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第3章 いつかの旅

第31話 靴音

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 パンを口に咥えたまま、トンカチやらバールのようなものが入った大きめの道具箱をうんしょと持ち上げて、スチール物置の引き戸をバンと閉めた。驚いたスズメが3羽、庭の木から飛び去っていく。空は今日も蒼く澄み渡っていて、もう6月だってのに梅雨入りしそうな気配がない。まぁ作業しやすいからそれでいいんだけど。

「ちょっとたけし、朝から大きな音出さないで。近所迷惑じゃないの」
「どこに近所の家があんだよ。最寄りの宅まで歩いて1分かかるんだぞ」
「知ってるわよ、回覧板届けたんだから。ものの例えってやつ。騒がしい音を立てるなってこと、ボクちん分かるかなぁ~」
「うるせぇなぁ。そっちの方がよっぽど……」
「まーたケンカしてる。あっパパ、口からパンはみ出してる。ギョウギが悪いなぁ。食べるか大工のマネごとするかどっちかにしなさい」

 スーツを身に纏った悠希ゆきとランドセルを背負った伍香いつかなじられてゲンナリしつつ、俺はパンを口の中へ押し込んだ。自分の背の高さほどある脚立を広げ、トンカチをツールベルトに差してのぼっていく。

「ねぇ、いつになったらここで寝泊まりできるようになるの? アンタの部屋狭いんだから早くしてよね」
「そうだよパパ。せめてパパだけでもここで寝てくれたら、あたしと悠希さんは広ぉく使えるのに。ねー」
「ねー。……分かった? 来週からは雨マークばっかだし、ちゃちゃっと直しちゃって。ちゃちゃっと」

 はぁ。言葉にならない感情を溜息に変換して吐き出す。悠希と伍香の仲が良いのはたいそう有り難いことなんだけどなぁ。俺をスケープゴートみたいにすんのはやめてほしいもんだ。なにこの毎日ウザ絡み。

「それじゃ、あたしは学校。行ってきます」
「おう、気を付けてなー」
「行ってらっしゃい、伍香ちゃん。テスト頑張ってね」

 伍香は手を振って駆け出す。と、ふと足を止めて振り返る。

「……うん。がんばるね、ママ!」

 それだけ言い、今度こそ靴音を鳴らして正門から出て行った。見送っていると急に脚立が揺れ始める。なんだなんだ。オイオイ、悠希が揺らしてんじゃねぇか。

「ま、ママってぇ。初めてママって呼んでくれたァァ~」
「お前、泣いてんじゃないよ。化粧が落ちるぞ。今日たしか面接だろ」
「グズッ……。ウン面接。化粧直してくるね。ズビィ」

 行ってしまった。

「ったく、季節外れの嵐みたいなやつだな」
「おや、その例えはなかなか。どう思いますかいコロ助さん」
「ワォわぉーん。ワン」
「うわッ、なんでコロ助まで屋根の上にいるんだ。まだそこ修繕してないから抜けるかも知れんぞ。というよりどうやって登ったんだ」
「うんとね、あの木から塀の上行って、そっからこういう風にぐるっと。簡単だったよ」

 レイの動きに合わせてボロボロ屋根が軋む。ここで暴れられたら終わりだ。極めて慎重に降りていただかなければ。けどどうしたらいい。あの都合の良い光は現れないのか。ほら俺のピンチだぞ光。なぁ。

「さて、伍香殿も登校したことですし、コロ助さん我々も行きますかいね」
「うお、わぉーン!」

 飛び降りた。青ジャージと白ワンコが同時に衝撃を与えたせいで、奴らのいた場所が明らかに凹んでしまった。こりゃ随分と工期が伸びてしまいそうだ。

「ほんじゃパパさん、行ってきまーす」
「ぅおオぉーん。ワン、ワン!」

 音もなく飛ぶように去った。毎日毎日ホント元気な奴ら。そういえば香織から俺のスマホに連絡があった。来週には岐阜での諸々が片付いてこっちに帰ってくるという文面だった。そしたらレイはもうここに来なくなるのかな。……いや、そんなこと有り得ねぇか。

──ガタガタ。

「おわっ! なんだ兄貴か。今日は脚立をよく揺さぶられる日だなぁ」
「仕事行ってくるよ。父さんもそろそろ出るし、母さんも買い物だろうから留守番よろしくゥ」
「えっ。俺も今日ハローワーク行こうと思ってたんだけど」
「別に母さんが戻ってからでいいじゃないか。急いだってどうせすぐには見つからないだろうし。あぁでも、悠希さんはもう見つけたんだっけ」
「前の会社の口利きなんだと。今日は形だけの面接で、もう明日から働く予定だってさ。俺も早く仕事に就いて偉そうにしないと」
「仕事するのは当たり前だ。男というのは黙って働くもんだ」
「……それ、親父の真似だよな。声までちょっと似てたぜ」

 兄貴はペロッと舌を出しておどけて見せた。また脚立を軽く揺らして歩き出す。革靴が鳴らす足音は軽快だ。木野きのさんによる愛あるリハビリのおかげ……。

「兄貴ぃ! ちゃんとプレゼント、用意したか?! 今日だろ木野さんの誕生日! もちろんデートに誘ったんだよなァ!」
「抜かりはない! 給料3か月分だ!」

 え? まさかプロポーズする気なのか。と驚いているうちに兄貴の靴音は遠ざかっていった。まぁ、そうだな。熱が冷めないうちにってな。うん。きっと大丈夫。だと思うけど。

「全然作業してないじゃない。本気出せば2週間だろってドヤ顔で言ってたくせに。まさか仕事するのがイヤでずっと小屋の修繕するつもりじゃないでしょうね」
「……それ、マジで言ってんのか」

 脚立の上から見下ろすと腕組みした悠希。その表情は意外にも柔和だ。

「嘘よ。信じてる。さぁほら、あの言葉を頂戴。そしたらもう行くから」
「あの言葉?」
「ハァ?! 忘れたとは言わせないぞぉ!」
「忘れてねぇよ。……コホン。あ、愛してる」
「声が小さーい。もう一回」
「エェェ。あ、愛してるッ! 悠希、大好きだ!」

 悠希は満足そうに頷く。これを毎日、か。やべぇやべぇ、とんでもない約束しちまったもんだぜ。

「よし。では行ってまいります。今日、夜すき焼きだってさ」
「お、いいじゃん。なら頑張るかな」
「気を付けてね。じゃっ」

 パンプスの底を鳴らして、悠希は軽いステップで進んで行く。きっとあいつの目には、この景色がキラキラ輝いてるんだろうなぁ。

 ……景色、か。

 脚立を降りて、ひと伸びする。朝の少しぬるい風に乗って、潮の匂いが届いてくる。今日はハローワークに行ったあと、少し海岸の散歩でもするかな。

 屈伸するために膝を落とすと、誰かが残した靴跡から小さな草の芽が出ていることに気付く。多分、靴の裏に引っ付いてた種から生まれたんだろう。でも皆の通り道だから、いずれ踏まれて潰れちまうか。

 それでもきっと、何度踏まれてもまた起き上がってくる。それが雑草だ。こいつみたいに強く生きようと思うわけじゃないけど、誰かの残した足跡に、いつか綺麗な花が咲く。そんな希望を持って生きていくのもいいんじゃないかって、今はそう思えるんだ。

 足を前に出してみる。鳥の鳴き声と木々の騒めきくらいしか聴こえないこの場所に土を踏む靴音が響く。以前は気が付かなかったこの小さな音さえ、今では心地良い。しっかりと前を向いて歩いて行こう。この……。

 この、大好きな景色の中で。

 〈了〉
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