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三題噺 9月
【三題噺】迷い人のレジリエンス 〜兄の死を引きずる女と鏡のような男〜
しおりを挟む中学生の時、麻奈は自死で兄を失った。
日常的に自分に暴力を振るってきた兄の死を、麻奈は思いもよらない方法で受け止め越えようともがく。
「文章力向上委員会」に掲載していた短編よりリメイク。
お題は「破」 2007年3月
お題は「靴下」「ドール」「本」3000文字以内
梅の花のような痣の咲く裸なんて、見たのははじめてだった。
「兄の茶碗を割って破片を体に埋めたの」
麻奈は靴下まですっかり脱ぎ捨ててしまうと、ベッドの上に足を割って座り、右の乳房を持ち上げた。
生々しく白い乳房の下には、じくじく膿んだような大きな痣がある。
痣は紅梅の色に滲み、黄色くぷっくり凝った中央には白い棘が埋まっていた。
「体を動かす度に棘が食い込んでいくのがわかるんだ」
麻奈は身をよじり痣を目で辿りながら、生き生きと張りのある声で話した。
うつむいた顔は笑ってるんじゃないだろうか?
「きれいでしょう? 花みたいで」
カーテンの隙間から差し込んだ真昼の光が痣を照らす。
僕の頭の中はハザードランプがちかちか点滅しているように落ち着かない。
麻奈が両手でぎゅっと痣をつまむ。
僕は棘が深く食い込む様を想像して、思わず痛くもない自分の胸をギュッと掴んだ。
麻奈は僕の反応なんてまるで気にもかけず、どんどん話を続ける。
「こうするとしょっちゅう兄に殴られてたことを思い出すよ。私はまるっきりあの人のドール。ストレスのはけ口だったんだよね」
麻奈の兄は高校生の時、マンションの屋上から飛び降りて死んだ。
当時麻奈は中学生だったそうだ。
六年も前のことだ。
――その時、私は部活の真っ最中。
メトロノームの前に立ってパーカッションの基礎練習をしていたの。
横一列に並んでタッカタッカ。
戸口で先生が私を呼んで。
でもすごい騒音の中だから気がつかなくって。
先生は私の前まで歩いてきて袖を引いたの。
先生がどんな顔していたかなんて覚えてない。
私がどんな風に兄の死を聞いたのか覚えてない。
ただ基礎練習のリズムが驟雨のように注いで。
先輩たちの視線が渦を巻いて追ってきて。
拗れた音の森の中で私は一人迷子になって、どんどん深いところまで降りていくーー
「兄はすごく短気でさ。だから飛んじゃったのかもね。あんな高いとこから」
頷いているだけで気の利いたことの一つも返さない僕を相手に、麻奈は延々と話し続けた。
だいたい僕は麻奈のことなんてほとんど何も知らない。
ゼミの飲み会でたまたま隣にいたせいで、自殺した兄の話を聞かされるはめになったってだけで。
それだけでひどく打ち解けたかのようになって、麻奈は以降何度も兄の話を僕にし続ける。
部屋に呼び、目の前で平然と裸になって傷口を見せつける。
これはいったい、なんだろう。
「聞いてる?」
尋ねられ、ずいぶん相づちをうっていないと気付く。
目を上げて顔を覗き込むと、麻奈はさっと目を伏せた。
そばかすだらけの白い頬に窓から差す光が踊る。
「こんなことして、変な話ばっかり聞かせて、自分でもおかしいと思ってる。でも」
ベッドサイドに伏せてあった本がパサリと音を立てて落下し、麻奈の言葉が止まる。
大学生の女の子には似つかわしくない、中途半端に古い少年漫画だ。
劇画調の絵柄が懐かしい格闘物。
麻奈はしばらく漫画の表紙をじっと見つめた後、カーテンの向こうに目を上げた。
泣くのかと思った。
「あは。ばからし」
でも麻奈は笑った。
「死ねばいいと思ってたの、あんなヤツ。消えろ、地獄に落ちろって何回も言った。私、死ぬなんて、辛い目にあって死にたがってたなんて全然知らなかったから」
「責めてる? 自分のせいだと思って」
麻奈の目に初めて僕が映る。
「何言ってんの? 私が悪いわけないじゃん。全部あのバカの自業自得。当たり散らして、態度極悪でそんなだから誰とも打ち解けらんなくて、そんで勝手に死んで、私に余計な傷なんか残してさあ。最低」
「麻奈はなんで傷ついてる、何に?」
僕の言葉に麻奈は黙った。
黙って立ち上がり、脱ぎ捨てた服を拾い上げはじめるのを僕も黙って待った。
靴下を履き、下着を身に纏う。
薄い生地の下から梅の花のような痣が灯籠のように赤く透ける。
「横田のレスはだから好きだよ。鏡みたいで。嘘つかなくて。誰にも言えないことが言えてしまう。溢れてしまう」
シャツのボタンを止めながら、麻奈は僕の名前をよんだ。
「だからさ、もう側にいないで。私がしがみつきたくならないうちに逃げてよ。わかってるよね。私頭がオカシイの。このままじゃ私、いつか横田に依存する」
僕は再び黙りこんだ。
ここまで既に散々好き勝手に振り回しておいて、いまさら気丈な事を言う麻奈を少しだけ好きだなと思う。
自分勝手で、自分本位で、誰のせいにもしようとしないで病んできた麻奈は、一人で恢復する。
白い陶器の欠片たちが、麻奈の身体からみんなするりと抜け落ちればいい。
どろりとした体液に包まれて白い棘が押し出され、皮膚を伝い落ちるのを思い浮かべる。
深く下った森の奥底で迷う麻奈が、梢から射す光を頬に映し、目に映すのはたぶんもうじき。
もうじきだから。
「めんどくさいな。麻奈は」
僕は麻奈を引き受けない。
翻弄なんかされてやらない。
共感なんかしようもない。
だから安心して。境界を引いて。麻奈は一人でレジリエンスを発揮する。
「なにそれ。ひど」
麻奈は顔を歪めて、泣くのかと思ったけどやっぱり笑った。
「……まあいいや。じゃあコンビニ行こ。あんまんおごって」
「なにがじゃあなのかわからないけど、いいよ」
折り合いつけて収めて、問いかける相手を失った後の世界を生きていく。
慰めも宥められもせずに。
むき出しで。
「そばにいてもいいよ」
誰も思いつきやしない独創的な恢復を、僕に見せてくれるなら。
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