虹ノ像

おくむらなをし

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第16話 三郎

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 黒い背広スーツに黒い外套がいとう、黒い西洋ハットと黒ずくめの三郎は、白い息を吐きながら颯爽と歩く。今日は人生で一番大事な日となるだろう。決意を胸に、ただ前を睨みながら、進んで行く。

 水野家の正面は避けて小路に入り、裏門に着くと、その姿を確認したハルが通用口を閉め、両開きの門を開けた。水野家にとって重要な客人を通用口から引き入れるわけにはいかないのだ。

「お邪魔します」

 三郎はうやうやしく頭を下げ、裏門を通り抜けて庭に入った。黒革のブーツで石畳を踏みゆっくりと進む。久しぶりと声を掛けようとするも、来訪をいち早く報せるためか、ハルはすぐに母屋に駆けて行ってしまう。彼が苦笑しながら吐いた白い息は昼下がりの鈍色にびいろの空に同化して消えた。

 玄関の前にはトモが立っていた。真顔のまま、三郎と目を合わせると一度会釈をして、三郎の後ろへ回る。

 三郎は三回、軽く玄関の戸を叩いた。
 ミヨが戸を引いて開ける。

「ようこそいらっしゃいました。どうぞ、お上がりくださいまし」

 三郎は声掛けに頷き、腰を折るようにして頭を下げ、上がりかまちでブーツを脱いで、ミヨに従い廊下を進む。

 ミヨが応接間のふすまを引くと、すぐに栄達ひでたつの姿を見ることとなった。栄達は下座にて、紫色の座布団の上で正座をしていた。

「寒い中、よく来られましたな。どうぞお座りになって。楽な姿勢で構わないよ」
「お久しぶりです、おと……コホン。失礼いたします」

 三郎は応接間に入り、栄達と真向かい合うように座る。栄達に合わせて三郎も正座をする。正座を苦手としているため何度か足の位置を試していたが、やがて諦め、少し崩れた足の形になるもせめて背筋だけはぴんと張ることにした。

 続いて、トモとミヨが応接間に入る。
 ミヨは栄達の右横に、トモは三郎の斜め後ろ、右側にそれぞれ正座した。

「三郎くん。電報を寄越し、それなりの恰好で来たからには、何か重大な事柄、ということかな。手紙では済まないような」
「はい。手紙では失礼になると思い、この度は馳せ参じました」

 栄達は、喉を鳴らした。三郎の表情は穏やかだ。悪い報せではなさそうだが。

「……兄の会社を手伝う為に、長崎へ行くことになりました。来月にも船に乗り、向かう予定です」
「長崎、父上のされている海運関係のお仕事かね?」
「左様で。英国イギリスとの貿易を取り扱う会社にて、税金に係わる業務の取締役を務めることに。まずは実務からですが」
「大学はどうするので?」
「退学します。もともと卒業後は父の仕事を手伝う予定でした。それが早まっただけです。在学中も父の仕事を手伝っておりました。すでに社会に出ているものと思っております」
「ふぅむ……」

 栄達は、視界の端にトモの姿を映した。彼女は俯き、唇を噛んでいるように見えた。
 その視線の動きに気付いた三郎が、両手を勢い良く前に出し、畳に乗せた。

「トモさんを、一緒に連れて行きたいのです! 結婚させてください!」

 張りのある声を発し、彼は頭を深く下げた。
 トモは俯いたまま、努めて顔色を変えないようにしている。しかしその手は小刻みに震えており、その瞳はじんわりと涙をたたえていた。

「……トモはまだ、女学校の課程を残している。ふたり共が学業を途中で投げ出すことになるが、後悔はしないか。本当にトモを長崎へ連れて行く必要があるのか」
「僕は貿易の仕事がしたかったんです。長らく続いた鎖国が終わり、今この国は世界と繋がり、さらなる発展を遂げようとしています。大きく歴史が変わろうとしている現在にいて、他国との貿易は重要な役割を担っています。僕もそれに係わる仕事がしたいと思い、勉学や与えられた仕事に励んできました」

 三郎はトモに向かい、ひとつ頷き、再び栄達と目を合わせた。

「何年、長崎に駐留することになるか分かりません。もしかすると、この先ずっと長崎に居続けることになるかも知れません。僕は13歳で初めてトモさんに会って、一目惚れをしました。それからずっと、トモさんと共に暮らすことを夢見てきました。兄がいるとはいえ、慣れない土地で暮らすことになります。その時に、愛する方と一緒なら心強い、きっと仕事にも精が出ると思うんです」
「トモの気持ちはどうなる。一人娘を長崎にやる私たちの気持ちはどうなる。あまりにも急な話だし簡単に行き来できる場所ではない。到底、承諾しかねる状況だ。三郎くんは水野家を随分と下に見ているのではないか。確かに立場としては下になるが、水野家にも歴史がある。それを軽んじてはいないか」
「そんなことはありません! トモさんが水野家の大切な一人娘であることは理解しているつもりです。でも……、僕はトモさんと数回しか会ったことはありませんが、愛しているのです。夏に訪れた時、ハルさんから色々と聞きました。誰にでも優しく、女中や下女を大切に想ってくれると。僕はトモさんの容姿だけでなく、性質にも惚れたのです。愛しているのです……」

 栄達は大きく息を吐き、天井を見上げる。

「父上には、相談されたのかな」
「父は母を連れ、政府の外交官と共に英国イギリスへ行っております。この度の話は兄からの依頼で、人手が足りないため僕の力を貸して欲しいと言われています」
「まだ父上の了承も得ていない、か。ふむぅ……すまないが、トモと二人で話をさせてくれないか」
「かしこまりました。では、外で頭を冷やしてきます」

 三郎が立つと、ミヨもさっと立ち上がり、ふすまを開けた。開けた時、人の気配に気付いたが、追いかけることはしなかった。微かな花の匂いで、誰が居たのか分かったからだ。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

「トモは、どうしたい」
「……わたし、いつか三郎さんの妻になると、覚悟しているつもりでした。でも、いざお話を聞いたら怖くなって、何も考えられなかった」
「断っても良いのだぞ。いくら名家である初江はつえといっても、おそらく結納もない、正式な顔合わせもしないで嫁にやるなど水野家の恥だ。以前は多くの仕事を回してもらっていたが、今は初江に切られても他の事業で補填できる。私はお前の決断を尊重しよう」
「わたしの、決断……」
「ハルと一緒にいたいだろう。長崎までハルを連れて行くことはできない。そうだ、許嫁いいなずけなんぞ解消して、トモが水野商店を継げばいい。あんな無礼な男は追い返して……」
「お父様、言い過ぎです」
「……そうだな。どうにも私はこういった話が苦手でな。ミヨとの縁談の時も」
「そんなこと聞いてません」

 頬を膨らますトモに、栄達は肩をすくめた。

 ……お父様はわたしのことを誰よりもおもんばかってくれている。許嫁を解消したら、水野商店は大きな顧客を失う。わたしは愛されてる。この家に生まれて良かった。お父様と、お母様の子どもで良かった。心残りが無いわけじゃない。だけど……。

「わたし、長崎へ行きます。三郎さんの妻になります」
「それは自分の意思か。水野家のために、犠牲になろうとしていないか」
「犠牲だなんてとんでもない。三郎さんはお優しい方です。一時いっときは、ハルを初江家で働かせることまで考えてくれたのです。きっと三郎さんとなら、温かい家族を築くことができるはずです……きっと……」

 トモは、大粒の涙を流していた。しとしと落ちる涙は、顎から垂れ、着物や畳を濡らしていく。とめどなく流れる涙はそのままで、トモは笑顔で栄達に言う。

「今まで、ありがとうございました。わたしは、どこへ行っても、お父様の子です。日本一幸せな、水野家の子です」

 栄達は立ち上がり、トモに歩み寄る。
 何も言わず抱きしめ、共に泣いた。
 外では雪が、積もり始めていた。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

「今から出て、汽車に乗れそうかね。これしきの雪、影響はないだろうが」
「おそらく。しかし明日は仕事がありまして、帰らぬわけにいかないのです」
「あの、三郎さん、お気をつけて」

 トモと栄達は鉄道馬車の停留所にて、横浜へ戻る三郎を見送っていた。
 すでに返事は伝えてある。

「トモ、すぐに手紙を書いて送るよ。横浜へ行く日は僕が迎えに来るからね」
「はい。お待ちしております。寒いので風邪など引かれませんように」
「昔から病気には無縁だから大丈夫。トモも気を付けて」
「ええ。温かくして過ごしますね」

 馬車が動き始め、その形が見えなくなるまで、トモはずっと手を振り続けていた。
 栄達はトモの肩を抱き、引き寄せた。
 トモはまだ少し、震えていた。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 ミヨは中庭を突っ切り、女中たちの台所へと向かう。

 声がする。
 台所の外側の壁にへばりつくようにして、息をひそめて会話を盗み聞く。

「……くなっちゃう。もう、トモと会えないんでありんす」
「まぁねぇ、許嫁なんだから、いつかはこうなるって分かってたけど、それにしても急な話だよ。結納もしないで結婚するだなんて、あんまり聞かないよね」
「顔合わせもしないなんてね」
「そんなの聞いたことないよね」

 どうやら全部どこかで聴いていたらしい。壁に耳あり、障子に目あり。流石、水野家の女中たちだ。それならもう、商店の番頭はじめ丁稚まで、全員が知っていると思った方が良いだろう。

「でも、これで良かった。トモが幸せになるなら、あちきも幸せ。そう、これでいい」

 女中たちが応えない。ハルは強がってる。本当は行くなとすがりついてでも止めたいはずなのに、強がって心にもないことを言っている。ミヨはハルのもとへ飛び出していきたい気持ちを抑えつけ、様子を見る。

「ハル、ここにはお嬢様も、旦那様も奥様もいない。本音を言ってもいいんだよ」
「何を言ってるんでありんすか。これでいいって言ってるじゃないか」
「ハル、駄目だよ強がっちゃ」
「そうだよ、本音を言いなよ」

 ミヨは少し苛ついてきた。これでいいわけがない。ハルの気持ちが分かるから、すごく苛々する。だが何もしてやれない。ハルを長崎へやるわけにもいかないし、ハルのためにトモを引き留めることもできない。そんな自分にも苛々する。

 だから……。

「ハル」
「……奥様……」
「ハル、おいで」

 ミヨはハルに向かって、両腕を広げた。
 ハルの顔がゆがみ、その瞳は大量の涙を生み出した。

「わあああ! ぅわあああああああん!!」

 泣き叫びながらミヨの胸に、ハルは飛び込んだ。
 台所から、ハルの叫びが漏れ出て、雪景色となった中庭に響く。

 ミヨはただ、頭をでてやる。
 言葉は必要なかった。言ってやれる言葉が無かった。
 そうして、ハルの涙がれるまでずっと抱きしめていた。
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