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14 訳アリの人間関係(3)
しおりを挟む次の朝、伊月は、まだ暗いうちに目を開けた。目を開けると、すぐ近くに巧の顔があって驚いたけど、声は出さなかった。伊月は、ベッドサイドの時計を見た。
時計を見ると、まだ5時だった。
(5時か……まだ早いけど……)
昨日は、普段では考えられないくらい早く寝たので、早く目が覚めてしまったようだ。
伊月は、隣で寝ている巧を起こさないように、静かにベッドを抜け出ると、露天風呂に向かった。
「ああ、朝風呂とか……最高だな……」
ここのお風呂は、深夜の12時までは入ることができる。そして、12時からは、清掃作業が行われ、午前4時には、再び、温泉に入ることができる。室内は完全防音なので、清掃作業の音は一切聞こえない。今は、5時なので、露天風呂にはお湯が並々と注がれていた。
伊月は、のんびりと、露天風呂に浸かった。
本当に最高だ……普段の生活を忘れてしまいそうだと思った。
「はぁ……若返りそう……マジで……」
伊月が、露店風呂から上がると、また6時前だった。
(まだ早いな……散歩でもするか……)
身体を覚ますために、外に出ることにした。
女性物の下着とワンピース。そして、スカーフで喉元を隠して、ウィッグをつけて、深い帽子を被った。まだ早朝なので、ほとんど人はいないだろうと思ったのだ。
伊月は、初日に行った庭園のベンチに座った。
やはり誰もいなかった。
女性物の服を着てウィッグはつけているが、化粧はしていない。
出来れば誰にも会いたくないと思っていると、近くで、砂利をならす音が聞こえた。
ふと、視線を上げると、少し離れた場所で京介が、日本庭園の砂利を整えていた。
(京介も忙しそうだよな……他に従業員はいないのかな?)
伊月が、庭を整えている京介を見ていると、視界に、あの奥野代議士の美しい夫人の姿が映った。夫人は、京介とあいさつを交わしていた。
(遠くからでもキレイだな……)
伊月が、ぼんやりと奥野夫人に見とれていると、夫人と目が合った。
伊月が慌てて、頭を下げると、奥野夫人も柔らかく微笑んで、頭を下げてくれた。
本当に美しい人だ。
化粧品会社の目指す理想というのは、まさに彼女のような肌艶なのかもしれない。
もし、これが、この温泉の効果だというのなら、絶大な効果だ。
伊月がぼんやりと、奥野夫人のことを考えていると、夫人がこちらに歩いて来た。
「おはようございます。お隣よろしいでしょうか?」
信じられないことに、伊月は奥野夫人に声をかけられた。
「どうぞ……」
伊月の心臓は、大きく脈を打っていた。だが当然だ。これほどの美人が、自分の隣に座ったのだ。しかも、人妻だ。うっかりどうぞと言って、しまったが、本当によかったのだろうか?
伊月が心臓を高速回転させていると、奥野夫人が微笑みながら言った。
「巧さんとは、何度かお話させてもらったことがあるのですが、奥様とお会いするのは初めてですね」
(あ……そうだ……今……この人との関係は同性だった……)
伊月は、自分が女装をしていることを忘れて、舞い上がっていたことを恥じた。
自分は今、巧のパートナーという位置づけなのだ。そうでなければ、こんな美人に声を貰えるはずがない。
伊月は、心から血を流しながら答えた。
「巧さんとは、結婚はしておりません」
これは事実だ。
嘘ではない。
まぁ、伊月と巧が結婚するとこなど、どう考えてもないのだが。
「それは……失礼を……」
「いえ……」
気まずい空気を返るために、伊月が微笑みながら言った。
「ここは、気持ちがいいですね。それに、玉砂利の音を聞いていると落ち着くというか……」
先ほどから、京介が庭を整えるために小気味よい音が響いている。
そのことを口にすると、奥野夫人が笑顔になった。
「私も、そう思います。だから、私、滞在中は、毎日この時間に、ここに座って、玉砂利の音を聞いているのです」
「毎日ですか……でも、わかる気がします。癒されますよね。この音」
「そうなのです」
それがきっかけになり、伊月と、奥野夫人は、様々な話をした。
そして、いつしか、部屋の絵の話になった。
「ああ、そうだ。これから、部屋に見に来られますか?」
「いいんですか?」
「はい。どうぞ。部屋の前でしたら、問題ないと思いますし」
正直に言うと、奥野代議士には会いたくないので、巧は、いないが、今、見るしかない。
「お願いします」
「ええ、ではどうぞ」
こうして、伊月は奥野たちの部屋の絵を見れることになったのだった。
共通スペースのラウンジに戻ると、時計があり、7時が近かった。どうやら、伊月と、奥野夫人は、一時間近くも話をしていたようだった。
静かなラウンジを通り抜けて、奥野たちの部屋の通路に入った。
そして、部屋の前に着いた。
奥野たちの部屋には『九の間』と書かれていた。
(二十三じゃなかったな……九か……)
そして、伊月は絵を見た。
ハートの葉に、四枚の花びらのように見える花の中央につくしのようなものがある。
(これは、間違いない。ドクダミだ)
伊月がじっと見つめていると、奥野夫人が呟いた。
「まるで、泣いているようだわ……」
「え?」
伊月は、先ほどまで明るく話をしていた奥野夫人とは、あまりに、感情のない静かな声だったので、思わず顔を上げた。
「ありがとうございました。それでは、部屋に戻ります」
「ええ」
伊月は、夫人と別れると、ラウンジに戻った。
その姿を、夫人はじっと見つめていたのだった。
☆==☆
伊月は、奥野たちの部屋の通路の前で、忘れないうちにメモをしようと、立ち止まってポケットの中を探っていると、誰かに肩を抱かれた。
「こんな朝早くに……もしかして、本当に会いに来てくれたの?」
(げ!! この声は……!!)
伊月が顔を上げると、やはり奥野だった。
「いえ。偶然通りかっただけです」
伊月の言葉に、奥野が伊月の耳元に顔を近付けながら、怪しく言った。
「こんなところを? 偶然通りかかったの? こんな時間に?」
そう言うと、奥野は、伊月の背中や頬を撫で上げた。
「ひっ!」
伊月は思わず声を上げて、離れようとしたが、奥野に、腰を抱かれていて逃げられなかった。
「君、素顔の方が、可愛いね」
(…………それは、マジで凹むから止めて……俺、これでも男だから……)
「あら……何してるの?」
伊月がげんなりしていると、ラウンジから、美香が現れた。美香は、笑顔を装ってはいるが、目は笑っていない。
怖すぎる。すると、奥野が笑顔で何事もなかったかのように答えた。
「偶然、ここで会ったんだよね、伊月さん」
「偶然ねぇ~~」
美香が、伊月に、鋭い視線を向けながら言った。
仕方なく、伊月はことの経緯を説明することにした。
「今、奥野夫人に、部屋の前の絵を見せてもらっていたのです」
「部屋の前の絵?」
美香が、片眉を上げた。伊月は、この機会に、美香の部屋の絵も見せてもらえないかと尋ねることにした。
「あの、よかったら、部屋の前の絵を見せてもらえませんか?」
伊月が、頼むと美香が困った顔をした後に、意味深な顔をしながら、奥野を見た。
「え? ええ、それはいいけど……お邪魔じゃないのかしら?」
「そんなことはないよ」
奥野が笑顔で答えた。
美香は、小さく息を吐くと、伊月を見ながら言った。
「……いいわ。でも、部屋には入れないわよ?」
「はい、では、奥野さん失礼します」
「ああ。またね」
こうして伊月は、美香の部屋の絵も見れることになったのだった。
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