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第2章 花鳥風月
第14話 おのれ
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「それでは第一回野月家、家族会議を始めたいと思います」
おもちゃのメガネを右手の人差し指でクイッと上げ、伍香が口を引き結び、たいそう厳粛な雰囲気を醸し出す。それを我々兄弟は冷ややかな表情で迎えうつ。
「家族会議っても3人きりで何話すんだよ」
「ここに居ないふたりのお話をします。まずは昨日の夜に起きた事件からね。さぁヒロくんさん、どうぞっ」
「事件っていうほどのことじゃないんだよなぁ」
兄貴が含み笑いしながら話し出した。どうやら昨夜、兄貴の退院によりスライドで親父と一緒の部屋へ移動したはずの母さんが、夜遅く兄貴の部屋を訪れ極小の空きスペースに無理やり布団敷いて寝たそうだ。
「やっぱり落ち着かなくて眠れなかったんだってさ。仲悪いように見えないけど、なんだろう。長いこと一緒にいるとなんか溜まってくのかな。毅なら何かそういう気持ち、分かるんじゃないのか」
「俺が離婚した時は……、ハッ!」
ついつい過去の事を語りそうになってしまった。娘は興味有りげにまん丸な瞳をこちらへ向けている。
「……まぁ、一緒に暮らしてりゃ互いのちょっとした言葉とか態度とか行動とか、ほんのちょっとしたことが積み重なってイヤんなったり喧嘩のとき引き合いに出したりってのはあるかもしれないけど」
「パパと……ママもそうだった?」
「俺たちは、そうだな。まぁ、人並みに、かな。うーん……」
「毅、無理に話さなくていい。話が全然違う方向にいってるよ伍香。これはおばあちゃんとおじいちゃんの話だろう」
「あ、そうだった。ごめんパパ」
「いや別に、ハイ。ま、とにかく母さんには、親父と一緒に広い部屋で寝てもらわねぇとな。兄貴の部屋は物が多すぎてふたりも横になるスペースなんて無いし、この部屋に兄貴もっていうのは窮屈すぎるし」
「悠希さんは泊まれたけどね」
「お前らほとんど重なって寝てただろ。兄貴と俺が並んで寝たらめっちゃ狭いぞ。お前、潰されるぞ。俺のイビキと兄貴の歯ぎしりの交響曲だぞ」
「ひぇぇ。それはヤダ」
「歯ぎしりは昔の話だろ、なぁ伍香」
「えっ。あの、多分、今も……」
エェと呟きガックシ項垂れる兄貴、一方俺と伍香は同時に腕組みして唸り始める。当たり前だがこの家に余分な部屋は無い。一応ボロボロの離れはあるものの、俺が物心ついた頃には既に使われておらず、兄弟のかくれんぼ場としてちょっぴり活用されたくらいの電気だっておそらく通っていない廃屋。血縁者しか居ないのに誰かが近くの寂れた旅館に退避するのも妙な話しで、やっぱ母さんが親父と一緒の部屋で寝てくれないと。
「下手なこと言うとさぁ、母さん捻くれて『じゃあ居間のソファで寝ますぅ』とか言い出しそうだよな。一回意固地になったらもう終わり、誰が何と言おうとそうするぜきっと」
「夜来たとき、目を瞑ればすぐ朝なんだから我慢すればって諭したんだよ。そしたら『ンフフ』って返されただけでさ。居候の立場じゃこれ以上言えないし、どうしたもんかな」
「ヒロくんでダメだったら、パパが言うしかないね!」
「俺もまさに居候なんだが。一体何を言わせるつもりだよ」
その時、障子戸がスッと開かれた。母さんが半身を部屋へ滑り込ませ3人を順番こに見回す。その顔は疑心暗鬼に満ちている、なんてな。そんなにギスギスしてるわけじゃないんだ。
「お昼だけどあんたたちどっか行くの? ウチで食べる? ラーメンでいいなら3人分作るよ」
俺と兄貴は同時に伍香を見る。母さんの言うラーメンは、インスタントにネギと卵を加えただけの簡単なもの。そしてきっと醤油ラーメン一択だ。それでいいのか、どうなのか。
「うん。ラーメンでいい」
「はーい。じゃあちょっと待っててね」
母さんは特に表情を変えず、戸をピシャリと閉めて台所へ戻って行く。
「……仕方ねぇな、俺がキッパリ言ってやるぜ。親父と寝ろってな」
「大丈夫? パパそういう説得みたいなのヘタそうだし今の言い方もなんかヤダ」
「今まで色んな仕事してきたんだ。社会の経験値貯めた成果を見せてやるぜ」
俺はグルグル左肩を回しながら、会議室もとい自室を出た。台所へ近づくにつれ、醤油スープの匂いが鼻に入ってくる。腹減ったな……じゃなくて何と説得すべきか、頭の中で軽くシミュレーションしながら珠暖簾を払い入室。母さんはまな板の上の青ネギをトントン切っていた。俺はダイニングチェアを引いて座り、テーブルに両肘を置き、顔の前で両手を組む。きっとこの眼からはさぞかし鋭い光が放たれていることだろう。
「母さん」
「何? ネギと卵しかないからね」
「具の話じゃなくてだな。……えっと、その……」
やべぇ、話の取っ掛かりが見つからん。いきなり本題に入るのは愚策だ。何か、こう、いったん例え話とか……今日の天気? 本日はお日柄も良く的な言葉がけが必要ではなかろうか。
「……洲本さんって、知ってる?」
ダメだまたレイを使ってしまった。あいつに興味あるわけでもねぇのにまたまた何訊いちゃってんだホント俺、馬鹿野郎!
「洲本さん? ああ、あの隣町の地主さんのことね。今はおばあさんとお孫さんのふたりだけでおっきいお屋敷に住んでるみたいよ」
「お孫さんって玲我のことか。そいつの両親は?」
「お父さんは知らないけど、お母さんの方はあんたの同級生じゃない。どうして覚えてないの」
「同級……痛ってぇ!」
突然、頭に電撃が走った。両手でこめかみを押さえテーブルに突っ伏す。閉じた瞼がスクリーンみたく像を映し出し始める。森? いや、山の中か? 遠くには海、俺は岩場で横になっていて誰かが俺を覗き込んでくる。垂れた長い髪は俺の耳元をかすめて……。
『ねぇ、キスしよっか』
『……なんで』
『助けてくれた、お礼。私のこと好きだから助けてくれたんでしょ』
『ちげぇよ。なんか、あいつらがムカついたからなぐっただけだ』
『そうなの? でも、私がこうしたいんだよ』
その女の子は顔をどんどん近づけてきて──
「ちょっと毅、大丈夫? 痛み止め飲む?」
顔を上げるとそこは台所だった。母さんが包丁持ったまま心配そうな顔で俺を見下ろしている。包丁の先端をこっちに向けないでくれ頼むから。
「こ、これは持病、だ。そのうち治るから放っといてくれ」
「ふぅん、変な病気にかかっちゃったね。ちゃんとお医者さん行きなさいよ」
「へぃへぃ。ああ頭痛といえば、兄貴が困ってたぞ。母さん夜、兄貴の部屋で寝たらしいじゃねぇか。狭くてしょうがなかったとよ。それが今、兄貴の頭痛のタネなんじゃないかなァ」
「だって……。いまさらお父さんと一緒に寝るの、恥ずかしいじゃない。あの人何にも喋らないから落ち着かないし」
寝る時ベラベラ喋り続けられる方が落ち着かないと思うんだけどな。あー、これは違うな、言い訳だ。おんなじ空間にふたりっきりで居たくないだけだろ。しかしここは次男としてビシッと言ってやらなきゃ。ワガママは許しまへん。
「夫婦だろ。夫婦ってのはなぁ、一生添い遂げるモンだぞ」
「あんたにだけは言われたくないよ」
「あ、そうでしたハイすいません」
失敗した。すごすご自室へ戻り結果を報告する。怒り心頭の伍香から言い渡されたのは、しばらく俺が親父と同室で寝て、母さんは俺の部屋で伍香と寝るという代案だ。責任を取るかたちで娘に従うもののやっぱり親父と同室ってのが辛く、すぐ俺の寝床は居間のソファに変わることとなる。つまり俺の一人負けってこと。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
昼下がり、兄貴が両腕で松葉杖をついて、短く刈られたばかりの芝上を進む。遊具がシーソーと鉄棒しかない小さな公園で、もう随分と古くなっていてギシギシ鳴るベンチに座り、俺はその姿をまったり見守っている。足の運びが怪しいから声でもかけてみようか。
「足が前に出てないぞー。転ぶぞそんなんじゃ」
「パパうるさい。転けたらあたしが受け止める!」
「おうおう、頼もしい守護者だなぁ。あっさり潰されんなよぉー」
伍香が兄貴のリハビリを手伝う気満々なので、俺は少し引いた立場で傍観している。ほら厨房にコックはふたりも要らないっていうじゃん。それとおんなじだ。……ちょっと違うか。
右足を前へ出した兄貴がつんのめって倒れそうになる。その倒れかかった体を伍香が有言実行「人」の漢字みたく支えるも、右の拳が兄貴の鳩尾に入っているようで痛そう。
「グホぁッ……」
声にならないくらい儚げな兄貴の悲鳴を聴き取り、俺は慌てて駆け寄る。体力ゲージを全て失った病人が地面へと倒れる寸前、その体の下にズザザッと潜り込み、肩と腕の力を振り絞りなんとか受け止めてやった。
「ハァ、ハァ。おい伍香、殴ってどうするよ」
「だ、だって急にたおれて……ゴメン、ヒロくん」
「いやぁ、だいじょ……ぶ。毅、ベンチに連れてってくれ。ぐふぅ」
「あいよぉ!」
俺は渾身の力を込め兄貴の体を半ば引き摺って、さらに引き摺ってベンチへ座らせた。兄貴は何度か深呼吸した後、蒼白の顔面を上げてみせる。
「ヒロくん、お顔が真っ白! 救急車呼ぶ?!」
「いやぁ、ちょっと疲れただけだよ。少し景色でも観て休んだら、動けると思う」
「景色なんて畑と小せぇ家と雑草くらいしかないぞ。景色っつったら例えばそうだな、あそこの山頂からだったら良い景色が観られるぜ。伍香お前、行ったことないだろ」
「へへーん、3年生の遠足で登りましたぁ。でもまだヒロくんあんなとこまで登れないよ」
「そうか? 普通に歩けるようになったら行けんじゃね」
じっと山を見つめていたら、ふと大きな屋敷の一部が目に入った。その瞬間またチクリと頭に電気みたいなのが走る。昼前よりかは微弱な攻撃だが、そろそろこの痛みと真面目に向き合うべき時が来たのかも。あの屋敷にはきっとこの頭痛の、原因の一部か全部があるはずなんだ。
「伍香。レイの行動パターン知ってるか」
「レイちゃん? 大体わかるけど、どうするの」
俺は頭を思い切り左右に振ってクソみてぇな痛みを振り払い、左の拳を天へと突き上げる。
「己に克つ!」
「は?」
おもちゃのメガネを右手の人差し指でクイッと上げ、伍香が口を引き結び、たいそう厳粛な雰囲気を醸し出す。それを我々兄弟は冷ややかな表情で迎えうつ。
「家族会議っても3人きりで何話すんだよ」
「ここに居ないふたりのお話をします。まずは昨日の夜に起きた事件からね。さぁヒロくんさん、どうぞっ」
「事件っていうほどのことじゃないんだよなぁ」
兄貴が含み笑いしながら話し出した。どうやら昨夜、兄貴の退院によりスライドで親父と一緒の部屋へ移動したはずの母さんが、夜遅く兄貴の部屋を訪れ極小の空きスペースに無理やり布団敷いて寝たそうだ。
「やっぱり落ち着かなくて眠れなかったんだってさ。仲悪いように見えないけど、なんだろう。長いこと一緒にいるとなんか溜まってくのかな。毅なら何かそういう気持ち、分かるんじゃないのか」
「俺が離婚した時は……、ハッ!」
ついつい過去の事を語りそうになってしまった。娘は興味有りげにまん丸な瞳をこちらへ向けている。
「……まぁ、一緒に暮らしてりゃ互いのちょっとした言葉とか態度とか行動とか、ほんのちょっとしたことが積み重なってイヤんなったり喧嘩のとき引き合いに出したりってのはあるかもしれないけど」
「パパと……ママもそうだった?」
「俺たちは、そうだな。まぁ、人並みに、かな。うーん……」
「毅、無理に話さなくていい。話が全然違う方向にいってるよ伍香。これはおばあちゃんとおじいちゃんの話だろう」
「あ、そうだった。ごめんパパ」
「いや別に、ハイ。ま、とにかく母さんには、親父と一緒に広い部屋で寝てもらわねぇとな。兄貴の部屋は物が多すぎてふたりも横になるスペースなんて無いし、この部屋に兄貴もっていうのは窮屈すぎるし」
「悠希さんは泊まれたけどね」
「お前らほとんど重なって寝てただろ。兄貴と俺が並んで寝たらめっちゃ狭いぞ。お前、潰されるぞ。俺のイビキと兄貴の歯ぎしりの交響曲だぞ」
「ひぇぇ。それはヤダ」
「歯ぎしりは昔の話だろ、なぁ伍香」
「えっ。あの、多分、今も……」
エェと呟きガックシ項垂れる兄貴、一方俺と伍香は同時に腕組みして唸り始める。当たり前だがこの家に余分な部屋は無い。一応ボロボロの離れはあるものの、俺が物心ついた頃には既に使われておらず、兄弟のかくれんぼ場としてちょっぴり活用されたくらいの電気だっておそらく通っていない廃屋。血縁者しか居ないのに誰かが近くの寂れた旅館に退避するのも妙な話しで、やっぱ母さんが親父と一緒の部屋で寝てくれないと。
「下手なこと言うとさぁ、母さん捻くれて『じゃあ居間のソファで寝ますぅ』とか言い出しそうだよな。一回意固地になったらもう終わり、誰が何と言おうとそうするぜきっと」
「夜来たとき、目を瞑ればすぐ朝なんだから我慢すればって諭したんだよ。そしたら『ンフフ』って返されただけでさ。居候の立場じゃこれ以上言えないし、どうしたもんかな」
「ヒロくんでダメだったら、パパが言うしかないね!」
「俺もまさに居候なんだが。一体何を言わせるつもりだよ」
その時、障子戸がスッと開かれた。母さんが半身を部屋へ滑り込ませ3人を順番こに見回す。その顔は疑心暗鬼に満ちている、なんてな。そんなにギスギスしてるわけじゃないんだ。
「お昼だけどあんたたちどっか行くの? ウチで食べる? ラーメンでいいなら3人分作るよ」
俺と兄貴は同時に伍香を見る。母さんの言うラーメンは、インスタントにネギと卵を加えただけの簡単なもの。そしてきっと醤油ラーメン一択だ。それでいいのか、どうなのか。
「うん。ラーメンでいい」
「はーい。じゃあちょっと待っててね」
母さんは特に表情を変えず、戸をピシャリと閉めて台所へ戻って行く。
「……仕方ねぇな、俺がキッパリ言ってやるぜ。親父と寝ろってな」
「大丈夫? パパそういう説得みたいなのヘタそうだし今の言い方もなんかヤダ」
「今まで色んな仕事してきたんだ。社会の経験値貯めた成果を見せてやるぜ」
俺はグルグル左肩を回しながら、会議室もとい自室を出た。台所へ近づくにつれ、醤油スープの匂いが鼻に入ってくる。腹減ったな……じゃなくて何と説得すべきか、頭の中で軽くシミュレーションしながら珠暖簾を払い入室。母さんはまな板の上の青ネギをトントン切っていた。俺はダイニングチェアを引いて座り、テーブルに両肘を置き、顔の前で両手を組む。きっとこの眼からはさぞかし鋭い光が放たれていることだろう。
「母さん」
「何? ネギと卵しかないからね」
「具の話じゃなくてだな。……えっと、その……」
やべぇ、話の取っ掛かりが見つからん。いきなり本題に入るのは愚策だ。何か、こう、いったん例え話とか……今日の天気? 本日はお日柄も良く的な言葉がけが必要ではなかろうか。
「……洲本さんって、知ってる?」
ダメだまたレイを使ってしまった。あいつに興味あるわけでもねぇのにまたまた何訊いちゃってんだホント俺、馬鹿野郎!
「洲本さん? ああ、あの隣町の地主さんのことね。今はおばあさんとお孫さんのふたりだけでおっきいお屋敷に住んでるみたいよ」
「お孫さんって玲我のことか。そいつの両親は?」
「お父さんは知らないけど、お母さんの方はあんたの同級生じゃない。どうして覚えてないの」
「同級……痛ってぇ!」
突然、頭に電撃が走った。両手でこめかみを押さえテーブルに突っ伏す。閉じた瞼がスクリーンみたく像を映し出し始める。森? いや、山の中か? 遠くには海、俺は岩場で横になっていて誰かが俺を覗き込んでくる。垂れた長い髪は俺の耳元をかすめて……。
『ねぇ、キスしよっか』
『……なんで』
『助けてくれた、お礼。私のこと好きだから助けてくれたんでしょ』
『ちげぇよ。なんか、あいつらがムカついたからなぐっただけだ』
『そうなの? でも、私がこうしたいんだよ』
その女の子は顔をどんどん近づけてきて──
「ちょっと毅、大丈夫? 痛み止め飲む?」
顔を上げるとそこは台所だった。母さんが包丁持ったまま心配そうな顔で俺を見下ろしている。包丁の先端をこっちに向けないでくれ頼むから。
「こ、これは持病、だ。そのうち治るから放っといてくれ」
「ふぅん、変な病気にかかっちゃったね。ちゃんとお医者さん行きなさいよ」
「へぃへぃ。ああ頭痛といえば、兄貴が困ってたぞ。母さん夜、兄貴の部屋で寝たらしいじゃねぇか。狭くてしょうがなかったとよ。それが今、兄貴の頭痛のタネなんじゃないかなァ」
「だって……。いまさらお父さんと一緒に寝るの、恥ずかしいじゃない。あの人何にも喋らないから落ち着かないし」
寝る時ベラベラ喋り続けられる方が落ち着かないと思うんだけどな。あー、これは違うな、言い訳だ。おんなじ空間にふたりっきりで居たくないだけだろ。しかしここは次男としてビシッと言ってやらなきゃ。ワガママは許しまへん。
「夫婦だろ。夫婦ってのはなぁ、一生添い遂げるモンだぞ」
「あんたにだけは言われたくないよ」
「あ、そうでしたハイすいません」
失敗した。すごすご自室へ戻り結果を報告する。怒り心頭の伍香から言い渡されたのは、しばらく俺が親父と同室で寝て、母さんは俺の部屋で伍香と寝るという代案だ。責任を取るかたちで娘に従うもののやっぱり親父と同室ってのが辛く、すぐ俺の寝床は居間のソファに変わることとなる。つまり俺の一人負けってこと。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
昼下がり、兄貴が両腕で松葉杖をついて、短く刈られたばかりの芝上を進む。遊具がシーソーと鉄棒しかない小さな公園で、もう随分と古くなっていてギシギシ鳴るベンチに座り、俺はその姿をまったり見守っている。足の運びが怪しいから声でもかけてみようか。
「足が前に出てないぞー。転ぶぞそんなんじゃ」
「パパうるさい。転けたらあたしが受け止める!」
「おうおう、頼もしい守護者だなぁ。あっさり潰されんなよぉー」
伍香が兄貴のリハビリを手伝う気満々なので、俺は少し引いた立場で傍観している。ほら厨房にコックはふたりも要らないっていうじゃん。それとおんなじだ。……ちょっと違うか。
右足を前へ出した兄貴がつんのめって倒れそうになる。その倒れかかった体を伍香が有言実行「人」の漢字みたく支えるも、右の拳が兄貴の鳩尾に入っているようで痛そう。
「グホぁッ……」
声にならないくらい儚げな兄貴の悲鳴を聴き取り、俺は慌てて駆け寄る。体力ゲージを全て失った病人が地面へと倒れる寸前、その体の下にズザザッと潜り込み、肩と腕の力を振り絞りなんとか受け止めてやった。
「ハァ、ハァ。おい伍香、殴ってどうするよ」
「だ、だって急にたおれて……ゴメン、ヒロくん」
「いやぁ、だいじょ……ぶ。毅、ベンチに連れてってくれ。ぐふぅ」
「あいよぉ!」
俺は渾身の力を込め兄貴の体を半ば引き摺って、さらに引き摺ってベンチへ座らせた。兄貴は何度か深呼吸した後、蒼白の顔面を上げてみせる。
「ヒロくん、お顔が真っ白! 救急車呼ぶ?!」
「いやぁ、ちょっと疲れただけだよ。少し景色でも観て休んだら、動けると思う」
「景色なんて畑と小せぇ家と雑草くらいしかないぞ。景色っつったら例えばそうだな、あそこの山頂からだったら良い景色が観られるぜ。伍香お前、行ったことないだろ」
「へへーん、3年生の遠足で登りましたぁ。でもまだヒロくんあんなとこまで登れないよ」
「そうか? 普通に歩けるようになったら行けんじゃね」
じっと山を見つめていたら、ふと大きな屋敷の一部が目に入った。その瞬間またチクリと頭に電気みたいなのが走る。昼前よりかは微弱な攻撃だが、そろそろこの痛みと真面目に向き合うべき時が来たのかも。あの屋敷にはきっとこの頭痛の、原因の一部か全部があるはずなんだ。
「伍香。レイの行動パターン知ってるか」
「レイちゃん? 大体わかるけど、どうするの」
俺は頭を思い切り左右に振ってクソみてぇな痛みを振り払い、左の拳を天へと突き上げる。
「己に克つ!」
「は?」
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