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第21話 春
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空には千切れ雲が浮かび、流れていく。
揺れる菜の花、満開の桜、桃の花、遅咲きの梅の花が街の景色に彩りを与えていた。
小さな子を背負ったウメが、強い風ではためく暖簾を片付けている。
「こんなに風が強いんじゃ、お客さんも来ないはずだよぉ。ねぇ来加」
ぶつくさ言いながら暖簾を片付け、木戸を閉めようとした時、青い洋服が目に入った。ゆっくりと歩み来る女性は、二年前と少しも変わらない、煌めくような笑顔を見せた。
「お嬢様!」
「お久しぶり。でも、もうお嬢様じゃなくってよ。わたしは家を出たんだし、あなたも水野家の使用人ではないでしょう」
「いいんですよぉ。あっしの中で、トモさんはいつまでもお嬢様です」
「ふふ、ありがとう。この子が来加ちゃんね。ウメにそっくり」
ウメは閉じかけた戸を目一杯開き、トモを屋内へ招き入れる。入口の足元には段差があるため、手を取って、トモが転ばぬよう細心の注意を払った。
「わあ、ハルはたくさん絵を描いたのね。これは売り物?」
「売り物であり、宣伝であり、です。うちの人が方方廻って仕事を取ってくるんですが、ハルの筆の速さには敵わなくて。それで、余りもんを展示してるんです」
「そう。とっても元気そうでよかったわ。……今日、ハルは?」
「張り切って出掛けて行きましたよ。七色を採ってくるんだ、って」
「あらあら。もう絵具は買えるでしょうに、まだ花で色を着けているの?」
「特別です。お嬢様の像はあの塗り方じゃないと駄目みたいで」
工房を一周しながら話していたトモは、一枚の絵に目を留めた。
白い猫が飼い主に抱かれている絵。優しい微笑みを浮かべる飼い主は、ミヨだった。
「お母様、ハルにはこんな笑顔を見せて……少し嫉妬してしまうわね」
「奥様もお嬢様の帰りを楽しみにされてましたよ。この絵は、お嬢様から手紙が送られてきた時に、すこぶる機嫌が良くて。この絵をお嬢様に送ろうってお話されてたくらいです」
じっとその絵を見つめていた。しばらく経ってから、ひとつ頷き微笑む。
「ハルは、いつもの所?」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
その川沿いの土手には、近くの園芸店から流れてきたと思われる、色とりどりの草花が自生していた。コンロンカ、ジンチョウゲ、カイドウ、ルピナス、春咲きのグラジオラス、ハナビシソウ。急な斜面とあって、わざわざ足を踏み入れて摘もうなどという酔狂なことをするのは、この辺りでただ一人、ハルくらいであった。
せっかくウメが今日のために手入れしてくれた着物は、すでに泥だらけ。何度もすっ転んで、這い上がってを繰り返すうちに、悲惨な身なりになっていた。
ハルの視界は色彩で溢れていた。土手を彩る花々、陽射しに煌めく川面、見上げれば深い蒼色に筆で落としたような白色が伸びている。
ふと土手の上、道端にひときわ綺麗な青色を見た。
「トモ!」
青い洋服がふわり、ふわりと揺れる。
ハルは摘んだ花を入れた籐籠を右脇に抱えながら、土手を登った。
「ハル、お久しぶり。……相変わらず泥だらけね」
「え……、ああっ! またウメに怒られるでありんす!」
トモは笑って、あの頃と一つも変わりないハルの明るい表情に安堵の息を吐いた。
「ふふ。よかった。やっぱりハルはハルだったわ」
すぐにでも抱きつきたいと思っていたハルだったが、洋服を汚すわけにいかないと思い、自重した。
「水野家にはいつまで?」
「この子を産んで、そうねぇ、一年くらいかな」
「また、たくさん遊べるんだね」
「うん。でも時々体調が悪くなるから、その時はごめんなさいね」
「看病、する。あちき、あれからいっぺんも病気になってないんだ。あちきの元気を分けてあげるよ」
「それは心強い。あ、そうそう。これを持ってきたの」
トモは、丸めていた一枚の紙を広げて見せた。
かなり色褪せてしまった、かつて七色に染められていたトモの像。
「ケースの中に入れておいたけど、こんなにくすんじゃった。ごめんね」
「大丈夫、ほら、こんなにいっぱい花を集めたんだ。毎日描く。毎日、トモの笑った顔を描くよ。一日も無駄にしない。あちき……約束……守ってくれて、ありがとう……」
ハルの目から、ぽたぽたと涙が零れていく。
約束した言葉。
『わたしはいなくなったりしません。どこに出掛けても必ずあなたのもとに戻ります』
『わたしは、どこへ行っても必ずあなたの所に戻ります』
ずっと憶えていた。なんでもすぐに忘れてしまうけれど、その言葉だけは、絶対に忘れなかった。きっとまた会えるって、そう信じて過ごしてきた。
「トモ、会いたかった!」
ハルは、駆け出した。
籐籠が地面に落ちる。
強い風で舞い上がった花びらは、空へ向かって飛び立った。
きらきらと輝きを放ちながら飛び交い、青空のカンバスに、虹色を作り出していた。
〈了〉
揺れる菜の花、満開の桜、桃の花、遅咲きの梅の花が街の景色に彩りを与えていた。
小さな子を背負ったウメが、強い風ではためく暖簾を片付けている。
「こんなに風が強いんじゃ、お客さんも来ないはずだよぉ。ねぇ来加」
ぶつくさ言いながら暖簾を片付け、木戸を閉めようとした時、青い洋服が目に入った。ゆっくりと歩み来る女性は、二年前と少しも変わらない、煌めくような笑顔を見せた。
「お嬢様!」
「お久しぶり。でも、もうお嬢様じゃなくってよ。わたしは家を出たんだし、あなたも水野家の使用人ではないでしょう」
「いいんですよぉ。あっしの中で、トモさんはいつまでもお嬢様です」
「ふふ、ありがとう。この子が来加ちゃんね。ウメにそっくり」
ウメは閉じかけた戸を目一杯開き、トモを屋内へ招き入れる。入口の足元には段差があるため、手を取って、トモが転ばぬよう細心の注意を払った。
「わあ、ハルはたくさん絵を描いたのね。これは売り物?」
「売り物であり、宣伝であり、です。うちの人が方方廻って仕事を取ってくるんですが、ハルの筆の速さには敵わなくて。それで、余りもんを展示してるんです」
「そう。とっても元気そうでよかったわ。……今日、ハルは?」
「張り切って出掛けて行きましたよ。七色を採ってくるんだ、って」
「あらあら。もう絵具は買えるでしょうに、まだ花で色を着けているの?」
「特別です。お嬢様の像はあの塗り方じゃないと駄目みたいで」
工房を一周しながら話していたトモは、一枚の絵に目を留めた。
白い猫が飼い主に抱かれている絵。優しい微笑みを浮かべる飼い主は、ミヨだった。
「お母様、ハルにはこんな笑顔を見せて……少し嫉妬してしまうわね」
「奥様もお嬢様の帰りを楽しみにされてましたよ。この絵は、お嬢様から手紙が送られてきた時に、すこぶる機嫌が良くて。この絵をお嬢様に送ろうってお話されてたくらいです」
じっとその絵を見つめていた。しばらく経ってから、ひとつ頷き微笑む。
「ハルは、いつもの所?」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
その川沿いの土手には、近くの園芸店から流れてきたと思われる、色とりどりの草花が自生していた。コンロンカ、ジンチョウゲ、カイドウ、ルピナス、春咲きのグラジオラス、ハナビシソウ。急な斜面とあって、わざわざ足を踏み入れて摘もうなどという酔狂なことをするのは、この辺りでただ一人、ハルくらいであった。
せっかくウメが今日のために手入れしてくれた着物は、すでに泥だらけ。何度もすっ転んで、這い上がってを繰り返すうちに、悲惨な身なりになっていた。
ハルの視界は色彩で溢れていた。土手を彩る花々、陽射しに煌めく川面、見上げれば深い蒼色に筆で落としたような白色が伸びている。
ふと土手の上、道端にひときわ綺麗な青色を見た。
「トモ!」
青い洋服がふわり、ふわりと揺れる。
ハルは摘んだ花を入れた籐籠を右脇に抱えながら、土手を登った。
「ハル、お久しぶり。……相変わらず泥だらけね」
「え……、ああっ! またウメに怒られるでありんす!」
トモは笑って、あの頃と一つも変わりないハルの明るい表情に安堵の息を吐いた。
「ふふ。よかった。やっぱりハルはハルだったわ」
すぐにでも抱きつきたいと思っていたハルだったが、洋服を汚すわけにいかないと思い、自重した。
「水野家にはいつまで?」
「この子を産んで、そうねぇ、一年くらいかな」
「また、たくさん遊べるんだね」
「うん。でも時々体調が悪くなるから、その時はごめんなさいね」
「看病、する。あちき、あれからいっぺんも病気になってないんだ。あちきの元気を分けてあげるよ」
「それは心強い。あ、そうそう。これを持ってきたの」
トモは、丸めていた一枚の紙を広げて見せた。
かなり色褪せてしまった、かつて七色に染められていたトモの像。
「ケースの中に入れておいたけど、こんなにくすんじゃった。ごめんね」
「大丈夫、ほら、こんなにいっぱい花を集めたんだ。毎日描く。毎日、トモの笑った顔を描くよ。一日も無駄にしない。あちき……約束……守ってくれて、ありがとう……」
ハルの目から、ぽたぽたと涙が零れていく。
約束した言葉。
『わたしはいなくなったりしません。どこに出掛けても必ずあなたのもとに戻ります』
『わたしは、どこへ行っても必ずあなたの所に戻ります』
ずっと憶えていた。なんでもすぐに忘れてしまうけれど、その言葉だけは、絶対に忘れなかった。きっとまた会えるって、そう信じて過ごしてきた。
「トモ、会いたかった!」
ハルは、駆け出した。
籐籠が地面に落ちる。
強い風で舞い上がった花びらは、空へ向かって飛び立った。
きらきらと輝きを放ちながら飛び交い、青空のカンバスに、虹色を作り出していた。
〈了〉
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