ケモノグルイ【改稿版】

風炉の丘

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【3】アイ、エニシ、ワカレ

3-4 魅了の少女

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 ケモノのように大きな耳と、モフモフの尻尾。それがケモノビトの大きな特長なのだそうだ。
 長いスカートのせいで尻尾は確認出来ないが、少女の耳は確かにエルフより大きかった。
 だが、それだけだ。
 希少価値なら確かにあるだろう。人食いの"オーガ"共が特別なディナーとして欲しがるのは分かる。
 それだけだ。ただ希少価値があるだけ。それ以外はただの女の子に過ぎない。
 なのに何故、ジェイクとキュベリは心を狂わされた?
 分からない…。
 2人に何があった? どういうカラクリだ?
「おじさん……」
 長い沈黙に耐えられなかったか、少女が口を開いた。
「なんだい、お嬢ちゃん……」
 ザックは感情を押し殺し、静かに答える。
 すると少女は、戸惑いながらもザックに問いかけた。

「おじさんも、"にぃに"……なの?」

 その瞬間だった。
 凄まじい勢いで、心の中に何かが侵食を始めたのだ。
 ザックの心が優しさに包まれてゆく。慈愛に溢れてゆく。暖かい光が心の闇を消してゆく。
 これはっ? これがっ! これこそがっ!?
 真実の愛っ!?
 少女が助けを求めてる! 手を差し伸べ救わねばっ!
 少女が危機に陥っている! この身に代えても守らねばばっ!
 少女が"にぃに"を欲している! ならば"にぃに"にならねばっ!
 ああっ、"にぃに"と名乗りたい! "にぃに"となって少女を安心させたい! そして少女を独占したい! たった独りの"にぃに"になりたい!。誰にも渡すものかっ! オレがっ! オレだけがっ!! この子の"にぃに"だっ!!
 ……………。
 いや………。違う…………。そうじゃない…………。
 俺はダメだ。俺じゃダメだ。この血まみれの両腕で、この子の手を握るわけにはいかない。"にぃに"になる資格なんて、これっぽっちも……無い。
 そう思った瞬間、ザックは我に返った。

「い……今のは……いったい……」
 辺りを見回すが誰もいない。ただ少女の瞳がザックを見つめるのみ。ザックはやっと気付いた。
 これは、呪いなんかじゃない。この子の能力だ。
 恐らくは"魅了"。対象の心を引きつけ、夢中にさせる。それ自体は誰でも持ちうる能力だが、力が強ければ、人を自在に操る事だって出来るという。
 "魅了"を武器にする殺し屋の噂なら、ザックは聞いた事がある。名前は"チャームアサシン"。赤の他人を暗殺者に仕立て上げたり、時には直接支配して自害を促す。決して己の手は汚さない、最低最悪の殺し屋だ。

 まさか……
 目の前の少女が……
 十歳にも満たない子供が……
 "チャームアサシン"……なのか?

 ふっ。まったく……オレも焼きが回ったぜ。
 ザックは心の中で悪態をついた。
 目の前の少女が、"チャームアサシン"である可能性は確かにあるだろう。
 だからなんだというのだ。正体が何であろうと意味は無い。どのみち殺すのだ。この少女を。
 だが、少女が"チャームアサシン"なら、ジェイクとキュベリの敵討ちになる。
 何も知らない幼い少女を殺すよりは、心が痛まない。
 つまりザックは、少女を"チャームアサシン"と疑うことで、良心の呵責から逃げだそうとしていたのだ。
 なんて情けない男だと、ザックは己を恥じた。
 呪いが解けたザックは、もはやサイコパスではない。だからと言って今さら善人には戻れない。
 殺した人々が生き返るわけではないのだ。
 罪から逃げるな。心に刻め。永遠に背負っていけ。それが己の十字架だ!

 怯えながら見つめるケモノビトの少女に、ザックは答えた。
「いや……おじさんは殺し屋さ」
「コロシヤ……さん?」
「ああ…。薄汚い、ただの殺し屋だよ」
 少女は"殺し屋"の意味が分からないようで、戸惑いながら再度問いかけてくる。
「おじさんは、"にぃに"じゃないの?」
「ああ、違うよ。俺は"にぃに"じゃない」
「よかった…。だったらおじさんは死なないね」
 そう言うと少女は、緊張の糸が切れたかのように泣き出した。
 よかった? 死なない? どういうことだ? 困惑するザックに応えるように、泣き止んだ少女が話し始める。
「みんな…死んじゃうの。モナカの"にぃに"になってくれる人は、みんな死んじゃうの! ねえおじさん、白いおひげの"にぃに"はどうして戻って来てくれないの? やっぱり死んじゃったんでしょ?」
 白い髭……恐らくはジェイクの事だろう。ザックは無言でうなずく。
「やっぱりそうなんだ……。どうしてモナカに優しくしてくれる人は、みんな死んじゃうの? モナカがいけないの? モナカは森から出てはいけなかったの? もうイヤだ。イヤだよぉ…」
 そこまで言うと、少女は再び泣き出した。
 今の話でザックは大体理解した。この子は"魅了"の力を持っているが、力が制御出来ていないのだ。そして"にぃに"は、この少女にとって絶対的な保護者。もしくは窮地を救ってくれるヒーローなのだ。
 人狩りに誘拐され、奴隷商人に売り渡される中、少女は怯える余り助けを求めた。無自覚に"魅了"を使い、自分だけの"にぃに"が生まれた。だが"にぃに"の救出作戦はすぐに露呈し、裏切り者として始末される。しかし少女が怯える限り"魅了"の暴走は止まらない。辺り構わず"魅了"を使うことで、次々と"にぃに"が量産されたのだ。
 恐ろしい力だ。しかし、ジェイクは少女を守る事に救いを見出していた、"魅了"の力は、人を殺しもするが救いもする、諸刃の剣なのかもしれない。
 だが、少女の可能性ある未来は、オーガに目を付けられた時点で詰んでいた。
 ザックに出来ることはただひとつ。少女を苦しまないように殺すことだけだ。泣きじゃくっている今がチャンスだ。左手に隠したダーツを、その針を、華奢な腕に刺せば、少女の苦しみも終わる。
 迷うな。躊躇うな。他に手段はない。………くそ。何故できない!?
「コロシヤさん…。どうして…泣いているの?」
 慌てて左手を背後に回す。気がつけば、少女はザックを見つめていた。そしてザックは自分の頬を涙が流れ落ちている事にやっと気付いた。
「ああ。俺の兄貴……俺の"にぃに"も、死んじまったのさ」
「そうなんだ……。悲しいよね……。寂しいよね……」
 そう言うと、少女はザックの右手をギュッと握り、静かに泣いた。
 ジェイクのために、そしてザックのために、泣いてくれたこの少女を……俺は……俺は………殺すしか無いのか……
 ザックは少女が天国に行くことを一心に願いながら、ダーツを持つ左腕を振り上げ……
 振り下ろし………

「コロシヤさん!!」
 少女の悲鳴にも似た叫び声で、ザックは意識を取り戻す。
 気がつけば、ザックの体は右側の壁にへばりついていた。
 体中がバラバラになったかのように痛む。得に酷いのは左腕で、二の腕が砕けて動かない。左肺もあばらごと潰れているようだった。
 何が起きた? 一体何が…… 必死に少女の声がする方向に目を向ける。
 少女の腕を掴む大男がいた。
 ぼろ服を着た大男は、気まずそうに倒れたザックを見下ろしていた。その上半身は異様に膨れあがり、紫に変色している。頭にはツノがあった。一目で人間でないと分かる。
 こいつがボスが先祖代々使役する妖魔。こいつがキュベリのチームの監視役。こいつが… こいつが…
「すんまへん。ザックさんに恨みはないんです」
 マンモスだった。
 どんなに姿を変えようとも、その人の良さそうな目を見違えるはずがない。
「て…めぇ……」
「すんまへん。ほんますんまへん。こうするしかなかったんですわ。どうか堪忍してください」
 妖魔と化したマンモスは、左腕を振り上げると、その拳を躊躇無く、ザックの頭に振り下ろした。

 ザックが死に間際に聞いたのは……少女の悲鳴。
 そして、己の頭蓋骨が砕ける音だった。
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