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傷ましき隣人
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貴族社会が嫌いだった。
あの悍ましい世界に適応してしまった自分も、気が狂いそうなほど嫌いだった。
だから、私は名を捨てた。
生来の地位と人脈で、空席だった聖女の座を獲得した。神殿に入れば──高位であればあるほど──家は私を連れ戻せなくなるから。
王侯貴族と神殿は支え合っているが、その実、神殿の方が力関係は強い。建国時に、月の女神を国教に掲げる事で、強力な加護を得、他国を打ち滅ぼした為だ。
使える物を使い倒して、ようやっと得た居場所である。実力の無いお飾りで、誰も私に、シンボル以上の働きを期待しないとしても。私はこの高台を死守しなければならない。
その為の策が、タリスの懐柔だったのに。
「聖女様、ご無事ですか?」
目を開くと、空色の髪がカーテンのように私の周囲を覆っていた。タリスの銀の瞳が、にわかな月光を集めて輝いている。気遣わしげな声がかえって辛く、反射的に彼の肩を押した。
彼は狼狽えながらも、私の背を支え、上体を起こしてくれた。
「タリス……。過度な浄化は毒になると、何度言ったら分かるんです」
ため息混じりに宣う。
(あ。介抱してくれた御礼、言いそびれた)
ぼやけた脳内で思うも、説教混じりに告げた言葉が尾を引いて、何も言えなくなった。タリスもまた、私の背を抱きながら沈黙している。
「馬鹿ですね」
冷え冷えとした声だった。
常に朗らかな彼の声とは思えない。
「気づいてないんですか? 俺の浄化でこんなに体調を崩すのは、貴女だけなんですよ」
「……何を……」
「不浄を溜め込んだら、浄化が効きすぎる事があるって、ご存じでしょう」
ひゅ、と喉が鳴った。
不浄。私が、不浄を抱えていると。
この男は、そう言ったのか。
覚えがないわけではない。
彼に向ける嫉妬は。憎悪は。執着は。容易に不浄へと転じる、強い負の感情だった。しかし、神官たちは強い信仰心と浄化能力を携えている。不浄を神の試練と見做し、徹底した節制と能力の向上に努めている彼らには、不浄が纏わりつくことはない。
対して、私は違う。
信仰心も浄化能力も、殆ど無い。
タリスは気づいたのだろう。
私が不浄に塗れていると。
「お察しの通り、所詮、私は……」
唇を噛んで俯けば、深いため息が耳元を掠めた。
「あの、あー、えっと」
タリスが躊躇っている。
先ほどの冷ややかな雰囲気と違う、どこか間の抜けた声が、妙に現実離れしていた。
「聖女様。俺と一緒に逃げませんか」
バ、と顔を上げる。
常々あった飄々とした笑顔は無かった。
整った顔立ちが嫌に真剣な顔をしているから、有無を言わせぬ迫力があった。
「あなた、逃げたかったんですか!?」
「そうですよ。みんな俺の能力を惜しんで、逃してくれないので。自分で破門になってやろうと思いました」
「……勇気があるというべきか、向こう見ずというべきか……」
「お好きに仰ってください! 俺は元来こういうやつです」
ケラケラと楽しげに笑うタリスを見て、やっと一呼吸つくことが出来た。
「ありがとう、タリス。私が生きてきた中で、1番魅力的なお誘いです」
私はタリスに向き合った。背中に回された手を解くように、優しく彼の指先に触れる。
「ですが、ごめんなさい。私は神に身を捧げましたが、邪な方法で神殿入りしたので、隙が多いんです」
「公爵家に連れ戻される可能性があるって事ですか?」
「……知っていたんですね」
「はい。ご縁がありまして」
タリスは笑顔を浮かべたまま、しかし成程、そういう事か、と小さく呟いた。
「じゃあ、俺が教皇になります」
(は?)
眉間に皺を寄せ、彼を睨みつける。
タリスはいつもの、人好きのする笑顔を浮かべていた。
「俺が教皇になって、貴女を守ります」
「あ、あなた……神殿から脱走する計画はどうしたんですか」
「まぁ正直、聖女様という足手纏いを連れながら脱走するのは、流石の俺でも無理というか」
「いえ、ですから、私の事は捨ておきなさいな。あなたこそ神殿に似つかわしくないのですから、一刻も早く立ち去った方が良いですよ」
「なかなか言いますね聖女様」
「応戦したまでです」
タリスは唸りながら空色の髪をかき上げた。
「俺、貴女の事が好きです」
「……?」
「貴女を救える見込みもあります」
「…………??」
「貴女を救わせてください」
「………………嫌です……」
「え! なんでですか!?」
「ええと、突然すぎるし……タリスの手を借りたら、死ぬまであなたの腕の中で生活しなければならなくなりそうだから……?」
彼は目を彷徨わせ、数秒おしだまったのち、ニコリと笑った。
「そこは否定しなさいよ!!」
この辺りから、私の人生設計は明確に狂い始めた。
あの悍ましい世界に適応してしまった自分も、気が狂いそうなほど嫌いだった。
だから、私は名を捨てた。
生来の地位と人脈で、空席だった聖女の座を獲得した。神殿に入れば──高位であればあるほど──家は私を連れ戻せなくなるから。
王侯貴族と神殿は支え合っているが、その実、神殿の方が力関係は強い。建国時に、月の女神を国教に掲げる事で、強力な加護を得、他国を打ち滅ぼした為だ。
使える物を使い倒して、ようやっと得た居場所である。実力の無いお飾りで、誰も私に、シンボル以上の働きを期待しないとしても。私はこの高台を死守しなければならない。
その為の策が、タリスの懐柔だったのに。
「聖女様、ご無事ですか?」
目を開くと、空色の髪がカーテンのように私の周囲を覆っていた。タリスの銀の瞳が、にわかな月光を集めて輝いている。気遣わしげな声がかえって辛く、反射的に彼の肩を押した。
彼は狼狽えながらも、私の背を支え、上体を起こしてくれた。
「タリス……。過度な浄化は毒になると、何度言ったら分かるんです」
ため息混じりに宣う。
(あ。介抱してくれた御礼、言いそびれた)
ぼやけた脳内で思うも、説教混じりに告げた言葉が尾を引いて、何も言えなくなった。タリスもまた、私の背を抱きながら沈黙している。
「馬鹿ですね」
冷え冷えとした声だった。
常に朗らかな彼の声とは思えない。
「気づいてないんですか? 俺の浄化でこんなに体調を崩すのは、貴女だけなんですよ」
「……何を……」
「不浄を溜め込んだら、浄化が効きすぎる事があるって、ご存じでしょう」
ひゅ、と喉が鳴った。
不浄。私が、不浄を抱えていると。
この男は、そう言ったのか。
覚えがないわけではない。
彼に向ける嫉妬は。憎悪は。執着は。容易に不浄へと転じる、強い負の感情だった。しかし、神官たちは強い信仰心と浄化能力を携えている。不浄を神の試練と見做し、徹底した節制と能力の向上に努めている彼らには、不浄が纏わりつくことはない。
対して、私は違う。
信仰心も浄化能力も、殆ど無い。
タリスは気づいたのだろう。
私が不浄に塗れていると。
「お察しの通り、所詮、私は……」
唇を噛んで俯けば、深いため息が耳元を掠めた。
「あの、あー、えっと」
タリスが躊躇っている。
先ほどの冷ややかな雰囲気と違う、どこか間の抜けた声が、妙に現実離れしていた。
「聖女様。俺と一緒に逃げませんか」
バ、と顔を上げる。
常々あった飄々とした笑顔は無かった。
整った顔立ちが嫌に真剣な顔をしているから、有無を言わせぬ迫力があった。
「あなた、逃げたかったんですか!?」
「そうですよ。みんな俺の能力を惜しんで、逃してくれないので。自分で破門になってやろうと思いました」
「……勇気があるというべきか、向こう見ずというべきか……」
「お好きに仰ってください! 俺は元来こういうやつです」
ケラケラと楽しげに笑うタリスを見て、やっと一呼吸つくことが出来た。
「ありがとう、タリス。私が生きてきた中で、1番魅力的なお誘いです」
私はタリスに向き合った。背中に回された手を解くように、優しく彼の指先に触れる。
「ですが、ごめんなさい。私は神に身を捧げましたが、邪な方法で神殿入りしたので、隙が多いんです」
「公爵家に連れ戻される可能性があるって事ですか?」
「……知っていたんですね」
「はい。ご縁がありまして」
タリスは笑顔を浮かべたまま、しかし成程、そういう事か、と小さく呟いた。
「じゃあ、俺が教皇になります」
(は?)
眉間に皺を寄せ、彼を睨みつける。
タリスはいつもの、人好きのする笑顔を浮かべていた。
「俺が教皇になって、貴女を守ります」
「あ、あなた……神殿から脱走する計画はどうしたんですか」
「まぁ正直、聖女様という足手纏いを連れながら脱走するのは、流石の俺でも無理というか」
「いえ、ですから、私の事は捨ておきなさいな。あなたこそ神殿に似つかわしくないのですから、一刻も早く立ち去った方が良いですよ」
「なかなか言いますね聖女様」
「応戦したまでです」
タリスは唸りながら空色の髪をかき上げた。
「俺、貴女の事が好きです」
「……?」
「貴女を救える見込みもあります」
「…………??」
「貴女を救わせてください」
「………………嫌です……」
「え! なんでですか!?」
「ええと、突然すぎるし……タリスの手を借りたら、死ぬまであなたの腕の中で生活しなければならなくなりそうだから……?」
彼は目を彷徨わせ、数秒おしだまったのち、ニコリと笑った。
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