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第二章 お飾りの正妃、国内にて
109 お飾りの正妃の旅立ち(3)
しおりを挟む私の目にもはっきりとフィルガルド殿下の姿が見えて、気が付けばガルドに向かって大きな声を上げていた。
「すぐに馬車から降りるわ」
私が席を立とうとすると、突然ブラッドに手を握られた。
「……?」
どうしたのだろうか?
私がブラッドを見つめると、ブラッドも自分の行動に驚いたようだった。そして、睨むように私を見上げながら呟くように言った。
「やはり……行くのか?」
「え……どういう……意味?」
思わずブラッドを見つめると、ブラッドはゆっくりと私の手を離した。そして今度は、はっきりとした声で言った。
「……あまり時間はない」
ブラッドは、到着が遅れることを心配していたようだった。
「ええ。わかっているわ」
急ぐ旅だというのは十分にわかっていたが、頭というよりも、体が勝手に動いていた。
そして、ブラッドたちと一緒に馬車を降りた。するとすぐにフィルガルド殿下が私たちの近くまで来て、アルタックから降りた。相変わらず美しい馬だ。殿下は、アルタックをクリスフォードに任せると、私を抱きしめた。
「クローディア!! こんな形での見送りになってしまってすみませんでした」
フィルガルド殿下の腕の中はとてもあたたかくて、大きくて……悲しくなるほど居心地がよかった。
私は泣きそうになるのをこらえて、フィルガルド殿下を見上げながら言った。
「いえ、フィルガルド殿下、目の下にクマが……疲れていらっしゃるのではないですか?」
フィルガルド殿下は困った顔をした後に、恥ずかしそうに笑いながら言った。
「あなたにはこんな酷い顔を見せたくはなかったのですが……昨日の夜に報告を貰って、居ても立っても居られずに見送りに来ました。クローディア、どうか無事で。帰って来たら、たくさん話を聞かせて下さい」
――話を聞かせて下さい。
戻たら、エリスがいる。私の居場所なんてなくなる。
そんなことさえも全て忘れて、私は笑顔で答えていた。
「はい、たくさん話を……聞いて下さい。……フィルガルド殿下も無理はされないで下さい」
「はい。ありがとうございます」
フィルガルド殿下は、私の頭にキスをすると私から体を離した。するとすぐにレオンの声が聞こえた。
『ハイマ国の王太子殿か?』
どうやら、レオンも馬車から降りて来たようだった。フィルガルド殿下は、レオンを見ると私のすぐ近くに立っていたブラッドを視線を向けながら言った。
「あなたが、スカーピリナ国の国王陛下ですね。ブラッド、通訳をお願いします」
ブラッドは無表情に返事をした。
「ああ」
フィルガルド殿下は、レオンに手を差し出しながら言った。
「はじめまして、陛下。この度は私の妻の送迎を引き受けて下さって感謝致します。どうぞ、私の愛する妻をよろしくお願いいたします」
それをブラッドが考えながら通訳をしていた。
『はじめまして、陛下。この度は私の……妻の送迎を引き受けて下さって感謝いたします。どうぞ、私の……妻をよろしくお願いいたします』
レオンがフィルガルド殿下の手を取りながら、スカーピリナ国の言葉で言った。
『妻ですか……妻というのを随分と強調しますねぇ~。ご安心を、クローディア殿は、私が責任を持ってお守りいたしますよ。王太子殿』
レオンの言葉をブラッドが『クローディア殿は、私が責任を持ってお守りいたしますよ。王太子殿』の部分だけを訳すると、フィルガルド殿下はレオンを見ながら挑むような顔で言った。
「ええ、お願い致します。皆様の旅の無事と、彼女が無事に帰還することを祈っています」
ブラッドがフィルガルド殿下の言葉を訳すと、それを聞いたレオンは口角を上げながら呟くように言った。
『無事に帰還……ね……。クローディアがそれを本心から望んでいるとは思えないけどな……』
ブラッドは聞こえなかったわけではなさそうだが、レオンの呟いた言葉をフィルガルド殿下には伝えなかった。するとレオンがフィルガルド殿下に向かって大きな声で言った。
『それでは、見送り感謝しますよ。王太子殿』
レオンはそう言って、馬車に戻って行った。
フィルガルド殿下はレオンの最後の言葉『見送りを感謝する』という訳をブラッドから聞くと、私をもう一度抱きしめて、おでこにキスをした。
「クローディア、あなたの帰りを待っています」
そう言ってフィルガルド殿下は、自分の服の襟元を緩めると、服の中から自分の首にかけていた金のネックレスを取り出して、外すと私の首にかけてくれた。
「お守りです。何かあったら、このネックレスを囮にして逃げて下さい」
「囮? ……ありがとうございます?」
私はネックレスを囮にするという意味がわからなかったが、お守りというので受け取ることにした。服の中にネックレスをしまうと、フィルガルド殿下がもう一度私を抱きしめて切なそうに言った。
「どうか、無事で。何かあったらすぐに知らせて下さい。駆けつけます」
例え社交辞令でも、涙が出るほど嬉しかった。
「ありがとう……ございます」
フィルガルド殿下は、そのまま私の口のすぐ横にキスをすると、身体を離した。
私はその後すぐに馬車に乗り込んだ。
フィルガルド殿下は私たちの姿が見えなくなるまで手を振って見送ってくれた。
私は服の上からフィルガルド殿下のくれたネックレスに手を当てた後に、ほとんど無意識にブラッドに話かけていた。
「ねぇ。ブラッド、さっき『愛する』って訳さなかったよね?」
どうして?
この問いかけに、ブラッドを責める意図は全くなかった。
ただ、純粋に理由が知りたかったのだ。
――愛する妻。
フィルガルド殿下は私のことをそう言った。
ブラッドは、レオンの全ての言葉を訳して伝えたわけではない。フィルガルド殿下だって社交辞令や定型文のようにそう言ったのはわかっている。でも、なんとなく気になって尋ねていた。そんな私にブラッドは表情を変えずに答えた。
「スカーピリナ国の言語で、フィルガルド……殿下の口にした『愛する』という言葉をどう訳するのがいいか、咄嗟に考えてしまった……」
「あ……」
スカーピリナ国の言葉の『愛する』という単語には一人だけという限定の意味がある。恋愛至上主義のスカーピリナ国では家族や子供や身近な物を『愛する』と言う言葉と、伴侶や恋人という特別な一人に対する『愛する』は違う単語を使うのだ。ブラッドにそう言われてしまうと、私も第三者として通訳を頼まれたら、フィルガルド殿下の口にした私に対する『愛する』は訳せないかもしれない。訳について考え込んでいると、ブラッドが呟くように言った。
「私はその辺りの単語には詳しくない『愛する』など……私には必要のない言葉だからな」
私はその言葉には何も言えなかったのだった。
ブラッドは私がスカーピリナ国の言葉がわかることを知っている。その私の前で、フィルガルド殿下の『愛する』を表現することをためらったのは、ブラッドの心にどこか私への遠慮があったように思う。
エリスとの結婚を控えているフィルガルド殿下の愛を一人だけの限定の愛として訳すのは、皮肉めいているし、王太子妃である私を、その他大勢への愛と訳すことも他の人の手前出来なかったのだろう。
本当に、ブラッドの優しさは不器用過ぎる。
私はブラッドを見ながら小さく笑いながら言った。
「『大切』でいいんじゃない? それは間違いないわけだし」
そう、私はフィルガルド殿下に大切にされている。冷たく、放っておいて、言葉を交わすことなく無視してくれていいのに……。とても……優しく、大切にしてくれている。
「『大切』か……では次はそのようにしよう」
私を見ながらそう言ったブラッドが、なぜか泣きそうに見えたのは、気のせいだろうか?
その日は順調に今日の宿泊地へと到着したのだった。
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