狗神村

夜舞しずく

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第三章

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わたしは、起きると身体がボロボロになっていて、ずっと耳元から男性の低い声でなにかを言っているのが聞こえる。そのせいで寝不足になっていた。

帰っても、莉子がいないことにハッとする。おもちゃや洗濯物は片づけられない。娘が明日にでも、ひょっこり現れると期待しているから。

寝不足のせいか、仕事にも集中できない。

もうダメだ。家に辿り着くのがやっとだった。玄関の床に倒れ込みそうになっていたとき、呪術師から電話が掛かってきた。右腕に強烈な電気が走るような痛みで、うずくまりながら応答していた。

「秋月さん、いまから行くので、準備してください」

決死の思いで出たのに、ひとことだけ喋ってすぐに切れた。不思議なことに、動けるぐらいの痛みに治まってきた。それから、長文のメールがやってきていた。

言われたことはすべて用意し終わったと思う。緊張と痛みで冷汗が止まらない。

まずは、部屋中の窓のロックをかけて、玄関の鍵を真っ先に閉めた。

丸い鏡もきれいに磨いておいた。本当は真四角の鏡がよいらしいけれど、わたしは持っていなかった。学生の頃、元カレから誕生日プレゼントでもらったジルスチュアートの手鏡で代用した。水で濡らした雑巾でピカピカになっている。

日本酒と盛り塩を玄関に飾っておいた。

本当に夢だったらいいのにと考え始めてきた。

莉子の行方が心配でならない。そもそも生きているのか、死んでいるのか、それすら分からない。そして、本当に呪術師に頼んで、なんとかなるものだろうか。

いくつもの不安が頭の中を堂々巡りになっている。部屋の中には、数日前まで莉子が遊んでいたクマのぬいぐるみや絵本が転がっていた。まだ生きていると信じたいから、そのまま片づけずに置いてある。

あとは、何をすればいいんだっけ。冷静になって、ひとつひとつ電話で言われたことを思い出してみる。考え込んでいると、家のインターホンが鳴った。

三回ほど鳴ると、同時に呪術師からの電話が鳴っている。スマホを手に取ってスピーカーにして聞いていた。

「準備してくれたようですね。ありがとうございます。今からドアを開けるので、秋月弥生さんはお風呂場に行って全身に塩を振りかけてください」

「それがあれば悪霊は近寄れません。終わったら、そのまま洗面所の鏡をきれいに拭いて、待機していてください」

「分かりました。こ、これから、どうなるんでしょうか?」

電話越しでも分かるような明瞭な口調と、冷静かつ落ち着いた声で話していた。わたしは、さっきから手の震えが治まらない。

「大丈夫です。まだ来るわけじゃないので。これから、あなたに憑いてくる悪霊を呼び込みます」

「む、娘は、無事ですか?」

ぬいぐるみを手に取りながら、娘の分身だと思って、ぎゅっと抱きしめていた。

「これからの状況にかかっています。わたしは、いままで百発百中、ご依頼を成功に導いてきた呪術師です。安心して任せてください」

いまは、信じてやってみるしかない。電話を切って、わたしはお風呂場に向かった。言われた通りに服の上から塩を全身にくまなく振りかけた。

少しも摂り残しがないように。虫よけスプレーをかけるときの要領だ。少し気を抜いた手の指を、蚊に刺される、なんてことがないように気をつけなきゃ。

次に、鏡にクエン酸のスプレーを振って、隅から隅まで反射するぐらいに磨きをかけた。これで、電話をかけたら呪い返しがはじめってしまう。

いまにも心臓が張り裂けそうで、音が聞こえるぐらいに緊張しつつ、自分の気持ちに敏感にならざるを得なかった。小さく深呼吸をして、リダイアルをする。

「で、できました」

思ってもみないほどのか細い声しか出てこなかった。相手の声が自信満々でしっかりとした口調だから、余計に小さく聞こえるのかもしれない。

「ご協力、感謝いたします。では、玄関の鍵を開けてください」

彼女の自信たっぷりな口調で気分を落ち着かせながら、これまでのことを思い返していた。

「これから、アイツを呼びだします」

「は、はい」

わたしは、震えが止まらなかった。呪術師のパワーよりも、玄関を開けた瞬間に、空気が変わったのを感じた。少し澱んだ空気が、身体中に纏わりついてくる感覚がした。

呪術師は数珠を腕に付けて、小学生のとき使っていた薄汚れた雑巾を手に取っていた。そして、鏡を隅から隅まで丁寧に磨いている。わたしも言われていた通り、準備していた。法事で使っている水晶で出来た半透明の数珠を、左腕につけた。

「少しまずいですね。わたしも今まで見たことがないぐらい、巨大な狗神の呪いがやってきています」

右腕に鋭い電気が走るような痛みがやってきた。わたしは、思わず、腕を抑えて、呪術師の方を凝視してしまった。呪術師は、さっきとは打って変わって、様子が違う。額に汗をかきながら、わたしの背後を睨みつけている。

「ちょっと手荒な手法になりますが、しょうがないですね。除霊をします」

「そ、それは、どういう」

「すみません。説明している時間はありません。何とか耐えてください」

洗面所の鏡に布をかけたかと思ったら、全身が焼かれているかのようなジリジリとした痛みがやってきた。いちばん痛い右腕を見てみると、赤く腫れあがっている。

床に寝転んでも痛いし、かと言って、立っていても足の裏が圧迫されて経っていられなくなる。それに加えて、空気に触れている部分が、どんどん痛みが強くなっていく。

呪術師が布を外した瞬間、大きな気配を感じた。犬の遠吠えが聞こえる。

「た、助けて」

呪術師を睨みつけるものの、何も言わずに悪霊の方を向いていて、まるでわたしの声が届いていないみたい。声にならない声を叫びながら、床を這っていた。

立ちあがって、早く逃げたい。どこかに消えてしまいたい。こんな痛い思いをするくらいなら、死んだほうがマシかもしれない。

弥生には姿形は分からないけれど、大きな黒い影が上にあるのを感じて怯えていた。怖くて上を向くことができない。それ以上に、全身の痛みが強くなって、少し手を動かすのが精一杯だった。

少しだけ気配がなくなった気がした。これは、台風の目のように最も危ない場所にいるのか、それとも、除霊が進んでいるのか。さっぱり見当も付かなかった。

部屋は電気が付いているのに、真っ暗で何も見えない。

「今だ!」

呪術師の明瞭な声が聞こえたと同時に、背中に何かを貼られた。スッと全身の痛みが引いて、瞬時に立ち上がれるようになった。すると、再び、大きな黒い影の気配がした。

逃げなきゃ。背中を向けて、必死にリビングに向かっていた。何匹もの犬の唸り声が聞こえる。その”何か”が主人公の身に突撃してきた。一瞬見えたのは、鋭い歯で腕を噛みちぎられそうになったこと。
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