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第6話 相撲
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木の棒でガリガリと中庭の土を抉り、大きな丸い線を引く。そして円の中心から少し間隔をあけて二本の短い直線を引いた。
「これが土俵です。東側にお嬢様、西側にハル。あ、まずは塩で土俵を清めて、蹲踞して……えぇと足は、こうやってですね……」
早朝の空は雲ひとつ無い一面の白濁の蒼に、囀り飛ぶスズメたちの姿あり。そんな晴れ渡る空の下、ウメによる相撲講義が開かれていた。トモとハルは群青色の甚平を着用し、少し太めの黒帯をしっかり締めて臨む。甚平は丁稚の物を借用しているから、かなり男臭い。
塩を景気よく撒いて邪気を払い、所定の位置でつま先立ちになり膝を折り曲げて座った姿勢になる。それから膝を広げてぴんと背筋を伸ばし、両手を膝の上に。柏手を打って腕をいっぱいに広げる。
「塵手水が終わったら四股を踏みます。見てておくんなし」
ウメは中腰の姿勢から片足をぐわしと高く上げて止め、そこから真下にどすんと下ろしてみせる。ハルは楽しそうに真似事をするが、トモは恥ずかしそうに少しだけ足を上げて凌いだ。
「では、ええでしょうか……はっけよーい!」
相向かいのふたりは地面にまず片手を、続いてもう一方の手をつける。同時に前方へと踏み出して、がっぷり四つに組み合った。
ともに相手の帯を掴んだまま体重を前にかける。トモはハルより少し体格が良いから、ハルが右手に力を入れて帯を引き上げようとしても微動だにしない。
「重いでごぜぇやす! 一体全体何を食ってるんだか!」
「毎日しっかり歩いてお腹を空かせてきた努力の賜物よ!」
「のこった! のこった!」
トモは帯を掴んだ両手に力を込めて持ち上げる。僅かに土から離れた足をばたつかせるも、なす術なくハルはそのまま土俵際まで追い込まれていく。
「ぬがぁっ!!」
ハルは身体を捻り傾け、左足を地面に着けて、左手を引き右手を横に流す。投げ技を受けたトモは、土に描かれた円ぎりぎりのところで踏み留まろうとして失敗。あえなく円外へ飛び出して、すっ転んでしまった。
「お嬢様! ハル、ちいとは加減なさいな!」
「トモ……様が本気なら、あちきもお返ししてやんなきゃなんねぇ」
偉そうな態度で胸を張る彼女に、ウメは絶望の眼差しを向けた。どうやらあの頭には身分とか手心とかいう言葉が足りないらしい。
「大丈夫。少し尻もちをついただけです」
トモはぱん、ぱんと甚平を叩きながら立ち上がる。
その時、母屋から栄達が出てきた。羽織袴に西洋ハットと、なんともちぐはぐな出で立ちに三人は目を見合わせた。
「なんだ、どうした? さあて勧進相撲は両国だ。そろそろ出んと混み合う時間になるぞ」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
栄達、トモ、ハル、ウメの四人は鉄道馬車を降り、隅田川にかかる橋を渡って両国へ。トモの母ミヨは人の多い場所が苦手と言って留守番だ。珍しく華やかな桜色の着物に纏わりつかれたハルは、裾を気にしたり襟を何度も直したりとそわそわ落ち着かない様子。
大通りを進むと、立ち並ぶ茶屋に挟まれた大量の往来があった。皆が隣と押し合いへし合い不自由そうに行き交う。高く聳える太鼓櫓を見上げつつ群衆を突っ切るように歩き、寺院の山門を一礼してくぐる。
「うわぁ、人ばっかり。たいそうな賑やかさでありんすねぇ」
人の多さにあてられふらふらし始めたハルの手を取って、トモはついでに前を行く栄達の袖も掴んで歩く。ウメは、掲示された番付表の前で足を止めた。
「それ何でぃ? ウメ」
「力士の順位が書かれてるんだよ。あ、東の張出に横綱の名があるね。やぁ、名前だけで格好いいわぁ」
艶っぽい声を出し両手を頬に当てくねくね動くウメを見て、ハルの背筋に悪寒が走った。
栄達は札場で木戸銭を払い木戸札を頂いて、仮設で拵えられた巨大な相撲小屋へ入った。三人を引き連れ木階段を上がって葦簀張りの桟敷席に陣を取る。
二階にあたる場所からの眺めはすこぶる良く、場内を見渡すことが出来た。土間席は中央の土俵を取り囲むように、幾千もの観客の頭が波打って見える。あんな所に割って入ったらすり潰されそうだ。
「桟敷席は高いのよぉぉ。力士がよく見えるからねぇぇ」
「ウメ、その喋り方やめておくんなせぇ。ひどく怖ぇですぜ」
「いいじゃないのよぉ、あっしだって初めて来るんだし……」
冷や水を浴びせられたようにしゅんとして、ぷいと顔を背け、腕を組んで黙ってしまった。静かになってくれてハルは大いに満足だ。この先はできるだけ刺激しないぞと心に決めた。
力士たちが場内に入ってきた。ずらずらと並んで歩き、待機所へ向かう。その光景にウメが再び元気を取り戻す。
「さぁ、下の順位から出てくるよ。それで段々と上の位の力士が出てくんだ」
「へぇ。弱っちいのからやるんだ」
「あんた弱いなんて言って。そんじょそこらの男が太刀打ちできるもんじゃないんだからね」
呼出の声で大きな図体が二人、待機所から出てきて土俵に上がる。相撲小屋へ詰めかけた何千という観客の声援が、わぁっと場内の空気を震わせた。
「ねえウメ、塩は撒かないのかしら」
「力水も塩も、十両からです。そのうち見られますよぉ」
取り組みが始まり、もの凄い迫力の力比べや技の応酬一つ一つに歓声が上がる。四人も思い思いに声を出して応援する。
序ノ口から取り組みが始まり、序二段、三段目、幕下へと進んでいった。
そしてお次は十両と幕内の番だ。化粧まわしを着けた力士たちがずらずらっと並んで現れ、土俵入りする。にわかにウメの声が大きくなった。右耳に人差し指を軽く突っ込んだハルに、トモが左側から話しかける。
「ウメ、本当に楽しそう。連れてきて良かった」
「近頃いっつも井戸端で相撲のことばっかり喋くって、うるさかったのなんの。今も存分にうるせぇでありんすが」
トモとハルは微笑む。
十両、幕内力士たちが柏手を打ち、軽く四股を踏んで、順番に下りていった。全員が捌けた後、注連縄を着けて男の粋を全身に纏ったかのような巨体が土俵を踏む。
ウメが失神覚悟の大声を上げる。
「ゔおおわぁぁぁぁあ!」
隣のハルは思わず両手で耳を塞ぐ。だがその右腕はぐいっとウメに取られ、ぐわんぐわん振られる。
「あれが横綱だよぉ。やっぱり、格好良いねぇ。ねぇ!」
「う、うん。左様でござりんすね……」
揺すられ続ける視界の中で、横綱が四股踏みとせり上がりを繰り返す。四股踏みの度に観客たちから「よいしょ!」と大きな声が上がる。
露払い、横綱、太刀持ちの順番で退場し、ほどなく十両から取り組みが始まった。
やはり精鋭による相撲は迫力が段違い。土俵上の一挙手一投足にいちいち身を震わすほどの歓声が起こる。
十両、前頭、小結、関脇、大関と出場して取り組みは進み、盛り上がりも最高潮に達したところで、ついに横綱と大関が土俵に立った。東に横綱、西に大関だ。ふたりとも景気良く塩を撒き、横綱は力水を口に含んで吐く。ぴりぴりした緊張感の中、塵手水をして四股を踏む。
両者が仕切り線の前で蹲踞の姿勢を取り、前のめりになる。片手をついて……両手を土につけた瞬間、勢い良く前に飛び出しぶつかった。ばちんと衝撃を生んで離れて、ともに上半身が起きあがり一瞬の硬直、場内はひときわ大きな歓声に包まれる。
先に体勢を立て直した横綱の力は凄まじく、腕を伸ばして大関を寄せ付けない。張り手でどんどん進み、あっという間に土俵際まで追い込み、最後のひと押し……を躱わされた。
大関が姿勢を低くして相手のまわしを掴み、勝負俵を蹴って前に出る。体勢を崩されながらも横綱は右手で相手のまわしを取り返し、身体をひと捻りして捨て身の投げを放った。
ふたりは無理な姿勢で倒れ込み、それぞれ肩から土に落ちた。ごろんと横転しながら行司の動作に目をやる。観衆の視線も一斉に軍配へ集中する。
栄達が目を見開き、身を乗り出して呟く。
「どっちだ?」
そして行司の軍配は、東側へ振られた。
観客たちの大声が場内に轟く。ハルは両手で耳を塞ごうとするが、やっぱりウメに手を取られた。すぐ近くで耳をつんざくようなけたたましい声が発せられ、耳はきーんと鳴って自ずとあらゆる音を遮断することとなる。
「やったあぁぁあぁあ! どぅわぁああぁあぁああ!!」
叫びに叫んで、ウメは失神して仰向けに倒れた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「……ということがありまして。あ、女中はすぐに息を吹き返しました」
「面白ぇ奴だな。そんでハルは今日、相撲の絵ばっか描いてるってわけかい」
玅安がほうほうと頷きながら、カンバスに描かれた絵を観ている。
「凄い凄い。動きの表現が日本画の域を越えてら。カンバスの中で今にも相撲をおっ始めそうだ」
「わたしはもっと、こう、綺麗な風景なんかを描いてほしいのですが……」
「まあ、いいんじゃねぇかな。最初に描いた絵よりかずっと明るい配色だぜ」
「……ええ、そうかも知れませんわね」
ハルは集中してカンバスと向き合い、横綱と大関の取り組み風景を描いていた。彩色筆を絵皿につけて色を取り、その色をカンバスへ置いて伸ばしていく。その様子を眺めながら、トモは玅安に訊ねる。
「先生、絵を生業にするというのは、難しいことでしょうか」
「それは本気で聞いてるのか? まだ何の学も無いってのに」
「はい。ハルには、大きな目標を持ってもらいたいと思っております」
「絵だけで生きてくってのは難しいぞ。名が売れるまでは、客の注文通りに日にちをかけて描いても相手が欲しがらなきゃそれでお終ぇよ。置いてやるんだからロハで描けなんて頼まれることもある。それに、自分から棒手振りみたく方々廻って売り込むことが、今のハルにできると思うか?」
「……いいえ。そうでしたか。ただ良い絵を描くだけではいけないんですね」
ハルがカンバスを睨んだまま声を出した。
「トモ、色が無くなっちまったでありんす。土の色をくだせぇ」
「はいはい。ちと待ってくださいな」
トモは棚から岩絵の具の粉を取り出し、絵皿に乗せて、膠を混ぜていく。もう何度も同じ作業をしているから手慣れたものだ。
「おいおい、たまには自分でやらせろよ」
「いいんです。こうしてると、わたしもハルと一緒に絵を描いている気分になれますの」
「そうやって甘やかすと……。まあいいや、片付けだけきちんとしといてくれ」
そう言って玅安は頭を掻きながら二階へ上がって行こうとして、何か思い出したように階段の途中でトモへ顔だけ向けた。
「おいらも少し考えておくよ。ハルの才を伸ばしてやりたいし、せっかくの上手い絵を放っとくってのもなんだか勿体無ぇ。しかし期待はしなさんなよ」
「ありがとう御座います、先生」
にこっと笑ったトモに、ふっと笑い返して彼は階段を上がって行った。そんな話には目もくれず耳も貸さず、ハルは一心不乱に絵を描き続けていた。
「これが土俵です。東側にお嬢様、西側にハル。あ、まずは塩で土俵を清めて、蹲踞して……えぇと足は、こうやってですね……」
早朝の空は雲ひとつ無い一面の白濁の蒼に、囀り飛ぶスズメたちの姿あり。そんな晴れ渡る空の下、ウメによる相撲講義が開かれていた。トモとハルは群青色の甚平を着用し、少し太めの黒帯をしっかり締めて臨む。甚平は丁稚の物を借用しているから、かなり男臭い。
塩を景気よく撒いて邪気を払い、所定の位置でつま先立ちになり膝を折り曲げて座った姿勢になる。それから膝を広げてぴんと背筋を伸ばし、両手を膝の上に。柏手を打って腕をいっぱいに広げる。
「塵手水が終わったら四股を踏みます。見てておくんなし」
ウメは中腰の姿勢から片足をぐわしと高く上げて止め、そこから真下にどすんと下ろしてみせる。ハルは楽しそうに真似事をするが、トモは恥ずかしそうに少しだけ足を上げて凌いだ。
「では、ええでしょうか……はっけよーい!」
相向かいのふたりは地面にまず片手を、続いてもう一方の手をつける。同時に前方へと踏み出して、がっぷり四つに組み合った。
ともに相手の帯を掴んだまま体重を前にかける。トモはハルより少し体格が良いから、ハルが右手に力を入れて帯を引き上げようとしても微動だにしない。
「重いでごぜぇやす! 一体全体何を食ってるんだか!」
「毎日しっかり歩いてお腹を空かせてきた努力の賜物よ!」
「のこった! のこった!」
トモは帯を掴んだ両手に力を込めて持ち上げる。僅かに土から離れた足をばたつかせるも、なす術なくハルはそのまま土俵際まで追い込まれていく。
「ぬがぁっ!!」
ハルは身体を捻り傾け、左足を地面に着けて、左手を引き右手を横に流す。投げ技を受けたトモは、土に描かれた円ぎりぎりのところで踏み留まろうとして失敗。あえなく円外へ飛び出して、すっ転んでしまった。
「お嬢様! ハル、ちいとは加減なさいな!」
「トモ……様が本気なら、あちきもお返ししてやんなきゃなんねぇ」
偉そうな態度で胸を張る彼女に、ウメは絶望の眼差しを向けた。どうやらあの頭には身分とか手心とかいう言葉が足りないらしい。
「大丈夫。少し尻もちをついただけです」
トモはぱん、ぱんと甚平を叩きながら立ち上がる。
その時、母屋から栄達が出てきた。羽織袴に西洋ハットと、なんともちぐはぐな出で立ちに三人は目を見合わせた。
「なんだ、どうした? さあて勧進相撲は両国だ。そろそろ出んと混み合う時間になるぞ」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
栄達、トモ、ハル、ウメの四人は鉄道馬車を降り、隅田川にかかる橋を渡って両国へ。トモの母ミヨは人の多い場所が苦手と言って留守番だ。珍しく華やかな桜色の着物に纏わりつかれたハルは、裾を気にしたり襟を何度も直したりとそわそわ落ち着かない様子。
大通りを進むと、立ち並ぶ茶屋に挟まれた大量の往来があった。皆が隣と押し合いへし合い不自由そうに行き交う。高く聳える太鼓櫓を見上げつつ群衆を突っ切るように歩き、寺院の山門を一礼してくぐる。
「うわぁ、人ばっかり。たいそうな賑やかさでありんすねぇ」
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「それ何でぃ? ウメ」
「力士の順位が書かれてるんだよ。あ、東の張出に横綱の名があるね。やぁ、名前だけで格好いいわぁ」
艶っぽい声を出し両手を頬に当てくねくね動くウメを見て、ハルの背筋に悪寒が走った。
栄達は札場で木戸銭を払い木戸札を頂いて、仮設で拵えられた巨大な相撲小屋へ入った。三人を引き連れ木階段を上がって葦簀張りの桟敷席に陣を取る。
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「桟敷席は高いのよぉぉ。力士がよく見えるからねぇぇ」
「ウメ、その喋り方やめておくんなせぇ。ひどく怖ぇですぜ」
「いいじゃないのよぉ、あっしだって初めて来るんだし……」
冷や水を浴びせられたようにしゅんとして、ぷいと顔を背け、腕を組んで黙ってしまった。静かになってくれてハルは大いに満足だ。この先はできるだけ刺激しないぞと心に決めた。
力士たちが場内に入ってきた。ずらずらと並んで歩き、待機所へ向かう。その光景にウメが再び元気を取り戻す。
「さぁ、下の順位から出てくるよ。それで段々と上の位の力士が出てくんだ」
「へぇ。弱っちいのからやるんだ」
「あんた弱いなんて言って。そんじょそこらの男が太刀打ちできるもんじゃないんだからね」
呼出の声で大きな図体が二人、待機所から出てきて土俵に上がる。相撲小屋へ詰めかけた何千という観客の声援が、わぁっと場内の空気を震わせた。
「ねえウメ、塩は撒かないのかしら」
「力水も塩も、十両からです。そのうち見られますよぉ」
取り組みが始まり、もの凄い迫力の力比べや技の応酬一つ一つに歓声が上がる。四人も思い思いに声を出して応援する。
序ノ口から取り組みが始まり、序二段、三段目、幕下へと進んでいった。
そしてお次は十両と幕内の番だ。化粧まわしを着けた力士たちがずらずらっと並んで現れ、土俵入りする。にわかにウメの声が大きくなった。右耳に人差し指を軽く突っ込んだハルに、トモが左側から話しかける。
「ウメ、本当に楽しそう。連れてきて良かった」
「近頃いっつも井戸端で相撲のことばっかり喋くって、うるさかったのなんの。今も存分にうるせぇでありんすが」
トモとハルは微笑む。
十両、幕内力士たちが柏手を打ち、軽く四股を踏んで、順番に下りていった。全員が捌けた後、注連縄を着けて男の粋を全身に纏ったかのような巨体が土俵を踏む。
ウメが失神覚悟の大声を上げる。
「ゔおおわぁぁぁぁあ!」
隣のハルは思わず両手で耳を塞ぐ。だがその右腕はぐいっとウメに取られ、ぐわんぐわん振られる。
「あれが横綱だよぉ。やっぱり、格好良いねぇ。ねぇ!」
「う、うん。左様でござりんすね……」
揺すられ続ける視界の中で、横綱が四股踏みとせり上がりを繰り返す。四股踏みの度に観客たちから「よいしょ!」と大きな声が上がる。
露払い、横綱、太刀持ちの順番で退場し、ほどなく十両から取り組みが始まった。
やはり精鋭による相撲は迫力が段違い。土俵上の一挙手一投足にいちいち身を震わすほどの歓声が起こる。
十両、前頭、小結、関脇、大関と出場して取り組みは進み、盛り上がりも最高潮に達したところで、ついに横綱と大関が土俵に立った。東に横綱、西に大関だ。ふたりとも景気良く塩を撒き、横綱は力水を口に含んで吐く。ぴりぴりした緊張感の中、塵手水をして四股を踏む。
両者が仕切り線の前で蹲踞の姿勢を取り、前のめりになる。片手をついて……両手を土につけた瞬間、勢い良く前に飛び出しぶつかった。ばちんと衝撃を生んで離れて、ともに上半身が起きあがり一瞬の硬直、場内はひときわ大きな歓声に包まれる。
先に体勢を立て直した横綱の力は凄まじく、腕を伸ばして大関を寄せ付けない。張り手でどんどん進み、あっという間に土俵際まで追い込み、最後のひと押し……を躱わされた。
大関が姿勢を低くして相手のまわしを掴み、勝負俵を蹴って前に出る。体勢を崩されながらも横綱は右手で相手のまわしを取り返し、身体をひと捻りして捨て身の投げを放った。
ふたりは無理な姿勢で倒れ込み、それぞれ肩から土に落ちた。ごろんと横転しながら行司の動作に目をやる。観衆の視線も一斉に軍配へ集中する。
栄達が目を見開き、身を乗り出して呟く。
「どっちだ?」
そして行司の軍配は、東側へ振られた。
観客たちの大声が場内に轟く。ハルは両手で耳を塞ごうとするが、やっぱりウメに手を取られた。すぐ近くで耳をつんざくようなけたたましい声が発せられ、耳はきーんと鳴って自ずとあらゆる音を遮断することとなる。
「やったあぁぁあぁあ! どぅわぁああぁあぁああ!!」
叫びに叫んで、ウメは失神して仰向けに倒れた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「……ということがありまして。あ、女中はすぐに息を吹き返しました」
「面白ぇ奴だな。そんでハルは今日、相撲の絵ばっか描いてるってわけかい」
玅安がほうほうと頷きながら、カンバスに描かれた絵を観ている。
「凄い凄い。動きの表現が日本画の域を越えてら。カンバスの中で今にも相撲をおっ始めそうだ」
「わたしはもっと、こう、綺麗な風景なんかを描いてほしいのですが……」
「まあ、いいんじゃねぇかな。最初に描いた絵よりかずっと明るい配色だぜ」
「……ええ、そうかも知れませんわね」
ハルは集中してカンバスと向き合い、横綱と大関の取り組み風景を描いていた。彩色筆を絵皿につけて色を取り、その色をカンバスへ置いて伸ばしていく。その様子を眺めながら、トモは玅安に訊ねる。
「先生、絵を生業にするというのは、難しいことでしょうか」
「それは本気で聞いてるのか? まだ何の学も無いってのに」
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「絵だけで生きてくってのは難しいぞ。名が売れるまでは、客の注文通りに日にちをかけて描いても相手が欲しがらなきゃそれでお終ぇよ。置いてやるんだからロハで描けなんて頼まれることもある。それに、自分から棒手振りみたく方々廻って売り込むことが、今のハルにできると思うか?」
「……いいえ。そうでしたか。ただ良い絵を描くだけではいけないんですね」
ハルがカンバスを睨んだまま声を出した。
「トモ、色が無くなっちまったでありんす。土の色をくだせぇ」
「はいはい。ちと待ってくださいな」
トモは棚から岩絵の具の粉を取り出し、絵皿に乗せて、膠を混ぜていく。もう何度も同じ作業をしているから手慣れたものだ。
「おいおい、たまには自分でやらせろよ」
「いいんです。こうしてると、わたしもハルと一緒に絵を描いている気分になれますの」
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そう言って玅安は頭を掻きながら二階へ上がって行こうとして、何か思い出したように階段の途中でトモへ顔だけ向けた。
「おいらも少し考えておくよ。ハルの才を伸ばしてやりたいし、せっかくの上手い絵を放っとくってのもなんだか勿体無ぇ。しかし期待はしなさんなよ」
「ありがとう御座います、先生」
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