ケモノグルイ【改稿版】

風炉の丘

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【2】ナラクニマヨイテ

2-4 最下の大広間

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 トンネルの最下まで降ると、突き当たりに観音開きの扉が現れる。
 扉の先に広がるのは、かつて女王アリの住まいだった大広間だ。
 しかし最後の扉を前にして、ザックは躊躇していた。扉を開けようとすると手が震えるのだ。
「参ったねこりゃ。アル中になった覚えなんて無いんだが……」
 ザックは怖じ気づいていた。
 ダンジョンの最終決戦場を彷彿とさせるが、待ち受けるラスボスは、女王アリでも古のドラゴンでもない。
 ファミリーのナンバー2だ。ザックの尊敬する兄貴分で、ナイフの師匠。とても恐ろしい男だ。
 だが、ザックが真に恐れるのはジェイクではなかった。ジェイクと共に待ち受ける、得体の知れない"何か"だ。
 中に入れば、きっともう戻れない。ザックが大切にしていた"何か"が壊れてしまう。
「得体の知れない"何か"と、大切な"何か"か……。“何か”って一体何だよ。訳が分からんぜ」
 このままモヤモヤしたままではいられない。そもそもザックに選択肢は無い。
 ジェイクを説得し、"商品"を取り戻さなければ、ファミリーが終わる。大切な仲間や居場所が無くなる。進むしかないのだ。
 意を決したザックは、ゆっくりと扉を開けた。

 大広間は地下とは思えぬほど広かった。ちゃんと舗装すれば舞踏会だって開けそうだ。
 ここの天井にはランタンは吊されていない。無造作に生えた水晶の結晶体がボンヤリと輝き、照明の役割を果たしていた。
 大広間の奧を見れば、人影が確認出来る。口ひげを蓄えた白髪の紳士。間違いない。ジェイクだった。
 ジェイクは眺めていた懐中時計を懐にしまいながら、ザックに話しかける。
「想定していた時間より、30分遅かったな」
「そりゃすまねぇ。遅刻しちまったか?」
「かまわないよ。許容範囲内だ」
「食堂でちょうど良い手提げカバンを見つけたからよ。引き返して"お宝"を全部回収してきたのさ」
 そう言いながら、ザックは左手に持ったカバンを見せる。
「そいつはありがたい。助かったよザック。手間が省けた…ぜっ!」
 突然、ジェイクが目の前に現れ、振り上げたナイフをザックの胸元めがけて突き下ろす。
 ザックは咄嗟に両腕でガードする。切っ先がザックの左腕に突き刺ささり、次の瞬間、目の前のジェイクは消えていた。
 今のはなんだ? 瞬間移動? 実体のある残像? 分身の術か?
「これはなザック、他人が見ればただのガラクタだが、私にとってはかけがえのない宝物なのさ」
 声を辿ると、さっきと同じ大広間の奧にジェイクはいた。右手にはナイフを持ち、左手には手提げカバンを持っている。
 ザックは驚いて左手を見ると、持っていたはずのカバンが消えていた。しかもナイフで切り裂かれて袖が台無しだ。腕に仕込んでいたナイフがガントレットの代わりをしてなければ、左腕を失っていたかもしれない。
「相変わらず得体が知れねぇな、兄貴の技はよ」
「なに、所詮は小手先の技さ。渾身の一撃だったのだが、こうも簡単にあしらわれるとは……。流石だよザック」
「へへっ、嬉しいね。兄貴に褒められるなんざ、何年ぶりかね」
「さて、正攻法では到底無理として、不意打ちでも勝てないとなると、どうしたものかな……」
「おいおい、待ってくれよ。オレは兄貴と戦う気なんて更々ないぜ」
「なんだ? 私を殺しに来たのでは無いのか? では聞こう。ザック、お前は何をしに来たのだね」
「オレは……オレは……あれ?」

 オレは……何しに来たんだっけ?
 オレが…来た理由……それは……オレは……

 アハハッ♪
     ウフフッ♪
          ヘヘヘッ♪

 また子供達の笑い声だ。気のせいじゃない。いるはずのない者の声が、ザックには確かに聞こえた。
 暖かくて懐かしい、身に覚えのない記憶が。思い……思い出せ……ダメだ。思い出せない。
 あともう少しだったのに、真っ白な霧が何もかも覆い隠してしまった。

「…ザック! おい、ザック!」
 ジェイクの呼びかけに気付いたザックは、一気に現実へと引き戻される。
「ザック、いきなりどうした。立ちながら眠るなんて器用すぎないか?」
「済まねぇ兄貴。ちょいと疲れが出ちまったようだ。ちょいと休ませてくれ」
「ああ、かまわんよ。私もひと息つかせてもらおう」
「それで……なんだったか……ああ、そうか。オレが何しに来たかだったな。驚かないでくれよ。なんと説得だ」
「殺し屋のお前が、説得だって?」
「ああ。笑ってくれていいぜ。キュベリにも呆れられたくらいだからな」
「一体全体、誰がそんな無茶をお前にさせようって言うんだ?」
「そりゃもちろん、ボスさ。呼び出されて直接頼まれた」
「あの、タヌキ親父にか」
「実際、兄貴と差しで話せるのはオレくらいだろうし、ファミリーの危機だと言われれば、断れないだろ?」
「分かった。そう言うことなら話を聞こうじゃないか。私を説得してみろ、ザックよ」
「ありがたい。助かるぜ兄貴」
 ザックはホッと胸をなで下ろす。どうすればジェイクを説得できるか皆目検討も付かないが、聞く耳を持ってくれるなら希望はある。話術も詐術も交渉術もないザックに出来ることと言えば、愚直に訴えるのみ。すなわち"当たって砕けろ!"だ。
「おおっと待った! そこでストップだザック! それ以上近づくなら話はここで終わりだ! 全力で抵抗させてもらうぞ!」
 突然ジェイクに制され、ザックは困惑する。たった一歩歩み寄っただけなのだ。
「一体、どういうことだい。兄貴」
「ほう、シラを切るのか? それとも覚えてないのか?」
 そう言いながらジェイクは左腕を掲げる。赤く染まった袖には刺し傷があった。
 驚いたザックは右腕を見ながら「出ろ」と念じる。すると袖口から仕込みナイフがジャキンと飛び出した。刃を確かめると、先端に液体が付いている。切っ先を拭ってみれば、布巾は赤く染まっていく。
「こ…これは兄貴が悪いぜ。いきなり不意打ちなんて喰らわされりゃ、とっさに反撃だってしちまうさ」
「なるほど。つまりこの傷は自業自得という事か。いいだろう。そう言うことにしておく。しかしなザック。お前の射程距離の中にいては、生きた心地がしないのだよ」
「分かったよ。オレはこの扉から動かねぇ。兄貴が良いというまで近づかねぇ。これでいいか?」
「いいだろう」
 ザックが「戻れ」と念じると、右腕の仕込みナイフはシャキンと袖口の中へ消えた。
 両腕に収納している仕込みナイフは、ザックの意志に感応し、自在に出し入れできるようになっている。
 本来なら念じてもいないのに仕込みナイフが飛び出すはずはないが、不意打ちを食らったせいで防衛本能に感応したのだろう。
 きっとそうだ。そうに違いない。
 そうだ。そうなのだ。絶対あり得ない。
 無意識に兄貴を殺そうとしたなんて。そんな事、あってはならないんだ!
 自分自身にそう言い聞かせ、ザックは湧き上がる不安を無理矢理押さえ込んだ。
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