狗神村

夜舞しずく

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第一章

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学芸員の資格は持っている。大学のときに、単位を埋めるために取ったやつ。全く知識も興味もない歴史資料部門に配属が決定するなんて。段ボールを持ちながら部署を出た。

渡された地図を見てみると、地下を指し示している。この建物に地下なんかあったっけ。誰にも引き留められなかった。

仕事が忙しくて、他人に構っている暇がないのかもしれない。一階まではエレベーターを使った。そこからは階段だった。右手の奥を見てみると、電気が付きっぱなしになっている小さなところがある。

おそるおそる降りると、一室だけある小さな場所だった。廊下まで段ボールが置かれていたのを見て、思い出した。入りたての頃に、備品を取りにやってきた場所だ。

普段は倉庫として使われている場所にも、部署があって、ひとが働いていたことすら知らなかった。

本当に今日から、ここで働くことになるのか。急に気が重くなってきた。

ドアを開けてみると、笑い皺が刻まれた優しそうなおじいさんが出迎えてくれた。眼鏡をかけていて、いかにも定年間近まで、暇な部署に来たような人だった。

「ようこそ、いらっしゃいました。わたくし、柳と申します」

「初めまして、秋月です」

ていねいなお辞儀をしてくれた。

「秋月さんは、そこの席だからね」

PC一台だけが置かれている小さなデスクだった。あまりにも閑散としていて、同じ建物内だとは思えなかった。
見渡してみても、あるのは段ボールと歴史関係の資料や備品だらけ。

元の部署に置いていたように、クッションや書類を簡単に配置した。残りのものは、足元に置いておいた。

おじいさんは、柔らかい笑顔を絶やさず、わたしの様子を見守っている。しっかりとした装備ではあるものの、周囲は備品で溢れている。

目の前には、暗い顔をした四十代くらいの女性が何も言わずに座っていた。黙りこくって、ものすごいスピードで何かを打ち込んでいる。

「何かあったら、あの人に聞いてね」

「はい」

「ちょっといいかな? 新人の秋月弥生さん。色々と教えてあげてね」

「初めまして、小河原です。よろしくお願いします」

女性にしては低めの落ち着いた声をしている。オフィスカジュアルを崩さず、黒縁メガネをかけている。
見た目は最低限の気しか使ってなさそう。

ショートヘアでメイクも薄め。というより、全くしていないように見えた。簡潔に挨拶を終えたら、再び静まり返ってしまった。

「では、わたしはこれで失礼しますね」

自分の席に戻りかけたから、すかさず引き留めて聞いてみた。

「あの、ほかの従業員の方はいらっしゃらないんでしょうか?」

「はい、人が少なくて、秋月さん含めて三人ですね」

どうやら、わたしは過疎化しつつある暇な部署に飛ばされたようだ。

「わたしは、何をすればよいでしょうか?」

「研究者さんから送られてきた書類の整理と、問い合わせの対応ぐらいかな」

「それだけですか」

これで給料が変わらないのだから、早く受け入れるしかないのか。納得いかない。わたしは、もっと仕事がしたかったのに。子どもがいるからって、重要な仕事を任せてもらえないなんて考えもしなかった。

「あとは、隣の部署に課長の上田くんがいるから、一緒にあいさつしに行こうか。何かあれば承認するのはあの人だからね」

まだ部屋があったのか。廊下の一番奥の方に、社長室のように大きな机と椅子が置いてある部屋があった。どこか扉も厳重になっている気がした。

気のせいかもしれないけれど。柳さんの後に付いて行って、部屋に入った。三十代くらいのスーツを着た男性。返事だけで、一切、こちらを振り向かない。

挨拶をしても同じ。少しだけ顔を見たら、「ああ、よろしくね」とだけ、面倒そうに言っていた。またすぐに業務を始めてしまった。これまた、違う人種を見てしまったようだ。

部署に戻ったら、どっと疲れが押し寄せてきた。本当に何もすることがない部署に左遷されちゃったんだ。仕事をバリバリしたかったのに、もうできないんだ。

書類の整理はしたけれど、本当に何もすることがなかった。問い合わせと言っても滅多にやって来ない。

ひまだなぁ。ため息をつきながらデスクに頭だけで寝そべっていた。柳さんが部屋の隅にある冷蔵庫のほうに向かっていた。

「ちょっと待っててくださいね」

持ってきたのは、生チョコレートだった。

「この前、お土産で買ってきてくれたものだよ」

「仕事はいいんですか?」

「いまは特に用事もないし、おやつタイムにしましょう」

時計を見てみると、十五時を指していた。間に合わない。

「そろそろ、わたしは娘を迎えに行かないと」

「分かりました。大丈夫ですよ」



それからは、退屈な日々がつづいていた。保育園には行けるし、仕事もすべてこなせる。

前の部署に戻りたいとは考えていたものの、人事の言っていた通り、こっちのほうが悪い条件じゃないのかもしれないと考え始めていた。ほかの部署から展示会の人員要請が送られてきた。

小河原さんが行くことになった。ほんとうに人手が足りなくなったら、わたしも駆り出されるかもしれないとのこと。

静かな事務所にいるのも気が狂いそうなので、事務作業が終わったら率先して書類整理をしていた。蒸し暑い倉庫には、大量の古文書が並んでいる。

銀色で金属質の脚立に乗りながら、新しく入ってきた資料を順番に並べ替えていた。一人で作業をしていると、小河原さんが入ってきた。タオルを首に巻いて、うちわで顔を扇いでいる。

「今日も暑いねぇ。大丈夫?」

「小河原さん、ありがとうございます」

入ってくるなり、すぐに声をかけてくれた。

「本当に?」

「いや、でも、みなさん展示会の準備でお忙しいと思うので、大丈夫です」

心配そうにしている。わたしは、できるだけ貸しを作りたくない。ただでさえ、シングルマザーで周りの人たちにご迷惑をかけているから、頼まれた仕事ぐらいはちゃんとしたいのだ。

最近の小河原さんは目の下にうっすらとクマができている。だから、余計に手伝わせるわけにはいかない。

「そう、わたしに手伝えることがあったら、何でも言ってくださいね」

小河原さんは小走りでドアを出て行った。ひたすらに研究者からもらった資料を順番通りに並べ替えている。だれも整理しないけれど、たまにやっておかないと、何がどこにあるか分からなくなるから。

倉庫内までセミの声が鳴り響いている。パートを始めたばかりの頃は、この仕事がつらかった。三か月が経っている今なら、こんな雑用であれば自分だけでもこなせるようになってきた。

置かれた折り畳みコンテナには、研究者から送られてきた昔の教科書や古文書が乱雑に入っている。いつか展示するかもしれないし、問い合わせが合ったら即座に送れるように整理して置く必要があるみたいだ。

作業途中、上の古い資料を新しいものに入れ変えようと思ったら、事務室から電話が鳴った。時計を見ると、ちょうど一四時を指していた。いくら待ってみても、だれも出る気配がない。

「そういえば、この時間って誰もいないんだっけ」

急いで脚立を降りて、事務所に走った勢いで受話器を取った。

「はい、倉敷市くらしき歴史資料館 の秋月です。どういったご用件でしょうか?」

「倉敷歴史民俗研究所で日月神示の研究をしている者ですが、そちらに資料があるとお伺いしまして。探してもらえませんか?」

「承知いたしました。見つかり次第、折り返しご連絡いたします」

そこで、電話が切れてしまった。意味が分からない。でも、いつもお世話になっている研究所からの問い合わせだから、確認だけでもしなきゃいけないと感じた。
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