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(SS)実佳:恩返し

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 実佳みかは、傷を負った中型犬を抱き上げると、父親へ向かって叫んだ。

「ねえパパ、助けてあげて!」

 交通量の多い道路の真ん中で、走り来る車に大きく手を振りながら、父親は困り果ててひざまずく。

「こんな怪我じゃ、もう……」
「いやだ! このままじゃ、うごかなくなっちゃうよ!」

 涙を流しながら訴える実佳に、父親は決心する。

「そうだな。ダメかも知れないけど、やれることをやろう」

 犬をはねた車は、すでに走り去っていた。血まみれの犬を抱きかかえた実佳を助手席に乗せ、父親は動物病院へ車を走らせた。助けたかったのは、犬じゃなくて、実佳の気持ちだった。

 そして、犬は一命をとりとめた。右の後ろ脚は動かなくなったものの、元気を取り戻した。毛色からクロと名付けられ、それから5年間、実佳と一緒に暮らし、その生涯を閉じた。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 実佳は、携帯で娘の歩実あゆみに連絡をする。

「そう、今日も少し残業だから、悪いけど自分でご飯作って食べて。私の分は要らないから」
『分かった。あんまり頑張らないでね。最近また、お母さん疲れてるから』
「仕事っていうのは疲れるものよ。なるべく早く帰るわ」

 携帯の画面の終話ボタンをタップして、実佳は仕事の続きに取りかかる。
 雑貨や什器の輸入販売の会社で、総務課の仕事は多岐に渡る。出納や、発注書、物品の管理、人事、営業車の管理、オフィスのパソコンも管理しなければならない。とにかく毎日やることが尽きることはなく、放っておけばどんどん業務が増えていく中、課長としてタスクをそれぞれの総務課員に割り振って、なんとか業務をこなしていく。

 今日は、来年入社する予定の大学生向けの内定式を含めたスケジュールの作成と、各社員の給料の確認と承認の作業を終わらせなければ退勤できない。

 オフィスのコーヒーメーカーでカップにコーヒーを注ぐ。フィルタの交換を誰かがし忘れていたようなので、ついでにその交換もしておく。

 コーヒーをすすり、真っ暗な外の街灯や走りゆく車のライトを眺めながら、実佳は溜息をく。
 離婚して、生活のためにこの会社に入社して、もう10年程度になるだろうか。その間に、色々なことがあった。何度も会社を辞めようと思った。その度に、娘のために生活のためにと自分を奮い立たせて、日々増えていくばかりの業務をこなしている。

「課長、新入社員のスケジュール、ボクがやっておきますよ」

 後ろから、須藤すどうが声を掛けてきた。

「えっ、でも、今日金曜日よ。須藤くんも、もう帰りたいんじゃない?」
「いいっす。明日は休みなんで、ちょっとくらい残業して遅くなってもその分、午前中も寝てればいいんで。課長は明日も出勤じゃないですか」
「そうだけど……。気を遣ってるなら別に私は大丈夫よ」

 須藤は親指を立てて、軽くウインクする。

「たまには役に立たせてくださいよ。ボク、数字は苦手だけど、エクセルとパワポは得意なんで」

 確かに、須藤は総務課員としては致命的に計算や数字に弱い。だから、主に営業車の管理や雑務を任せている。それでも英語はそこそこ得意らしく、海外との取引の文書作成も出来るので、役立たずというわけでもない。

「自主性を重んじるのも大切よね。じゃあ、最終チェックはするけど、スケジュールの草案作成は頼もうかな。会議資料は……」
「もうダウンロードしました。1時間くらいで作りますっ!」

 早速、作業に取り掛かった須藤を見て、実佳は微笑む。すでにオフィスにはふたりしか居ない。華金で、みんな定時には上がっていったのだ。

 須藤は大学卒業とともにこの会社へ入社した。輸入販売の仕事に興味があったらしく、営業志望だったが、英語の能力を買われて総務課に配属された。
 それから1年経つ。数字を苦手にしていることはさておき、度々実佳の手助けをしてくれる。生活残業の為でもなさそうだし、なぜこんなにやる気があるのかよく分からない。あと微妙にテンションも高い。

 実佳が給料の最終チェックと承認の作業をしていると、須藤が印刷した新入社員スケジュールを持ってきた。

「課長、確認お願いします!」

 10ページほどの資料をパラパラとめくり、内容と文章の確認をする。表は分かりやすくまとめられているが、色々と問題を見つけて、赤ペンで修正をする。

「須藤くん、いい加減、社長の名前は覚えてね。あと、社員になる子たちに御中っていう言葉はらないから」
「社長……髪も影も薄いですよね」

 実佳は少し吹き出しそうになるのをこらえて、立ったままの須藤を見上げる。

「特に否定はしないけど、私たちは社長が認めてここに在籍してるんだから、感謝の気持ちも忘れないようにね」
「感謝……。はい、忘れたことはありません!」

 実佳は、首をかしげながら資料を返す。

「なんだかよく分からないけど、朱書のところを直したら、グループウェアにアップしておいて。明日確認して、印刷しておくわ」
「印刷もしておきましょうか?」
「今日は娘に頑張り過ぎるなって言われたから、私の仕事が終わったら帰るつもり。須藤くんも付き合わせちゃって悪かったわね。ゆっくり休んでちょうだい」

 須藤は、少し俯いたあと、実佳に笑顔でうなずいた。

「ありがとうございます。ホント、課長は頑張り過ぎないでくださいよ。ボクからもお願いします」

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 翌日、月に2回の土曜出勤のために車を走らせ、途中で思い出の場所を通った。
 子供の頃、はねられたクロを発見した場所。でも、この場所は、クロと自分を引き合わせてくれた場所でもある。事故に遭った時、クロは首輪をしていなかったから、野良犬だったんだろう。その割には人懐っこい犬だったし、一緒に過ごした期間、実佳もクロも幸せだったと思う。……そう思っているのは自分だけかも知れないが。

 ふと、歩道に須藤の姿があることに気付いた。
 通り過ぎたあと、左車線に車を停めて、ハザードランプを灯す。

 車が来ていないことを確認して車を降り、須藤の元へ歩いて行く。

「須藤くん……? どうしたの、こんなとこに立って」

 須藤は、微笑んで実佳を見る。

「課長は、生まれ変わりって信じますか? それとも、オカルトな話だと思いますか?」
「……うーん。私は割と現実主義者なのよね。信じるか信じないかって言われたら、信じないほうね」
「まあ、そうですよね。じゃあ、クロって犬のことは知ってますか?」
「え……」

 実佳は須藤を見つめる。クロと過ごしたのは小学生の頃。犬の話は元夫と娘に少しした程度で、他人に話したことはない。もちろん小学生の頃の友達は知っていたはずだが……。

「須藤くん。クロのこと、誰から聞いたの?」
「良かった。やっぱり課長が、あの時ボクの飼い主だった実佳さんなんですね。ずっとこうと思ってたんですけど、まさか自分が入った会社の上司がそうだなんて、有り得ないと思ってました」

 実佳が、唇を震わせて、須藤を見ながらかすれた声を出す。

「冗談……だよね。誰かから聞いて、私をからかってるだけだよね?」

 須藤は、目に涙をたたえて、真剣な表情で実佳を見ながら言う。

「一緒によく、公園で遊びましたよね。青いボール、投げてくれました。くわえて実佳さんに持っていくと、頭を撫でてくれて。それが嬉しくてしょうがなかったんです。ボクがく時も、最期までベッドで一緒に寝て、ずっと撫でてくれましたよね。ボクは幸せでした。ここで車にはねられたから実佳さんに出逢えて、幸せに生きることが出来ました」

 実佳の頬を涙が伝う。

「本当に……? 本当にクロなの……? こんなことって……」
「ボク、これからもずっと実佳さんを支えていきたいです。あ、もちろん仕事で、ですよ。またボール投げてとか言いませんから」

 実佳は、泣きながら笑う。そして、少しうつむく。

「私、自信が無かった。クロを幸せにできたのかって。右脚が動かなくて、ずっと痛くて、苦しめていたんじゃないかって。だから、クロが逝く時に、ごめんねって思いながら撫でてた」
「そうでしたね。ボクはもっと生きて、実佳さんと楽しく過ごしたかった。その願いが叶ったのかも知れないです」

 須藤が言っていることが本当なのかは分からないけれど、実佳は少し救われた気分になった。きっと、ここでクロを助けたことは間違いじゃない。

「須藤くん。あなたが元クロでも、そうじゃなくても、これからも仕事、頑張っていこうね」
「はい! よろしくお願いします!」

 ふたりは、泣きながら握手をした。

「じゃあボク、今日も一緒に働きたいです。休日出勤していですか」
「それは、総務課の課長としては承認出来ないわね。また月曜日からしっかり働いて下さい」
「ちぇっ。……じゃあ、これから実佳さんって呼んでいいですか?」
「それもダメ。みんなビックリするじゃない。変な噂にもなるだろうし」
「えー。じゃあ、何にも変わらないじゃないですか」

 須藤の不服そうな顔に手を当てて、実佳がいたずらな笑顔で答える。

「私がクロって呼んであげる。適当に理由つけてさ」

 須藤が喜びの表情に変わる。

「わん!」
「いやいや、その返しはやめてよね。なんかのプレイみたいじゃない」

 ふたりは笑う。あの頃、よく一緒に散歩した時のように、空はあおく澄みわたっていた。

 <実佳 恩返し:終>
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