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13 訳アリの人間関係(2)

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 しばらくすると、カウンターの中に京介が現れた。
 
(京介……料理も担当していたのか……)

 伊月が、少し顔を下げて、京介と目を合わさないようにしていると、京介が皆を見ながら口を開いた。

「皆様、お待たせ致しました。大変申し訳ございませんが、先ほど、女将の陣痛が始まったと連絡があり、旦那様は病院に向かわれました」

 ここに来た時、駐車場で見た映像に女将のような和服の女性が映っていたので、こっちに来たら、会えるかと思っていたが、会えなかったので不思議に思っていたが、どうやら女将は、出産のため病院にいたようだった。
 
「初産は時間が掛かるっていうけど……個人差があるから……間に合うといいわね。ここから病院まで結構時間がかかるのでしょ?」

 すると、奥野とキスをしていた知的な雰囲気の女性が口を開いた。

「そうですね……。一時間半くらいでしょうか。旦那様が戻られましたら、皆様へ、あらためて、お詫びと報告をされると思います。ですが、本日の皆様のお食事は、旦那様がご準備されましたので、どうぞ、ご心配なさいませんように」

 どうやら、料理を担当しているのは、この旅館の主人のようだった。
 宿泊客の夕食を準備してから、病院に向かったのだろう。

 伊月にとって、出産というのは全く、遠い世界の話だった。
 ずっと、彼女もいない。結婚さえも出来るかどうか、全くわからない。だから、正直、子供と言われても実感がない。

 伊月が顔を下に向けて考えていると、京介は、皆の前に、小さなグラスを差し出した。

「こちら、食前酒になります。当旅館の当主にのみに作り方が伝えられる、一子相伝の薬膳酒となっております」

 まずは、食前酒が振舞われるようだ。説明を聞くと、なんだか大変なお酒のようだった。
 伊月は、お酒は問題なく飲めるので、食前酒を口に入れた。
 
(ん? なんだ……このお酒は……)

 春の花が香るような甘い匂いがするのに、舌に乗せた感覚は、かなり重い。独特な味がするのに、香りのおかげで、サラリと喉を通り抜けた。

「あ……やはり、これは美味しいな」

 奥野が目を閉じた。奥野は苦手だが、それには激しく同意だ。こんなお酒、初めて飲んだ。

「本当に美味しいわ。それにこれを飲むと、お腹が空くから不思議ね」

 京香も目を細めながら言った。
 巧は、少しづつ、少しづつ、食前酒を味わっていたのだった。


☆==☆==


 それからも、季節の山菜や野菜を使った料理が振舞われた。
 独身、彼女なし、一人暮らしで、しかも残業続きのサラリーマンの伊月にとって、これほど、丁寧に、丁寧に時間をかけて作られた食事を口にするのは、久しぶりのことだった。

(ああ、こんなに手の込んだ料理を食べるのは久しぶりだな……)

 伊月は、心もお腹も満たされた。
 食事が終わると、すぐに、奥野の隣に座っていた美しい女性が席を立った。

「ごちそうさまでした。あなた、私は、先にお部屋に戻ります」

「ああ」

 女性は、奥野に戻ると告げると、部屋に戻った。
 いつものことなのか、奥野は、特に気にすることもなく、ゆっくりと、食後のお茶を楽しんでいた。
 それからしばらくして、「私も失礼するわ」と、庭で奥野とキスをしていた女性も、席を立った。
 すると、奥野もいそいそと、席を立った。

「私も失礼します。それでは、皆様、お先に失礼いたします」

 そして、奥野も部屋に向かって歩いて行った。
 ここからだと、2人で女性の部屋に向かったと断言することは出来ないが、伊月は、絶対に奥野は、あの女性の部屋に行ったのだろう、と思った。
 伊月が、不審に思っていると、京香に声をかけられた。

「巧くん。ラウンジで少し話せない? もちろん、伊月さんも一緒に」

 巧は、伊月を見て瞳で『どうする?』と言っているようだった。
 伊月は、静かに頷いた。
 そして、巧は、京香に笑いかけながら言った。

「では少しだけ」

「じゃあ、ラウンジに行きましょう」

 こうして、俺たちは、3人でこの旅館のラウンジに向かったのだった。



☆==☆==



 ラウンジからは、日本庭園が見えた。
 日本庭園は、ライトアップされていて、とても美しかった。
 伊月たちは、ラウンジに用意してあるドリンクをそれぞれ、好きに飲むことにした。

「私、ここの自家製ヤマモモのお酒が好きなの」

 そう言って、京香は嬉しそうに、ヤマモモのお酒を飲んだ。伊月も、京香がおススメだというヤマモモのお酒を選び、巧は、梅と蜂蜜のシャーベットを食べていた。
 ヤマモモのお酒は確かにとても美味しかった。ほのかな甘さとヤマモモの香りがとても癒される。
 だが、伊月は、巧が美味しそうにシャーベットをを食べているのを見て、自分も食べたい、と思った。
 
(ん~~でも、もうヤマモモのお酒を頂いたからな~~あまり食べるのも、旅館の方に悪いよな……)

 伊月は、シャーベットを食べるのを我慢したのだった。
 それから、お酒も進んできた京香と、他愛のないおしゃべりになった。
 そして、気が付くと、二時間ほどラウンジで話をしていた。


「え? 部屋の前の絵??」

 話の流れで、京香の部屋の前に飾ってあった絵について尋ねてみることにした。
 京香は、困ったような顔をしながら言った。

「ん~~絵? 覚えてないわね~~そんなのあったかしら? あ、そうだ。見に来る?」

「いいんですか?」

 伊月が即座に尋ねると、京香はくすくすと笑いながら「いいわよ」と言った。

「あ、でも、顔認証していないと入れないのでは?」

 伊月の言葉で、京香は意味深な笑顔で答えた。

「通路の先の部屋に泊まっている人間が、一緒にいるのなら入れるわ」

 伊月と巧は、顔を見合わせて、「お願いします」と言ったのだった。
 それから、京香と3人で京香の部屋の前まで来た。

 『十三の間』

 京香の部屋には十三と書かれていた。伊月と巧の部屋が、三だったので、てっきりその前後の二や四という数字かと思っていたので、十三というのは意外だった。

「これは『スギナ』か……」

 巧が、上を見上げながら呟いた。

「これは『スギナ』ですね」

 スギナのはかまと呼ばれる特徴的な葉がかなり精巧に彫られていた。これはスギナに間違いないだろう。

「もういいの?」

「はい、京香さん、ありがとうございました」

「いいのよ」

 確認もしたので、ラウンジに戻ろうとすると、通路を抜けた先で、ばったりと奥野と出会った。
 奥野は、熱っぽい瞳で、伊月を舐めるように見た後に、巧を見ながら言った。

「へぇ~。三人で……意外ですね」

 三人が意外とは、どういう意味だろうか?
 伊月が首を傾けていると、京香が声を上げた。

「邪推は止めて下さい。巧くんとは、同じピアノ教室だっただけです。部屋の前の絵を見ただけですわ」

 邪推?
 邪推とはどういう意味だろうと考えて、伊月は奥野の意図を汲み取り、本気で意味がわからないと思った。
 伊月が、下を向いている間にも会話が進んで行った。

「部屋の前の絵?」

 奥野が、首を傾けた。

「そう、各お部屋の前に、絵が飾ってあるんだそうです。それを見ただけですわ。私と一緒じゃなければ、入れないので。巧くん、伊月さん。行きましょう」

 京香が、先にラウンジに向けて歩き出したので、巧と伊月も、京香の後を追った。
 これまで、ずっと冷静だった京香が、まるで子供のように不機嫌になったので、伊月は不思議に思った。

(なぜ、京香さんはこれほど、ムキになるんだ?)

 京香と巧を追っていた伊月は、奥野に手を握られた。

「私の部屋の絵。……見たかったら、明日の朝に見せてあげようか? 二人きりで」

 ぞわぞわと全身に鳥肌が立つが、部屋の絵は見たい。
 伊月は「考えておきます」と答えると、巧たちを追ったのだった。

 
 ☆==☆==


 それから、巧と伊月は京香と別れて、部屋に戻った。
 時計はすでに午後の9時を過ぎていた。

「京香さんの部屋、『十三の間』で、『スギナ』でしたね」

「そうだね……」

 伊月が、ソファーに座り、メモを取りながら言った。

「ここが、『三の間』で、『十三』次は、『二十三』でしょうか?」

「ん~~。よくわからないな……そもそも、以前ここに滞在した時、部屋の前にこんな絵と数字が飾ってあった記憶がない。もし、あったら絶対に気付きそうなんだけどな……」

 そう言われてみると、幼い頃からこの宿の常連だった好奇心旺盛な巧が気づかないわけがない。
 それに、『三の間』『十三の間』と、書かれた板は新しいのに、植物の絵の方の板は随分と古いものだったのだ。
 ということは、最近になって、あの板は設置されたということだろう。
 どういうことなのか、わからない。

(ん~~昔はなくて、最近、設置された。でもそれ以上はわからないな……それより……) 

 伊月は、巧に、先ほど気になったことを尋ねることにした。

「巧さん、さっきの食前酒……何か気になることでもあったんですか?」

 伊月は、どうしても、先ほどの巧の食前酒を検品するかのような態度がとても気になったのだ。
 他の料理は、普通に楽しんでいたようだったのに、あの食前酒だけは他と全く違う態度だった。

「あ~~そんなに不審だったかな?」

 伊月の言葉に、巧が困ったように言った。

「不審っていうか……いつもの巧さんと違うと思っただけです。あの食前酒だけ表情は違ったから」

「なるほど……」

「まぁ、それなりに長い付き合いなので、なんだか検品中のような顔をしているな、と思って」

 巧は、伊月を見ながら言った。

「検品中か……まぁそれに近いのかな。あの食前酒から……わずかにシリカを感じたんだ。きっと、食前酒を割る水にシリカが入っていたのだと思う」

 伊月もあの食前酒は、きっと水で薄めて出しているのだろうと思っていたが、そこまでは気付かなかった。

「温泉地なら、そう珍しいことではないのでは?」

 シリカとはミネラルの一種なので、地中から湧き出る水に含まれることは不思議ではない。ましてや、ここは3種類の温泉が湧きだしているのなら、十分に考えられる。

「ここの泉質にシリカの文字はない」

「え?」

 伊月は、急いで部屋にあった温泉泉質分析表を見た。
 確かにシリカの文字はない。
 部屋の水道も湧水だというので、泉質分析表を見ると、ここにもシリカの文字はない。

「ここではない別の場所の水かもしれない」

 巧の言葉に、伊月は、ここに来る途中のロボットの説明を思い出した。
 この辺りは、池も多いらしい。
 
「でも、シリカがどうしたんです?」

 伊月が、眉を寄せながら尋ねると、巧が真剣な顔で言った。

「もしかしたら、シリカ含有が高い場所に生えた抗酸化作用に高い植物が『戻時草』なのかもしれない」

「あ……」

 伊月は、ようやく、巧の意図を理解した。
 巧は、温泉を楽しんでいるように見えて、ちゃんと、ここに来た目的を考えていたのだ。

「巧さん!! なるほど!! 同じ植物でも生育地で効果が違うこともありますもんね!!」

 ここ最近、伊月が残業していたのだって、モリンガを産地違いで集めるという依頼があったからだ。
 伊月が、興奮しながらメモを取っていると、巧が言いづらそうに言った。

「あと……もう一度、ラウンジに戻る?」

「え?」

 伊月が顔を上げると、巧が困ったように言った。

「伊月さん、梅と蜂蜜のシャーベット、食べたかったんでしょ? ここのラウンジって、お酒は季節によって、滞在中は同じお酒が飲めるけど……シャーベットは日替わりだから、今日を逃すと、もう食べられないかもしれないよ?」

「な!! それを早く言って下さいよ!」

 実は、伊月も巧が美味しそうに食べている梅と蜂蜜のシャーベットが食べたかった。でも、すでにヤマモモのお酒を選んでしまったので、両方というのは、気が引けたのだ。
 だが、もう食べられないというのなら、ぜひ、食べたい!!

「これから、寝る前に露天風呂に入るし……部屋の冷凍庫に入れておいて、お風呂上がりに食べたら、冷たくて……きっと美味しいよ?」

 巧は、さらに伊月の顔を覗き込みながら言った。

「行きましょう!!」

 伊月は、すぐに立ち上がった。

「うん、俺もまた貰おう~~~と」

 こうして、伊月と、巧はまたしても、ラウンジに戻ったのだった。


☆==☆==


 ラウンジにに戻ると、巧が、ピタリと足を止めた。

「どうし……」

 そして、伊月の口を押さえると、すぐに柱の影に隠れた。
 伊月も不思議に思って柱の影からラウンジを覗くと、京香と、京香の腰を抱き寄せた奥野が、京香の部屋のエリアに入って行った。

(は? 奥野って、もしかして、京香さんとも??)

 2人の姿が消えたのを見計らって、伊月と巧はシャーベットを持って部屋に戻ったのだった。


☆==☆==



「食事の時に、奥野代議士の隣に座っていた女性が、彼の夫人だよ」

 化粧を落として、ウィッグをなどを取って、巧と伊月は露天風呂に浸かりながら話をした。

「では、庭でキスをしたり、食事の後に、奥野と消えた女性は誰です?」

「彼女は、医者だよ。関東の有名な大病院の医院長の一人娘だよ。確か、彼女にも夫がいたと思う。何度か話をしたことがあるし」

「あの知的な美人は、女医さんだったんですね。でも……それって……」

 ここが街中だったら、間違いなく週刊誌に写真を取られているだろう。
 
「ここは会員制の旅館で、皆、身元はしっかりしているし、画像や、映像や音声記録機器の持ち込みが出来ないからな~~」

 ここは、会員制の旅館だ。
 しかも情報記録が可能な物は持ち込めない。
 後ろめたいことのある人間にとっては、都合のいい場所ということだ。

 ということは、京香と奥野は今頃……。

(ダメだ!! ダメだ!! くそ~~~昼間、奥野のキスシーン見たから生々しい!! 忘れろ、考えるな!!)

 伊月は、一瞬、京香と、奥野のことを想像してして、急いで首を振った。
 
「あ~~もう、どうして、世の中、あんな不誠実な男がモテるんだよ!! 女性の皆さん~~一途で、誠実な男が、ここに残ってますよ~~~!!」

 伊月は、頭をかきながら言った。

「伊月さん、さては、酔ってるでしょ?」

 巧が、困ったように言った。

「酔ってませんって!! 叫びたくなっただけです!!」

 伊月は、思わず大きな声を上げながら言った。

「うんうん、わかった。あ、そうだ、シャーベット、食べよう!!」

「梅と蜂蜜のシャーベット……そうですね……食べます」

 巧の提案に、伊月は素直に頷いた。
 伊月と巧は、露天風呂を出て、シャーベットを食べて眠りについたのだった。

 

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