9 / 22
第2章 いろどり
第9話 知多半島
しおりを挟む
見渡す限りの蒼い海。水平線にへばりつくような淡く白い雲が遠景を彩る。俺は駆け出そうとする明日人を制して、抱き上げた。
「ヨシダ! でかいね、うみ!」
「綺麗だなぁ。ふわぁあ」
眠すぎて今日何百回目かの欠伸をする。缶コーヒーを2本持った本間さんがゆっくりと歩いてくる。彼女も何度か目をキュッと瞑り、眠気を追い出そうとしている。
「ほら、お疲れさん」
「途中まで寝させてもらいましたから、なんとか走れましたよ。思ったより時間かかりましたね」
「吉田はちゃんと速度、守ってたからな」
本間さんが笑う。明日人に勝手に走って行かないよう言いつけて、海を眺めながら温い缶コーヒーを飲む。秋の潮風は少しだけ肌寒く、眠い目に乾きをもたらしてくる。
俺たちは愛知県の知多半島にいた。
一昨日の夜、西山くんからのメッセージで、栗谷さんがUnsigned Brightの前ボーカル、濱田さんの実家に行っていることを知った。西山くんは夜勤中だったから、翌日、金曜日の昼にメッセージアプリで詳しいことを尋ねた。返信は夕方だったが、濱田さんが交通事故に遭って、見舞いのために知多半島に行ったということだった。
『もうあいつら別れたはずなのに、なんでわざわざ見舞いなんて行くんだろ』
最後にそのメッセージを送りつけられ、夜のコンビニのカウント仕事終わりの明け方、本間さんにその話をしたら、彼女はこう言い放った。
「じゃあ、私たちも行くか。片道4、5時間もあればいけるだろ。1泊2日の旅行だ。ちょっと待っててな」
そう言って本間さんは車の外に出て、多分会社に電話したのだろう。しばらく小声で喋っていたが、突然、明け方の街に大きく響く声で「たまには有休使わせろ!」と叫んだ。スッキリした顔で車内に戻ると、笑顔で言った。
「吉田、このまま会社に戻らずに明日人を拾って行くぞ。着替えはウチに男物の服があるから貸すよ」
「俺、日雇いのバイト入れてるんですけど……」
「バイトと彼女、どっちが大事なんだ?」
俺は本間さんをしっかりと見て答えた。
「栗谷さんです」
「よし、それでいい。お前はそれでいいんだよ」
本間さんのマンションで服を着替え、眠っていた明日人を連れ出し、高速に乗った。最初は本間さんが運転して、俺は後部座席で明日人と一緒に仮眠を取った。静岡に入ったあたりで運転を交代して、ナビを使ってもいまいち降りるところが分からずに名古屋で高速を降り、あとは一般道を進んで来た。
「そのボーカルだった子の実家は近いのか?」
「西山くんが教えてくれた住所で合ってるなら、あと10分くらいで着きますね」
「そっか。腹、減らないか」
「ママ、おなかすいた」
「朝、コンビニのおにぎり食べただけでしたね。近くで飯、食べてから行きましょうか」
本間親子が沸き立つ。
けっこう有名らしい食堂に入る。俺は名物のエビフライ定食を頼み、本間さんは海鮮丼、明日人はうどんを食べた。食堂の大きな窓の向こうで、たくさんの鳥が海へと飛び立って行く。その光景を眺め、明日人が感嘆の声をあげていた。本間さんが、あの子を旅行に連れてくるのは初めてと言って、楽しそうな顔をしていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
食事が終わり、車を走らせて西山くんに教えられた住所へ向かっていると、歩道をゆく栗谷さんの姿を見つけた。俺は車を道路脇に停め、運転席を降りた。
「あれ、吉田くん。なんでここにいるの?」
栗谷さんは両手に買い物袋を下げていた。俺の姿を見て不思議そうに首を傾げる。
「西山くんから、栗谷さんが多分ここにいるって聞いて、……なんかよく分からないけど俺も今、ここにいる」
彼女は吹き出して、大笑いする。その様子を見ていた本間さんが栗谷さんに詰め寄る。
「吉田は君のことが心配で、ここまで車を走らせて来たんだぞ。笑うことないじゃないか」
「あ、すいません。……吉田くん、この方は?」
「前に話した、俺の夜のカウント仕事の上司。本間さん、そんなに深刻な状況でもないと思うんで、追い詰めないでください」
「すまん、寝不足で気が立ってるんだ。栗谷さん、悪かったな。いきなり怒ったりして」
栗谷さんは本間さんに微笑みかけ、明るい声で返す。
「大丈夫です。吉田くんは愛されてるなぁ」
栗谷さんはちょうど濱田さんの代わりの買い物から帰るところだったと言うので、車で送ることにした。後部座席に座り、明日人を見つけると、すぐに仲良く喋り始めた。ふと気付いたように俺に問う。
「もしかして、大学祭の時に吉田くんと一緒にいた子?」
「そうだよ。よく覚えてたなー。結構離れたとこから見てたのに。あ、おんぶしてた時にも見てるか」
「だって、……ううん、なんでもない」
「ねえ、おねえちゃん、歌がうまい人?」
「上手いのかなぁ。自分じゃ分かんないや」
めちゃくちゃ上手いと思うけど、栗谷さんは自信が無いんだろうな。もしかすると、バンドを辞めようと思ってるのかもしれない。ここに来たのはなんでだろうか。訊きたいけど、少し怖い。俺の何かが剥がれて落ちていくかもしれない恐怖で、理由を尋ねられず、そのまま車を走らせた。
濱田さんの実家の酒屋の駐車場に車を停めた。西山くんは古い建物って教えてくれたけど、壁を塗り替えたのか、瀟洒な佇まいだ。酒屋の入り口ではなく、裏手のドアを開けて、栗谷さんは家に入る。
「ただいまー。濱田くん、頼まれたの買ってきたよ」
「ありがとう。悪かったな、首が痛いだけなのに。……その人たちは?」
ドレッドヘアーで端正な顔立ちの男の子がこちらを見て、珍客の襲来に驚いた顔をする。
「この人がさっき話した吉田くん。と、うーん。友人? の本間さんと息子の明日人くん」
「ああ、ほまれの彼氏か。初めまして、濱田です」
「初めまして。突然、すいません。もう少ししたら帰りますから」
「えっ、上がってってくださいよ。おれ、吉田さんと話がしたいです」
何の話をしたいのだろうか、と考えていると、明日人がもう上がり込んでいた。辺りをキョロキョロと見回し、古い振り子時計に興味を示した。栗谷さんが明日人を抱え上げ、近くで時計を見せている。
「吉田、とりあえず上がろうか」
本間さんに続き、俺も土間に脱いだ靴を置いて、濱田さんの家に上がる。広い和室に通され、座布団の上に座ると、一気に疲れが出てきたのか、机に肘を置いて、首を預けて目を閉じた。
目を開けると、和室の隅で分厚いタオルケットを掛けられ、横になっていた。どうやら本格的に寝入ってしまっていたようだ。体を起こすと、談笑していた栗谷さんと本間さんがこちらを向いた。
「よう寝坊助。もう夕方だぞ」
「吉田くん、もうすぐご飯だけど、食べれそう?」
「食べれる……よ。トイレってどこかな」
「ここ出て、突き当たり。フラフラしてるけど、気を付けてね」
俺はぼやける目を擦りながら、トイレへ向かう。用を足していると、ギターの弦を弾く音が聞こえた。手を洗って、音のする方を見る。窓の向こうに、倒木の上でアコースティックギターを弾く濱田さんの姿を見つけた。土間に降りて靴を履き、静かに近付いていく。
これは『奏』か。
ギターは多分、原曲にさらに色を添えて、濱田さんらしく弾いているような感じがする。単純なコピーじゃなくて、自分の気持ちを込めている風に聴こえる。俺はポケットに手を突っ込んだまま、しばらく目を瞑り、そのメロディーに身を委ねた。
小さな声で歌っているが、ところどころ掠れて、高音のところは声を出すのを諦めていた。俺が聴いているのに気付いた濱田さんは微笑み、最後まで弾き切った。弦の揺れが収まると、辺りは夕闇と静寂に包まれた。
「声がね、全然出ないんですよ」
「聞いてます。手術したんですよね」
「生き残るために、生き甲斐を失ったんです」
俺は濱田さんの横に座る。木の皮がくしゃっという音を立てた。
「俺は門外漢だけど、歌えなくても裏方の仕事とかじゃダメなんですか? 作曲とか作詞も出来るんですよね。CD、すごく良かったですよ」
「ありがとうございます。……おれ、高校時代、野球やってたんですよ。エースで4番。毎日毎日、一生懸命練習して、甲子園目指してたんです」
「うん」
「県大会の決勝で指が滑ってホームラン打たれて、9回裏に逆転サヨナラホームランで負けたんです。その瞬間は、あーあ、終わったって気分だったんですけど。そのあと、甲子園でおれ達に勝ったチームが活躍してるの見て、めちゃくちゃ悔しくて。野球道具全部捨てて、音楽始めたんですよ」
そっか、濱田さんも逃げたのか。俺と話のレベルは違うけど、俺も似たような想いは何度もしてきた。妬みや後悔を抱いた回数ならギネス記録ものかも知れない。
「毎日、音楽のことだけ考えて過ごして、メジャーデビューの話が来た途端、癌が見つかって。生きるために歌手としての人生を失って、パニックになって、また全部放り出して逃げてきたんです」
なんで濱田さんは、俺にこの話をしてくれてるんだろう。初めて会った俺に。
「こっちに戻ってきて、少し冷静になれて仕事を手伝い始めた時に、あいつが会いにきました。でも、あいつの顔を見たら、また辛くなって……、お前のせいだ……って、そんなわけないのに……おれ……」
ギターに濱田さんの涙が落ちる。
「おれ、すごく勝手で、嫉妬深くて、自分しか見えてなくて……。だから、吉田さん!」
泣き顔のまま、彼は俺の目を見つめる。
「ほまれを幸せにしてやってください。あいつには、吉田さんが必要です。おれがあいつを拒否した時に、傍にいて助けてくれたのは吉田さんなんです」
「うん。俺は栗谷さんが……」
あれ、俺、栗谷さんにちゃんと告白したっけ。いつの間にか付き合ってて、区切りになるような言葉、言って無かった気がする。
「大事にするよ。俺は、栗谷さんを離さない」
濱田さんは柔らかい笑顔を見せた。遠くから、栗谷さんの俺たちを呼ぶ声が響いてきた。俺は立ち上がり、戻ろうと歩き始める。後ろから彼が、掠れた声を出した。
「あいつは今日、おれに本当の別れを言いに来たんです。もう会わない、今日が最後って」
その言葉で安心した自分に嫌気がさした。なんだ、俺はまだ栗谷さんを信用してないんじゃないか。
「でも、吉田さんとはなんとなく付き合い始めてて、まだちゃんと告白されてないから、不安って言ってました。だから……」
俺は振り返り、彼の目をしっかりと見て答える。
「する。はっきりと俺の気持ち、伝えなきゃいけないよね」
吹き抜ける優しい風が、濱田さんの涙をすっかり乾かしていた。
「ヨシダ! でかいね、うみ!」
「綺麗だなぁ。ふわぁあ」
眠すぎて今日何百回目かの欠伸をする。缶コーヒーを2本持った本間さんがゆっくりと歩いてくる。彼女も何度か目をキュッと瞑り、眠気を追い出そうとしている。
「ほら、お疲れさん」
「途中まで寝させてもらいましたから、なんとか走れましたよ。思ったより時間かかりましたね」
「吉田はちゃんと速度、守ってたからな」
本間さんが笑う。明日人に勝手に走って行かないよう言いつけて、海を眺めながら温い缶コーヒーを飲む。秋の潮風は少しだけ肌寒く、眠い目に乾きをもたらしてくる。
俺たちは愛知県の知多半島にいた。
一昨日の夜、西山くんからのメッセージで、栗谷さんがUnsigned Brightの前ボーカル、濱田さんの実家に行っていることを知った。西山くんは夜勤中だったから、翌日、金曜日の昼にメッセージアプリで詳しいことを尋ねた。返信は夕方だったが、濱田さんが交通事故に遭って、見舞いのために知多半島に行ったということだった。
『もうあいつら別れたはずなのに、なんでわざわざ見舞いなんて行くんだろ』
最後にそのメッセージを送りつけられ、夜のコンビニのカウント仕事終わりの明け方、本間さんにその話をしたら、彼女はこう言い放った。
「じゃあ、私たちも行くか。片道4、5時間もあればいけるだろ。1泊2日の旅行だ。ちょっと待っててな」
そう言って本間さんは車の外に出て、多分会社に電話したのだろう。しばらく小声で喋っていたが、突然、明け方の街に大きく響く声で「たまには有休使わせろ!」と叫んだ。スッキリした顔で車内に戻ると、笑顔で言った。
「吉田、このまま会社に戻らずに明日人を拾って行くぞ。着替えはウチに男物の服があるから貸すよ」
「俺、日雇いのバイト入れてるんですけど……」
「バイトと彼女、どっちが大事なんだ?」
俺は本間さんをしっかりと見て答えた。
「栗谷さんです」
「よし、それでいい。お前はそれでいいんだよ」
本間さんのマンションで服を着替え、眠っていた明日人を連れ出し、高速に乗った。最初は本間さんが運転して、俺は後部座席で明日人と一緒に仮眠を取った。静岡に入ったあたりで運転を交代して、ナビを使ってもいまいち降りるところが分からずに名古屋で高速を降り、あとは一般道を進んで来た。
「そのボーカルだった子の実家は近いのか?」
「西山くんが教えてくれた住所で合ってるなら、あと10分くらいで着きますね」
「そっか。腹、減らないか」
「ママ、おなかすいた」
「朝、コンビニのおにぎり食べただけでしたね。近くで飯、食べてから行きましょうか」
本間親子が沸き立つ。
けっこう有名らしい食堂に入る。俺は名物のエビフライ定食を頼み、本間さんは海鮮丼、明日人はうどんを食べた。食堂の大きな窓の向こうで、たくさんの鳥が海へと飛び立って行く。その光景を眺め、明日人が感嘆の声をあげていた。本間さんが、あの子を旅行に連れてくるのは初めてと言って、楽しそうな顔をしていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
食事が終わり、車を走らせて西山くんに教えられた住所へ向かっていると、歩道をゆく栗谷さんの姿を見つけた。俺は車を道路脇に停め、運転席を降りた。
「あれ、吉田くん。なんでここにいるの?」
栗谷さんは両手に買い物袋を下げていた。俺の姿を見て不思議そうに首を傾げる。
「西山くんから、栗谷さんが多分ここにいるって聞いて、……なんかよく分からないけど俺も今、ここにいる」
彼女は吹き出して、大笑いする。その様子を見ていた本間さんが栗谷さんに詰め寄る。
「吉田は君のことが心配で、ここまで車を走らせて来たんだぞ。笑うことないじゃないか」
「あ、すいません。……吉田くん、この方は?」
「前に話した、俺の夜のカウント仕事の上司。本間さん、そんなに深刻な状況でもないと思うんで、追い詰めないでください」
「すまん、寝不足で気が立ってるんだ。栗谷さん、悪かったな。いきなり怒ったりして」
栗谷さんは本間さんに微笑みかけ、明るい声で返す。
「大丈夫です。吉田くんは愛されてるなぁ」
栗谷さんはちょうど濱田さんの代わりの買い物から帰るところだったと言うので、車で送ることにした。後部座席に座り、明日人を見つけると、すぐに仲良く喋り始めた。ふと気付いたように俺に問う。
「もしかして、大学祭の時に吉田くんと一緒にいた子?」
「そうだよ。よく覚えてたなー。結構離れたとこから見てたのに。あ、おんぶしてた時にも見てるか」
「だって、……ううん、なんでもない」
「ねえ、おねえちゃん、歌がうまい人?」
「上手いのかなぁ。自分じゃ分かんないや」
めちゃくちゃ上手いと思うけど、栗谷さんは自信が無いんだろうな。もしかすると、バンドを辞めようと思ってるのかもしれない。ここに来たのはなんでだろうか。訊きたいけど、少し怖い。俺の何かが剥がれて落ちていくかもしれない恐怖で、理由を尋ねられず、そのまま車を走らせた。
濱田さんの実家の酒屋の駐車場に車を停めた。西山くんは古い建物って教えてくれたけど、壁を塗り替えたのか、瀟洒な佇まいだ。酒屋の入り口ではなく、裏手のドアを開けて、栗谷さんは家に入る。
「ただいまー。濱田くん、頼まれたの買ってきたよ」
「ありがとう。悪かったな、首が痛いだけなのに。……その人たちは?」
ドレッドヘアーで端正な顔立ちの男の子がこちらを見て、珍客の襲来に驚いた顔をする。
「この人がさっき話した吉田くん。と、うーん。友人? の本間さんと息子の明日人くん」
「ああ、ほまれの彼氏か。初めまして、濱田です」
「初めまして。突然、すいません。もう少ししたら帰りますから」
「えっ、上がってってくださいよ。おれ、吉田さんと話がしたいです」
何の話をしたいのだろうか、と考えていると、明日人がもう上がり込んでいた。辺りをキョロキョロと見回し、古い振り子時計に興味を示した。栗谷さんが明日人を抱え上げ、近くで時計を見せている。
「吉田、とりあえず上がろうか」
本間さんに続き、俺も土間に脱いだ靴を置いて、濱田さんの家に上がる。広い和室に通され、座布団の上に座ると、一気に疲れが出てきたのか、机に肘を置いて、首を預けて目を閉じた。
目を開けると、和室の隅で分厚いタオルケットを掛けられ、横になっていた。どうやら本格的に寝入ってしまっていたようだ。体を起こすと、談笑していた栗谷さんと本間さんがこちらを向いた。
「よう寝坊助。もう夕方だぞ」
「吉田くん、もうすぐご飯だけど、食べれそう?」
「食べれる……よ。トイレってどこかな」
「ここ出て、突き当たり。フラフラしてるけど、気を付けてね」
俺はぼやける目を擦りながら、トイレへ向かう。用を足していると、ギターの弦を弾く音が聞こえた。手を洗って、音のする方を見る。窓の向こうに、倒木の上でアコースティックギターを弾く濱田さんの姿を見つけた。土間に降りて靴を履き、静かに近付いていく。
これは『奏』か。
ギターは多分、原曲にさらに色を添えて、濱田さんらしく弾いているような感じがする。単純なコピーじゃなくて、自分の気持ちを込めている風に聴こえる。俺はポケットに手を突っ込んだまま、しばらく目を瞑り、そのメロディーに身を委ねた。
小さな声で歌っているが、ところどころ掠れて、高音のところは声を出すのを諦めていた。俺が聴いているのに気付いた濱田さんは微笑み、最後まで弾き切った。弦の揺れが収まると、辺りは夕闇と静寂に包まれた。
「声がね、全然出ないんですよ」
「聞いてます。手術したんですよね」
「生き残るために、生き甲斐を失ったんです」
俺は濱田さんの横に座る。木の皮がくしゃっという音を立てた。
「俺は門外漢だけど、歌えなくても裏方の仕事とかじゃダメなんですか? 作曲とか作詞も出来るんですよね。CD、すごく良かったですよ」
「ありがとうございます。……おれ、高校時代、野球やってたんですよ。エースで4番。毎日毎日、一生懸命練習して、甲子園目指してたんです」
「うん」
「県大会の決勝で指が滑ってホームラン打たれて、9回裏に逆転サヨナラホームランで負けたんです。その瞬間は、あーあ、終わったって気分だったんですけど。そのあと、甲子園でおれ達に勝ったチームが活躍してるの見て、めちゃくちゃ悔しくて。野球道具全部捨てて、音楽始めたんですよ」
そっか、濱田さんも逃げたのか。俺と話のレベルは違うけど、俺も似たような想いは何度もしてきた。妬みや後悔を抱いた回数ならギネス記録ものかも知れない。
「毎日、音楽のことだけ考えて過ごして、メジャーデビューの話が来た途端、癌が見つかって。生きるために歌手としての人生を失って、パニックになって、また全部放り出して逃げてきたんです」
なんで濱田さんは、俺にこの話をしてくれてるんだろう。初めて会った俺に。
「こっちに戻ってきて、少し冷静になれて仕事を手伝い始めた時に、あいつが会いにきました。でも、あいつの顔を見たら、また辛くなって……、お前のせいだ……って、そんなわけないのに……おれ……」
ギターに濱田さんの涙が落ちる。
「おれ、すごく勝手で、嫉妬深くて、自分しか見えてなくて……。だから、吉田さん!」
泣き顔のまま、彼は俺の目を見つめる。
「ほまれを幸せにしてやってください。あいつには、吉田さんが必要です。おれがあいつを拒否した時に、傍にいて助けてくれたのは吉田さんなんです」
「うん。俺は栗谷さんが……」
あれ、俺、栗谷さんにちゃんと告白したっけ。いつの間にか付き合ってて、区切りになるような言葉、言って無かった気がする。
「大事にするよ。俺は、栗谷さんを離さない」
濱田さんは柔らかい笑顔を見せた。遠くから、栗谷さんの俺たちを呼ぶ声が響いてきた。俺は立ち上がり、戻ろうと歩き始める。後ろから彼が、掠れた声を出した。
「あいつは今日、おれに本当の別れを言いに来たんです。もう会わない、今日が最後って」
その言葉で安心した自分に嫌気がさした。なんだ、俺はまだ栗谷さんを信用してないんじゃないか。
「でも、吉田さんとはなんとなく付き合い始めてて、まだちゃんと告白されてないから、不安って言ってました。だから……」
俺は振り返り、彼の目をしっかりと見て答える。
「する。はっきりと俺の気持ち、伝えなきゃいけないよね」
吹き抜ける優しい風が、濱田さんの涙をすっかり乾かしていた。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
妻がエロくて死にそうです
菅野鵜野
大衆娯楽
うだつの上がらないサラリーマンの士郎。だが、一つだけ自慢がある。
美しい妻、美佐子だ。同じ会社の上司にして、できる女で、日本人離れしたプロポーションを持つ。
こんな素敵な人が自分のようなフツーの男を選んだのには訳がある。
それは……
限度を知らない性欲モンスターを妻に持つ男の日常
私の心の薬箱~痛む胸を治してくれたのは、鬼畜上司のわかりづらい溺愛でした~
景華
恋愛
顔いっぱいの眼鏡をかけ、地味で自身のない水無瀬海月(みなせみつき)は、部署内でも浮いた存在だった。
そんな中初めてできた彼氏──村上優悟(むらかみゆうご)に、海月は束の間の幸せを感じるも、それは罰ゲームで告白したという残酷なもの。
真実を知り絶望する海月を叱咤激励し支えたのは、部署の鬼主任、和泉雪兎(いずみゆきと)だった。
彼に支えられながら、海月は自分の人生を大切に、自分を変えていこうと決意する。
自己肯定感が低いけれど芯の強い海月と、わかりづらい溺愛で彼女をずっと支えてきた雪兎。
じれながらも二人の恋が動き出す──。
【R18】鬼上司は今日も私に甘くない
白波瀬 綾音
恋愛
見た目も中身も怖くて、仕事にストイックなハイスペ上司、高濱暁人(35)の右腕として働く私、鈴木梨沙(28)。接待で終電を逃した日から秘密の関係が始まる───。
逆ハーレムのチームで刺激的な日々を過ごすオフィスラブストーリー
法人営業部メンバー
鈴木梨沙:28歳
高濱暁人:35歳、法人営業部部長
相良くん:25歳、唯一の年下くん
久野さん:29歳、一個上の優しい先輩
藍沢さん:31歳、チーフ
武田さん:36歳、課長
加藤さん:30歳、法人営業部事務
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
隣の人妻としているいけないこと
ヘロディア
恋愛
主人公は、隣人である人妻と浮気している。単なる隣人に過ぎなかったのが、いつからか惹かれ、見事に関係を築いてしまったのだ。
そして、人妻と付き合うスリル、その妖艶な容姿を自分のものにした優越感を得て、彼が自惚れるには十分だった。
しかし、そんな日々もいつかは終わる。ある日、ホテルで彼女と二人きりで行為を進める中、主人公は彼女の着物にGPSを発見する。
彼女の夫がしかけたものと思われ…
【R-18・連載版】部長と私の秘め事
臣桜
恋愛
彼氏にフラれた上村朱里(うえむらあかり)は、酔い潰れていた所を上司の速見尊(はやみみこと)に拾われ、家まで送られる。タクシーの中で元彼との気が進まないセックスの話などをしていると、部長が自分としてみるか?と尋ねワンナイトラブの関係になってしまう。
かと思えば出社後も部長は求めてきて、二人はただの上司と部下から本当の恋人になっていく。
だが二人の前には障害が立ちはだかり……。
※ 過去に投稿した短編の、連載版です
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる