんは秋山さんにじっと見据えられ、緊張しながらも真剣な面持ちになっていく。
ますます私は嫌な予感に捉われていく。
「な? コラボしてみようよ」秋山さんが声を重ね、今度は咲南ちゃんに向き直る。
「咲南、お前にとってもチャンスだぞ。二人のユニットには光るものがあるしな」
「もちろん、私は賛成よ。隆さんがそう言うなら、異存ないわ」
予定調和のように咲南ちゃんが笑みを浮かべる。どこか挑戦的な面持ちでもある。
「雪野さん、君も賛成だよな?」
今度は私に言葉が向けられ、即座に断わろうとする前に、
「やってみようよ、莉子ちゃん」
意を翻したように修くんが強い声で言う。この裏切り者、と私は心でののしる。
「やろうよ、莉子ちゃん」
咲南ちゃんも熱く訴える。その瞬間、彼女の〝なにか〟がさらに膨れ上がる。
「あ、あの、高校の同級生とか、そういう個人情報、私、ネットで絶対NGなんで――」
なんとか抵抗を声にするけど、あとはなにも言えなくなる。リビングが奇妙な沈黙に覆われる。一刻も早くここから早く逃げ出したい。無言の同調圧力に押し潰されそうになる。
パンッ! ソファーに座る秋山さんが手を打つ。
その瞬間、この場はもう彼に完全支配されていると悟る。あのときの音楽室と同じだ。
「よし、彼女の言い分はわかった。なるほどね、だからビートクラウドのボーカルはどれも過度なエフェクトがかかってたってわけだ。二人の素性も非公開だし。だったら君が望む通り、顔バレしないよう、高校とか同郷とか個人情報もビジュアルも全部隠してコラボ、これで決まりだな」
私以外の二人は深く肯いた。秋山さんの一方的なペースで物事が決められていく。
そのとき私は、どうしてだか澤さんのことを思い出していた。
最初で最後になった、代々木公園のそばのカフェで私は彼に訊いた。
『もし、限りない夢があるのなら、ここにいる三人で見ることはできないのでしょうか?』
『そんな理想が通る世界じゃないんです』
澤さんから厳しい顔と声で突き返された。それでもあの人は私たちに相対し、真剣に、深く思い悩むように考えてくれていた。もし、この人となら、そこに修くんもいれば、きっとうまくいく。ひそかに私はそう思っていた。今、目の前で得意げににやけている秋山さんとは大違いだ。もう一度、澤さんに会ってみたい。あの人が抱えている〝なにか〟がどういうものなのか、もっと話をして、その本質をたしかめてみたい。そんな衝動に駆られるけど、叶いそうもない。そればかりか今の私は、秋山さんの不穏な流れのなかに呑みこまれようとしている。わかっていながらも、この場ではどうしようもなかった。
*
秋山さんがフレームワークを設計した私たちのコラボ新譜は、仕上げに延べ一ヶ月近くも要した。バラバラの素材というかテーマを、ひとつの楽曲に組み上げるため、修くんは丸一週間、自宅のスタジオから出られなかったという。彼は秋山さんを嫌っていたはずなのに、コラボが決定すると従順に従って音楽制作に打ちこんだ。
やがて仕上がったデモ版は、これまでの咲南ちゃんのテイストとは一線を画すバラード調で、ピアノを基調とした修くんの持ち味を活かすアコースティックなサウンドとなる。しかも咲南ちゃんと私の掛け合いが特長的なツインボーカルだ。もっともこれは彼女自身が強く望んだ方向性だという。
ビートが激しいダンスやEDM系の楽曲でないことに安堵したものの、秋山さん主導によるコラボは気乗りしなかったばかりか、やっぱり嫌な予感がしてならなかった。
さらに私を不安にさせたのは、楽曲を録音するだけではなく、動画用のカメラを秋山さんが回しはじめたことだった。修くんも私も、プロモーション動画には絶対に出演しない、という話になっていた。当然、顔も名前も、過去に関することも伏せる約束だった。
ネット上で抜群の知名度を誇るLANAとのコラボで無防備に素性を晒してしまえば、いったいどんな事態になるのか、想像がつかないくらいおそろしかった。
「ただの記録映像だよ」と彼は言い張ったけど、本格的な音楽スタジオでの歌の収録中、ミキサールームからカメラを向けられるだけで、気が気ではなくなりそうだった。
一方で、咲南ちゃんの心の強さに、修くんも私も驚きを隠せなかった。彼女もまた、家庭環境や過去について、ひどい書きこみがネットにあふれていた。いまだそれらは消えることがないばかりか、アーティストとして歌とパフォーマンスをアップしはじめた一時期は炎上さながらに攻撃されたということだ。にもかかわらず秋山さんの作戦で、スキャンダラスな誹謗中傷や公開処刑の書きこみすら話題性のネタとして利用し、アクセス数を稼いで知名度を上げ、今ではアンチをはるかに上回るファンを獲得しているという。
私には到底真似できない、と思う。
まるで気乗りしないコラボだったけど、咲南ちゃんとのツインボーカルで歌う本格的な録音は正直とても刺激になった。実際の彼女の歌声は、ビートクラウドの動画以上にパワフルで、マイクの前に立ったとたん、私へのライバル心が剥き出しになったような、アーティストとして圧倒的な存在感を見せつけた。その瞬間、ひさしぶりの再会で感じた不穏な〝なにか〟は影を潜めていた。あれは気のせいだったんだ、と思うことにした。
私はそんな彼女と歌声で競うようにテイクを重ねるたび、今までにない高音域の伸びや声の力強さを感じていく。彼女との四年ぶりのセッションを通じ、屋上トリオのときとは次元が違う、新しい音楽がすぐ先にあるような手応えを初めて覚えていた。
そうして十一月初旬、私たち三人の新譜がついに完成した。ビートクラウドへのアップロードに際しては企業秘密のテクニックやノウハウがたくさん含まれるという秋山さんの主張があって、すべてを任せることになった。
修くんはぜひ教えてほしいと粘っていたけど、一蹴されたらしい。
LANAとのコラボがネット上でどういう反応を生み出すのか、私たちはまったく予測がつかなかった。
*
その夜、『o'clock』に早番出勤すると、いつものように真紀さんがカウンター前のテーブル席に座り、ワイヤレスイヤホンを耳に装着していた。仕事前の空き時間、スマホで好きな音楽をディグるのは彼女にとっての儀式みたいなものだ。
私がお店に入ってきたのを見とめるなり、待ちかまえていように手招きで呼ばれる。
「はい?」
「ね、これって莉子ちゃんだよね?」
なんだろうと彼女が差し出すスマホを見て、一瞬で頭のなかが真っ白になる。
咲南ちゃんとのコラボ新譜の動画に、修くんや私がはっきりと映りこんでいる。
絶対に顔は映さない約束でスタジオ録音の際にカメラを許し、あくまでアーティストLANAが主体の映像を別テイクで撮影して配信することになっていた。修くんの強い押しがあって、編集した映像までチェックした。そこには咲南ちゃんしか映っていなかった。
そのはずなのに、真紀さんのスマホから流れる動画には、LANAと一緒になってマイクに向かう私や、グランドピアノを弾く修くんの姿が克明に映し出されている。
「そ、そんな――」
目を疑って立ちすくんでいると、デニムのうしろポケットに入れていたスマホが震える。
「も、もしもし?」
「その感じだと、莉子ちゃんも見たんだね?」
修くんが強張った声を絞り出す。語気には怒りが滲んでいる。
「う、うん。じゃ、修くんも?」
「たった今、あちこちの音楽配信サイトに同時アップされたみたいだ」
「え? ビートクラウドだけじゃないの?」
「うん。だけど、さらに悪いニュースがある」
「ど、どういうこと?」
「あの野郎、莉子ちゃんと僕の本名とか、出身校とか、咲南ちゃんと親友だったとか、勝手にプロフィールを作って、動画と一緒にアップしてるんだ。約束をガン無視してさ」
「う、嘘でしょ」
「嘘なんかじゃない。嘘だって僕も信じたい。でも、現実なんだ。消去しようと思ってアクセスしても、パスワードが通らない。アップ前に教えてもらっていたやつは偽物だった。すべては最初から仕組まれていたんだよ」
訴えるように言う修くんの声が激しい怒気で濁っていく。
五年前の真冬に両親が失踪してからの、公開処刑のような残酷な誹謗中傷の書きこみがあらためて脳裏に蘇ってくる。
「大丈夫? 莉子ちゃん?」
異変を感じた真紀さんが立ち上がって私の肩に手を触れる。
私はなんの反応もできない。そればかりか、まただ。感じる。私のなかの得体の知れない〝なにか〟が、手足の指先にまでじんわりと触手を伸ばすようにして浸透していく。それは不気味なほど冷たくて、ぬるぬるしていて、奇妙な動きを繰り返しながら内側の隅々を支配していく。私はふたたび悪しき〝なにか〟によって、全能を奪うように抑えこまれていく。高校の音楽室でビートルズの『Something』を聴いた、あのときのように。
ふっと意識が途切れ、視界が暗転したのは直後のことだった。
4
そばにいた真紀さんがすぐにほかのスタッフを呼び、私は救急車に乗せられたらしい。側頭部を床で強打したものの、脳波にも異常がないことから、二時間ほど病院で休んで自宅アパートへとタクシーで戻った。部屋のベッドに横たわるまで、真紀さんが付きっきりで世話してくれた。
私が倒れた理由を、彼女はいっさい訊こうとしなかった。もちろん自分からはなにも言い出せない。ただただ「すみません」「ごめんなさい」「大丈夫ですから」を繰り返したけど、真紀さんは「いいから静かにしてなさい」と言って私のそばを離れようとしなかった。
その間もスマホは断続的に震えた。おそらく修くん、あるいは咲南ちゃんに違いない。
真紀さんが部屋を去ると、私はスマホの電源を落とした。
手の平ほどのキラキラした精密機械の向こうに、えんえんとネット世界の深い闇がつながっていると想像しただけでおそろしくなった。
翌日から、私は大学も『くるみベーカリー』も『o'clock』も休んだ。初めての無断欠勤。外園さん夫妻にも真紀さんにも竹中店長にも、スタッフのみんなにも、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。スマホの電源をオフにしたまま、アパートの鍵を閉め、カーテンで窓を覆い、私はベッドにうずくまる日々を送った。そのようにして四日、五日、六日――そのうち昼か夜かがわからない時間が無味に過ぎていく。冷蔵庫にあったミネラルウォーターとオレンジジュースと牛乳だけを摂取し、ただ無気力に現実逃避する。
後悔しても手遅れだけど、秋山さんの口車に乗ってしまったことを悔やみつづけた。
修くんが言ったように、おそらくすべてが最初から仕組まれていたのだろう。
咲南ちゃんを使って修くんにダイレクトメッセージが送られてきた時点から。
彼女が秋山さんの企ての片棒を担いだとは信じたくなかった。純粋に屋上トリオと一緒に音楽を演りたかっただけなんだ。そう信じようとする自分がいた。
それにしても――気力を失った頭でぼんやり考える。
修くんや私の素性を晒すことで、いったいなんの得が秋山さんにあるんだろう。
わからない。わかるわけがない。けど、起きてしまった。
今頃、私たちの公開処刑でネットが盛り上がっているはずだ。
修くんがすべてを懸けていた音楽も、私とのユニットもこれでおしまいだ。
『くるみベーカリー』にも『o'clock』にも行けない。外園さん夫妻も真紀さんも竹中店長も、私の過去に紐付けた醜悪な書きこみの数々を目にしているかもしれない。
東京に来て、みんなに優しくしてもらい、それなりに静かに暮らしていたのに。
今度こそ駄目かもしれない。
真っ暗な部屋の小さなベッドの上、抱えている両膝の震えが止まらない。
ねえ、助けて――お父さん、お母さん――――いったい、どこにいるの?
ずっと抑えこんでいた気持ちが噴き上がる。なぜ自分にばかり辛いことがのしかかってくるんだろう? なにも悪いことをしてないのに。
*
引きこもりから何日が経過したか、わからない。目覚めているのか、眠っているのか、どちら側に自分がいるのかも判断がつかない微睡みのなか、突然、轟音が鳴り響く。
ドンッドンッドンッドンッドンッドンッドンッドンッ!
「開けなよ! 莉子ちゃん! 生きてんだろ!」
アパートの薄い戸板を叩く音に、修くんの強い声が重なって聞こえる。
「まだ終わってなかったんだ! い、いいや、これからなんだよ、僕らは!」
叫んでいる言葉の意味がまったく理解できない。
「莉子ちゃん! 早く開けて! みんながどれだけ心配してるか、わかってるのっ!」
今度は真紀さんだ。わけがわからない。身体を起こして闇の向こうにあるドアを見つめた瞬間、「とにかく開けて!」修くんと真紀さんの叫び声が揃って重なった。
にわか信じがたい話を修くんから聞かされる。
『o'clock』で彼から電話を受けた十一月四日の夕方から九日が経過し――つまり私はそれほどの長期間引きこもっていた――状況が急変したらしい。
私たちの顔や素性が露わになったコラボ新譜の映像がビートクラウドをはじめとする主要音楽配信サイトや動画サイトにアップロードされた直後、当然のようにネット上で炎上騒ぎが勃発した。SNSからSNSへと拡散し、ブラックな影を引きずる修くんと私のコンビに対する罵詈雑言や悪意に満ちた書きこみは、みるみるネット住民への同調圧力を生み出し、わずか二十四時間で数千件に上ったということだった。
「だけど一週間が過ぎた頃から、莉子ちゃんの歌唱力や表現力を評価して称賛するコメントが、ビートクラウドを中心とした音楽配信サイトに書きこまれるようになったんだよ」
修くんはやや頬を紅潮させて話をつづける。
「僕らの個人的な過去の話なんかどうでもよくて、ただ純粋に楽曲が素晴らしく、そしてなにより莉子ちゃんの歌声や音域は特別な才能に満ちてるって、主に海外の外国人リスナーがそういうコメントを寄せるようになった。するといきなり、欧米やアジア各国であのコラボ楽曲が大大的に共有されはじめて、SNSで一気に拡散していったんだ」
「それからはあっという間よ。二人をディスる書きこみユーザーが逆に攻撃されはじめたと思ったら、一気に炎上は鎮火して、そればかりか莉子ちゃんたちがビートクラウドにアップしていた楽曲のストリーミング数とフォロワー数が凄まじい勢いで急増してるの」
修くんと一緒にアパートに上がりこんできた真紀さんが真剣な面持ちで語る。
理解しがたい話に、私はきょとんとしたまま動けなくなっていた。
「しかも今度は、LANAサイドがターゲットになりつつあってね」真紀さんが言う。
「う、うん、それはそれで、すごく心配なんだけどさ」
彼女の言葉を受け、修くんが眉根を寄せながら言葉を綴る。
「最初からそういう話題作りが狙いで、高校時代の友だちを引きずり出して、意図的にディスって炎上させ、自分たちのプロモーションのために利用したんじゃないかって。じつは夏くらいから咲南ちゃんの勢いが失速気味だったからさ。たぶん彼女は悪くないっていうか、なにも知らなかったんだ。すべてあの男のせいなんだよ」
修くんが憎しみを含んだ声で言いながらも、私に向き直る。
「いずれにせよ僕らは勝ったんだ。莉子ちゃんの歌がネットの世界を動かしたんだよ」
「そうよ。だからもう安心して」真紀さんまで訴えるように言う。
話を聞いていても、やっぱり私は信じられなかった。カーテンを閉め切った真っ暗な空間のなかで自暴自棄になりかけていた間に、そんな急転直下の事態が起きていたなんて。
しばしの間、部屋が静けさに包まれる。
「とにかく」口を開いたのは真紀さん。「明日から、ちゃんと出勤してよね」
「――で、でも、いいんですか?」おずおずと私は訊く。
「なにがよ?」
「だ、だって。一週間以上も無断欠勤してしまう無責任なバイト、雇ってくれるんですか?」
ふっと彼女は息を抜いて首を振る。
「あなた、わかってないわね。うちはね、忙しいから常時バイトを募集してるけど、めったに採用しないのよ。だから、一度採用した人は、バイトだろうが正社員だろうが、とにかくきちんと最後まで面倒見るの。そういう方針なの。それにそもそも、ネットなんかに書きこまれてる無責任な匿名のコメントとか、うちのお店のスタッフ、誰ひとりとして鵜呑みにしてないから」
そういえば『ここで働く人をすごく大切にするのが、お店の一番の方針です』と竹中店長は面接のときに言っていた。
「莉子ちゃん、そういうことなんだ。昔とは違う。僕らは被害者であっても加害者じゃない。それをわかってくれる人がたくさんいる。さっきも言った通り、音楽が変えたんだ」
「そうよ。莉子ちゃんの歌、店長とかみんなもビートクラウドで聴いて、驚いてるのよ。こんなすごい才能があったんだって」
「ほ、ほんと、ですか?」
「嘘言ってどうするのよ。とにかくみんな待ってるから。わかった?」
「は、はい――」二人の話は急展開すぎて、この場ですべてを受け入れるのは難しかった。だけど信じようと思えた。私はひとりきりの孤独じゃないということがよくわかったから。
それからしばらく、修くんと真紀さんは音楽談義で盛り上がった。私は二人に感謝した。特に真紀さんの優しさが心に響いた。もちろん修くんの思いやりも涙が出るくらいうれしかった。あらためて私たちは仲間なんだと実感する。
一方で、秋山さんの卑劣なやり方は絶対に許せないと思うと同時、咲南ちゃんは大丈夫だろうかと心配になる。一度は自らの力で過去を跳ね返しても、ふたたびネットでターゲットになればどうなってしまうのか、私には想像できなかった。
*
『o'clock』への復帰は、杞憂するまでもなかった。竹中店長に謝罪して、それからチーフクラスにも深々とお詫びして回った。もちろん、そのほかの全スタッフにも丁重に謝って、今後は二度とこのようなことをいたしません、と誓った。そのうえであらためて真紀さんに昨日のお礼を述べて、仕事に集中した。
翌日、『くるみベーカリー』へも朝一番で謝りに行く。外園さん夫妻は怒るよりもまず、「大丈夫だったのかい?」と、心配と安堵が混じる面持ちで穏やかに訊いてきた。その言葉の奥に心の温かみを感じた。
「すみません。ご迷惑をおかけしてしまって。私――」
そこまで言いかけたところ、
「ね、莉子ちゃん、明日はいつも通り、朝の六時半から入れるわよね?」
佳乃さんがいつものように訊いてくる。
「え、でも」
「よっし、ならこれでOK。またよろしくね」
そう言いながら佳乃さんはにっこり笑顔を浮かべる。「私たち、あなたの歌が大好きになったの。夜明け前に調理しながら毎朝スマホで聴いてるのよ。音楽なんて二十年以上もまとも聴かなかったあの人がべた褒めするって、すごいことなんだから」
ぐっと胸の奥から熱いものがこみ上げてくる。
その日の午後、スマホの電源を入れたとたん、いきなり曜子ちゃんからの電話が鳴る。
「どれだけ心配したかと思ってるの! 今、新幹線の駅のホームで、この電話がつながらなかったら、東京へ行くとこだったのよ!」
そう一方的に怒鳴られて、その後、二十分近く説教された。彼女はネットや音楽の件にいっさい触れなかった。それが逆に曜子ちゃんらしいと私は思う。彼女はなにが起ころうとも、私の成長と可能性を信じてくれている。
私が気がつかなかっただけで、世界は少しずつ広がっているように思えた。
*
知らない番号から着信があったのは、曜子ちゃんに電話でお説教された翌々日のこと。ちょうど『くるみベーカリー』のバイトが終わって、いったんアパートへ戻り、午後から大学へ行くための準備をしているところだった。
スマホを見る。03ではじまる東京エリアの固定電話からだ。
「もしもし?」
「雪野さんですか?」
「は、はい」
落ち着いた男性の声に、聞き覚えがある気もしたけど思い出せなかった。
「ごぶさたしております。REMレコードの澤です」
驚きで声が出ない。あれから五ヶ月以上が経過し、まったく音信不通だった。
もう修くんも私も忘れるようにしていたし、話題にもしなくなっていた。その間、いろんなことが次々と起きていたし。
「少し時間がかかるかもしれません、とはお伝えしましたが、ご連絡するのにかなり遅れてしまいました。本当に申し訳ありません」
ていねいな話し方は変わることがない。それゆえか、感情が読み取りにくくて、どういう要件で電話してきたのかわからない。
「先に倉澄さんの携帯に二度お電話したのですが、出られなかったもので、雪野さんに電話してしまいました。メールやメッセージアプリだと、伝わりにくい部分がありますから」
「はあ」
「あ、今、よろしいでしょうか? お話しても」
「え、ええ。はい。どうぞ」
直接会ったときは初対面だったこともあって気づかなかったけど、この人ってよく通るいい声質なんだと思う。奥行と張りがあり、独特の響きが声色を震わせる。こういう人が本気で歌ったら、どんな歌声になるんだろう、と場違いなことを考えてしまう。
「単刀直入に申し上げますが――」
澤さんがそこまで切り出したところ、思わずくすっと笑ってしまった。
「なにか、おかしいですか?」
「い、いえ、すみません。ただ、前にお会いしたときも、同じ感じで話されたので、つい」
「あ、ああ、そうですか。いや、そうかもしれません。たしかに単刀直入に、と言ったような気がします。僕の口癖みたいなもので、よく社内でもそんなふうに突っこまれてしまいます。自分ではわかってないみたいで」
少しくだけた口調になり、なんとなく親しみを覚える。と、澤さんはいきなり切り出す。
「ライブに出ませんか?」
「は?」
唐突すぎて冗談かと思ってしまった。けど違った。澤さんは揺るぎない語調でつづける。
「来月の二十一日、渋谷の『o'clock』でうちの新レーベル発足を記念するクリスマスライブを開催します。プレデビュー記念として出演してもらいたいと考えていまして、いかがでしょうか?」
私は沈黙するしかなかった。
ライブ? 『o'clock』? 新レーベル? プレデビュー記念? な、なんの話?
「もちろん、『o'clock』は雪野さんの職場であるとも知ったうえでの判断です。慣れた場所でもあるし、しかも歴史ある名門店ですし、初ライブには最適かと考えてのことです」
「ち、ちょっと、待ってください」
「なにか? どこかお気に召さない点でも」
「私たち、ライブなんて無理です。しかも『o'clock』でなんて。だいたい、新レーベルとか、それにプレデビュー記念ってどういう意味なんですか? 話がまったく見えません」
次の一瞬、澤さんは沈黙し、慎重に言葉を選ぶように声を継ぐ。
「アーティストは観客の前で演奏し、歌ってこそ、真価を発揮できます。才能は誰にでも与えられるものではありません。だけど、才能を開花させるタイミグが非常に重要です」
「あの、私たちはネットでしか音楽活動しません。リアルな観客の前で歌うなんて、とてもそんな――」
「あなたたちはあのネットの炎上騒ぎを音楽で鎮めたばかりか、雪野さんの歌声で大多数を味方にしました。誰にでもできることではありません。ネット上でも非常に稀有な現象です。そのおかげで正式に会社からGOサインが出ました」
「あのこと、知ってるんですか?」
「もちろんです。音楽業界に生きる人間ですから」
「でも、どう言われても、私は人前でなんて歌えないんです。無理です」
「だけど雪野さんの歌声は、聴いた人すべての心を鷲掴みにします。その特別な声質と、特異の音域で。もし信じてもらえるなら、僕と一緒に〝なにか〟と闘いませんか?」
「〝なにか〟?」
「そうです。あなたも僕も〝なにか〟を抱えて生きているのでしょう。いや誰もがそうなのかもしれませんが」
「な、なにが言いたいんですか? ていうか、どうして〝なにか〟のことを?」
「過去から逃げていては解放されることも自由になることも不可能です。向き合って〝なにか〟と闘わなければ、痛みや傷を消せないし、望みも願いも叶いません。祈りだって届かない」
スマホを握りしめる私の手がかすかに震える。この人って――――?
「僕と一緒に前へ進んでみませんか? 倉澄さんとのユニット、絶対に成功させてみます」
その一瞬、不覚にも心が動いた。
「そ、それって、修くんもメジャーデビューできるってことですか?」
「彼ひとりでは無理です。あくまで雪野さんとのユニットという形ですけど」
「じゃあ、前に私たちは言ったこと、ちゃんと覚えてて、会社に通してくれたんですね」
「会社を動かしたのは僕ではありません。あなたの歌声が動かしたんです」
おそらく、ではなく、きっと修くんはすごく喜ぶだろう。だけど――。
「もしかして、『o'clock』でのライブがメジャーデビューの条件なんですか?」
「条件というほど大げさなものではありません。ただ、あなたたちのユニットの音楽は、ネット上でしか僕も上の者も聴いたことがないので、どれくらいライブパフォーマンスのポテンシャルがあるのかを知りたいんです。それさえたしかめられれば、僕たちは次の段階へと進めるばかりか、羽ばたくことができるでしょう」
そこで言葉を止めて、澤さんは静かに息を吐く。
「いいですか? CDをはじめとするパッケージ商品はもはや売れない時代です。会社として数字を伸ばすには、興業、すなわちライブを成功させるアーティストを育てるしかないんです」
ライブなんて絶対に無理だ。しかも『o'clock』でなんて。
だけど、修くんの夢だったメジャーデビューの扉が開こうとしている。それだけじゃない。私の歌声を、想いやメッセージを、両親に届けることができるかもしれない。
彼との初対面のとき以上に、私のなかの新しい〝なにか〟が激しく発火し、熱が駆けめぐる。その瞬間、公開処刑も、悪意の塊の書きこみも、執拗に私を追いつづけるネット上の負の連鎖のすべてが頭から消し飛んだ。
ぐっと全身に力をこめ、私は強く言葉を押し出す。
「演ります。演らせてください」
第四章
1
ざわざわぞわぞわという、観客のざわめきが閉めきった控え室にまで聞こえてくる。
出演アーティストに、ドリンク類をサービスで運び入れることは何度もあったけど、まさか自分が修くんと一緒に、この小部屋でスタンバイするとは想像すらしていなかった。
「予定通りの進行で、二番手演者の四曲目が終わりました。スタンバイお願いします」
ローディーの鮎貝さんがノックしてドアを開けると、元気な声で告げてくる。
彼は私より二、三歳上だけど、もう五年以上も『o'clock』で働いているベテラン正社員。出演するアーティストのサポートをメイン業務としている。楽器の積みこみや積み降ろし、演奏のためのセッティング、エフェクティングといったステージまわりの準備と運営を取り仕切っている。ライブハウスにいなくてはならない大切な裏方の専門職である。
その鮎貝さんが私のほうにちらりと目を向けて微笑む。
「すごいね、雪野さん。生の歌、すごく楽しみにしてるから」
今まで会話らしい会話はしたことない。挨拶だけの職場関係だけど、感じのいい人だなといつも思っていた。『o'clock』で働く男性は年齢に関係なく、鮎貝さんのように口数が少なくて、職人気質のさっぱりした人が多い。竹中店長の人選なんだと思う。
「あ、は、はい、ありがとうございます」
「スタッフのみんなも応援してるよ。ビートクラウドで大ファンになったからね」
それから二言、三言、会話を交わした後、
「じゃ、直前になったら、あらためて呼びにくるから」
そう言いながら鮎貝さんは控え室のドアを閉める。私は頭を深く下げる。修くんも緊張した面持ちでおじぎする。澤さんはついさっき、会場へと戻っていった。新レーベルの上司を迎えるためだ。直後、修くんと二人きりの控え室が静かになる。今、ステージに立っているアーティストが最後の曲の前のMCに入ったようだ。
私はつい三十分前の電話のことで頭がいっぱいになっていた。
咲南ちゃんからのコール。十月末、三人でコラボしたレコーディング以来の会話だった。
「――あ、莉子ちゃん?」
「え、うん、どうしたの、咲南ちゃん?」
電話に出た一瞬、耳を疑った。こんな元気のない、か細くて弱々しい彼女の声を聞いたことなかった。そのまま十数秒が経過する。
「もしもし、咲南ちゃん?」
心配になって呼びかけてみても返事がない。苦しげな息遣いがかすかに聞こえてくる。
「ら、咲南ちゃん、大丈夫なの?」
思わずそう訊いたのは、例のコラボの一件で、ネットの攻撃に晒されていると修くんに聞いていたこともあったから。それに電話の様子は明らかにおかしかった。
「――ご、ごめん、ごめんね、莉子ちゃん――――」
その切羽詰まった口調に息を飲むと同時、いきなり謝られて戸惑う。
「ほんとは私が犯人だって、わかってたんでしょ」
「な、なんのこと?」
「高一の二学期の炎上」
その言葉を聞いて胸が打ち震える。犯人。彼女がなにを言っているかわかった。
わずかだけど、いつの頃からか心に芽生えていた猜疑心。そんなこと絶対にないと、もうひとりの自分が否定しようとしても、完全には打ち消せなかった。
高校一年生の夏の終わりに屋上トリオが解散し、秋が深まりつつあった十月下旬。咲南ちゃんの公開処刑につづいて、ふたたび私はネット上で標的になった。中三のときの失踪事件に、尾ひれがついた怪情報や偽情報がうんざりするほど盛られて、ネットに所在が晒された。川奈莉子は雪野という悪質な偽名まで使って岬回高校に潜りこんでいる、と。
そのかわりに彼女への誹謗中傷や書きこみはみるみる終息した。まるで私が人身御供になったかのように。間もなく事態を重く見た学校側が保護者である曜子ちゃんを呼び出して策を講じた。結局、二学期の途中から私は通信制クラスに切り替え、登校をやめた。
「ど、どうして?」なんとか声を綴って私は訊く。
「ずっと嫉妬してた。あなたの歌声に。初めて秋山さんに会ったとき、彼があなたに言ったこと、覚えてる?」
思い出す。私の歌声を褒めてくれた三人目が秋山さんだった。
『コーラスの君。際立って歌声が秀逸だ。特別な声質と特異の音域を持っている。しかも音感が鋭いうえ、ピッチが寸分も狂わない。そればかり主旋律のブレを瞬間的にカバーして、楽曲のクオリティを押し上げている』
あの瞬間、咲南ちゃんが刺すようなまなざしで私を睨んでいた。初めて屋上トリオが音楽室で演奏したときも、修くんが私の歌声を絶賛したことについて、「なんか、口惜しい」と彼女は冗談とも本気ともつかない言葉を吐いたんだ。
「ねえっ! 聞いてるの?」
弱々しい声色から一転、彼女は叫ぶように言う。突然のその剣幕に慄いてしまう。
「許せなかった。私は七歳からひとりでずっと歌を練習してきた。いつか、光が当たって、たくさんの人に認められる場所に立てるように。生まれてから私にはなにもなかったけど、歌があった。それだけは幼い頃からみんなに褒められた。だから信じてた。歌さえあれば、いつか必ず報われて、みんなに愛されるって。どう生きていけばいいかわからない、先の見えない未来への恐怖を克服できたのは、歌があったから」
そこまで一気に言うと、彼女は激しい息遣いで呼吸する。
「小六からいろんなバイトして、中古のノートパソコンを買って、ネットで音楽制作を独学で自分のものにしていった。そこには夢の世界が広がってた。育ちとか家庭とか学歴とか関係ない、才能だけで望みが叶う魔法の扉があった。あとはそれを自分の力で開くだけ。私は必死で努力して歌いつづけた。みんなに存在を認めてもらって、愛してもらうために」
そこで彼女の言葉が止まる。喉の奥が引きつるような嗚咽が聞こえる。ふたたび私に襲いかかった悪夢の犯人だと打ち明けられたのに、不思議なほど怒りも憤りもない。
「ねえ、ほんとに大丈夫なの、咲南ちゃん?」心配になって思わず私は訊く。
「なんで? どうして私の心配するわけ? 憎くないの? 怒らないの? なんか文句言ってよ。どうして莉子ちゃんは平気でいられるの? 私、ひどい人間なんだよ。裏切り者なんだよ! なんで? なんでなの?」
咲南ちゃんはヒステリックに怒鳴り、そして一方的に通話を切ってしまった。
その後、何度リダイヤルしてもつながらなかった。もしかするとコラボ新譜によるネット炎上の一件は、彼女に毒牙が向かったまま、大変な事態になっているのかもしれない。
修くんには相談できるわけもなく、私はただひとり、悶々とした心境で出番を待つしかなかった。
「はじまります」
ふたたび鮎貝さんがドアをノックして開ける。そのすぐうしろにシックな黒いスーツ姿の澤さん。「いよいよですね」と、いつものていねいな口調で私たちに告げる。
二人の声で意識が現実へと向かう。修くんが「はい」とか細い声で応じる。完全に緊張している。私も同じ。
いや、それだけじゃない。今さらになって大勢の人の前に立つ恐怖が膨れ上がる。
今夜、オールスタンディングの『o'clock』は百二十パーセントの入りだと、ついさっき鮎貝さんが言っていた。ということは二百人近くもの観客が私たちを待っている。
このプレデビューライブの最大の狙いは、SNSでの拡散による話題性と知名度アップ。そのため撮影、録音、録画がすべて自由になっている。先週、澤さんから説明があった。思い返して想像したとたん、ぶるっと身震いする。あのコラボ新譜の一連の騒動が収束し、ネットへの畏怖が軽減されても、不特定多数の人波をおそれる気持ちは変わらない。
直後、うねるように歓声と拍手がこだました。二番目に出演したアーティストがステージアクトを終え、控え室に戻ってくるのが見える。
BGMで洋楽が流れはじめる。ローリング・ストーンズの大ヒット曲。タイトルは知らないけど、聞き覚えがある。ライブのブレイクタイムには決まって古い洋楽の楽曲が流れる。『o'clock』の伝統だというけど、竹中店長の単なる趣味だと真紀さんが教えてくれた。お店で最年長である店長は、六十~七十年代のロックが大好きらしい。
「AFEWさん、もう、いつでもオッケーですから」
タイミングを見計らったように、インカムで誰かと話していた鮎貝さんが言葉を向ける。
かつての修くんのソロプロジェクトASHUをもじって命名された。
AFEW――アフュー。英語で〝わずかだけど存在するものたち〟という意味がこめられてある。澤さんが考えてくれた修くんと私のユニット名。すごく気に入っている。
「はい。ありがとうございます。すぐに出ます」
私たちのかわりに澤さんが答えて、鮎貝さんに頭を下げる。この人は誰に対しても低姿勢で、ていねいな言葉使いをする。ライブ出演で関係者と会う機会が増え、あらためてその穏やかで優しい人柄がよくわかった。
「さあ行きましょう」私たちを促す澤さんの声で、緊張した面持ちの修くんがすくっと立ち上がる。もう、その顔には迷いがない。彼はすごく強くなった。そんな修くんと目が合い、私も椅子から立ち上がる。
「大丈夫だよ、莉子ちゃん。いつも通り演ろう」
「――うん」
控室を出る寸前、澤さんが私を止める。
「雪野さん、大丈夫ですか? 顔色が悪いですけど」
強張る頬を上げ、なんとか笑みを作って見せる。「平気です」
すると澤さんは私の前に立ちはだかるようにして向き合う。
「無理していませんか? 本当に大丈夫ですか?」
そう訊かれ、寸時心に迷いが生じる。本当は怖い。観客の前に立つことが。人前で歌うことが。今、おそろしいと告白すればステージに立たなくてすむのだろうか。
本音が喉元までせり上がろうとするそのとき、店内に流れるBGMが切り替わった。
はっとする。ビートルズの『Something』。短いイントロが終わってジョージ・ハリスンのヴォーカルが流れる。魔法のように弱気な自分が消えていく。
かつて音楽室で修くんと咲南ちゃんが奏でるそれを聴いたときは泣き崩れてしまったのに。今は言葉で表せない勇気を与えてくれる。
ほぼ同時、目の前の澤さんの表情が変わる。私の心の微細な変化を感じ取るように。
やっぱり、この人って――そう思いながら私は言う。
「ライブに出るって決めたのは、私です。〝なにか〟と闘うために」
すると澤さんは、まなざしをすがめて無言で肯いてくれた。
「行こう」数歩先で心配そうに私を見つめている修くんに放つ。彼もまた肯き返す。
ステージへとつづくわずかな通路を歩きながら考える。このパフォーマンスが終わったらあの人が言った〝なにか〟について訊ねてみよう。ずっとそう思っていながら、ライブ前のリハーサルやセットリストの打ち合わせとかで、いつも訊きそびれていた。
先に修くんがステージに上がり、電子ピアノとコンピュータがセッティングされた一角に立つ。少し遅れて私はセンターマイクの前へと向かう。観客席は完全な暗闇に染まっている。緊張を少しでも和らげて歌に集中できるよう、澤さんが会場の照明を極限まで落とすよう指示した。光が当たっているのは、電子ピアノとノートパソコンが置いてある修くんの立ち位置と、私の場所だけ。それも最小限のピンスポットの光源に絞りこまれてある。
照明は一曲目を歌い終わるタイミングで明るくなるという。
つまり、それまで観客席は私から見えない。
跳ね上がって爆発しそうな激しい鼓動を抑えこみ、私はマイクスタンドを右手でそっと触れる。斜め右うしろを振り返ると、パソコン操作を終えた修くんが両手を電子ピアノの鍵盤の上に置いている。
いつの間にか、ビートルズの『Something』はもう聴こえない。
次の瞬間、薄闇で修くんと視線が重なる。目と目で通じ合う。それが合図だった。
『o'clock』のPAを通して流れ出る彼のピアノのイントロ演奏。最初の二小節を聴いただけで、調子の良さがわかる。観客席から拍手と歓声が聞こえてくる。次々とコンピュータから送られるトラックと同期しながら、ピアノを主体とした楽曲のアンサンブルが厚くなっていく。私は左手で握りしめたマイクに向かって口を開く。
私の第一声を聴いた瞬間、会場が完璧な無音になったみたいに、あらゆる雑音までも消えたのがわかる。これまで体感したことのない昂ぶりを全身に覚える。
掴んだ――闇に包まれた観客席に歌いながら、たしかな手応えを感じた。
誰もが微動だにせず、AFEWの楽曲を聴き入っている。誰もが私たちの創り出す音に圧倒されている。それがわかる。高まる昂奮が信じられないくらい声の音域を広げていく。アドレナリンがテンションと声量がどんどんアップしていく。
今日の修くんの演奏はいつも以上に素晴らしい。その美しい旋律にいざなわれるように、さらに高らかに私は歌う。歌えば歌うほど浮遊感に心身が支配されていく。不思議な感覚だった。間もなく暗がりの観客席がリズムに同調するように揺らめいていく。空気の流れでわかる。気持ちいい。ここにいる誰もが、私たちの奏でる音楽でひとつになっている。ゆったりとしたグルーヴに気持ちを委ねるようにして、私の歌声に共鳴している。
こんなことって――私は爪先がステージから離れて飛び立つような気分になる。
そうしてただ気持ちよく、無心で歌いつづけた。
やがて一曲目のラストコーラスに差しかかる。修くんのピアノ演奏とリズムに合わせてハミングしながら、何気に舞台袖へ視線を動かす。そこにはステージを見守っている澤さんがいる。私は歌えた。歌い切れた。そういう自信と自負を澤さんに笑顔で意志表示したかった。実際、演奏前の恐怖も緊張も消えていた。
ところがだ。ぴたりと私の躍動は止まる。一曲目のエンディングを迎えたその数瞬、突然照明が煌々と輝いて私の視界を広げる。黒の世界が瞬く間に光に満ちた世界へと変わる。
ぞっとする。凍りつたように動けなくなる。得体の知れない〝なにか〟がこみ上げる。
眼前の空間をオールスタンディングで埋め尽くす人、人、人の群れ――――それらを視界いっぱいに捉え、固まってしまう。私を恐怖させたのは無数の人波だけじゃない。
ほぼ全員がスマホを高く掲げ、私に向けていた。そして画像か動画を撮影している。
私は何百というスマホの標的になっていた。生まれて初めて見るその異様な光景は、ネットで晒し者にされて公開処刑となった忌わしい過去を瞬時に思い出させる。
浮遊感も満足感も達成感も、すべてが幻のように一瞬で消え失せる。そればかりか、みるみる増殖していくどす黒い〝なにか〟に内部を喰い尽くされるみたいにして力を失う。
「雪野さんっ!」
微睡む意識のなか、誰かの叫び声が聞こえる。
その誰かの腕に包まれるようにして五感が暗転する。私は黒い世界へと堕ちていった。
2
暗闇で私は追われている。顔も目もなくて、暗闇よりも真っ黒な人間の形をした無数の影に。そいつらは異様に手足が長くて、逃げまどう私の背に容赦なく、にょきにょきぬるぬるした黒い腕を伸ばして迫りくる。そして不気味なほど長く鋭い爪の生えた指先で、私の首や肩や二の腕を捕まえようとする。
全力で駆けているはずなのに、私の足はなかなか前に進まない。振り返ると、無数の真っ黒な群れが今にも私に追い縋って、爪先を背中に突き立てようとしていた。
助けて、誰か――悲鳴を上げるも、声にならない。
私は恐怖に抗いながら、ただ必死であがくようにして両足を繰り出した。足を止めたらあいつらに捕まってしまう――自分にそう言い聞かせ、力の限り暗闇を疾走する。
ふいに気づく。眼前に広がる闇の先に、誰かがいることに。ただひたすら、私と同じく、真っ黒な影の群れから逃げるように前へ進みつづけている。次第に目が慣れてきて、そのシルエットが見えるようになり、胸が早鐘を打つ。誰かは、お父さんとお母さんと、そして咲南ちゃんだった。うしろ姿だけでもわかった。この私が三人を見間違えるわけない。
どれくらい走っただろうか。影の群れはあと一歩というところで私を捕えられない。私もまた前を行く三人に追いつくことができない。
突然の出来事だった。咲南ちゃんが転んだ。
どういうわけか、一緒に逃げていた私の両親は彼女が転倒したことに気づかない。
咲南ちゃんのもとに駆け寄ろうともせず、手を差し出そうともしない。そのまま彼女だけがその場に倒れたまま取り残される。両親は先へ先へと一心不乱に走りつづけていく。やがて咲南ちゃんと私の距離が縮んで、顔の表情まではっきりと捉えることができた。
彼女は泣いていた。口惜しそうに嗚咽を漏らしながら、漆黒の地面に泣き崩れていた。
もう間もなく私が彼女を抱き起こすことができる距離まで近づいたときだ。
ビクンッ。驚愕と恐怖で全身に電流が走り、私の足が止まる。目を疑う。
漆黒の地面から無数の長い腕が生えてきたかと思うと、咲南ちゃんの細い手や足や首を、鋭い爪の指で掴んでいく。必死でもがいて拘束を解こうとする彼女だけど、地面から生えてくる腕の数は無尽蔵に増えていく。シアーなブロンドや衣類を掴まれ、たちまち身動きがとれなくなる。号泣する咲南ちゃんだったけど、私にはなす術がなかった。
あまりのおそろしさに、私の体は動こうとしない。
「た、助けて――莉子ちゃん!」
嗚咽の混じった掠れ声で、必死で助けを乞う彼女の右手が私に伸びる。
なんとかその手を握ろうと、勇気を奮って手を差し伸ばそうとした次の瞬間、
「ひっ――――――」断末魔のような咲南ちゃんの悲鳴がつんざき、あっという間に彼女は長い腕に全身を囚われ、漆黒の地面に呑まれるようにして消えてしまった。
「い、いやぁぁぁぁああああ!」
目の前で起きた悪夢のような惨状に、私は叫び声を上げる。
「莉子ちゃん!」
恐怖で瞼を開けると、聞き慣れた声が響く。その先に修くんの顔がある。ひどく心配そうな面持ちでのぞきこんでいた。ここが病院の病室であることはすぐにわかった。カーテンの隙間から薄日が差しこんでいる。ぼんやりとした頭でゆっくりと現実を認識する。
そっか、私、ライブ中にショックで気を失って、それから、それから、たしか――。
思い出しながらも、身体に痛みも傷もないことを確認する。もし、ステージから転げ落ちていたら、大ホールほどの段差はないにしても、ただではすまなかったはず。
視界の隅、壁にもたれかかっている澤さんが映っていることに気づき、意識が消えかけた間際の記憶がじんわり蘇ってくる。
そうだ。
『雪野さんっ!』
男の人の叫び声を聞いた次の一瞬、私は抱きかかえられるようにして、助けられたんだ。
舞台袖で見守っていた澤さんが、異変に感づいて駆け寄ってくれたから、私は観客の前で無様に倒れこむことも、ステージから落ちて大事に至ることもなかったのだろう。
「澤さんが異変に気づいてすぐに助けてくれたから、大丈夫だったんだよ」
私の心を読むように修くんが教えてくれる。その顔は悲壮感に満ちている。
「――あ、うん。なんとなく覚えてる」
「あのね、莉子ちゃん。こんな状況であれなんだけど――」
そこまで言いかけたとき、壁際にいた澤さんが動いた。修くんの肩を掴む。
「今、その話はしないでくださいと言いましたよね?」
珍しく語気が荒い澤さんの口ぶりに、胸がざわつきはじめる。
「で、でも――」
「な、なにか、あったの?」
おそるおそる訊ねる。修くんは無言で首を振る。背後で澤さんが唇を結んでいる。
刹那、病室に奇妙な間が鎮座した。ライブ中に私が倒れたこととは別の、なにかもっと嫌な出来事が起きてしまったという、予感めいた不吉な胸騒ぎが強くなっていく。
「ね、なにがあったの?」
ベッドから起き上がろうとしながら修くんのシャツの袖口を掴んでそこまで訊くと、
「雪野さん、まだ起き上がっては駄目です。お医者さんが――」
「昨夜、咲南ちゃんが、自殺未遂で、緊急搬送されたんだ」
澤さんの声を遮るように修くんが切り出す。その瞬間、四年ぶりの再会のときに感じた、彼女の内側に膨張する不穏な〝なにか〟が脳裏をよぎる。
やっぱり、あれは気のせいなんかじゃなかったんだ。
同時に、今しがたの悪夢は予知夢だったのかもしれない、と私は考えてしまった。
咲南ちゃんは向精神薬を大量に飲み、バスルームでリストカットして自殺を図った。
発見者はマンションの隣人。彼女の部屋から大音量の音楽が深夜に鳴らされ、日頃から管理人や管理会社にクレームを言っていた隣の住人だったが、昨晩は特にひどかったらしい。直接、文句を言いに呼び鈴を鳴らしてドアを叩いても、反応はない。怒り心頭でドアノブを回してみたところ、施錠してなかったため、玄関先に入って何度も声を上げてみたものの、やはりなんの応答もない。人の気配がしなかったため、事件かもしれないと考えて室内に足を踏み入れてみたところ、バスルームから激しい水の音が聞こえてきた。のぞいてみると、バスタブでピンク色の湯に沈みかけて動くことのない彼女を見つけ、慌てて警察に通報したということだった。修くんと私宛に『ごめんね』というメモの書き置きがあったことから、警察がスマホの登録電話番号を調べて連絡してくれたという経緯だった。私たち二人以外、家族や親族や友だちの連絡先は一件も登録されていなかったらしい。
修くんはなんとかそこまで話すと、ベッド脇に置いてあった丸椅子に腰かけて、両手で顔を覆い、声をかみ殺すようにして肩を震わせる。
彼の話を聞き終え、私は圧倒的な無力感に襲われていた。ライブ前にかかってきた電話の内容と、今しがたの悪夢の余韻だけが、脳裏にフラッシュバックする。
高校一年のとき、屋上で咲南ちゃんが目を輝かせて言ったことをぼんやりと思い返す。
『とにかく今の時代は、自分の音楽がネットでバズれば、一瞬で世界が変わって、人生も変わるんだよ。実際に一日で何百億円も稼いで、自由に生きてるアーティストって、欧米にはたくさんいるんだから。そうなればなんだって思い通りになるのよ』
真っ白なシーツを両手で握りしめ、悔しさで胸が震える。
「私たち、世界を変えることも、人生を変えることも、なんにもできなかった――」
敗北感や虚無感や挫折感や失望感がごちゃ混ぜになって、気がつけば悔恨の想いが声になって漏れていた。
「結局、勝てなかったんだ――」空虚な病室でぽつんとつぶやいた、その直後、
「まだ終わっていません」
澤さんだった。真剣な表情で私に言った。
修くんがゆっくりと顔を起こし、瞼が赤く腫れた目で彼のほうを見やる。
「だって――」私は力なく首を振る。
この人はわかってない。大手レコード会社に勤務して、好きな音楽を仕事にできている大人にわかるはずない。私たちの挫折感や喪失感を。どう生きていけばいいかわからない、先の見えない未来への恐怖なんて、理解できるわけないんだ。
「澤さんに、わかるわけありませんよ」
思わず声になる。言葉にした瞬間、自分が嫌になった。そして立ちはだかる現実の壁に打ちのめされた無力感で、さらなる自己嫌悪に陥る。ボーカルなのに人前で歌うことができないなんて。そればかりか、修くんの夢も、咲南ちゃんの夢まで、壊してしまったんだ。
「雪野さん、あまり自分を追いこまないでください」
私の心を汲み取るように澤さんが言う。
「放っておいてください。もう、私のことなんか――」
「僕も同じです。だから、わかるんです」
私は澤さんを見つめたまま静かに綴る。「あなたに、なにが、わかるというんですか?」
一拍の間が空く。澤さんは目を落としてつづける。
「僕もボーカリストでした。バンドでプロデビューしました。もう六年も前の話になります。ちょうどハタチで、君たちと同じ年齢でした」
予想だにしない話を切り出され、彼に視線を向けて無言になる。
「だけど、まるで通用しませんでした。プロの世界は厳しかった。というより、結局のところ、自分のなかにいる〝なにか〟に、僕は負けてしまった――」
「あ、あの〝なにか〟って? 前にも言いましたよね」
「そう。〝なにか〟です。今、あなたたちが闘っている〝なにか〟と同じものです」
「それって――」
「〝なにか〟は敵じゃないんです。〝なにか〟が敵になってしまった時点で、いろんなことが難しくなります。でもそうなってしまえば、闘って打ち勝つしかありません。そして〝なにか〟に負けてしまうと、すべてが終わってしまいます」
そこで言葉を切ると、少しの間、彼は考えこむように唇を結んだ。
「僕がそのことを理解したのは、ずっと後になってからでした。大切なものを自身の手から放してしまい、失ってからようやく気づきました。でも、きっとあなたたちはまだ間に合うと思います」
澤さんは説くように話す。私は目を見張る。彼のなかの〝なにか〟が見えたような気がした。それは私が闘っている得体の知れない〝なにか〟と同じだった。
昼下がりの病室で、澤さんは初めて自身のことを私たちに語りはじめた。
*
「僕が自分の歌声の本質に気づかされたのは、高校二年生の合唱祭でした。音楽の先生が僕の声質と声量と音域と音感の良さを褒めてくれたんです。運動が苦手で部活もせず、趣味も特技もなかった僕は純粋にうれしかった。こんな自分でも誇れるものがあったのか、と。けど、そんな出来事は大学受験ですっかり忘れていました。
第一志望の国立大学に受かって上京した僕は、やはりサークルに入ることもなく、大学とバイト先のカフェとアパートを行き来する単調な毎日を送っていました。
転機が訪れたのは大学一年の七月です。前期テストが終わって夏休みになることもあって、バイト仲間の男女六、七人で飲みに行き、盛り上がった流れでカラオケに寄りました。
だけど、流行の歌どころか、邦楽も洋楽もまったく聴かない僕にとって、その場は苦痛でしかありません。酒の力もあって、みんなハイテンションでマイクを奪いあっていましたが、僕ひとりだけ蚊帳の外という感じで、結局一曲も歌わずに終わりました。もともと僕は、バイト仲間とそんなに仲がよかったわけでもなく、むしろ飲みに誘われたことが不思議なくらいでした。
翌日のことです。昨晩一緒に飲みに行ったグループの麻丘絵里さんから声をかけられました。『昨日はお疲れさま。澤くん、あまり楽しそうじゃなかったけど、大丈夫だった?』
それまで彼女と言葉を交したことはありません。麻丘さんはバイト先の男子から人気ナンバーワンの女子でした。仕事はできるうえ、音楽活動もやっているという噂で、とてもきれいな人だな、とひそかに憧れてはいましたけど、二歳年上だし、高嶺の花だと思って、近づくことすらできなかったんです。その彼女が私に耳打ちしました。
『ねえ、よかったら明日、食事に行かない?』
翌日、信じられない思いで私は待ち合わせ先のバルに向かいました。
そこに彼女と連れだってテーブル席に座っていたのが、山下朱樹です」
そこまで話すと澤さんは深く息をつき、かつてを回想するような複雑な面持ちになって、またもしばし黙りこんだ。
「そう――やました、あかき――当時はそういう名前でした。同い年でしたが、僕と違って都会的でスタイリッシュな大学生という感じでした。てっきり麻丘さんと二人きりの食事だと考えていただけに、彼の同席に少なからずショックを受けました。同時に疎ましい存在だと癪に障りました。山下は彼女に気安く話しかけ、ときには肩や腕に触れたりもしたからです。だけど、彼と話しながら遠慮がちにビールを飲んでいるうち、そういう気持ちは次第に消えていきました」
「どうしてですか?」修くが訊く。澤さんは彼に顔を向け、慎重に言葉を選んで話す。
「山下は他人の音楽的資質を見抜く、天性の才があったんです。そうして彼は初対面だというのに、じつに巧みにさりげなく、私の声質について褒めました。情けない話ですが、上京して孤立した学生生活を過ごし、しかもさっきお話したように、趣味も特技もなかった僕は、褒められて舞い上がりながら、彼の話に惹きこまれていきました」
澤さんはカーテンの隙間から漏れる白い光に目を這わせてつづける。
「やがて会食が終盤に差しかかった頃合いを見図るように、彼はごく自然に切り出しました。『俺の音楽ユニットにリードボーカルとして参加しないか? ずっと君のような声のボーカルを捜してたんだよ』と。そのとき彼は、隣に座っていた麻丘さんと目で合図を交したような感じもしましたが、さして気にしませんでした。音楽ユニットに誘われ、心躍っていたからです。ただ断っておきますが、僕はそれほど思慮に欠けた浅はかな人間ではありません。会って一時間足らずで、歌声を聴きもせず、なぜ僕の声質を褒め、自信満々に誘ってくるのか、懐疑的な気持ちがまったくなかったわけではありません。それでも彼には、そういった理屈を忘れさせる巧みな話術と、そして顔つきから嫌でも伝わる、不遜なまでの確固たる自信があったのです。
後日、『とにかく一度歌ってみればわかるよ』という誘いに乗る形で、僕は彼のマンションに向かいました。麻丘さんが付き添っている安心感と、あとは男としてのプライドというか見栄というか、そういうものも心に芽生えていたのかもしれません。
自宅ながらもパソコンやキーボードやミキサーやアンプがラックに積まれた、本格的なスタジオのような彼の部屋で何曲か歌わされることになりました。だけど、歌うといっても山下が作ったオリジナル曲には歌詞もメロディも入っていません。ただギターやドラムの演奏を組み合わせた、いわゆるオケでした。最初は『そんなの歌えるわけないよ』と訴えました。するとパソコンの前に座る山下は『とにかく好きなように合わせて歌ってみて』という一点張りです。『がんばって』と麻丘さんも真剣な顔で励ましてくれます。
しょうがなく戸惑いながらも、流れてくる演奏に合わせて歌いますが、声は掠れて上ずり、ひどいものでした。もちろん歌詞はめちゃめちゃな英語のような言葉です。それでも山下は根気強くパソコンを操作して、音楽伴奏を何度も流しつづけます。
どれくらい、いろんな曲を歌わされた後かはよく覚えていません。
突然のことでした。自分の歌声が山下の作った曲とシンクロして美しいメロディを奏ではじめたんです。次から次へと新しい旋律が生まれ、紡がれていきます。我ながら信じられませんでした。その先はただ歌うことが気持ち良くなり、無我夢中で歌いつづけました。山下や麻丘さんの存在も忘れるほどに。そういう感覚は生まれて初めてのことでした。
ひとつだけはっきりと感じていたのは、あのとき僕のなかに〝なにか〟が生まれていたことです。それは発火するように熱くて、心を激しく揺さぶりつづけました。
これまで体感したことのない経験でした。そのときすでに僕は音楽という魔力の虜になっていたんです。山下の狙い通り、まんまと策術に陥っていたわけです。
山下に誘われるがまま音楽ユニットに参加した僕は、ボーカルとともにベースギターを本格的に猛練習して、当時日本で流行していた動画共有サイトにKS+AKAというユニット名で初めての楽曲を投稿しました。それがわずか一週間足らずで三万回もの再生回数を記録し、一躍ネット上で話題のアーティストとなったのです。
同年十一月、世界的に人気の動画サイトにチャンネル登録したところ、約三週間で登録者数が七万人を突破し、メジャーを含めた日本人男性アーティストとしてトップ10に入る快挙を成し遂げました。以来、山下プロデュースによる新譜をネットにアップロードするたび、数万単位の再生回数とチャンネル登録が確実に増えつづけました。
山下が新興レーベルからのメジャーデビューの話を持ってきたのは、初めて出会ってから半年も経たない頃です。彼が楽曲制作とプロデュースを担当するという流れで、とんとん拍子に事は進みました。そうして大学二年生の夏、山下が集めてきたミュージシャンと一緒に、僕はボーカリスト兼ベーシストとしてプロデビューを果たしました。
しかしデビューCDはまったく売れず、つづくEPもセールスが振るわないまま、レーベルとは三年間の専属契約が条件だっため、次の新譜を発表できずに飼い殺されてバンドは自然消滅しました。結局のところネットで無料再生されても、お金が稼げるレベルではなかったのでしょう。そうして僕は自信喪失が原因で心を壊してしまい、歌えなくなりました。鼻の利く山下はEPの数字が伸びなかった時点で早々に見切りをつけ、別の音楽ユニットの育成に夢中になっていました。僕の大学四年間は売れもしないバンド活動に振り回され、日の目を見ることなく終わりましたが、音楽への夢は捨てきれませんでした。
心を激しく揺さぶるような熱い〝なにか〟をもう一度自分のなかに取り戻したくて、考えに考え抜いた末、僕はREMレコードに就職しました。ところが制作側に回っても、有象無象のプロがひしめく厳しい音楽業界で、僕はまったく結果が出せませんでした。
その頃からネットのストリーミングサービスが爆発的に伸びてきて、もはやCDやDVDを誰も買わなくなっていたのも一因でした。音楽にお金を払わない時代の幕開けです。
失われてしまったあのときの〝なにか〟をふたたび手にするなど、到底不可能でした。そればかりか〝なにか〟は、得体の知れないものへと変化しつづけ、敗北感や虚無感や挫折感や失望感や喪失感、そして先の見えない未来への恐怖ばかりが襲ってきました」
聞きながら、私ははっとする。澤さんは自身に向き合うように、真摯な声で綴る。
「それでも、あの一瞬に垣間見た夢を探し、追い求めました。どんなに音楽が売れなくなっても、大ヒットを飛ばすトップスターがいなくなるわけではありません。天性の声質と音域を持つボーカルに出会えれば絶対に育ててみせる。光輝く高みへと羽ばたいてみせる。裏方で働きながら、そんな希望を支えにアーティスト・アンド・レパートリーで新人発掘と育成を担当しました。けれど、現実は甘くありませんでした」
澤さんは言葉を切り、ゆっくりと私のほうに顔を定める。
「もう音楽なんか諦めてしまおうか、と真剣に悩んでいたタイミングです。ビートクラウドから流れてくる雪野さんの歌声に出会ったのは」
三人だけの病室がしんと静まり返った。
3
山下朱樹の本名は秋山隆。教育実習生として岬回高校へ来ていたため、咲南ちゃんや私たちには本名で通すしかなかったのだろう。澤さんが言うには、彼は遊び半分でアナグラムを用いた偽名をたびたび使い、ネット上に音楽プロデューサーと称して自身が関わる様々なユニットをアップロードしていたという。
澤さんと会ったときは山下朱樹(YAMASHITA AKAKI)で、それ以前には北明石真矢(KITAAKASHI MAYA)と名乗っていたらしい。
いずれの名もローマ字を並び替えれば、AKIYAMA TAKASHIになる。
「山下、いえ、秋山の音楽的センスと実力がたしかだったのは事実です。特にギターの腕前は十分にプロとして通用するほどでした。でも彼はギタリストに興味を示さなかった。ギターなんか弾けても、音楽の世界で食えないとわかっていたんでしょう。だからコンピュータやネットのスキルを磨くことに異様に執着していました。そうして秋山は独自の技術、いわゆるパクリの名手になっていったんです」
「パクリ?」私が訊くと、澤さんはハンドルを握ったまま、無言で肯いた。
ライブ中に意識を失った私は、翌日の夕方には退院を許された。アパートまで澤さんの車で送ってもらうはずだったけど、修くんと一緒になって頼みこみ、咲南ちゃんが運ばれた救急病院へお見舞いに向かう途中だった。
自然の流れで車中での会話は、午前中に聞いた澤さんの音楽活動の話題になっていた。
「そう、パクリ、模倣です」
彼が言い切ると、私たちは無言になる。修くんは目が点になっている。
「でも不思議なことに、彼のパクリはなんていうか、口惜しいほどに本物をあっさりと超えてしまうんです。本質を喰ってしまうというか、あたかも自分が創造したような、そういう特異なクリエイティブ能力――いや、違いますね――プロデューススキルに長けているんです。まるで、どこか聞き覚えのあるような安心感すら味方につけてしまう、そんな人心に入りこむ技術に優れた男です。もっとも、あらゆる名曲のコード進行は1969年の時点で出尽くしてしまい、その後のすべての楽曲は模倣でしかない、というのが僕ら業界での暗黙の了解ですけどね」
真紀さんに勧められ、『o'clock』で咲南ちゃんの楽曲を初めて聴いて覚えた印象と同じだった。どこかで誰かが歌っていたような、そういう既知感が耳にまとわりついた。
「七十年代から、そうやって音楽業界はミリオンセラーを出しつづけ、数えきれないくらいのアーティストが億万長者になりました。ネットが跳躍跋扈し、ヒットチャートを左右する時代に入ってからは、模倣を助長するコンピュータ技術は、ますます必要不可欠なファクターになっています。楽器が演奏できなくても、かつては重要だった楽譜や音楽理論をマスターしていなくても、ヒット曲をネット上で創り出すことが可能になったからです。バズりさえすれば、SNSで爆発的拡散さえ起こせば、おそろしいスピードで注目が集まります。そういう意味で秋山はこの時代に唸るほど存在する寵児のひとりなのでしょう」
「僕は認めないですよ、そんなの。ちゃんと音楽をやってる人を馬鹿にしてますよ」
修くんが声を荒げる。澤さんは車を走らせながら肯く。
「しょせんコピペだらけの楽曲だと、よほどのインパクトがあるボーカルがいなければ、飽きられやすいネットの世界では短いサイクルで浪費されて終わりです。そんなに甘くはありません」
「あ、それはわかるような気がします。どんなに楽曲が良くても、最後は歌なんですよね」
修くんが言うと、澤さんはふたたび肯く。
「僕らが目指す音楽の世界では、圧倒的な楽曲と歌声の組み合わせがなければ、大多数の人を感動させることはできないし、誰もに口ずさんでもらえる息の長い歌にはなりません。どれだけパソコンとかアプリといったコンピュータ技術が進歩しようが、音楽は芸術です。人々の気持ちに喜怒哀楽や震えを与える本質は変わらない。僕はそう信じています。そうして音楽にとって最終的に大切なのは、その人だけが持ちうる独自の才能と、開花させるための努力です。いつの時代でも、それだけが無限の可能性を秘めた一閃の光なんです」
いつになく熱をこめてそこまで話すと、澤さんは静かに息を吐く。
「僕がプロデビューに失敗してしばらく経ったとき、それを教えてくれたのは、皮肉にも秋山です。僕には才能も努力も欠けていた。結局はそういうことだったんです。そしてあいつもまた、すべてをわかっていながら、いまだ迷路のなかを彷徨っています」
「どういう意味ですか?」修くんが訊ねると、澤さんはフロントガラスを見つめて答える。
「売れる音楽を作るべきか、好きな音楽を演るべきか、という岐路に立たされているというか、本人にしかわからない悩みを抱えているのでしょう。不遜な男ですし、自己中心的な性格ですけど、僕は秋山のそういう隠れた人間味が嫌いでありません」
自らを追いこんだ秋山さんのことをそんなふうに語りながら、澤さんは車を救急病院の駐車場に入れる。助手席に座る私が目を動かすと、彼の表情は意外なほど穏やかだった。
*
「れ、咲南、ちゃん」
左手首に包帯を巻き、右腕に点滴を受けながら蒼い顔でベッドに横たわる姿を見て、私は言葉を詰まらせる。かつての輝きも覇気も元気も、すべてが失われていた。
隣に立つ修くんは声を失ったまま、棒立ちで動けなくなっている。
「――あ」
彼女が焦点を失った目をゆっくりと向ける。ひどく声が掠れている。前に咲南ちゃんと会ったのは十月のこと。たった二ヶ月で、こうも変わり果ててしまうものなのだろうか。
「い、いったい、なにがあったんだよ?」
修くんが湿った声でなんとか訊く。血色を失って乾き切った唇を結んで彼女は答えない。
十数秒後、腫れぼったい彼女の瞳から大粒の涙がぼろりと落ちて頬を伝う。
「あいつのせいだよね? 秋山しょ? あの野郎が咲南ちゃんを追いこんだんでしょ?」
突然、いきり立ったように修くんが怒声を上げてベッドに歩み寄っていく。
すぐに澤さんが動いて、うしろから修くんの左右の二の腕を掴んで止める。
「駄目です」
「な、なにすんだよ! 離せよ!」
あがく修くんだけど、身長差が十センチ近くある澤さんに敵うわけがない。
「落ち着いてください。安定剤を打ったばかりで休ませてあげないと。そう念押しされて特別に面会が許されたんですよ。それに彼女の気持ちを第一に考えてあげましょう」
咲南ちゃんは唇を噛みしめ、声を殺して泣いている。
はっとしたように修くんの動きが止まる。力のこもっていた両肩がだらんと下がり、「す、すみません――」とだけ、小声でつぶやいてうなだれる。
しばらく病室が深い沈黙に覆われる。静けさを破ったのは咲南ちゃん自身だった。
「――死にたかった。けど、死ねなかった」
誰もなにも言えない。重い口を動かし、弱々しい声で彼女はつづける。
「秋山さんは悪くないの」
「だって、じゃあ、なんでこんなことに?」怒りを抑えて修くんが訊ねると、
「莉子ちゃん、私の負けだね――」
咲南ちゃんは赤い瞳をふたたび私に向けて言う。思わず私は訊き返す。
「ま、負けって?」
「コラボした楽曲、おんなじ歌をおんなじ旋律で掛け合いで歌ったのに、みんなに認められて、支持されたのは私じゃなかった。莉子ちゃんのほうだった。ネット、すごかったよ」
「そ、そんな――」
そこまで私は言うと、彼女はかすかに首を振る。「いいの。結果はわかってたけど、それでも知りたかった。はっきりさせたかったんだ。それだけ」
「なに言ってるの?」
「修くん?」私の質問には答えようとせず、彼女は呼びかける。
「な、なに?」
「莉子ちゃんの歌声、世界いっぱいに届けてあげてね。修くんがそばにいればできるよ。二人なら、絶対にうまくいく」
「なんだよ? 言ってることわかんないよ。三人でやろうよ。また高校のときみたく。そうでしょ?」わななく声で修くんが懸命に訴える。
「もういいよ。歌、やめることにしたし。あ、さっきも言ったけど、秋山さんは関係ないからね。全部、私が決めたの。歌をやめることも、生きるのをやめることも」
「そんなこと言うなよ。なんでそうなるんだよ?」
ベッド脇に立ちすくんだまま、修くんが俯いて歯ぎしりする。
「疲れちゃった。それだけよ――」
そこまで話すと、彼女はそっと瞼を閉じる。私たち三人は動くことなく彼女を見守った。
少しの間、咲南ちゃんは両肩を震わせていたけど、安定剤が効きはじめたのか、やがてゆっくりと収まっていった。彼女の寝息がかすかに聞こえはじめたのは数分後のこと。
その間、誰もなにも言わなかった。
「ぜってー許せない、あいつ」
いきなり修くんが切り出す。抑えた小声だけど、激しい怒りがこもっていた。
彼の肩に澤さんが手を添えて告げる。「とりあえずここを出ましょう」
促されるようにして、三人が病室から去ろうとした、そのときだった。
「お母さん――行かないで――――」
咲南ちゃんが寝言をつぶやいた。表情が痛々しく歪んでいる。
「お、お願いだから――」
うなされるようにそこまで言うと、かさかさの唇を閉じて、ふたたび眠りについた。
私は足を止め、寝顔を見つめる。昨日のライブ直前にかかってきた電話を思い出す。
『どう生きていけばいいかわからない、先の見えない未来への恐怖を克服できたのは、歌があったから』
ずっと苦しみながら闘っていたんだ。自分の口からすべてを語ろうとしない彼女の過去には、たくさんの辛いこととか、傷ついたことがあったに違いない。それでも高らかに一生懸命、屋上でひとり歌の練習をしていた高校時代の咲南ちゃんの姿が頭に浮かぶ。
今の彼女からは、もう〝なにか〟は感じられない。あるいはそれは彼女の闘いが終わってしまったからかもしれない。
だとしたら、こんな悔しいことはない。私は激しい憤りを覚える。同時にいつの間にか、ここに来るまで逡巡していた音楽をやめるという気持ちが消えていることに気づく。
やめてはいけない。歌うことを。今ここで私までやめてしまったら、咲南ちゃんと修くんを悲しませて傷つけることになる。澤さんを失望させることになる。
「――あの、まだ私たちに、チャンスは残されているんですか?」
病院からの帰路。渋谷駅まで送ってくれるという澤さんの言葉に甘えて、修くんと私は車に乗っていた。遠慮がちに私が切り出すと、澤さんは静かな声で答える。
「僕は言いましたよ。まだ終わっていません、と」
「で、でも、私は――」失敗してしまった。大切なプレデビューライブで。今頃ネットでは、ひどい書きこみが蔓延しているに違いない。ようやくネットでの誹謗中傷を抑えこんで挽回しかけた大切なタイミング、致命的な失態を犯してしまった。
「自らを信じる。そう書いて、自信です」
夕闇に染まる街並みに車を走らせながら澤さんが言う。「自信を持ちましょう。そうすればおのずと途は開けます。そのために僕は尽力します」
「そこまでおっしゃってくれるのはうれしいですけど、現に私は、せっかくのプレデビューライブを台無しにしてしまって――」
すると澤さんは路肩に車を停め、ジャケットの内ポケットからスマホを取り出した。何度か画面をタップした後で私の目の前にかざす。
「読んでください。ライブに来ていた上司からのメッセージです。今朝、届いていました」
言われるがまま、画面に綴られているテキストを読みはじめ、私は目を疑う。
[あの特別な声質と特異な音域、圧巻の表現力に驚いた。一瞬で観客を掌握したのが、あの場にいてよくわかった。あとはメンタルの調整だけだ。大化けに期待してるぞ]
すぐに理解が及ばない。もう諦めていたのに、たった一曲で私たちの音楽がプロの耳に認められるなんて。澤さんは修くんにもスマホを向けたけど、彼は深刻な面持ちで車窓の一点を見つめて動かない。咲南ちゃんの自殺未遂が、それほどまでにショックなのだろう。
ふたたび車道へと走り出した澤さんが言葉を継ぐ。
「それだけじゃありません。ひと晩経って、昨夜のライブに来ていた人たちのネットの反響がすごいことになりつつあります。ツイッターでもハッシュタグAFEWで膨大なツイートが拡散されていますし、音楽ファンが集まるSNSや掲示板でも話題になっています」
「そ、そうなんですか?」
「雪野さんが倒れてしまったことをディスるネット住民は本当に希少です。大多数は心配する書きこみと応援するコメントです。つまり、とにかくまだ終わっていません。たった一曲でも、プレデビューライブの目的は十分果たせました。だから僕を信じて、そして自分を信じてください。年明けに向けての新たなプログラムをキックオフしますから」
私は声なく肯く。越えなければならない壁はまだまだいくつも立ちはだかるのだろう。それに、私に残された時間はもうあまりない。タイムリミットが迫りつつある。
それでも澤さんが言う通り、自分を信じて、彼を信じて、最後の最後まで、できることをやってみるしかない。
足早に暮れなずむ師走の夕景を見つめて、澤さんは言う。
「僕は、AFEWがほんの一瞬だけ輝いて、ふっと消えてしまうような、流れ星みたいなポップスターにするつもりはありません。それだけはわかってください。自分の音楽人生を懸けてサポートしていきます。最後の最後まで。たとえどんなことがあっても」
4
曜子ちゃんとの年末年始の郷里での再会は叶わぬまま、私は東京のアパートで過ごして新年を迎えた。理由は楽曲制作に追われていたからだった。
大学が冬休みの間、澤さんに課せられたデモ用楽曲制作のノルマは二十曲もある。そのなかから六曲を厳選してEPに仕上げ、完成次第、サブスク配信する予定になっている。そのため大晦日も正月も、修くんのマンションスタジオに日参しなければならなかった。
本来なら『o'clock』恒例の大盛況年越しライブのサポートのため、全スタッフで手伝わなければならなかったけど、音楽制作を理由に私は特別休暇を取らせてもらった。
だけど本当の理由はほかにある。
心のひずみが、超満員の『o'clock』のライブ空間を遠ざけた。中断となったプレデビューライブ以降、ますます人波がおそろしくなっている。通行人であふれる街を歩いていて、混雑したお店に入った瞬間、満員の電車に乗ったとき、突然襲ってくる。呼吸が苦しくなり、胸の奥が痛みを帯びていく。両親の失踪によって壊れかけた精神の一部は、いまだ得体の知れない負の〝なにか〟を生み出しつづけている。
ついに年を越してしまったのも、鬱々とした気持ちをひどく落ちこませる一因だった。
やがて二月が訪れる。タイムリミットが迫っていた。両親がいなくなって五年。警察からの生存情報は高一のときに知らされた名古屋が最後となり、完全に途絶えたままだった。
いつの頃からか、私のなかである数字がちらつくようになっていた。
そして、お父さんやお母さんでも両親でもなく、あの人たちと心で呼ぶようになった。
悔しいし悲しいけど、間もなく訪れようとする別離に、自分自身が備えようとしている。
そんなことを考え出すとさらに膨張していく〝なにか〟を抱えたまま、私は歌うことだけに集中し、絶対あの人たちに会えると自らに言い聞かせるしかなかった。
三が日が明けた一月四日のお昼過ぎ、心身が疲れ切ってぐったりしている私のスマホを震わせたのは、彼女からのコールだった。
「もしもし、莉子ちゃん? 私」
「ら、咲南ちゃん? もう大丈夫なの?」
思った以上に張りのある声に驚きながら私は声を返した。
「うん。身体のほうはすっかり平気。でも、しばらく安静にして精神的な落ち着きを取り戻したほうがいいって、お医者様にも彼にも言われちゃって、それで年末年始は病院にずっといたの。あ、今もまだ病院だけどね」
彼と聞き、耳を疑いながらも聞き流す。病室で彼女は否定したけど、今回の一件はやはり秋山さんが原因だと思うしかなかった。おそらく、それは修くんも同じ。それなのにいまだ関係がつづいているのだと察し、二人がなにを考えているのかわからなくなる。
「いつ退院できるの?」
「明日の午前中なの。やっとって感じ。それで電話したの。お見舞いに来てくれたとき、私、混乱してたし、お薬でぐったりしてたし、お礼すら言えなかったし」
「そんなことはいいよ。でもよかったね」
「ええ。だから明日、うちに遊びに来てくれないかなと思って」
「さすがに明日はまずいよ。退院当日なんだから。ゆっくり休まなきゃ」
「平気だよ。いやっていうほど病院で寝てたし。せっかく退院できるんだから、莉子ちゃんや修くんに会いたいの」
「けど――」
明日も午後から修くんのマンションスタジオでデモ用新譜の歌入れを数曲行う予定だ。澤さんも立ち寄ってくれると言っていた。それでも午後五時には終わるだろう。
「明日もバイトなの?」
「ううん、そういうわけじゃないけど」
私自身、深刻な心の不安を抱えている状況で、なんとなく彼女と会うのは気が引けた。
「だったらバッチリじゃない。私、もう元気だからさ、修くんと一緒においでよ」
昼間に先約があるので、明日あらためて予定がわかった段階で連絡すると告げて、とりあえずお茶を濁すように電話を切った。
翌日の午後、約束通り修くんのマンションに訪れ、私は驚きのあまり、玄関で足が止まり、目が点になってしまう。
「ど、どうしたの? その顔っ」
「あ、ああ、うっ、うん、ていうか、その、あの、あ、あれ、つ、つまり、さ――」
色白な彼の顔は赤や紫に腫れ、下唇が切れていた。左目は充血して半分しか開いてない。
「だ、大丈夫? そ、それ、交通事故とか、自転車で転んだとか?」
「平気。もう痛みは引いてきたから」
「い、いったいなにがあったの?」
気まずそうに修くんは俯いてしまう。見れば、右手の拳まで赤黒く腫れている。
「も、もしかして、喧嘩、したの?」
さらに頭を垂れてうなだれる修くんは完全に黙りこんでしまう。そのまましばらく二人で玄関口に立ちすくんでいると、諦めたように彼は深く息をついて痛々しい唇を開いた。
「昨日、咲南ちゃんが退院するっていうから、なにか手伝えることないかなってふと思いついて、病院に行ってみたら、そしたら――」
「そしたら?」
「彼女の病室の前に、あいつがいて――」
「あいつ?」
ふたたび口ごもってしまう修くんを見ていて、嫌な予感がすると同時にぴんとくる。
「まさか、秋山さんじゃないよね?」
「――――その、まさかなわけで」
ぼそぼそ話しながら彼は赤黒く腫れた自分の右拳を左手でそっとなぞる。
「秋山さんと喧嘩したの?」
「い、いや、最初は喧嘩じゃなくて、話し合いっていうか、普通に話してたんだけど」
「じゃ、どうしてそんなボコボコになるの?」
「あいつの態度が我慢ならなくなって、それに超ムカつくこと言われて、だから――」
「なんて言われたのよ?」
「今は言いたくない」
今度は私が深く息をつく番だった。「いったい、なに考えてるの、修くん?」
咎めるように言うと、彼は私から目を逸らしたまま、力なく首を振るだけだった。
「咲南ちゃんは? このこと知ってるの?」
「知らないと、思う」
「だって病院で喧嘩したんでしょ?」
「さすがにそれはない。彼女の病室の前で、あいつにばったり会って、ちょうどいい機会だと思って、話があるって切り出して、二人で病院を出て、近くの公園に行って――」
聞きながら呆れ果ててしまう。同時に思う。絶対に喧嘩なんかできないタイプの修くんが、こんな怪我を負うほど立ち向かっていくとは。それほどまで咲南ちゃんが好きなんだ。
「ほんとに大丈夫なの? お医者さんに診てもらったほうがいいんじゃない?」
「平気だよ。ひと晩寝たら良くなったから」
そこでようやく顔を上げて、修くんはわずかに微笑む。痛々しくて私は見てられない。
「秋山さんは?」
「あいつはぜんぜん。だって、僕のパンチは一発しか入らなかったし」
赤黒く腫れた右拳を私にかざし、にっと歯を見せる修くん。高校時代じゃ考えられない。
「それはひどくない? 修くんはこんなボコボコなのに」
「いいんだ。僕も言いたいこと全部ぶつけてやったし。けど、そしたらあいつマジギレだよ。大人げないっていうか、よくあんな性格で教育実習とかやってたよ。超ヤバいでしょ」
会話しているうち調子を取り戻してきたようで、だんだん饒舌になる修くんは、聞きたくもないのに公園での格闘シーンを解説しはじめる。最初の秋山さんの右キックはかわしたとか、パンチは大したことなかったとか、スタミナがなくて息が切れたところを狙って右フックを決めてやったとか、どうでもいい話ばかりを自慢げにひと通りしゃべった後だ。
「けど、あいつ、もしかしたらだけど、そんな悪い奴じゃないのかもしれないな。この間、車のなかで澤さんが最後のほうで言ってたみたいにさ」
なにを思ったか、これまでさんざん罵っていた秋山さんのことを、そんなふうにぼそっとつぶやくと、ポケットからスマホを取り出していじりはじめる。
「莉子ちゃん、これ聴いてみて」
「な、なに?」
「別れ際にあいつが送ってくれたんだ」
「秋山さんが?」
「そう。聴いてみろって」
「どういうことなの?」
それには答えず、彼が画面を指でタップすると、すぐに歌が流れはじめる。
ビートルズの『Something』のカヴァーバージョン。スマホから聴こえてくるサウンドに耳を傾ける。アコギだけのシンプルだけど超絶技巧が光る演奏。そこに切なくも柔らかで、伸びのある女性の美しい歌声が重なる。完璧に息の合ったギターのアルペジオとボーカルのマッチングが絶妙だ。
直後、はっとする。「もしかして、これって?」
「正解。咲南ちゃんだよ、歌ってるの。まるで別人だよね。ついでに言うなら、アコギはあいつ。秋山さん」
意外すぎて驚く。今、修くんのスマホから流れてくるアコギ演奏は素晴らしいのひと言に尽きる。おそらくクラシックギターの名手に違いない。そういう独特の指使いをしているのが音色でわかる。そう言えばギターの腕前はプロ並みだと澤さんも話していた。
「この音源ファイル、喧嘩の直後、あいつが送ってくれたんだよ。これを聴けば誤解してることがわかるだろうって」
「誤解?」
「その件はまた今度ね。とにかくあいつ、本当はこういう音楽を演りたかったらしい。けど、こういうのって今じゃ売れないし、ネットでもバズるわけない。だからEDM系だったらしいよ。ちなみにこの『Something』のセッションを録音したのは、彼女が倒れる前日のことで、言い争いも喧嘩も絶対してないって」
「え、そうなの?」
「そう言ったときのあいつの顔、嘘ついてる感じじゃなかった。だから許してやった」
ボコボコに腫れ上がった顔でそんなことを言われても、なんて返していいかわからない。
「それにこの音源を聴いてみて、僕も納得できたしね。音楽は嘘つかないからさ。ねえ、もうこの話は終わりにしようよ。それより歌入れやらなきゃ。早くスタジオに行こう」
最後の最後ではぐらかされた感は否めないけど、たしかにこのまま話しこんでいるわけにはいかない。今日は澤さんが初めてここにやって来るんだ。
私もまた靴を脱いで家に上がると、足早に修くんについていく。
*
「莉子ちゃーん、おひさ!」
呼び鈴を鳴らしたとたん、待ちかまえていたように玄関のドアが開いて咲南ちゃんが飛び出し、ギュッとハグされる。去年の九月末に訪れたときのデジャヴュのような展開に戸惑いながらも、「げ、元気そうだね、咲南ちゃん」と、意外なほど熱烈な歓待になんとか笑顔を返す。いまだ左手首に巻いている包帯が痛々しかったけど、あえて見ないようにする。
「うん、やっぱおうちが一番ね。もう病院はうんざり。さ、入って入って」
言われるがままリビングに通され、そこに秋山さんの姿がなくてほっとする。
結局、修くんは来なかった。何度誘っても、歯切れの悪い返事をするばかりで、直前になって[やっぱ今日はやめとく]という短いメッセージが送られてきた。
二人きりで会うとなると、ますます気が重くなったけど約束だからしょうがない。
修くんが不在でも当初の予定通り、退院祝いとお土産を兼ねて、途中のスーパーでお菓子や食材を買った。今夜は寄せ鍋を作ることに決めていた。簡単だし、温まるし、消化にいい。病院から出てきたばかりの咲南ちゃんに、ほかの献立は思いつかなかった。
普段、自炊はあまりやらないけど、鍋はおいしくできた。彼女はハイテンションのまま、食事中もしゃべりつづけた。といっても、お互いの音楽活動に触れることはいっさい話さない。それでも会話は途切れることなくつづき、私はただ笑顔で肯く聞き手役に回った。
「ねえ、ワイン飲もうよ、莉子ちゃん」
そう切り出されたとき、嫌な予感がした。成人してからも私はいっさいお酒を飲まない。『o'clock』での仕事の後、真紀さんに勧められても丁重に断っている。それに自分はお酒に弱い体質だと薄々知っていた。お正月のお神酒に口をつけただけで、顔が赤くなってふらふらしたことがあった。そして、咲南ちゃんもお酒が強いほうではなかった。
「だ、大丈夫?」
頂き物の高級白ワインを冷蔵庫から出してきて、口当たりがいいからと、立てつづけにグラス三杯も飲んでしまった彼女は、突然ダイニングテーブルに突っ伏してしまった。
時折、「う」とか「ああ」とか、苦しげな声が漏れる。横顔を見ると、頬が真っ赤だった。
「ね、苦しかったり、気分が悪いなら、トイレ行こうか?」
そっと肩に手を添えて声をかける。ややあってから、
「いい。そっとしといて――」
辛そうに彼女は答え、テーブルに伏せたまま動こうとしない。
白金のように眩しいはずのシアーなブロンドの髪の毛にかつての輝きはない。
ビートクラウドの動画に登場する躍動感あふれる歌姫LANAのオーラは消えている。
そして彼女のなかの〝なにか〟もまた消えたままだった。
「あ、気持ち悪い」
突然、彼女が短く叫ぶ。背中をさすっていた私は慌てて彼女を担ぎ、トイレへと向かう。
なんとかぎりぎり間に合って、彼女は洗いざらいを吐き出してしまうと、今度は「眠くなっちゃった」と言って、私の腕のなかでもたれかかるようにして身を預けてくる。
よたよたした足取りで彼女を連れて寝室へ向かった。そうしてベッドに寝かせると、私は壁際に座って、しばらく様子を見ることにした。まさか急性アルコール中毒になってしまう酒量とは考えにくかったけど、個人差もある。夜中に具合が急変する可能性だってなくはない。なにしろ退院したのは今日のことだ。
すぐに寝息を立てはじめた咲南ちゃんを見つめながら、ようやく私もひと息ついた。
「――ん?」
なんとなく気配を感じて瞼を開けると、目の間に咲南ちゃんが座っていた。
「あ、あれ――」すぐに頭が働かない。ゆっくりと薄闇で目を動かし、自分が床に横たわっていて、もふもふのブランケットが体全体にかけられていることを知る。
「ごめんね、莉子ちゃん。私、酔っぱらって、迷惑かけちゃったね」
「あ、ううん。気分はどう?」
起き上がりながら訊く。すると彼女はてへへと笑う。顔色も戻っていて安心する。
「もう大丈夫。ありがとう。介抱してくれたうえに、見ててくれてたのね。ほんとごめん」
「え、私こそごめん。なんか、いつの間にか寝ちゃってた」
「ううん。私、ちょっと前に目が覚めたんだけど、莉子ちゃんがいてくれてほっとした」
「頭とか、胸とか、苦しかったりしない?」
「平気だよ。ちょっと前まで少し頭がずきずきしてたけど、お水飲んだら治っちゃった」
「そう。なら、よかった」安堵すると同時、はっとする。
「今、何時?」
咲南ちゃんがくすっと笑う。
「夜中の二時半。もう電車ないから、今夜はこのまま泊まっていきなよ」
「で、でも――」
「明日、学校、早いの?」
「ううん、まだ大学、はじまってない」
「バイトは?」
「パン屋さんのバイトも、今まだお休み」
「だったら、いいじゃん」
「――ん、じゃ、そうしよっかな」
「はい、決まりね!」
そんな感じで成り行き上、お泊りすることになった。
二人ともすっかり目が冴えてしまって、しばらく眠れそうになかった。それならと、咲南ちゃんが温かい紅茶を作ってくれ、私がお土産に持ってきたクッキーも開ける。
「莉子ちゃん、怒ってないの?」
二人して無言で紅茶を飲み、ぼそぼそクッキーを齧っていると、彼女が訊いてくる。
なにを言ってるのかすぐにわかる。犯人だとライブ前に打ち明けられた、高一の二学期のネット炎上の一件だ。少し私は考えこむ。正直、自分でもよくわからなくなっている。
「ぜんぜん怒ってないっていったら、嘘になる。ショックだったし。でも――」
「でも?」言葉をなぞるように、彼女が復唱する。
「でも、ライブ前に電話かけてきたあのとき、子どもの頃の話とか打ち明けてくれたでしょ。高一で出会ってから、あんなふうに話してくれることなかったから。だから、咲南ちゃんが犯人だってことより、そっちのほうが気になって、なんだか不安になっちゃってね。それに咲南ちゃん、高校で私と仲良くしてくれた最初のお友だちだし」
彼女は真剣なまなざしを向けて聞いている。私は慎重に一言一句を選んでつづける。
「これまで、中学でいじめられてたってこと以外、昔話とか弱音って絶対に口にしなかったじゃない。それに犯人だってあえて言う必要なんてもうなかったのに。だから、なにかが咲南ちゃんに起きているって心配になったの。私が負った傷はもう昔のことだし、今さらどうなるわけでもないけど、咲南ちゃんはすごく苦しくて辛いんじゃないのかなって」
自分の気持ちに正直に声にしたけど、コラボ直後のネット炎上事件には触れなかった。
膝小僧を抱えたまま、しばし彼女は無言だった。
「どうして私に告白したの? 黙ってれば永遠にわからなかったのに」
私が訊くと、咲南ちゃんは目を伏せながら口を開いた。
「もう死ぬって決めてたから。最後に莉子ちゃんにだけは謝っておきたかったから」
「そ、そんな」
「でも、死ねなかった。自殺するふりしかできなかった。どんだけ弱いのって感じ」
そう言って自嘲気味に笑い、彼女はぼそっとつづけた。
「私、秋山さんに捨てられて自殺を考えたわけじゃないよ」
「そうなの?」
「修くんもそう思ってたみたい。だから秋山さんに殴りかかっていったんだって」
「なんで、そのことを?」驚いて訊くと、
「昨日の夜、修くんからメッセージが入ってた。[あいつを殴ってしまってごめん]って」
今度は少し楽しそうな笑顔になって彼女は言葉を継ぐ。
「秋山さんからもメッセージが入ってたわ。[あいつを殴ったり蹴ったりしてごめん]って」
私は目が点になり、次の瞬間、思わずぷっと吹いてしまった。
「修くん、誤解してたの。私が秋山さんにふられたか、ひどいことされたから、自暴自棄になってリストカットしたんだって思いこんでて。それで、ばったり出くわした秋山さんと病院で言い合いになって、公園で決闘することになったとか、バカみたいでしょ。でもね、案外、男気があるんだって感心しちゃった。前は弱っちい男子だったのにね」
「うん、たしかに最近、修くんは男っぽくなったよ。すごくしっかりしてるし」
答えながらも私は、昨日の修くんとの会話を思い出す。誤解だと修くんは言っていた。『これを聴けば誤解していることがわかるだろう』と秋山さんが言っていたとも。
つまり、秋山さんと咲南ちゃんはあくまで音楽を通じたピュアな関係だということ。そして二人が共演していた『Something』の通り、どちらもお互いの音楽性をリスペクトしているのだろう。音源を聴いてみて納得できた、という修くんの言い分も理解できた。
それにしても、と私は考える。
あの『Something』はビートクラウドにアップされている彼女のどのEDM系楽曲よりも素敵だと思った。それなのになぜ、咲南ちゃんは自らを傷つけてしまい、そして秋山さんは自分の好きな音楽に二人で進もうとしないんだろう。疑問しか湧いてこない。
「ねえ、莉子ちゃん。秋山さんのこと、話していい? あなたは彼のこと嫌いかもしれないけど、きちんと伝えておきたかった。誤解がないように。私の本心もなにもかも」
私の心を透視したように真顔で告げる彼女に、こくんと肯く。
「夏休み最後のあの日、音楽室で初めて秋山さんに出会ってからというもの、彼と話したかったけど、校内ではいつもほかの先生や生徒と一緒で、なかなかチャンスがなかったの。
九月第二週の放課後、校門を出てすぐ、秋山さんに会えたのは奇跡に思えた。翌日が教育実習の最後の日だったから。ずっとわだかまっていたことを、会うなり訊いてみたの。
『私の歌も曲も駄目ですか? 雪野さんの歌声のほうが興味ありますか?』って。
すると彼は言った。『駄目じゃない。大切なのは本質がどこにあり、どうしたいかということだ』そのとき私は彼の言葉が理解できなかった。すると秋山さんは私をまっすぐ見てつづけたの。『けど、こんな小さな町にずっといても芽は出ないよ。本気で音楽を演りたいなら、東京の僕のところに訪ねてきなさい。ただし、それなりの覚悟をして来ることだ』
その十日後には私は東京へ向かっていた。岬回高校に退学届を送りつけてね。
その頃、家を出たっきりの母には、携帯に電話してもつながらないままだった。親子断絶ってやつなんだろうね。とにかく私は中学生の頃からいろんなことをして稼いできた貯金だけを頼りにひとりで東京へ向かったの。秋山さんと音楽を演るために。
本当に高校を辞めて東京へやって来た私を、秋山さんは少し驚きながらも、笑顔で迎え入れてくれた。まだ大学生なのに彼は、都心の信じられないくらい素敵なマンションに住んでいたけど、嫌な顔ひとつせず、私をそこの一室に住まわせてくれた。ただし、条件はひとつだけ。彼の指導法に絶対服従し、本気で音楽活動に専念するっていうことだった。
秋山さんのマンションには本格的な音楽スタジオみたいな部屋があって、そこでパソコンや作曲アプリやいろんなツールの使い方、発声練習、そして作曲や編曲や歌詞の基本から学んでいった。それ以外にも音楽や動画配信サイト、SNSをはじめとするネット全般に関する知識もたくさん教わっていった。SEOとかアルゴリズムとかクラウドとか、そういうIT的な難しいこともね。
そういう意味では、秋山さんとの出会いは私にとって運命にすら感じられた。小六から独学で学んできたことすべてを、一からあらためてていねいに教えてくれたから。
でも、それだけじゃない。秋山さんってコンピュータで音楽制作するだけじゃなく、じつはどんな楽器でも天才的に上手なの。私の前で演奏してくれたギターやベースやドラムは、どれもプロ級に思えた。私が絶賛すると彼はいつも顔をしかめたの。
『いや、これくらいできる奴、ネットで募集すればざらにいるんだ』って。それでも私にとって秋山さんは音楽の神様みたいな存在だった。あ、けど誤解しないでね。はっきり伝えておくけど、ネットに書きこみされているような男女の関係はただの一度だって、まったくないから。あの人はそういうことにまるで興味がないの。その証拠に大学の友だちの、麻丘絵里さんっていうすごくきれいな女の人がたまに出入りしたけど、同居している私を見てもちっとも驚かないし、別にどうでもいいのよって笑いながら最初に言われたわ。
とにかく秋山さんはいろんな意味で不思議な人だったけど、私は彼のそばで音楽に専念できた。衣食住の面倒はすべて彼が見てくれたし。申し訳なくてバイトでもするよ、って言うと、そういうときだけ本気で怒るの。音楽活動に専念する約束を破るのならこの部屋を出てけって。だから私は必死で練習に練習を重ねて、あの人の期待に応えようとした。
そうして一年ほど経過したある日のこと、『君はEDMでいこう』と秋山さんは告げた。
意外だったし、すごく驚いた。それまで私たちはアコースティック系なトラックを作りこんで、メロディアスな方向性で固まっていたから。いきなりアップビートでグルーヴの激しいEDMと言われても戸惑うしかなかった。莉子ちゃんが知っている通り、高校時代はEDMに傾倒していたけど、それは単なる世の中的な流行りを追っているだけに過ぎなかった。だから東京で秋山さんに師事して、『これまで君が独自で作っていた音楽はすべて忘れるんだ』と言われたとき、自分でも納得していたの。それがひと通り基礎を学んだ後、ふたたびEDMに戻れと告げられ、真意はすぐには理解できなかった。
けど、彼の狙い通りだった。当時、欧米で大流行しているEDMのエッセンスを巧みに取り入れた彼の楽曲に私の歌声を乗せると、自分でも信じれらないくらいハマったの。
そして次には、彼のブレーンだという映像作家やスタイリストやヘアメイクアーティストの卵みたいな同年代の人たちが集まって、朝生咲南はLANAというソロアーティストに仕上がっていった。アートワークもトラックワークもネット戦略も、全部秋山さんの主導だった。それらなにもかもが大当たりして、ビートクラウドで話題になりはじめた。
もう秋山さんの勢いは止まらなかった。ビートクラウド経由で知り合った韓国の女性アーティストとのコラボとか、信じられないような話を次々と持ってきては、ネットでセッションしてライブ配信し、圧倒的な再生回数とチャンネル登録を稼いでいったの。
そうしてある日、いきなり秋山さんからネット広告で稼いだギャラの明細を見せられて、このマンションを借りてひとり暮らしすることになったの。それでも毎日のように彼のスタジオで歌を録音しては動画を撮影し、ビートクラウドにリリースしていたけどね」
咲南ちゃんはそこまで語り通した後、紅茶で口を湿らせ、ひと息ついてつづける。
「けど、最終的には私のほうから、秋山さんのもとを離れることにした。去年の春頃までは絶好調にバズってたんだけど、夏前からみるみる人気が下降してきてね。若くて新しい女の子が次々出てくる世界だから。その先は目に見えてた。結局、私は独立系のネットアーティストの域を出ることができなかった。だから、自分からやめるって伝えたの。秋山さんのことは大好きだし、感謝してるし、音楽的才能も認めている。だけど、私なんかとユニットを組んでたって、あの人は上には行けない。九月の終わりに莉子ちゃんをマンションに呼んだのは、最後に一度だけ秋山さんとコラボしたかったのと、もし彼が絶賛する莉子ちゃんに歌で勝てたなら、もうワンチャンあるって願掛けしてたの」
さすがにその部分には納得いかず、私は口を挟んでしまう。
「咲南ちゃんは自分の力をたしかめるため、修くんや私をネットで晒したっていうの?」
慌てて彼女は首を振る。
「信じてもらえないかもしれないけど、それを決めたのは秋山さん。私が莉子ちゃんと歌で勝負するという思惑とは別に、シナリオを考えてたみたい。私には教えてくれなかったけど。でも彼が莉子ちゃんにすごく興味を抱いているのは、ビートクラウドで音源を熱心に聴きこんでいたから明白だった。それがわかっていたからコラボ提案してみたところ、『面白いな』ってあの人は手を叩いて乗ってきた」
「なんのため、秋山さんはコラボしたかったんだろう?」
すると咲南ちゃんは瞼を閉じ、深く考えこむようにしばらく黙りこんだ。
「あくまで推測の域を出ないけど、最初からわかってたんだろうね。私たちがツインボーカルで勝負すれば、莉子ちゃんの圧勝だということを。そしてあなたが過去の傷から立ち直れていないことも知ってて、だからあえて顔や素性を晒して化学反応を起こそうと企んでたんじゃないかな」
「か、化学反応?」
「うん、莉子ちゃんの歌だったら圧倒的な支持を得て、過去の公開処刑とか炎上とか、そういうネット上の負の連鎖を、完全に断ち切るばかりか覆せるって考えてたんだと思う。私のときもそうだったけど、あの人ってそんな、力を力で覆す逆転の発想が得意だから。そして実際、ネットの世界が下した審判は、私の惨敗で、莉子ちゃんは世界を動かしたのよ。コラボした、たった一曲でね。そのとき、あの人は本当にうれしそうだった」
「でも、それで咲南ちゃんにネットの毒牙が向けられたんじゃないの?」
「因果応報よ。だって私が勝ってたら、莉子ちゃんと修くんに向いてたわけだし。あのコラボはそんな危険性を孕んだ賭けだったの。あの人は結果がわかっていたと思うけど」
私は言葉が出ない。聞きながら私は秋山さんという人がますますわからなくなっていた。長年のパートナーだった咲南ちゃんをやすやすと陥れてしまう残酷な神経を疑ってしまう。
それでも咲南ちゃんは秋山さんのことを悪く言わないばかりか、いまだ惹かれている。
澤さんもまた秋山さんに翻弄されたはずなのに、嫌いではないと話していた。
「あ、それともうひとつあるんだ。秋山さん、お酒に酔ったとき、一度だけ言ってたの。昔、傷つけてしまった友人に罪滅ぼししたいって。自分は偏った音楽人間だから限界があるけど、あなたとその人が組み合わされば、絶対にメジャーのものすごいところまで行けるって。今にして思えば、あの人らしい複雑なシナリオが入り組んでいたんだろうね」
咲南ちゃんは私がREMのプレデビューライブに出演したこととか知っているはずなのに、あえて触れようとしない。おそらくそれは彼女なりの最後のプライドなんだろう。
そして私は思う。その友人とは澤さんのことだと。
二人は現在でもつながっているのかもしれない。
包帯を巻いている左手首に目を落として、咲南ちゃんは静かに声を継ぐ。
「私が負けた直後よ。もう一回、俺らの好きな音楽を自由に演ってみようって言ってくれたのは。なにか吹っ切れた感じでね。すべての結果を想定したうえでの、それは秋山さんの本心かもしれなかったけど、私の心にはこたえたの。同情されてるみたいで。だから死のうと思ったんだ。私がいなくなれば、あの人はもっと自由になれるはずだから」
「でも、二人の『Something』、修くんに聴かせてもらったけど、すごく良かったよ」
その言葉は素直な気持ちだった。修くんが言った通り、音楽は嘘をつかない。あの楽曲の二人は本当に楽しそうに自然な音を奏でていた。寂しげに彼女はふっと笑う。
「莉子ちゃんにそんなふうに言ってもらえるとうれしいけど、あれくらい歌える人はざらにいるから。あの楽曲は秋山さんのギターがすごいだけなんだよ」
「けど、好きな音楽だったらつづけられるし、いつかみんなに聴いてもらえるかもしれないでしょ」
彼女は首を振って否定する。
「好きな音楽を演ったって売れないんだよ。誰も認めてくれないから。それじゃあ意味がないの。だからみんな、好きなものより、売れるものを歌わされてるし、歌うしかない虚構の世界で生きたふりしてる。私みたいにね。ショービズ界もネットの音楽界も、そんなふうにできてる。実際、その通りだった。秋山さん自身が痛いほど身に沁みていて、ずっと闘いつづけている命題でもあるしね」
なにも言えない私に、咲南ちゃんは想いを吐き出すように言葉にして連ねる。
「私は音楽の神様に選ばれなかった。三年間必死でやってそれがよくわかった。好きなことをやろうとしても、誰にも評価されない。好きな音楽を歌って売れるのは、神様に選ばれた才能を持ってる特殊な人だけだから」
「私は違うと思う。咲南ちゃんは大好きな歌を、伸び伸びと自由に歌うべきだよ」
「そんなこと言えるのは、莉子ちゃんだからよ」
「ど、どういう意味?」
「あなたは音楽の神様に選ばれた、特別な声質と特異の音域を持っている。表現力だってずば抜けてる。一度聴けば、みんなわかるの。あなたは別格だということが。それくらい莉子ちゃんの歌は聴き手の心を鷲掴みにするのよ。だって、修くんも秋山さんも、みんなそうだったでしょ?」
私は思い出す。初めて澤さんに会ったとき、あの人も一番最初にこう言った。
『あなたの歌声を聴いて全身に鳥肌が立ちました。それくらい素敵で、特別な歌声でした』
「覚えておいたほうがいいよ。自分は特別だということを。秋山さんだって本音ではあなたと組みたかったはず。高校一年生のとき、音楽室であなたの歌声を聴いた瞬間から」
そこまで言って、彼女はううん、と否定する。
「彼だけじゃない。これからも莉子ちゃんの歌声を聴いた人たちは、みんな一緒に演りたくなる。けど私は違う。吐いて捨てるほどいる、ネット上のアーティスト気取りのひとりにすぎなかった。だから音楽をやめることにした。そう心に決めた瞬間、私は空っぽになってしまって、生きている意味とか存在理由がわからなくなったの」
そっと私は咲南ちゃんを見やる。
やはりもう、彼女のなかの〝なにか〟は完全に消えていた。
第五章
1
二月に入り、両親の失踪からついに丸五年が経過した。自ら決めていたタイムリミットがあっけなく訪れてしまった。私のなかでちらついていた数字は、辛い現実だけを突きつけ、得体の知れない〝なにか〟がどんどん膨張しつづけている。
咲南ちゃんの家へ泊まったときの会話も、心を鉛のように重くしていた。他者からの歌の評価が高まる一方で、反比例して不安と恐怖だけが増幅する。
私はここにいる――そう、いつも心で叫びつづけ、歌いつづけてきた。
けれども結局、自分の想いも歌も届かなかった。
もう私は支えを失いつつある。いつ破裂するかわからない爆弾を抱えている心境だった。
毎夜毎夜、悪夢を見る。朝、目覚めたら、しんという静けさだけが家のなかを支配し、あの人たちが消えている。どれだけ叫んでも誰も応えてくれない。中学三年生だった二月半ばのあの真冬の朝のことが何度も何度も繰り返される悪夢のなか、私はひとりぼっちで泣きつづけている。やがて私を取り囲む世界は真っ黒に塗り替えられていく。
寝汗にまみれ、熱っぽい頭で起きてしばらくは、鬱々とした気分に支配されてなにもできない。あの人たちはもうこの世界にいないという絶望に今さらながら苦しめられる。
『o'clock』はずっと休んでいた。三年生を控えてゼミに入るための勉強が大変だとか、楽曲制作が思いのほか忙しいとか、今年の冬は寒さが厳しくて体調が優れないとか、取ってつけたような嘘を真紀さんにメッセージアプリで告げるのは胸が痛んだ。二度目の長期欠勤はさすがに許されないだろうという覚悟はあった。だけど、しょうがなかった。
『くるみベーカリー』も同様だった。ひっきりなしに来店するお客と会話したり笑顔を向けたりすることは今の自分には無理に思えた。高校時代の対人恐怖症がぶり返したみたいに自律神経が不安定になっている。外園さん夫妻にも多忙と体調不良を交互に伝えては、欠勤を繰り返していた。
十二月のライブ直後はこれほど悪くなかった。
まだ、信じようという想いを持つことができたから。澤さんや修くんの励ましや支えもあって、デモ楽曲の制作もそれなりに進んでいた。人前に立つことはおそろしくても、彼のスタジオで歌えば、その一瞬はなにもかも忘れられるほど楽しかった。
その頃から澤さんが自分のエレキベースを修くんのスタジオに持ちこみ、曲作りやアレンジを手助けしてくれるようになった。話は聞いていたけど、実際に演奏を聴いて驚いた。
修くんが「全曲弾いてほしい」とお願いするほどの腕前なのに、澤さんは照れ笑いしながら、「これくらい高校生でも弾けますよ」と言って積極的に演奏することはなかった。
「雪野さんはなにか楽器を弾かないのですか?」と、澤さんに訊かれたことがある。
「アコギをほんの少しだけ弾きます。ビートルズのコピーとか、それくらいですけど」
遠慮がちに答えると、
「うん、アコギはボーカリストに一番似合う楽器です。いつかぜひ弾いてみてください」
澤さんは目を輝かせて話に乗ってきた。即座に私は首を振った。
「いえ、コードしか演奏できないんです。とても澤さんの前でなんて――」
「コードが弾ければいいんです。あとはあなたの歌がある。いつか聴かせてください」
そんなやり取りすら今では懐かしく感じてしまう。心がまだ正常に近い状態だったから。
三月下旬に全デモ楽曲の仮収録が完了した。幸いにも私の出番はあまりなかった。
今年に入って録音していたボーカルにトラックを当てて仕上げていくことがメインで、修くんと澤さんに作業が集中していた。その後、澤さんは社内で打ち合わせを重ね、慎重に六曲のセレクトと構成を考えている。REMレコードとの正式契約はEPが仕上がった段階ですぐにという話になった。現状での予定だと、遅くとも四月中旬までには主要音楽配信サイトで音源のサブスク販売がスタートする。
夢のメジャーデビューを目前にし、張り詰めた面持ちのなかにやる気が漲る修くんとは対照的に、日を追うごとに私の精神状態は不安定になっていく。
さらに私の心を追い詰める、新たな火種が持ち上がる。
五月の大型連休中に開催される一大イベント〝REMロックフェス〟。国内外の所属アーティストたちが一堂に会する関東エリア最大規模のビッグな自社イベントに、私たちAFEWの出演が突如として決定した。デモ楽曲のクオリティの高さが社内で高い評価を得てのことらしい。四日間を通しての総入場者数はおよそ三万人。私たちが出演するJステージは全五会場のなかで一番小さいスケールだけど、それでもオールスタンディングで満員になれば約三千人もの観客が収容される。『o'clock』とはけた違いのキャパになる。
刻一刻とフェスが近づくにつれ、プレデビューライブの事件が思い出されてしまい、かつてないプレッシャーと恐怖心に押し潰されそうになる。全身をぴたりと覆う〝なにか〟が、喉元までせり上がり、真綿で脈を締めつけるような圧迫感を覚えるようになっていた。
「あの、二、三日でいいので、お休みをいただけませんか?」
三月末日、勇気を奮って切り出してみた。四月に入れば大学がはじまる。EPの完成はもちろん、五月のロックフェスに向けたステージアクトのリハーサルが本格化する。
同じ轍は踏まないというREMレコード側の意気ごみは強く、大型サイズのスタジオで関係者数十人を招いた公開ライブ的なスタジオワークが四月中旬以降かなり予定に組まれてある。徐々に人前で歌うことに慣れさせていこうという作戦だった。
REM主催イベントで絶対に失敗は許されない。澤さんは言葉にはしないけど、今まで以上に緊張感を纏ってリハーサルに立ち会うことが多くなった。そういう空気を察していたからこそ、少しの間でいいから、音楽からも東京からも離れて気分転換したかった。違った環境に身を置けば、強度の不安障害や強迫観念を軽減できるのではという希望的観測もあった。そして今の私は、彼女に会いたくて会いたくて、しょうがなかった。
「休みって、どこか行くの?」
ミキサールームでノートパソコンを操作していた修くんが顔を上げて訊いてくる。
「あ、うん。旅行とかじゃないんだけど、ちょっと実家に帰ろうかなって」
修くんは意外そうな表情になる。「どういう風の吹き回し? 珍しいね」
「え、深い意味はなくて、ただ叔母に会いたくなって。かれこれ二年近く会ってないし。それにこっちへ越してきてから、一度も帰ってないしね。ほら、来月になるとあれこれ忙しくなるから。大学もはじまっちゃうし」つい言い訳がましい言葉が並んでしまう。
「大切な時期なのはよくわかっているんですけど、澤さん、いいでしょうか?」
ソファーに座っている彼のほうを向くと、笑顔で肯いた。
「うん。ぜひ行ってきてください。気分転換はとても大切です。二、三日といわず、一週間くらいゆっくりしてきていいですよ」
「それって長すぎません?」すぐに修くんが横槍を入れてくる。
「その間に僕らは楽曲のアレンジチェックを詰めましょう。ボーカルの最終レコーディングはそのあとで十分間に合います」
澤さんがそう告げると、修くんは納得したようでそれ以上はなにも言わない。
「じゃ、お言葉に甘えて、明日から週末までお休みをいただきます」
その後、三十分ほどリハーサルに立ち会った後の帰り際だ。
「あの、雪野さん」ドアを開けてスタジオを出ようとしたとき、背後から声をかけられる。
「はい?」私が振り返ると、澤さんが念を押すように言う。
「とにかくリラックスして、音楽のことは忘れてきてください。そしてもし、なにか悩みとかあれば、いつでも遠慮なく僕に連絡をください。いいですね?」
優しい口調のなかに真摯で親身な心遣いがありありと滲んで聞こえる。
もしかして、やっぱりこの人――あらためて私は感じる。
直後、ノートパソコンをいじっていた修くんに呼ばれ、澤さんはそれ以上なにも話すことなく、手を振って私の視界から消えた。
*
翌日、始発の新幹線に乗って郷里の駅に到着して下車すると、
「お帰りなさい」
ホームに立つ曜子ちゃんが笑顔で手を振る。予約した新幹線の列車番号と号数はメールで伝えてあったものの、まさか迎えてにきてくれるとは思ってもみなかった。
「よ、曜子ちゃん、仕事は?」
驚いて彼女の顔を見ながら、思わず訊く。今日は平日の水曜日。普通に会社があるはず。
「莉子ちゃんが帰ってきてくれる日くらい、お休みしますよ」
白い歯を見せて腕を伸ばしてくる。「ほら、荷物、貸して。持ったげる」
「え、いいよ。そんな重くないし。自分で持てるから。曜子ちゃんより力あるし」
「嘘。そんなガリガリに痩せちゃって。ちゃんと食べてないんでしょ」
「そんなことない。食べてます。それに、私のほうが若いんだからね」
「あ、言ったな!」
結局、バッグはひったくられるようにして曜子ちゃんが持ってくれ、私たちはひさしぶりのおしゃべりに花を咲かせつつ駅をあとにした。
駐車場に停めてある彼女の軽自動車に乗りこんで十八年間暮らした町を走り抜ける。
三年ぶりの郷里の景色を車窓越しに眺めていると、懐かしさや切なさや哀しさがごっちゃになって胸を淡く締め付ける。戻れば嫌なことをいっぱい思い出してしまいそうで、それが恐くて遠ざけていたはずなのに、気持ちのどこかでほっとしている自分がいる。
「驚いちゃうくらい、ぜんぜん変わってないでしょ」
ハンドルを握る曜子ちゃんが笑みを浮かべる。
「そんなことないよ。なんか昔に比べたら、ビルとか建物が増えたね」
「昔っていってもたった三年ぶりでしょ。大げさね、ふふ」
曜子ちゃんの声が弾んでいる。私が帰省したことがすごくうれしいみたいだ。
私も彼女に会えてすごくうれしい。張り詰めていた神経が緩み、心が軽くなっている。不安定な精神状態が嘘にように安らいでいく。勇気を出して帰ってきて本当によかった。
東京よりも春色が濃い陽ざしに照らされる町の風景にまなざしをすがめ、私は束の間、音楽のことも、なにもかもを忘れることにした。
「わあ、すごいご馳走。おいしそう」
夕刻が近づき、太陽が傾いてくると、曜子ちゃんは私の大好物を次々と食卓に並べはじめた。母親がよく作ってくれた春野菜の天ぷら盛り合わせ、真鯛のカルパッチョ、コンソメ風味のロールキャベツ、鶏肉の香草焼き、豚の角煮、茄子のしぎ焼き、などなど。
「全部、あなたの大好物でしょ?」
得意げに話す彼女は、キッチンから白い大皿に盛りつけられた料理を持ってくる。
「そんな食べられないよ」
「なに言ってんの。細いんだから、たくさん食べて元気つけなきゃ。若いんでしょ。はい、これもあなたの大好物、おくらとトマトの冷製パスタよ」
ほぼ空きスペースがない食卓テーブルに無理矢理隙間を作って大皿をごとっと置く。
こんなにたくさんの料理を用意するには、準備が大変だったはず。仕事がデキる曜子ちゃんは管理職でかなり忙しいはずなのに。そう考えただけで申し訳なくなる。
「さ、座って座って。お待たせしました。夕ご飯にしましょう」
彼女に促されて、私は高校時代ずっと座っていた定位置の椅子へ腰を降ろす。
その晩、曜子ちゃんはワインを、私はノンアルコールビールを飲みながら、昔話やお互いの近況報告で盛り上がった。REMレコードからメジャーデビューすることはメッセージを送ってやんわり伝えてあったけど、彼女はその話題に触れようとしなかった。
もちろん私のほうから率先して話すつもりもない。そればかりか、今年に入って修くんと制作した新譜を何曲もメールで送っていたにもかかわらず、彼女は感想すら口にしない。
おそらく、ではなく絶対に、曜子ちゃんはすべてわかっている。三年ぶりに突然帰省した理由や心境を理解したうえで歓待してくれているんだ。
そういう彼女の配慮と気遣いに素直に甘え、私たちは日付が変わる時間まで語り合い、懐かしい自分の部屋のベッドでぐっすりと眠った。
「へへ、じつは今週末まで休暇を取ってるのよ」と、翌朝になって切り出す曜子ちゃんに誘われて、私たちは車で海方面へと向かった。田舎のいいところは、海と山が近いことだ。
よく晴れた四月の空の下、彼女の軽自動車で、子供の頃に訪れた記憶のある海岸や港をいくつも通り過ぎ、開放感いっぱいのドライブを楽しんだ。
翌日は新緑が美しい山へ散策に行って、ひさしぶりに長距離を歩き、くたくたになった。
その次の日は、曜子ちゃん家でゆっくり過ごした。
こっちへ戻ってから、スマホの電源はずっとオフにしてある。だから誰からも着信はないとわかっていながら、スマホを見るだけで東京の生活に引き戻されそうな気がしてくる。
こんな状態でメジャーデビューとかロックフェスでライブとか――途中まで考えて、すぐに頭を振る。それでも時間を止めることはできない。
明日の日曜日、午後の新幹線で私は東京へ戻らなければならない。
「本当に帰るの?」
部屋の床に座りこみ、きちんと折り畳んでもらってある衣類をバッグに詰めていると、いつの間にかドア口に立っていた曜子ちゃんが訊いてくる。
「うん。いろいろと戻ってやらなきゃいけないことがあるから」
目を伏せたままで言う。すぐに彼女はなにも言葉を返さない。おずおずと顔を上げる。想像した通り、心配そうな面持ちでじっとこっちを見ていた。
「大丈夫?」
今度は私がすぐには言葉を返せない。
「なにが?」平静を装って訊き返すと、曜子ちゃんは静かに息を吐いた。
「本当は、すごく無理してるんじゃない?」
「だから、なんのこと?」
強がりで訊き返す自分が嫌になる。ここで曜子ちゃんに甘えてしまうと、東京行きの新幹線に乗れなくなってしまいそうで怖かった。
「――あのね、たまたまだけど、莉子ちゃんのことネットで検索してみたら、すごいのね。私、驚いちゃった」
動かしていた手が止まる。「私のこと、ネットで調べたの?」
「だから、たまたまね。ちょっと思いついて。ほら、最近連絡がなかったし」
笑顔で曜子ちゃんは答えるけど、奥歯に物が挟まったような言い方に聞こえてならない。
「あんなに音楽がんばってて、ファンの人がたくさんいるとか、しかもレコード会社からメジャーデビューするとか、びっくりしちゃったの」
「送ったよ」
「え?」
「私たちがアップした音楽のURLとか、REMレコードからデビューすることとか、メッセージと一緒に全部送ってるよ」
「あ、うん、そうだったわよね。知ってたけど、ネットでいろいろ直に見ると、あらためて感心するっていうか。あ、それにSNSとかで、莉子ちゃんの名前にハッシュタグが付いてて、どんどん最新投稿が増えてて、応援してくれてる人たちのメッセージをね――」
「ねえ、曜子ちゃん」
「なに?」
「私のこと、ネットで毎日調べてるわけ?」
慌てて彼女は首を振る。「調べるとか、そういう大げさなことじゃないの。家でパソコンに向かって仕事しているうち、なんとなく検索しただけなの。やっぱり気がかりだからね」
「そういうの嫌いだって、一番曜子ちゃんが知ってるよね」
「誤解よ。深い意味はないの」
「なんか、すごく嫌だ」
私のなかの得体の知れない〝なにか〟がおそろしい勢いで膨張し、「壊せ」とささやく。
部屋が沈黙に覆われる。言い訳するように曜子ちゃんがつづける。
「だ、だから、すごいプレッシャーとか、いろいろあるんじゃないかなって、心配だったから。でもね、もうちょっと、ゆっくりでもいいと思うよ。たまには立ち止まって息抜きしたり、少し休んでみたりして。あまり、自分を追いこまないでほしいの」
言いながら、そっと近づいて、差し伸ばした手で私の肩に触れようとする。
すごく気を遣ってくれている。すごく言葉のひとつひとつを慎重に選んでくれている。すごく優しくて、いつも心配してくれていて、どこにいても私のことを想ってくれている。
こんな人、この世にただひとりしかいない。
わかってる。痛いほどわかっている。曜子ちゃんがいなかったら、私は今、生きていない。でも彼女の話を聞いていると、違和感しかない。ううん、違和感とは違う。
認めたくないけど、今、私を喰い尽くそうとしているのは、ある種の絶望感なんだ。
三年ぶりに故郷に帰ってきて、しかもあれから五年以上が経過した。タイムリミットは越えてしまった。そうして私はもう未成年じゃない。ハタチになった。来月には二十一歳になる。嘘がつけない人だ。いつも私には、正直であろうと接してくれている。
だからわかる。痛いほどわかってしまう。彼女は私と同じことを考えていた。
いつか言おう、言わなければ――曜子ちゃんは切り出す機会を見計らっていたんだ。
自分以外に言える人は、ほかにいないから。いつまでも引きずって生きていくのは、あまりに辛く悲しい人生になってしまうから。誰よりも私という存在を愛してくれてるから、東京へ行ってしまう前に言うべきだと彼女は考えている。
彼女が私の気持ちをわかるように、私もまた彼女の気持ちがわかる。本当に申し訳ないと思っている。ここまで大切に想ってくれているのに、別れ際にこんな態度をとってしまうことが。だけど今日のこのタイミングでだけは言ってほしくない。彼女に事実を言われてしまえば、自分は空っぽになってしまう。タイムリミットを過ぎても音楽に打ちこんでいるのは、そうすることでしか存在理由を見出せなくなっているから。
曜子ちゃん、ごめんなさい。今は信じることでしか生きていけないの。あの人たちを。
そう思った瞬間、〝なにか〟が私のなかで破裂する。粉々の破片になった、おびただしい数の〝なにか〟がみるみる膨れ上がって増殖する。あっという間に、私の内側が無数の〝なにか〟でみっしりと埋め尽くされる。不穏でおぞましいそれらがいっせいにささやく。
『もう楽になれ』『悪あがきはよせ』『絶望的だ』『終わりにしろ』『壊せ。自らで壊せ』
私は喉元からせり上がってくる自分の声を止めることができない。
「わかってるよ、私だって!」
「り、莉子ちゃん」語気に気圧され、曜子ちゃんが全身の動きを止める。
やめて、お願いだから――もうひとりの自分が抑止しようとする。けれど、無理だった。
内側を全支配する〝なにか〟が扇動する。理解を超えた憤りや哀しみや怒りが、心のなかでぐじゃぐじゃになる。制御不能に陥る。言ってはならない言葉が口から押し出される。
「どれだけ音楽をがんばっても、どんなに気持ちや想いを歌詞にこめても、両親には届くわけないんでしょ? どれだけやったところで無駄だって、そう言いたかったんでしょ?」
目の前に立つ曜子ちゃんが滲んでよく見えない。それでも私を凝視し、唇を震わせているのはわかる。もう、私は自身のなかの〝なにか〟を止められない。そして諦め、悟る。
負けてしまった。
首を振りながら曜子ちゃんが口を開く。
「そうじゃない。私はあなたの歌が大好きで、応援してるから――」
「やめてっ!」
毒悪に満ちた〝なにか〟の群れが一体の巨大な塊となり、心の芯で私を操る。
それが絶対に言ってはならない言葉を吐き出させる。ずっと頭にちらついていた数字を。
あの人たちが消えてしまってすぐの頃、ネット恐怖症なのに、依存症気味に失踪者に関する情報をネットで探しつづけていたとき、私はその数字を見て、覚えていた。
「もう五年以上も経つから、失踪者の生存率は一パーセント未満なんだよね? そうなんでしょ? 曜子ちゃんだって知ってるんでしょ? もう絶望的だって。だから、音楽とか歌に託すような無意味な悪あがき、しないほうがいいんでしょ? そう言いたかったんでしょ? だったら遠慮なんかせず、さっさと言えばいいじゃない! もしも私が家族なら、なんだって言いたいこと言えるはずだよね? 言えないのは、私が曜子ちゃんの本当の家族じゃないから、そうじゃ――」
パンッッ! ビリビリと頬に衝撃が走る。なにが起きたのかわからない。
「あ――ご、ごめんな、さ――――」
曜子ちゃんのか細い声が掠れ、ふらつく足取りで後方へ体が傾いていったかと思うと、壁にどっと背をぶつけ、そのまま両膝の力を失うようにして泣き崩れていく。
一拍遅れて、頬を張られたと理解する私は、その場に立ちすむ。両膝ががくがく震える。
ぎりぎりまで我慢していた涙が双眸からとめどなくこぼれ落ちてくる。
真っ白になった頭に浮かんでくるのは後悔しかない。
またも、私の大切なものが消えていった。とりかえしのつかないことを言葉にしてしまった。かけがえのない、たったひとりの家族に。
私はバカだ。どうしようもない大バカ者だ。〝なにか〟が私をせせら笑っている。
動揺と混乱でうろたえながら、なんとか自分のバッグを拾うと、床に崩れている曜子ちゃんのほうを見ないようにして駆け出す。一刻も早く、この場所から逃れたい一心で、リビングを突っ切って、玄関に向かう。
つい昨夜まで、楽しく二人で囲んでいた食卓が視界に入って息苦しくなる。毎晩毎晩、曜子ちゃんは大好きだった料理をいっぱい作ってくれた。忙しいのに会社を三日間も休んで、ずっとそばにいてくれた。海や山に連れて行ってくれて、きれいな景色をたくさん見させてくれた。少しでも私が元気を取り戻せるように。それなのに、私は――。
玄関口に並べてあるスニーカーを履いていると、
「ま、待って、莉子ちゃん! お願い、待って。行かないで。私が悪かったから」
必死で叫ぶ曜子ちゃんの湿った声が背に縋るように響いてくる。私は首を振って聞こえないようにする。急いでスニーカーを履き、ロックを開錠してドアを開けて飛び出す。非常口の階段を駆け下り、マンションのエントランスを抜ける。
絶対にうしろは振り返らない。ベランダに曜子ちゃんが出ているかもしれない。あるいは私を追って、エントランスにいるかもしれない。彼女の顔を見ることなど、できるわけがない。死んでしまいたい。もう死にたい。私なんか生きていたってなんの価値もない。号泣しそうになるのを必死でこらえて、ただひたすら私は走った。
でも、どこに行くの? 疾走しながら、摩耗しかけた頭で、声なく自分に問う。
駅しかない。それはわかっていた。問題はその先だった。
音楽なんて私には無理だ。もう歌なんか歌えるわけない。
生存率一パーセント未満――ずっとずっと脳裏に刻まれていた数値を自分の口から言葉にしてしまったあの瞬間、なにもかも決壊してしまった。
音楽に懸けようとしていた情熱も。歌にこめて届けようとした気持ちや想いも。修くんや澤さんの期待に応えたいという意志も。私は自分自身ですべてを壊してしまった。
私は〝なにか〟に囚われ、負けてしまったんだ。
『〝なにか〟は敵じゃないんです。〝なにか〟が敵になってしまった時点で、いろんなことが難しくなります。でもそうなってしまえば、闘って打ち勝つしかありません。そして〝なにか〟に負けてしまうと、すべてが終わってしまいます』
逃げ出すように故郷の町を走りながらも、澤さんの声がこだまする。
私を煽りつづけた得体の知れない〝なにか〟は、いつの間にか影を潜めようとしている。
2
次の停車駅は名古屋、という車内アナウンスを耳に挟み、反射的に瞼を開ける。そのタイミングでちょうど車輛が減速して名古屋駅へと入っていく。
ふたたび名古屋駅という車内アナウンスが流れた瞬間、衝動に駆られた。私は立ち上がると荷物棚に置いたバッグを掴み、出口ドアへと進んでいく。下車する乗客の列に並びながら思い浮かべるのは高校一年の六月のこと。
最初で最後となった、あの人たちの生存確認情報だった。
大阪府堺市で正午頃に地元住民に目撃され、その日の午後三時十一分に愛知県名古屋市のJR線駅構内に設置してある防犯カメラに映っていたという話。東海道新幹線に乗って名古屋駅まで移動したと推測され、新大阪と名古屋駅構内の防犯カメラを警察が確認したけど、結局それ以上の情報は得られなかったらしい。
今、あの人たちが名古屋にいる可能性は低いだろうし、下車したところで会えるわけない。それでも消えてしまったあの人たちがたしかに歩いていた名古屋駅を自分も歩いてみたい。そういう行為が無意味であるのは重々承知のうえだった。
もう、どうだっていい。そういう自暴自棄な気持ちが私を突き動かしていた。
下車する乗客の列が動き出す。東京からも逃げるように、私はのぞみを降りてホームに立ちすくむ。足早にその場を立ち去っていく人たちに取り残される形で、きょろきょろしていると、今まで乗っていたのぞみが動き出す。私が座っていた通路側の座席にはもう別の誰かが座っていた。あのまま乗っていれば一時間半後には東京に着いていた。
深いため息をつくと、とぼとぼ歩いて下りのエスカレーターに乗った。たくさんの人が行き交う駅構内をただ進む。
時折、顔を上げて目で防犯カメラを探す。すぐにそれらしい機械がいくつも見つかる。このなかのどれかがあの人たちの姿を捉えたかと思うと、つい周囲を見回してしまう。
もちろん、いるわけがない。自分で自分を笑いたくなる。いったいなにをやってるんだろう。自嘲しながらも、しばらく名古屋駅構内を彷徨い、あの人たちの影を求めつづけた。
それから改札を出て、あてどなく名古屋の繁華街を歩いた。歩き疲れると、ファミレスに入って窓際の席に座ってドリンクバーを注文し、暮れゆく街中を往来する人の群れを眺めた。それにも飽きると目についたビジネスホテルにチェックインした。細長いシングルベッドと小さなデスクがあるだけの狭い部屋には窓もなかった。それでも自分ひとりの空間に落ち着いたとたん、どっと疲れが出てきた。私は長いシャワーを浴びた後、ごろんとベッドに横になる。長い一日だった。曜子ちゃんに当たり散らして、頬をぶたれ、マンションを飛び出してきたのが数日前のことのように思える。
バッグのサイドポケットにしまいこんだスマホは電源を切ったままだった。もう五日目になる。不在着信を見るのも、留守番メッセージを聞くのも億劫だった。
目を閉じると、泣き崩れていく曜子ちゃんが何度も瞼の裏に浮かぶ。私はどれだけ愚かな人間なんだろう。なぜ彼女に当たり散らして怒鳴る必要があったんだろう。どうしようもない後悔ばかりが繰り返されるうち、深い闇にくるまるように眠りに落ちていた。
翌日も翌々日も、名古屋の同じビジネスホテルに滞在した。一歩も外に出ることなく。
名古屋到着から四日目、東京へ戻ることにする。逃げてばかりいても、みんなに迷惑をかけるだけだと、ようやく冷静に考えられるようになってきた。
とにかく修くんと澤さんにはきちんと謝罪しよう。あれだけお世話になったんだ。
ビジネスホテルをチェックアウトし、ふたたび名古屋駅へと戻る。
駅の電光掲示板を見つめていると、ここからどこにでも行けるんだと思った。このまま失踪してしまうのって案外簡単なんだな、と発作的に考えつき、すぐに打ち消す。
お昼過ぎの一番出発が早い東京行きのひかりの自由席を買って乗車した。
私は窓側のシートに座って、ぼんやり外の景色を眺める。高速で移動する車窓からは、澄んだ青空を背景に、町と山と田園と川が交互に繰り返されて映りこむ。時折、トンネルに入るとガラス窓に自分が反射される。ひどい顔をしていて嫌になり、目を背ける。
やがて東京に近づくにつれ、田園風景が消えていく。山が低くなり、川が細くなり、そのかわりに町の規模が大きくなる。澄んだ青空がグレーに濁っていく。
それから十数分が経過し、背の高いビルが連なってきたかと思うと、あっという間に視界全体が無機質な大都会に変貌を遂げた。コンクリートと鉄とガラスでできた街が広がる。
色彩を持たない無機質な景色を見つめていると、気持ちまでどんよりと鉛のように重くなってくる。でも、しょうがない。今の私にはほかに行くべき場所はどこにもなかった。
*
「ふざけんなよ」
私を現実世界に引き戻したのは、アパートの部屋の前でうずくまっていた修くんだ。
いきなり棘を含んだ声が発せられる。
「明日の朝、曜子さんは捜索願を出すって決めてたんだぞ」
言いながら彼はすくっと立ち上がる。「なにやってたんだよ」
「な、なにって――」
「どんだけみんなが心配したか、わかってるのかよ? なあ?」
「ご、ごめんなさい」
「たった、それだけ?」
修くんは一歩踏み出して私に詰め寄ってくる。こんな怒っている彼を初めて見る。
「澤さんや曜子さんがどんだけ心配したかわかってる? どこでなにやってたんだよ?」
「あの、さっきも言ってたけど、どうして修くんが曜子さんのこと、知って――」
「いつまで経っても莉子ちゃんの携帯がつながらないし、なにかあったんじゃないかって心配して、昨日の夜、バイト先の『o'clock』に電話して持田さんに事情を話したら、実家のほうからもそういう電話が何度もかかってるって言われて。それで実家の電話番号を教えてもらって、僕のほうから電話をかけてみたら曜子さんがすぐに出て、事情を話してくれたんだ。実家でちょっとした口論になったって。曜子さん、ちょうど東京に来る準備をしてたみたいで、だったらまず僕のほうで心当たりの場所とか捜してみますって話して、ここで待ってたんだよ」
溜まりに溜まった怒りを吐き出すみたいに、彼は一気に話した。実家でちょっとした口論、と言われ、胸に鋭い痛みが走る。
「いったい、どこでなにやってたんだよ?」同じことを訊かれても、私は答えられない。
「言えないようなこと、してたわけ?」
「そんなわけないよ」
「だったらなんで、実家を飛び出して、アパートにも戻らず、四日間も行方不明だったのか、きちんと説明してくれよ」
今日の修くんは本気で激怒している。そして強張った表情を見て気づく。彼もまた間近に迫ったEP発売と、来月のロックフェス出演を控え、相当ナーバスになっているのだと。
「今は、言えない。言いたくない――」
数瞬の間があった。修くんは睨むように私を見つめたまま逸らそうとしない。
「ね、明日、話しない? 今日はすごく疲れてるし、いろいろ考えを整理したいし、まともに話せる精神状態じゃないの」
本心だった。自分がいけないのだけれど、知らない街で四日も彷徨うようにして鬱々と過ごし、疲弊し切っていた。明日にでも修くんや澤さんに謝って、デビューを辞退しようと決めていたものの、まさかアパート前に待ち伏せしているとは思わなかった。心の準備もなにもできていない。それにこの状況で洗いざらい打ち明けたところで、修くんが納得してくれるとは到底思えない。できれば澤さんを交えて、三人で話したほうがいい。
「だったら、ひとつだけ答えてよ」
「な、なに?」
「この期に及んで、やめるとか言わないよね? 散々引っ張っておいて」
直後、深刻な面持ちになって修くんはつづける。
「澤さんは、あの人は――」
いきなりその名前を出され、早まる鼓動を感じながら俯く。修くんは固い声を継ぐ。
「もし、莉子ちゃんが戻りたくないなら、そうしてあげようって、僕に言ったよ。昨日」
「――え?」
「そういう覚悟で待ちましょうって。けど、僕は違う」切実な語調で修くんが訴える。
「今、答えるのが嫌で明日話すのなら、それでいい。でもこれだけは覚えておいてくれ。僕は莉子ちゃんと一緒でなければメジャーデビューできない。つまり僕の才能はそこまでってことなんだ。自分でもわかってるつもりだ。でも、素晴らしいボーカリストと組めば開花できるって信じてたし、今も信じてる。それが莉子ちゃんなんだ。僕の才能は君に出会えたことなんだ。だから、だから――――お願いだ」深々と修くんは頭を下げる。
「ここまできて、降りるとかだけはやめてほしい。もしそんなことになったら、僕はどうしていいかわからない。莉子ちゃんが歌入れさえすれば、EPだってもう完成で、ネットリリースが開始されるわけで、ようやく夢が叶うんだよ」
修くんの言い分はすべて正論だった。聞いてて呼吸が苦しくなる。
悪いのは私だ。けど、私はもう歌う理由を見失ってしまった。負けてしまった。
「ご、ごめん。とにかく今、いっぱいいっぱいだから」
私はポケットから鍵を抜き出すと、すばやく開錠して身をすべりこませてドアを閉める。
「あ――」という短い声が響いただけで、修くんはドアを叩くことも叫ぶこともなかった。
私は玄関口にしゃがみこみ、両手で顔を覆って、しばらく動くことすらできなかった。
懐かしい自分のベッドに倒れこみ、いつの間にか意識を失うように眠っていた。
カーテンから漏れる朝陽で目覚めると、午前七時を回っている。
重い体を引きずってシャワーを浴びる。その後、しばらくは部屋でぼんやりと過ごし、なんとか現実に向き合おうとする。今日、修くんと澤さんに会って、音楽をやめることを伝えなければならない。それから『くるみベーカリー』の外園さん夫妻に、『o'clock』の真紀さんや竹中店長や鮎貝さんや、全スタッフに謝りに行かなければならない。
それから? 自分に訊く。どれだけ考えても、その先の未来はなにひとつ浮かばない。
虚無感に捉われながらも、次第に開き直ってくる。
もう私には失うものも、おそれるものすらないんだ。そんなふうに気持ちを変えると、一週間以上放置していたスマホに手を触れて、電源をONにする。留守電は要件を聞くことなく、機械的に全削除する。不在着信には、曜子さん、修くん、澤さん、たまに真紀さんと佳乃さんという名前が下へ下へとつづいていく。メッセージアプリも同じようなものだった。私は未読のまま全削除する。そこまでやり終えると体中の力が抜けた。
結局私って、挫折するたびに引きこもって現実逃避を繰り返している。中学生のときからまるで変わってない。まわりの人に心配と迷惑をかけて、甘えてばかりいる臆病者。ほんと最低だ。握っていたスマホをベッドへ放ろうとした瞬間だった。
ぶるるるると震える。まだ朝の七時過ぎという時間にかかってくる電話なんて――。
とっさに、修くんと曜子ちゃんの顔が交互に浮かぶ。
画面を見ると、そこの表示される名前は咲南ちゃんだった。少し迷ったけど電話に出る。
「もしもし? 莉子ちゃん? 朝早くにごめんね」
四か月ぶりに聞く声。一月四日に会い、彼女のマンションにお泊りして以来だ。その後、心配になって何度か電話したりメッセージを送ったりしたけど一度も返信はなかった。
「咲南ちゃん、元気だったの?」
「それは私のセリフだよ、莉子ちゃん」
「ど、どういうこと?」
「莉子ちゃんが音信不通の行方不明だって、この五日間で修くんから五回も電話があった」
私は黙りこんでしまう。修くんは咲南ちゃんにまで電話してたんだ。
「年明けに会ってから、私だって何度も咲南ちゃんに電話したんだよ」
こんな状況なのに、つい不満が声になる。
「ごめん。あの頃はけっこう参ってて。あれからしばらく誰とも話したくなかったんだ」
「今はもう大丈夫なの?」
「まあ、なんとかね。いつまでも落ちこんでばかりいられないし」
「昨日、私がアパートに戻ってきたって、修くんから聞いたんでしょ」
「え? なにそれ? 戻ってきたの? 彼からは一昨日の夜、電話があったっきりよ」
「そうなの? だったらなんでこんな朝早く」
「なんか虫が騒いだっていうか、だんだん心配になってきてさ。それでいきおいで思い立って電話してみたら、すぐつながったってわけよ」
嘘をついている口調ではなかったし、そういう感じは彼女らしいと思っていると、
「ね、今から会おうよ、莉子ちゃん」
思いがけないことを切り出してくる。
「え、今から? だってまだ朝の七時だよ」
「早いか」
「早すぎでしょ」
「じゃ、ランチ一緒にどう?」
脳裏に修くんと澤さんの顔がよぎる。けど、時間まで約束したわけじゃない。それに咲南ちゃんに会うというのは心が動いた。
私にはまだ彼女がいた。音楽をやめてしまった同士なら、気を遣うことなくいろいろ話せそうだとも感じた。それにお泊りしたとき、彼女とは心の内を語り合った仲だし。今の自分のことをすべて打ち明けられるのは、彼女以外にいないと思えた。
「うん、わかった」
「春だし、お天気も良さそうだから、テラス席があるお店がいいよね」
「あ、そうだね」
即座に同意する。窓もないビジネスホテルに三泊して余計に落ちこんだ。開放的な雰囲気のなか、太陽光を浴びながらの彼女とのランチなら、少しは気分が晴れそうだった。
咲南ちゃんは外苑の並木沿いにあるお洒落なお店を指定した。お昼で混み合う前の十一時四十五分に待ち合わせすることになった。
電話を切った後、いくぶん気持ちが軽くなっていた。修くんにはランチが終わってから連絡すればいい。カーテンの隙間から春らしい爽やかな青い空を眺めながら、咲南ちゃんとのひさびさの再会にだけ思いをめぐらし、ほかのことはそれ以上考えないようにした。
*
「やあ、雪野さん。おひさしぶり」
聞き覚えのある男性の声に振り返ると、サングラスをかけた秋山さんが立っている。
私は時間ちょうどに指定されたお店に到着し、テラス席で咲南ちゃんを待っていた。
「ど、どうして、ここに?」驚きのあまり、席から立って彼のほうを向く。
「もちろん、彼女から聞いたんだよ」
「私を騙したんですか?」
「違うよ。彼女は悪くない。俺が強引に頼みこんで、こうなってるんだ」
「なんのために?」
「まあ、座ろうよ。お店なんだしさ」
彼は私の向かい側に回りこんで、対面の椅子に腰を降ろす。
「咲南ちゃんはどうしたんですか?」
「ん? 来るよ。あと十分もしないうちに。そして彼女が現れたら、俺は素直に退散する。だからそれまでの数分間、話す時間をくれないか?」
秋山さんは笑みを浮かべながらサングラスを外す。二人きりで会うのは初めてだ。
「そんな構えなくていいよ、雪野さん」
「いったい、なんの話なんです?」
彼のペースに振り回されないよう、私は身構える。
咲南ちゃんは秋山さんを庇うことばかり私に言ったけど、この人と面と向かっているだけで不快な気分になってくる。人がいい咲南ちゃんは長年コンビを組んでいたから、洗脳されて疑うことができなくなっているんだと思う。
「音楽、やめるわけ?」一転して真面目な表情になり、真正面から斬りこんでくる。
「なんでいきなり、そういう話になるんですか?」
動揺を悟られないよう返したつもりだったけど、直後、はっとする。私は咲南ちゃんにも誰にも、まだそのことは話していない。
「澤から聞いたよ」
「さ、澤さん――?」その名を耳にし、さらに混乱と動揺が激しくなる。
「君、わかりやすいくらい狼狽してるね。そっか、そういうことか」
ひとりで納得して肯き、私に目を向けてくる。
「どういう意味なんです? どうして澤さんが秋山さんにそんなこと話すんですか? あなたにはまったく関係ないし、それに私、澤さんにだってそんな話してません」
「四日も行方をくらましてたんだって? REMからEPをリリースする直前になって。それにロックフェスのステージアクトも決まってるんだろ。そういう状況で音信不通になるってことは、答えはひとつしかない」
「そんなこと、澤さんがあなたに話したんですか?」
「話したっていうか、相談されたんだよ。どうすればいいですかって」
一瞬、私は無言になる。騙されてはいけない。こういう振りはこの人の常套手段なんだ。
「――嘘。あの人は、あなたのことを嫌っています」
口で否定しながらも思い返す。前に咲南ちゃんが自殺未遂して運ばれた病院へ向かう途中、彼は車中で秋山さんのことを初めて語った。さんざんなエピソードを聞かされながらも、彼の表情は意外なほど穏やかだった。やっぱり二人は今もつながっているのだろうか。
「あいつは君に音楽をつづけてほしいと本音では思っている。とても強く」
「い、いいかげんなこと、言わないでください。あの人は修くんにも言ったそうです。もし、私が戻りたくないなら、そうしてあげようって。そういう覚悟で待ちましょうって」
わざと聞こえるように、チッと秋山さんが下品な舌打ちをして苦笑いする。
「あの野郎、そういうとこ、ぜんぜん変わってねえ」
「ごまかさないでください。澤さんはそういう人です。あなたはまた、咲南ちゃんとのコラボで私たちの素性や動画をネットで晒したみたいに、なにかよからぬ作戦か企てを考えているんでしょうけど、もう騙されません。すぐにバレる嘘なんか言わないでください」
「嘘を言ってどうする。嘘を伝えるため、わざわざこんなところに来てるわけじゃない。そんな暇じゃないよ。それにネットに晒した一件、俺が導き出した化学反応のすべては結果オーライだったろ? 見事に負の連鎖をクリアした」
その不遜な言い方に怒りがこみ上げながらも、ぐっと感情を抑えて訊く。
「じゃ、なんで澤さんがこの場にいないんですか?」
「言えば一緒に来るって言い出すに決まってる。だから黙っておいた。俺だけのほうがはっきり気持ちを伝えられるから」
「き、気持ち?」
「もう一度繰り返す。本音じゃあいつは君に歌ってほしい。そして俺もだ。歌いつづけてほしい。ただそれだけだ」
初めて見る真剣な顔で目を射るようにして言われ、私は言葉が止まる。
「澤には澤の立場がある。大手の会社組織だ。小うるさい上司やら、足を引っ張りたがる同僚やらがいる。そういうややこしいのを飛び越えられるのは、俺しかいないんだよ」
「どうして、あなたなんですか?」
秋山さんは眉根を寄せて難しい面持ちになり、わずかに思案しながらも口を開く。
「最初に君の才能に気づいたのは俺だった。君らが高一のときの、あの音楽室だ。それから数年が経って、ビートクラウドにアップされた楽曲を聴いて、絶対に本物だと感じた。だから咲南を介して再会し、あらためて俺は君の才能を直に確認したかった。だからコラボの話を持ちかけた。咲南からも君と勝負したいっていう提案があったしな。便乗した部分は悪いと思ってるよ」
そこまで言うと、吹っ切れたように空を見上げながら綴る。
「結果は読み通りだったし、俺の手に負えない、とも感じた。この時代はネットでサンプリングしたトラックをベースに、一曲を十人、いや二十人以上で作りこんでメロディを捻り出すのが当たり前なんだ。だが、君が創り出すメロディラインは別格だ。ありきたりなコード進行でも、独自の旋律を特別な歌声で奏でていく。しかも驚異的な音域で一気に。しかし、君の才能を開花させるには、資金とコネが豊富なバックがあったほうがいい。旬が特別に限定されていると直感したからな。歌に懸ける想いやメッセージ性がなくなってしまえば、開花できずに終わるだろう。あと、君の最大の問題はメンタル面だと直感した。だから澤に委ねた。あいつはアーティストには向かないが、裏方として非常に優秀な耳と、独自のハートを持っている。雪野莉子、ずっと君には歌いつづけてほしい。俺が初めて心を動かされたシンガーだから。結局、どこまで上に行けるかは、ボーカルで決まるんだ。俺は自分の目でたしかめたくなった。君がどれほどの高みへ羽ばたけるかを。最初は半信半疑だった澤も、ビートクラウドで君の歌を聴いた瞬間、同じ想いになった。それくらい、君には特殊なものがあるんだよ」
この人の真意を探るように私は見つめる。不思議だった。〝なにか〟が見えない。
〝なにか〟を抱えているのに、この人の〝なにか〟は、正も負も、善も悪もない?
「わかってないのは君自身だけなんだ。おおむねそういうケースで才能とは埋もれゆく。開花できる一瞬に花が開かねば、永遠に咲き誇ることはできない。澤なら君を開花できると信じて委ねたつもりだった。あいつの優しさに懸けた部分があった。でも、あいつは優しすぎた。君の不安定な精神状態がわかるにつれ、無理強いできなくなっていった。まるで過去の自身を重ねるように。あいつは本当に君を大切に想っているから」
秋山さんはそこではっとした顔になり、ゆっくりと席を立つ。
「へ、俺としたことが、しゃべりすぎたか。とにかく最後に言っておく。澤も俺も、君のことを一番に考えている。それだけは間違いない。ご清聴ありがとう。アディオス」
言いながら片手をポケットに突っこみ、もう片方の手をひらひらさせて、ほっそりとしたうしろ姿がテラスから消えていく。入れ違いで向こう側から咲南ちゃんの姿が見える。
すれ違う瞬間、彼女は足を止め、秋山さんに深々とおじぎをした。
そのやりとりの一部始終を眺めながら、混乱と動揺はさらに激しくなるばかりだった。
私を苦しめつづける〝なにか〟がふたたび、心を揺さぶるように脈打ちはじめる。
だけど、もうひとつの別の〝なにか〟が、熱を持つように私のなかで小さな火を灯す。
澤さんと初めて会ったとき、ほのかに発火し、熱を帯びていった、あの〝なにか〟だ。
そういう感覚に捉われ、すぐに否定する。もう無理だ。そう自分に訴える。
だって、私は歌う意味も意義も見失ってしまった。
誰になんと言われようと、音楽をやめるしかない。そういう最終結論に行き着いた。
秋山さんの話を振り返りながら、奥歯を噛みしめる。今日、なぜ澤さんが来て、直に話してくれなかったんだろう。それが余計に苛立ちと悔しさをつのらせる。
すまなそうな顔して近づいてくる咲南ちゃんから逃げるようにテラスから道路に出る。
「莉子、待ってよ!」背後から追い縋る彼女の声を無視して、私は道路を駆け抜けていく。
走りながら思い出す。今しがたの秋山さんの言葉を。
『あいつは本当に君を大切に想っているから』
3
さんざん悩んだあげく、外苑の並木通りを過ぎたあたりで、澤さんに電話してみる。修くんと話すべきだったけど、結局は同じことだ。どちらかに話せば、いずれ二人に伝わる。
「――もしもし?」
7コールで澤さんは応答した。
「雪野です。澤さん、今、どこですか?」
「赤坂見附のNスタジオです」
「お話があるんですけど、いいですか?」
「ええ。リハ立ち合いだけですから。それより大丈夫ですか? とても心配していました」
「そうなんですか?」
「はい?」
刹那、気まずい沈黙が鎮座する。
「どうして秋山さんが出てくるんですか?」
「なんのことです?」
少しだけ訝しがる口調になって澤さんが訊いてくる。演技をしている雰囲気じゃない。
「さっき、朝生さんと待ち合わせしてたら、あの人がやって来て、音楽活動についてあれこれ言われました。いかもに私のこと、澤さんから聞いている口ぶりでした。澤さんが頼んだんですよね? 私のこと説得するようにとか、いろいろ」
「いえ、私はそんなことしていません」
「だったらなぜ、関係のない秋山さんが横から口を出してくるんですか?」
「おそらくそれは、最初に彼があなたを見つけ、私に教えてくれたからでしょう」
「その件は秋山さんから伺いました。本当なんですか?」
微妙な間の後、澤さんは答える。「――はい、本当です」
「なんで初めて会ったとき、正直に教えてくれなかったんですか?」
「俺の名前は出すな、と、秋山が頑なに告げたからです。そうすれば雪野さんは不審に感じて、デビューの話をすぐに断るだろうと言われていましたから」
「澤さんはあの人にいいように使われて捨てられて、深い挫折感を味わったんじゃないんですか? 前にそう言いましたよね?」
「――ある意味では、そうかもしれません」
「だったらなぜ、あの人のいいなりみたいに動くんですか? おかしくないですか?」
「僕は秋山のいいなりになんかなっていません」
「なってます。それに私はモノじゃない。右から左に動かされるようにして、秋山さんや澤さんの都合で好き勝手に振り回されたくありません」
「それは違う」
いつになく強い口調で否定される。
「どう違うんですか?」負けずに私は訊く。
「秋山も僕も、あなたのことを一番に考えています。それだけは間違いありません」
ふたたび脈打ちはじめた胡乱な〝なにか〟が、私のなかで暴れかける。こんな無意味な押し問答なんかやめてしまえ。そうささやいていた。でも、できなかった。
『秋山も僕も、あなたのことを一番に考えています。それだけは間違いありません』
今、澤さんは言った。そして、ついさっき、秋山さんも言った。
『澤も俺も、君のことを一番に考えている。それだけは間違いない』
もうひとつの別の〝なにか〟が熱を帯び、心を揺り動かしていく。
この人はいつも正直に私に向き合ってくれた。そして、この人はわかっていたんだ。休暇を申し出たとき、音楽をやめるということを。これが最後の会話になるなら、きちんと話しておくべきだと思った。私も正直に向き合うべきだ。そういう気持ちになる。自分の心の弱さも傷も、すべて伝えておくべきだ。贖罪のつもりなんかじゃない。せめてもの誠意が伝わればと願う。それくらいしか、無力の私にできることはないから。
「あの、澤さん、聞いてもらえますか?」
「なにをですか?」
「私の身に起きたことです。ネットでご存知のこともあるでしょうけど、最後くらいはきちんと自分の口から話しておきたくて」
「もし、雪野さんがそう思うのなら、ぜひ聞かせてください」
息を整えるため、喉の奥で小さく咳払いして口を開く。
「中学三年生の三学期が間もなく終わろうとする、二月半ばの朝でした――」
私は話しはじめる。今まで他人の誰にも言わなかったことを。
突然の両親の失踪。ネット上での公開処刑。不登校のまま卒業した中学生の最後。編入した高校での出会い。咲南ちゃんと修くんだけが友だちだった高校一年の日々。最初で最後となる両親の生存情報。屋上トリオの結成。教育実習生の秋山さんの出現。ばらばらになった三人。不登校で引きこもりの高校時代。そうして、いまだに行方不明の両親――。
澤さんは黙って聞いてくれた。ネットで散見していたこともあったに違いないけど、口を挟むことも、下手な同情心を示すわけでもなく、ただ静かに耳を傾けていた。
現在に至る経緯をおおむね語り終えたところで、私は正直な気持ちを打ち明ける。
「私は有名になりたかったわけでも、歌手になりたかったわけでも、誰かに認めてほしかったわけでもありません。ただ、願いはひとつだけ。父と母に元気な歌声を届けたかった。そうして歌詞にこめた想いやメッセージを聞いてもらえば、いつか必ず会いにきてくれると信じていました。そうすることしか私には思いつかなかったんです。ずっと誰にも言えませんでしたけど、もしかしたら私の歌声は、両親がいなくなった瞬間、神様が授けてくれたのかもしれない、と思うこともありました。今ここにいる、私の存在を伝えるために」
次につづけるべき言葉はわかっている。けど口から出ていこうとしない。泣き崩れる曜子ちゃんを思い出してしまった。気を取り直すように息を吐き、私は声を振り絞る。
「でも、五年以上が経ち、失踪者の生存率は一パーセント未満だから、そして私もハタチを過ぎた大人になったから、全部諦めることにしました。いつまでも過去を引きずっていても悲しすぎるから。この前、田舎に帰ってそういう決心に行き着きました。つまりもう、私には歌う理由がなくなってしまったんです」
なんとかそこまで言い切ると、もう言葉は見つからなくなった。〝なにか〟に負けてしまったことは言葉にできない。いや、あるいは澤さんならすでにわかっているのだろう。
しばらく沈黙を保った後、澤さんが訊いてくる。
「これから、どうするつもりですか?」
「まだ、はっきりと決めたわけではありませんけど、大学をやめて郷里に戻ろうと思っています。育ての親がいますから。私、ひどいこと言ってしまって、迎え入れてもらえるかどうかわかりませんが、とにかく謝りに帰ろうと考えています」
「そうですか」
「すみません。ここまでお世話になっておきながら――」
「いえ、よく話してくれました。とても辛い過去を、僕なんかに」
「私のこと、一番に考えてくれている、澤さんの気持ちがわかったから、だから私も包み隠さず、打ち明けようと思えたんです」
「ありがとう」
「いえ、お礼を言わなければならないのは私です。澤さんと出会えてから、ずっと夢を見ているみたいでした。こんな私に夢を与えてくれて、本当にありがとうございました」
そこでふたたび会話が止まる。
「僕がプロデビューしてもまったく売れなくて、心を壊し、歌えなくなってしまったとき、最後に秋山から告げられた言葉を今でもよく覚えています」
突然、彼はそれまでと違う話を切り出した。
「『お前はいつも見えない敵と闘っている。けど、本当の敵は自分自身じゃないのか? お前は自分に負けたんだよ』と、あいつは厳しい口調で言い放ちました。そのときはショックと怒りで、言葉を失いました。けど、彼は正しかった。そのおかげで僕は大学をきちんと卒業して、レコード会社に就職できたわけですから。大好きな音楽を仕事にできる、そういう裏方としての道を選ばせてくれた」
「秋山さんのこと、嫌いじゃないんですか?」
「ずっと嫌ってましたし、人間的には好きではありません。本当に不遜な男です。だけど」
澤さんは考えるような間を挟み、やがて静かに声を継ぐ。
「あいつの耳は信頼できます。誰よりも。そして音楽のことに関しては嘘をつきません。もし僕がデビュー直後に売れていたとしても、いずれ必ずどこかで息詰まっていたでしょう。そうなっていたら、就職どころか、路頭に迷っていたかもしれません。秋山にはある段階で見えていたんでしょうね。プロデビューする実力があっても、ずっとプロとしてつづけていくには難しいということが。だから早々に見切りをつけて、次の人生に向き合わせてくれたんです。あいつにはそういう特殊な勘のようなものが備わっているんです」
「勘、ですか?」
澤さんらしくないことを言われ、つい訊き返してしまった。
「はい。勘という表現が適切でなければ、先見性というか、未来を読む能力というか、音楽のことなら常人には見えないものが見えるときがあるんです。そしてこれぞという才能を見つけると、打算も計算もなく純粋に応援するんです。それでいて自分がプロデュースする楽曲を大ブレイクさせるまでに至らないというのも、皮肉な才能です。まあ、そういう矛盾に満ちている天才肌というのが、秋山という男のユニークさなのかもしれません」
「――そうですか」
正直、澤さんが言っていることは理解が及ばない。やっぱり秋山さんは苦手だし、好きになれない。それにどうしてこの期に及んで、彼の話を持ち出す必要などあるのだろう。
理由を訊くのも気乗りせず、私は最後のお礼と謝罪を口にする。
「とにかくお世話になりました。ご迷惑ばかりおかけして本当に申し訳ありませんでした」
そう言った直後、澤さんは神妙な声で私に言葉を返す。
「あの、最後にひとつだけいいですか?」
「ええ、はい」
「僕たちはぎりぎりまで待っています。それだけは心にとどめておいてもらえますか」
そう言うと、私の返事を待つことなく電話は切れた。最後に含みのある意味深な言い方をされて、首を傾げてしまうけど、なにも考えられなかった。とにかく逃げることも、うやむやにすることもなく、胸中にあるすべてを伝えることができた。これでよかったんだ。
同時に、わかっていた。
これで本当にひとりぼっちの空っぽになってしまったんだ、と。
*
澤さんに言うべきことを告げ、完全に音楽を断ち切った後、時間の経過とともに襲ってくるのは激しい虚無感だけだった。
とっくに大学は三年生の新学期を迎えていた。でも、私はひとりアパートの部屋に引きこもり、食料品を買いにコンビニへ行くほかは外出しなかった。
東京にいる意味がわからないまま、無味な日々が経過していく。それでいてアパートを引き払って郷里に戻る決心もなかなかつかない。
そんなある夜のこと。両親と私があの家のリビングにいて、アコギに合わせて家族で『Something』を歌う夢を見た。
いつもの悪夢ではなく、ひさしぶりに淡い幸せを感じて温かな気持ちになれた。
微睡みから目覚めて瞼を開けると、午前六時過ぎ。珍しく朝まで眠ることができたのも、懐かしい夢見のおかげだろうか。現実世界に戻った瞬間には寂しさに襲われたものの、鼓膜の奥でマーチンのアコギの柔らかな音色が鳴って、すさんだ心を和ませてくれた。
なにをするでもなくぼんやりしていた午後、ふいに思い出す。部屋の押入れにアコギがしまったままになっていることを。
大学一年生の夏、衝動的に片づけて以来、手つかずのまま二年近くが経っていた。
急に触れてみたくなり、襖を開けてアコギのソフトケースを手に取る。押入れから出してチャックを開けてみて、驚いた。存在を遠ざけていたものの、ケースに収納されたアコギを乱暴に扱った記憶はない。それなのに六本の弦がすべて切れていた。
余程の衝撃でも加えない限り、頑丈なスチール弦が自損するとは考えにくかった。
まるで夢が、弦の切れていることを呼びかけていたように思えてならなかった。
六本の弦を失ったアコギは悲しそうで無残に映った。曜子ちゃんが大切に弾いていたギターでもあった。見つめているうち、虚無感だけの私の心を突き動かすものがあった。
「ちょっと待ってて」
気がつけば私はアコギに声をかけ、何日かぶりに外出する決意を固めていた。
薄暮の渋谷を歩いていると、ふいに胸が苦しくなって息が詰まりそうになる。
人、人、人、人、本当にすごい人だ――。
好んでこんな場所なんか通りたくない。やっぱり人の波が恐い。だけどスマホで調べた楽器店は駅の北側にある。別の道を選んだところで、この街の人混みはそれほど変わりないし、遠回りになるだけだし。私は人いきれに慄きながら歩行者用の赤信号で足を止める。
渋谷のスクランブル交差点。生まれ故郷の町じゃ考えられないくらい、道路が広くて交通量が多い。テレビのニュースやネットで数えきれないほど見てきたけど、実際に四角い広場みたいな交差点を目の当りにすると、あらためてここは都会なんだと感じる。
信号が青に変わる。号令に従うようにいっせいに動きはじめる人だかり。それらの群れに圧されながら、私も前へと進む。背後から近づく人たち。反対側から向かってくる人たち。斜めに横切ってくる人たち。無数の他人に四方を包囲されているみたいで、今度は眩暈がしてくる。さらに嫌でも視界に映りこむのは、人と人とのつながり合いだ。手をつなぐ高校生男女。笑顔で話する女子二人連れ。カラダを寄せ合ってすれ違う大人のカップル。スマホを見つめて指先で操る同年代女子。陽気に声を上げてスマホにしゃべる十代男子。みんな誰かとつながっている。誰もが誰かに支えられている。けど、私は違う。今、何百人もの他人の群れのなかで、自分だけが孤独なのかもしれない。
顔を上げると渋谷最大級のCDショップが目に飛びこむ。ポップスの神童と謳われる新人女性アーティストの特大ポスターが何枚も連ねて貼ってある。私は眩しいものでも見るように目を細めてしまう。直後、せわしげに移動する群衆のなか、視覚の片隅で捉えたような気がした。あの人たち、を――。
「ま、まさか――」
人が行き交う横断歩道の中央で、思わず立ちすくんでしまった次の瞬間のこと。
ドゥッ。突然だ。右肩をうしろから弾かれるように激しく突かれた。
「い、痛いっ!」短く叫ぶと同時、つんのめるようにして左足が前へ出る。
「ジャマだっーの、なにこんなとこで、立ち止まってんだよ!」
背後から私にぶつかってきた金髪の若い男性が吐き捨てるように乱暴な言葉を向ける。
「ギャハッァ、超ウケるんだけど」
連れの若い女性の甲高い声が重なる。二人は笑いながらその場を去っていく。
あ――バランスを失って、うろたえたときは手遅れだった。
私は前のめりで黒いアスファルトに突っ伏すようにして崩れていた。縋るように目を動かし、あの人たちを捜すけど、数秒で数百人があっという間に人波に呑まれていくこの密集地帯で見つかるわけない。潮が引くように、人の群れが去っていくなか、冷たいアスファルトに両手をついたまま、ふいに昨夜の夢を思い出す。
アコギに合わせて家族三人で歌ったビートルズのバラード『Something』。私たちは言葉で表せない素敵な『Somethings』、〝なにか〟を淡く未来に期待し、そして信じようとしていた。そのはずだった。だけどあの真冬の朝、裏切られた。見捨てられた。
私は祝福されない子だ。それでも泳ぐ目で、私はあの人たちを捜そうとしている。もうこの世界には存在しないと諦めていながら。
「だ、大丈夫ですか?」いきなり男の人の声が上から落ちてきた。仰ぐと、グレーのスーツ姿の知らない中年男性が遠慮がちに右手を差し伸べてくる。
「ほら、立って」言いながら、男の人の手が近づく。眼鏡をかけた、四十くらいの会社員。悪い人ではなさそうだったけど、身構えて躊躇してしまう。
「危ないよ、こんなとこに座ってちゃ、だからさ、さあ、ほら」
縮こまっている私の手にその指先が迫ってくる。
「す、すみません、大丈夫ですから、ほんとに」
腕をすくめて立ち上がり、赤信号に変わったばかりの横断歩道の路面を蹴って逃げる。私は誰ともつながらない。誰にも頼らない。誰かと関わったところで、傷つくだけだから。
間もなく反対側の歩道に渡りきり、私は思い思いの方向に流れる雑踏の一片と化した。楽器店までの道のりを歩きながら考えるのは、今しがた視界に映りこんだあの人たちのこと。あれは実物なのだろうか、それとも――。思案したところで、どうしようもない。あの事件から五年も経った。私たちの『Somethings』、〝なにか〟は消えてしまった。
4
掃除と洗濯をした夕方、ベッドで休んでいるうち、いつの間にか眠っていたらしい。
横になったままスマホで時間を確認する。すでに午後十一時を回っていた。何気にカレンダーも見る。四月三十日。最後に澤さんと電話で話して、二週間以上が経過していた。
ふと気づく。今日はたしか、AFEWのデジタルEPの発売日だった。
今さらながら思い返す。修くんのマンションで二人してスタジオワークに励んで、澤さんから指示されたデモ楽曲二十曲を制作している頃は毎日が楽しかった。たまにベースを弾いてくれる澤さんとのセッションも盛り上がった。一曲一曲仕上がっていくごとに、私たちは充足感に満たされていた。それはどこか、高校一年生のときの延長線上にある、純粋に音楽を楽しむ領域に近かったからかもしれない。
だけど、そうした思い出もすべて色褪せようとしていた。
懐かしさにかられるように、普段は触らないスマホのブラウザアプリをタップする。余計な書きこみやスレッドは絶対に見ないと決め、〝AFEW〟と入力して検索してみる。
エゴサなんて五年ぶりのこと。ただちに表示される検索結果の一番上は、REMレコードのオフィシャルサイト。いったい私はなにがしたいの? どうかしてる。
それでも衝動的にスマホに触れる指の動きを止めることができなかった。
勢いでREMレコードのオフィシャルサイトを表示させ、所属アーティストのページを開いて驚く。てっきり削除されていると思っていたAFEWのページは残っていた。しかもデビューとなるデジタルEPのリリースは、中止ではなく延期と書いてある。修くんと私の写真と名前と簡単な紹介記事やジャケ写まで、何事もなかったように表示される。
しかも、さらに驚いたのは、明日から開催されるREMロックフェスの出演アーティストページもそのままだったこと。念のために開催スケジュールを見ると、当初の予定通り、Jステージのトップバッターとして登場することになっている。
きっとなにかの手違いなのだろう。澤さんに限ってそんなことあり得ないと内心で思う反面、サイトの下のほうに『※出演アーティストは予告なく変更する場合がございますのでご了承ください』という小さな文字の注意書きを見つけ、なんだと強張っていた肩の力が抜ける。
握っていたスマホをベッドに置いて、壁に立てかけてあるマーチンのアコギを手にする。
渋谷の楽器店に行って弦のセットを購入し、切れていた六本を新しく張り替えて調弦してからというもの、気が向くと時間つぶしにつま弾いている。
ビートルズの『Something』を弾き語りで歌う。かつてお父さんに教えてもらったのはビートルズの十数曲だけだったけど、コード進行は不思議なくらいはっきりと左手の五本指が覚えていた。私は音色に心を委ねるようにして英語の歌詞を口ずさむ。
しんと静まり返った部屋に充満する、孤独という空虚を少しでも埋めるために。
そのとき突然、ベッドに置いていたスマホが震える。現実に引き戻されるようにしてギターの音色を止める。画面に視線を動かすと、曜子ちゃんの名前が表示されている。
寸時、私はためらう。逃げ出すように彼女のマンションを去ってから、一度も会話していない。もちろん彼女からはその間、何十回と着信がある。でも私は電話に応じることができなかった。それでも直接話せないかわりに、あのときの謝罪と、大学をやめて故郷に戻るつもりだという文面の手紙を書いて郵送したのは十日前のことだった。曜子ちゃんなりに私の考えを理解してくれたようで、その後は電話がかかってこなかった。
それが、こんな遅くにどうしたんだろう。震えるスマホを見つめるうち、胸騒ぎがしてくる。これまで深夜に電話がかかってきたことは一度だってない。そういう部分はとても常識的な人だということを、なにより私が一番よく知っている。
もしかしたら彼女の身によからぬことが起きて、誰が知らせようとしているのかもしれない。そう思ったとたん、自然と手が動いていた。
「もしもし?」
相手はすぐに声を発しない。余計に不安をかきたてられる。
「もしもし? 雪野です。なにか、あったんですか?」
苗字で名乗り、敬語になって訊いてしまったのは、電話口で沈黙するのが曜子ちゃんではないと勘ぐってしまったから。
「――もしもし?」
くぐもった女性の声だった。
「は、はい。聞いてます」
曜子ちゃんの声のようにも感じたけど、違う気もした。スマホを持つ手に力がこもる。
「――莉子ちゃん、私」
「よ、曜子ちゃん? 曜子ちゃんなの?」
「うん」
明らかにいつもと声色が違う。普通の感じじゃない。異変が起きたことを直感する。それでも電話をかけてきたのが彼女本人であることにまず安堵する。
「よかった。曜子ちゃんになにかあったのかと思って――」
「夜分遅くにごめんね。今、話して平気?」
「あ、うん」答えながらも私は身構える。
「あのね、驚かないでね。とは言っても、無理だと思うけど」
意味深な前置きをする声がかすかに震えている。とっさに両親のことだと判断する。
諦めていても、ついにこのときが来てしまったと、心臓が早鐘を打つ。
「――生きてたの、お父さんとお母さん」
一瞬で思考を真っ白にしてしまう言葉が告げられる。想像とは真逆のことを伝えられ、落雷に打たれたような衝撃が脳天から全身へと駆けめぐる。
スマホを強く握りしめ、私は固唾を飲む。震える声で彼女はつづける。
「残業でついさっき帰宅したら、固定電話のランプが点滅していたの。普段かかってくることないから珍しいなと思いつつ再生ボタンを押したら、お父さんとお母さんからメッセージが入ってたの」
どれくらい私は沈黙していただろう。しばらく思考回路がうまく働かなかった。
「ねえ、莉子ちゃん、大丈夫?」
「え、あ、はい――――」
「だから。生きてるの」
「ほ、ほんとに?」頭のなかが混乱したまま、うまく整理がつかない。
「信じられない気持ちはわかる。私も同じだから」
「――どうして、今まで」
いまだ半信半疑だ。生きていたのなら、なぜもっと早く連絡してくれなかったのだろう。
「莉子ちゃん」あらたまった口調になって、曜子ちゃんが呼びかけてくる。
「ちゃんと生きてるけど、ちょっと複雑なの。だから、なかなか連絡できなかったみたい。これから私がわかっていることは全部話すけど、気をしっかり持って最後まで聞ける?」
私の思いを汲んだように彼女が念を押す。
「その前に、留守電に残されたメッセージを聞かせてもらえませんか?」
しばし曜子ちゃんは沈黙する。
「それは私がきちんと説明した後にしたいの」
「どうして?」
「そんなふうに莉子ちゃんのお母さんからお願いしてあったから」
つまり曜子ちゃんの最愛の姉から、そういう言づてが残されていたということだ。
「複雑って、どういう意味?」
「それはこれから順を追って話すから。少し長い話になるけど、ちゃんと聞いてね」
「――はい」
「莉子ちゃんのお父さんは、経営していた会社の役員に裏切られて莫大な借金を抱えてしまったの。借りたのは会社名義だけど、社長であるお父さんが個人保証する形になっていて、しかも銀行とかちゃんとした金融機関じゃなく、いわゆる闇金という悪いところから借金した。もちろん経営はうまくいっていたし、お金を借りる必要なんてなかった。
つまり、会社の役員が勝手に名義や印鑑や戸籍謄本を悪用していたの。一緒に会社を立ち上げた仲間だから、疑いもせず、いつも通り仕事をしていると、いきなり柄の悪い人が事務所に押しかけてきて、ものすごい額の借金を返済しろって迫ってきたそうよ。
身に覚えのないことで突っぱねようとしたけど、書類はたしかに会社名義の借用書で、個人保証として社長である自分の印鑑が押されてあった。
そのときすでに会社の役員は逃げていて、矛先はすべてお父さんと、財産がある家に向かおうとしていた。危ないと感じてすぐに弁護士に相談したけど、正規の銀行や金融機関ではない、闇金からの借り入れは法的な免除がないんだって。
しかもかなり悪い組織がからんでいたみたいで、誰も力になってくれなくて、仕方なくお母さんと逃げることにした。弁護士に頼んでただちに自宅を売却し、そのお金は家族信託でいずれ莉子ちゃんのもとに残るようにしてね。さらに、莉子ちゃんに危険が迫らないよう、大阪、名古屋へと向かう痕跡をあえて監視カメラに残した。逃げた会社役員が東京方面に向かったという情報を入手していたこともあったから。
お父さん、自分たちを追う悪い人に、だました役員を必ず捕まえて借金を返済するって気丈にも伝えてたみたい。そんなお金、返す義務なんてないのに。すべてはひとり娘の莉子ちゃんのためを思っての行動だったの。幸い、あなたは未成年で警察の目があったし、家族信託の件は弁護士のおかげで隠し通せたし、危険が迫ることはなかった。そのかわり、ご両親は今もぎりぎりの状況に置かれている」
曜子ちゃんは慎重に言葉を選んで、粛々と語り通してくれた。
「け、警察は、なんとかしてくれないの?」
「あくまで失踪者扱いだし、事件になってないから、民事には介入できないの。それにご両親が警察に駆けこめばお金の回収は絶望的になるでしょ。債権をさらに悪い連中に委ねたら、見境なく身内や親族に迫ってくる危険が残ってるの。弁護士に相談したら、そう言われたわ。だからご両親は警察に頼らないんでしょうって。あなたと私を守るために」
私はいっさいの言葉を失う。
「だから、莉子ちゃんに会いたくても会えない。万が一、スマホに連絡して痕跡を残してしまえば、ご両親もあなたも危なくなるし。それが今の現実なの」
そこまで言い終えると彼女は黙りこくる。
二十一歳の私には複雑すぎる話だった。はたして知ることで救われるのだろうか――。
両親が生きているという情報以外は、あまりに凄絶すぎて救いがなさすぎる。
「ごめん、莉子ちゃん。辛い話ばかりで」
「い、いえ、辛い話をしてもらって、ありがとうございました」
震えっぱなしの唇を動かしてなんとか言う。スマホを握りしめていた五本の指が脱力するように弱まっていく。生きていると教えられても、それくらいの絶望感にかられていた。
「まだ、これで終わりじゃないのよ」
そう言いながら曜子ちゃんは「ちょっと待って」と告げて間を置いた。
突如、留守番電話に録音されたお母さんの声が聞こえてくる。心の真芯を突き刺すように、懐かしい声色が五年ぶりに耳に届く。何度も何度も繰り返し謝るお母さんは、お父さんも元気だと話して言葉をつづける。その数秒後、私は耳を疑う。
「――明日の幕張でのロックフェス、お父さんと一緒に観に行きます。Jステージの一番手で出演ですよね。本当に今まで――」
プツンと突然、お母さんの湿った声が途切れる。
「たぶん、公衆電話のテレカか小銭がなくなったんだと思う」
抑えた声で曜子ちゃんが告げたけど、私の頭には入ってこない。それよりも今しがた聞いた最後の言葉が胸を抉るように反響しつづけている。
「――――お、お母さんたち、来るの?」
「うん。直接会えなくても、娘のあなたの歌声が生で聴けて、元気な姿を直に見ることができるでしょ。そしておそらくだけど、以前よりも状況が良くなってるんだって思うの。もちろん、私も明日朝イチの新幹線に乗って観に行くから」
当然、曜子ちゃんは知らない。私がデビューを辞退したことを。現にネットにはAFEWのライブ情報はそのまま掲載されてある。。
「会場のどこかにお父さんもお母さんもいる。そう思って、明日は歌ってあげて」
私、出演しないの、もうやめたの――言えるわけない。すると、曜子ちゃんがつづける。
「話そうかどうしようか迷ってたんだけど、やっぱり言うね、莉子ちゃん」
「――な、なに?」
「二人が生きてるのは、莉子ちゃんの歌のおかげなんだって」
「ど、どういう、意味?」
「じつは去年の終わり頃、ぎりぎりの極限だったときがあって、もう駄目だと諦めかけて、覚悟してたんだって。最後に思いついて、あなたの面影を探そうとネットで検索したら、私の苗字になっている莉子ちゃんがヒットして、動画を見つけたの。そして一生懸命、高校のときのお友だちと一緒に歌っている娘の姿を見ているうち、思いとどまれたそうよ。家族をつなぎとめたのは、莉子ちゃんの歌なの。想いが通じたのよ」
その瞬間、最後に澤さんと電話で話したときに熱を帯びた〝なにか〟が燃え上がる。
一睡もできないまま、私は朝を迎えた。
今日はREMロックフェス初日。本来なら開幕の午後二時から修くんと私のユニット、AFEWはJステージで演奏することになっている。
ひと晩中、後悔しつづけた。どうして家族を、そして自分を信じられなかったのだろう――そういう悔恨だけが押し寄せる。
スマホに触れて時刻をたしかめる。午前十時八分。あと四時間後にはライブがはじまる。さんざん悩みに悩んだあげく、意志が固まる。今ならまだ間に合うかもしれない。
諦めてはいけない。もうこの世界にはいないと思っていた両親が、私の歌で諦めることを踏みとどまれたんだ。諦めなければ可能性はゼロじゃない。
もし、この世に運命が存在するなら、運命が家族を見捨ててないのなら、今また運命に懸けてみよう。家族との運命の糸をつなげるために。
だからといって、甘えていいのだろうか。
『僕たちはぎりぎりまで待っています。それだけは心にとどめておいてもらえますか』
そう言ってくれた、澤さんの最後の言葉に。
一回、二回、三回、四回――スマホを持つ手が震えていた。
五回、六回――コール音だけが無機質に響く。澤さんは電話に出ない。
七回、八回、九回――十回、駄目だ――。
ううん、まだ。留守番電話に切り替わるまで諦めない。
神様、お願い――心のなかで祈った次の瞬間、
「もしもし?」
つながった。思わず私は固唾を飲む。
「もしもし? 雪野さんですか?」
「は、はい。雪野です」
まだそんなに経っていないのに、その声が懐かしくて、胸が締めつけられてしまう。
「どうしました?」
いつもと変わらない調子で訊かれて、とたんに気持ちが臆する。
今さら、しかも開演まで四時間足らずの状況で、こんな非常識な身勝手を言えるわけない。言ったところでどうにもならないのに。いざ電話がつながると、今しがたの決意が委縮していき、まるで言葉が出てこない。すると、信じられないことを澤さんが告げる。
「開演まであと四時間もありません」
自分の耳を疑ってしまった。さも当たり前に、何事もなかったようにつづける。
「みんな待っています」
「――み、みんなって?」
「雪野さんの仲間です。開演一時間前にはステージで最終の音合わせがはじまります」
「し、修くんが――? ど、どういう意味ですか?」
「そのままです。来ればわかります」
「あの、まだ、間に合うんですか?」信じられない思いで訊く。
「間に合うもなにも、僕らは信じていましたから。連絡を待っていたんです」
「そ、そんなことって――」
「雪野さん、自宅ですか?」
「は、はい」
「だったらアコギを持ってきてください」
「アコギを?」
「弾けるんですよね? 前に話してくれましたよね、ビートルズのこと」
「え、ええ――」
「じゃ、早く。Jステージの関係者用通用口前で待ってます」
「でも私、大勢の観客の前で歌えるかどうか、正直まったく自信がありません。また、この間みたいなことになってしまったら――」
「それなら心配いりません」私の憂慮を遮るように澤さんはきっぱりと断言する。
「だ、だって――」
「そのための、仲間です。とにかく早く。そこからだと電車でゆうに一時間半はかかります。みんな待っていますから」
そこで電話が切れる。もう私は降りたはずなのに、こんな土壇場の状況でも待っていたと澤さんは言った。しかも、「みんな」という言葉を繰り返した。さらにアコギをとか、わけがわからない。でも、行くしかない。会場には両親も曜子ちゃんも向かっている。
もしまだ運命の糸が切れてないなら、私は歌うしかないんだ。
電車での移動中、私の両膝はがくがく震えっぱなしだった。ロックフェス会場の最寄駅に近づくにつれ、胸の鼓動が激しく脈打つ。不規則に呼吸が乱れていく。
車窓から眺める空は真っ青な五月晴れだった。会場は満員なのだろう。Jステージのキャパはオールスタンディングで約三千人。『o'clock』の収容人数の十五倍以上。
駅に到着する。午後十二時二十五分。澤さんが指定した開演の一時間前まで残り三十五分しかない。駅構内から会場までつづく長い通路をひた走る。開場待ちのため、早めに現地へ向かう観客も大勢いる。私はアコギを入れたケースを背負って、人と人の隙間を縫うように駆けていく。背格好がそれらしい、四十代くらいの男女の後ろ姿を見つけては心臓が高鳴り、振り返っては失望してを繰り返し、それでも前へと進む。
汗だくで人があふれる通路を駆けた先、ロックフェスの会場に到着した。五つに分かれたステージごとに専用エントランスがある。
私はJステージのエントランスの正面に立って、関係者用通用口を目で探す。
「雪野さん、雪野さん!」
目ざとく澤さんが私を発見してくれた。雑踏の右斜め向こうの壁際で長い手を振って、名前を呼びつづけている。すぐさま私は駆け寄っていく。
「なんとか間に合いましたね」
額に汗を浮かべて、やや上気した顔で言う。
こみ上げるものがあって私はまともな挨拶すらできず、ただ息を切らせた呼吸を整える。
「さあ、行きましょう」
いざなうように右手を掲げてネックホルダーに入った出演者用のバックステージパスを警備員に見せ、別の赤いほうを私の首にさりげなくかけてくれる。
「ちょうどAFEWの音合わせがステージではじまるところです。もっとも、雪野さんがこの段階で現れなかったら、即刻中止になっていましたけど」
小走りで進みながら顔を動かして苦笑いする。懐かしいその口調も表情も穏やかだったけど、きっと大変な賭けをしてくれていたのだとわかる。
「本当にすみません。でも、なぜ、こんな私を信じて、こうまでしてくださるんですか?」
「僕が求めていた、ずっと演りたかった音楽を、あなたの歌声なら実現できるからです」
早足で進みながら、澤さんはまっすぐ前を向いてつづける。
「それなりに才能があっても本当に好きな音楽ができるアーティストはめったにいません。売れるため、数字のためだけに、音楽というショービズは動いています。いわば、お金を追いつづける巨大なモンスターです。そんなモンスターに支配管理される厳しい世界で、わずかな確率ですけど、自由に羽ばたけるアーティストがいます。モンスターですら手が出せない天性の才能を持つスターが。ショービズに関わる人間なら、誰もがスターの姿を追い求めます。スターを見い出し、ともに開花し、はるか高みを目指していくことは夢のまた夢です。なぜなら、前にも言いましたが、音楽は芸術だからです。雪野さんの歌ならそれが可能です。必ずや万人からの祝福を受け、自由に飛んでいけるはずです」
と、彼の歩調が緩まる。私たちはバックステージのすぐ近くまで来ていた。
「着きました。僕の与太話はこのへんにしておきましょう」
舞台袖に立ち、彼は顎でステージの先を指す。
「あいつは、そしてみんなも、今日のデビューライブに絶対戻ってくると信じていました。僕と同じで。だから最後の最後まで待つことができたんです」
ステージ上で音合わせの準備をしている人たちを見た瞬間、棒立ちのまま動けなくなる。
「な、なんで――?」
キーボードとコンピュータがセッティングされた定位置に修くんがいる。さらに私が驚いたのは、彼から少し離れた位置でエレキギターを肩にかけた秋山さんがいたこと。
しかも、その左サイドのマイクスタンドの前にはドレス姿の咲南ちゃんまで立っている。
「あなたの歌声に懸けてみたくて自然に集まったんです。僕も音楽人生を懸けてみました。僕はモンスターに勝てなかったから。今度こそ一緒に勝ちましょう」
先にステージへと上がる澤さんに促され、おずおずついていく。
私の登場に、「莉子ちゃん!」と修くんが叫び、「やっほー」と咲南ちゃんが手を振り、そして秋山さんがニヤッと笑う。それがどういう意味かわからないわけない。さらに私の目が点になったのは、目の前の澤さんがスタンドに立てかけてあったエレキベースを手にしたから。そしてズンズンズンッと重低音のベースラインを試し弾きして、表情を崩す。
「も、もしかして、澤さんも?」
彼は肯き、「これがラストです。うまく弾ければいいんですけど」と照れ笑いする。
直後、ステージ上の秋山さんが私に近寄って口を開く。
「俺がリードギター、咲南がコーラス、澤がベース、修はいつも通りキーボードとコンピュータだ。今日のライブは全員で君のバックを支える。この二週間、みっちりリハを積んだから仕上がりは完璧だ。もう観客が恐いなんて言わせない。ここにいるみんなが君と同じ場所に立って、君のために演奏する。もし心が負けそうになったら、すぐ隣を見ればいい。澤も修も咲南も俺もいる。君はひとりじゃない。まあ、バンド編成なんて俺的には今っぽくないけどな。これはメジャーデビューを記念する全員からのはなむけだ。今度こそおそれることなく、はるか高みを目指して羽ばたくんだぞ」
どうして最後の会話で、澤さんがこの人の話をしたのか、やっとわかった。
『お前はいつも見えない敵と闘っている。けど、本当の敵は自分自身じゃないのか? お前は自分に負けたんだよ』
秋山さんが澤さんに告げたあの言葉は、私へのメッセージだったんだ。
そしてこの人は、すごく理解するのが困難だけど、ただただ音楽の力を信じている。
ここぞというときには打算も計算もなく、純粋に応援してくれると言っていた澤さんの言葉の意味も納得できた。だから秋山さんのなかの〝なにか〟には正も負も、善も悪も存在しない。とにかく理想の音楽を実現するため、あらゆる努力と挑戦を惜しまない信念がある。どんな犠牲を払おうとも。
音楽が大好きな咲南ちゃんや澤さんがこの人を憎むことができないばかりか、惹かれてしまうのは、そういうことなんだ。修くんですら、そんな悪い奴じゃないと言っていた。
そして秋山さんは外苑のカフェで会ったとき、消えかけていた私の〝なにか〟に火を灯してくれた。希望を澤さんへとつなげるために。だから私の前に現れた。
二人は私のことを一番に考えてくれているから、壁をぶち破るたったひとつの方法に向き合ってほしかったんだ。
私は〝なにか〟と闘って打ち勝つ必要があった。そう、自分自身にも。
「セットリストはEPの曲順で通します。そしてアンコールでラストナンバーです」
澤さんがつづけた言葉に、思わず私は訊く。
「ラストナンバーって、もうレパートリーはありませんけど」
「ビートルズの〝Something〟。雪野さんの思い出の歌です」
「ど、どうして?」誰にでもなく声が漏れる。すぐに咲南ちゃんが引き継ぐ。
「屋上トリオで音楽室に潜入して、私らで演奏してると泣き叫んだじゃない。大好きな曲だけど、もう歌えないって。私らも大好きな曲だからよく覚えてるの。あのときのことは」
今度は修くんだ。「今日なら歌える。みんなで演れば絶対に。イントロの出だしは、莉子ちゃんのアコギ一本から入るから。五小節目で僕がピアノを重ねていくね」
なにもかもを理解している表情で、澤さんが私に顔を向けて微笑む。
「では、はじめましょう。あと五十分で開場です。リハの持ち時間はそれほどありません」
彼のその声で、全員が持ち場に立ってスタンバイに入る。
私は家族から受け継いだアコギをすぐそばのギタースタンドに立てかける。
そうしてまだ誰ひとりとして観客のいない会場を見渡し、自分に言い聞かせる。
もうすぐここに三千人もの人波ができる。そのなかには、お父さんもお母さんも、曜子ちゃんも含まれるんだ。そして今、私が立つこの場所にはみんながいる。もうひとりじゃない。だからおそろしくない。私たちはみんな、音楽でつながっているから。
*
超満員の観客席から大歓声と拍手が渦になって轟く。
「す、すごい――」
EPのラスト曲を歌い終えた直後、あまりの反響に私はステージ上で感嘆する。REMというメジャー看板のロックフェスの影響力は凄まじいと思い知る。
圧倒的な観客のパワーに負けることも恐怖心が芽生えることもなかったのは、同じステージに立つ仲間たちの存在にほかならない。数えきれないくらいのスマホを向けられても、ひるむことなく私は歌いつづけることができた。
五月晴れの空の下、鳴りやまない拍手を浴び、棒立ちになって信じられない光景を見ていると、今日はベーシストでもある澤さんがそっと近づいてくる。
「SNSでリアルタイム展開しているライブ配信の視聴者数が、この時点で四万人を突破したそうです。うちの新人のデビューライブでは異例の数字を記録しました」
やや興奮気味の面持ちで澤さんは私に耳打ちする。
秋山さんはクールな表情でエレキギターの弦をチューニングしている。咲南ちゃんは吹っ切れたみたいに観客席に両手を振っている。修くんは信じられないといった顔で観客の反応に呆然としている。どういう経緯で実現したかはわからないけど、こんな短期間で私たちのユニットサウンドを見事にバンドサウンドへとアレンジしたセンスと演奏力に言葉が出ない。みんな、最高だ。
「次はラストです。大丈夫ですか?」
観客席からの圧倒的なプレッシャーを気にして澤さんが訊いてくる。
私は肯くと、スタンドに立てかけてあるアコギのネックを握ってストラップを肩に回す。そのワンアクションだけで会場が湧く。
マイクスタンドに歩み寄って口を開く。
「こ、こんにちは、AFEWの莉子です」
目の前の三千人の人波がざわざわと揺れる。否応なく、気持ちが昂ぶる。
しばし瞼を閉じる。現実から逃げるためじゃない。綴る言葉に全神経を集中したかった。
「今日は本当にありがとうございます。こんなにもたくさん集まってくださって」
ステージの中央で私は深々と頭を下げる。ぱちぱちと拍手が鳴って重なる。
「あ、あの、少しだけ、話す時間をいただいていいでしょうか?」
声が震えているのがわかった。こんな大勢の人の前でしゃべるのは生まれて初めてだ。
「いいよー」「サイコー」「いけいけー」「オッケー」「話してー」「リコ、大好きー」
男女からのいろんな反応が返ってくる。
声援に押されるように私は瞼を開け、右手でマイクスタンドを強く握りしめてつづける。
「じつは、ここまでの道のりは、とても長くて、そして、とてつもなく困難でした――」
視界の片隅で修くんと咲南ちゃんが見つめているのがわかる。
「ネットで私の名前を調べると、おそらくまだ、昔の書きこみがいっぱい出てくると思います。知っている人は知っている話ですけど、私は中三の真冬に家族を失いました――」
賑やかに華やいでいた会場がしんと静かになっていく。
「そのことですごく辛い思いをして、中学に通えなくなって、高校も途中でリタイアして登校できなくなって引きこもったまま、通信制でなんとか卒業できたんです」
意識がぶれないよう、ふたたび瞼を閉じる。乾いた初夏の風が頬を触り、吹き抜ける。
「身に覚えのないひどいことをたくさん書きこまれて、ネット恐怖症になって、今もネットを見るのが恐いです。そんな私ですから、人と接することもおそろしくて、ましてや人前で歌うなんて絶対に無理でした。実際、AFEWのプレデビューライブが去年の十二月に行われましたが、一曲目が終わったところでダウンして、中止になってしまいました。私は致命的なミスを犯し、ずっとサポートしてくれていた仲間の人たちを本当に深く傷つけてしまったんです」
観客席は水を打ったように静まり返った。
「もう歌なんてやめようって諦めました。仲間に迷惑をかけるだけだし、人前で歌えないボーカルなんて聞いたことありませんし」
本心をさらけ出す。大きく息を吐き、そして吸い、私は正直な気持ちを声にする。
「だけど、みんなが根気強く、辛抱強く、こんな弱虫な私をずっと支えてくれました。今、一緒にステージに立っている、修くん、咲南ちゃん、秋山さん、澤さん――そしてこの会場のどこかで観てくれている曜子ちゃん。みんなの温かさで歌いつづけることができたんです。本当にありがとうございます」
一拍遅れて、拍手と歓声が観客席から鳴り響いていく。
直後、〝なにか〟に導かれるように、私は顔を上げて、両目を見開いて会場を見渡す。
眩しい陽光にかざされた人の波に、不思議なほど恐怖は感じない。
「そしてもちろん、今、この場にいてくださるみなさんのおかげで、私たちはここに立てています。本当に感謝していますし、感動しています。こんな私に、こんなにも素晴らしいチャンスを与えてくださったことに」
会場のボルテージが上がっていく。ふたたび歓声が轟いていく。
いつの間にか私は、人波のただ一点にだけ目を定めていた。そして静かにつづける。
「最後の曲を歌います。デビューEPには入っていないカヴァー曲です。この歌には、私の一番大切な二人との幸せな時間がたくさんたくさん詰まっています。もう一度、あの頃のように、言葉では表せない素敵な〝なにか〟を、一緒に信じられるときがくることを願っています。そういう祈りをこめて歌います。聴いてください。ビートルズの『Something』」
もう、心は凪いでいた。瞳の奥で情景が蘇る。
私はアコギを指先で奏でる。目は一点に止まったまま、揺るぐことはない。
次の一瞬、見えるはずないのに、はっきりとわかった。
大勢の人波のなか、はるか遠くのその場所に、お父さんとお母さんが立っている。
絶対に見間違うわけない。私には自信がある。
今なら自らを信じられる。私たちは生きている。生きていける。これからもずっと。
〝なにか〟は自分の鏡だから。
ならば、私は〝なにか〟も、なにもかもを背負い、受け入れよう。
そう誓った瞬間、あの真冬の朝に失われたはずの〝なにか〟がふたたび胎動する。熱く、柔らかに、強く、優しげに、誇らしく、自らの心を包みこむように。
その感触は、遠い昔に私たち家族が淡く未来を期待し、そして信じようとしていた、言葉では表せない素敵な『Something』、〝なにか〟を感じさせてくれた。
*終章へつづきます
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