【完結】恋となる執着

蓼脇 尚(たでわき なお)

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何も無い

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 ひどく強い香り。
 それが血の匂いだと知ったのは、数年後だった。暖かな海から引き上げられ、混乱から泣き叫ぶ。

「タリスマンを!」

 俺の耳元で女が喚いた。

「私のタリスマンを、取って……神に祝福を……この子への、祝福、を……」

 女の──母の遺言は、そのまま俺の名前になった。



 母は娼婦だった。
 スラムで俺を産んだ後、すぐ死んだ。
 父親が誰かなんて、俺も周りも、誰1人関心を持たなかった。娼婦のガキなんてそんなもんだ。

 母の娼婦仲間から残飯を賜って、幼児と呼べる歳になった頃。“慈善活動好きの貴族に救われた孤児”として雇われた。

 ただ、所詮雇われなので、教育なんかは付けてもらえない。俺は定期的に呼ばれて、丸洗いされて、社交場でニコニコと突っ立っているだけだった。

「スラムで酷いことをされて以来、口がきけない」
「食べ物を受け付けず、吐いてしまう」
「体調が安定しないから、社交場に出席できない時もある」

 雇い主がそう宣えば、何も問題なかった。
 そういう事例は山ほどあるし、俺みたいな雇われも沢山いたから。公然のナントヤラだ、馬鹿らしい。

 粗相はしない。できない。
 できないように、飯もダンスも、何もしてはいけない事になっていたから。

(きもちわりぃ)

 俺からすれば、スラムも社交場も同じようなもんだった。貴族たちはひたむきに人皮を被り続けて、あれそれと虚妄を語っている。

 心根の歪んだ奴は、必ず黒雲を纏っていた。

 唇や指先から、踊るように噴き出す黒雲は、発生源の全身に張り付いている。それに近づくと吐き気がして、表情が崩れるから、極力人には近づかずにやり過ごした。

 そうして、数年が過ぎた。





「ごらん、あれがアルケニアス様だよ」

 雇い主が目線を向けた先には、豪奢な階段から降りてくる、絹のような黒髪を垂らした少女が居た。上等な服に相応しい華やかな顔立ちをしている。それ故に、雲を纏った空を思わせる瞳が目についた。

 俺より幾らばかりか歳上らしい彼女は、少女である前に“貴族”であるらしい。伸びた背筋で澱みのない笑顔を浮かべながらも、自然体で大人と接している。

 彼女の瞳を見ていると、なんとなく、変な感じがした。胸中を占める、ざらついた感覚の正体が知りたくて、彼女の一挙手一投足を観察していた。

 その時だった。

「失礼。こちらの御子は、貴方が支援していらっしゃるのですか?」

 俺が神官に見初められたのは。




「類まれな才能だ」
「不浄を黒雲に喩えるとは」
「ゆくゆくは神官長に……」

 代わるがわるにやって来る神官たちは、俺に浄化能力を見出して、アレソレと物申す。

 彼らの言うとおりにすれば、意図的に黒雲を祓えるようになった。おかげさまで、社交場で吐きそうになる事態は激減した。

 当時は、彼らに深く感謝していた。
 神官たちに不浄は無かったし、彼らが俺の元にやって来るのを楽しみにしていたんだ。

 ただ、しばらくして違和感に気づいた。
 連中は皆、透き通った瞳をしていた。
 神を無為に信じ、俺の浄化能力に期待して、祈りやら祝福やらを捧げていた。
 
 暴力的な無邪気さに、吐き気を催した。
 我ながら戸惑った。脳内に浮かんだのは、母の今際の際だった。もうずっと、忘れかけていた。あの時、母は確かに、タリスマン神の聖物を模ったものに縋っていた。

 目眩がした。

(全員死んでくれ)

 俺はこれから、神殿に入るのだろう。
 そしたら、母さんを見捨てた奴が与えた力で、人を救わなくてはいけなくなるんだ。

(こんな不平等を、月の女神は許すのか?)

 そもそも神なんていないだろう、と。
 口が裂けても言えない言葉を飲み込んだ。



 俺は神殿に入った。
 高すぎる浄化能力は、人に害を及ぼすらしい。つまるところ、逃げられなかったのだ。

「ごらん、タリス。あちらにいらっしゃるのが、我々がお仕えする、今代の聖女様だよ」

 礼拝堂の中。どこかで聞いたような言い回しにつられ、月の女神を象ったステンドグラスを見上げた。

 息を呑む。

 そこに立っていたのは、アルケニアス様だった。細絹の黒髪を揺らし、曇天の瞳で下々を見下ろしている。少女から女性となって、より一層美しくなった彼女は、完璧な笑顔を浮かべていた。

「目だ……」

 数年越しに、違和感の正体に気づいた。
 彼女の瞳の奥。そこに、不浄が存在している。神殿の関係者で、不浄を携える人を初めて見た。しかも聖女だ。神殿の最高責任者。対外向けのシンボル。それなのに、渦を巻くほどの不浄を溜め込んでいる。

「目? ああ、シフォン様の双眸か。今日も曇りなき瞳をしていらっしゃる。まるで晴空のようだ」

 自分の耳を疑った。
 彼女が名を改めていた事もそうだが、それ以上に、俺以外の人間には、彼女の不浄が見えていないらしい事に驚いた。周囲を見渡すと、人々は恍惚とした表情で彼女を見上げていた。安心しきった、しかし、蕩けるような顔で──観察しながらも、ふと、己の口元に指を滑らせる。

 自然と口角が上がっていた。
 同時に、激しい動揺が落ち着いていくのを感じる。心臓を撫でられているような、奇妙な安心感により、全身が弛緩していった。

(浄化されているのか?)

 ハ、とアルケニアス様を見上げた。

(瞳の濁りが濃くなっている……)

 そんな浄化能力もあるのか、と。
 月の女神は本当に気色悪い祝福ばかり与えるな、と。

 この時は、その程度の感想しか持たなかった。

 
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