【完結】泥の遺骸

蓼脇 尚(たでわき なお)

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泥の遺骸(完)

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 春風が花々を巻き上げ、タチアナの背を押した。タチアナがよろめきながら歩んだ先には、氷帝と謳われた夫がいる。

 タチアナからすれば、氷帝ルシエルは、父を殺し、母を死に追いやった男である。思うところがないわけではない。けれど、命を繋ぐために、ルシエルの愛は必要だった。思えば、愛など不要だと、自分は死を待つばかりだと、そのように考えていた頃が懐かしい。

 タチアナは求められる喜びを知ってしまった。ルシエルは彼女の気持ちを慮り、時に強引に、しかし要望を聞き入れ、言葉で愛を語ってくれた。

 そうして、自然とルシエルを愛するようになった。不器用で、笑顔の無い男だったが──そこがひたすらに愛おしい。


「タチアナ」

 タチアナが声をかければ、ルシエルが振り向く。手入れの行き届いた銀髪が舞い、冷ややかなアイスブルーの瞳が、甘い輝きを伴ってタチアナに向けられる。

 タチアナは成人後も泥にならなかった。
 ルシエルの不慣れな情は、タチアナを生きながらせるに足る、真実の愛であった。

「私の好きな花を植えてくださったんですね」
「ええ。でも、貴女の故郷に咲いていた花は、皇城の土に馴染まなかったんです。だから、ここには無くて」

 すみません、と。
 そう頭を下げるルシエルは、やはり表情に乏しかったが、確かに凹んでいた。タチアナには分かる。にわかに眉が下がり、声のトーンが落ちているのだ。こういうところが、タチアナの心の柔らかい部分を掴んで離さない。

「謝らないでください。いつも忙しい貴方が、私のために時間を割いてくださった事自体が嬉しいんです。ありがとうございます、ルシエル」

 右手で皇帝の頭を撫でながら、タチアナは左手で、己の下腹部を撫でた。

「いつか、この子と一緒に見に行けば良いんですから」

 ルシエルは、パ、と顔を上げ、タチアナの肩を抱いた。そして、少しだけ口角を上げる。タチアナには、それで十分、ルシエルの万感の想いが伝わっていた。





 皇歴6--年。
 先帝を下し、帝位を簒奪した者がいた。
 名をルシエル。代々宰相職を継ぐ、バルトロメイ家の男だった。その血に塗れた簒奪行為・国政を侵し、金を毟り取る高位貴族を容赦無く処罰した様・鉄面皮である事から『氷帝ルシエル』と謳われたが、ルシエルが治めた時代は、平和かつ豊かであった為、晩年は『賢帝ルシエル』と改められた。

 また、正妃・タチアナの前では、柔らかな笑みを浮かべる事が多かったという。

 このタチアナは、長く、先帝の甥の娘とされていた。しかし、近年、正妃自身の手記で、先帝の実子である事が明かされた。

 タチアナの背景が明らかになった後、研究家達は『皇家の血を持たないルシエルと、先帝の娘タチアナの間に、愛はあったのか』疑った。公的な歴史書を鑑みるに、ルシエルがタチアナを耽溺していた事は間違いない。しかし、タチアナの記録は少なく、断言する事は出来なかった。

 そこで、我々はルシエルの従兄弟である、バール・トラスト伯爵の手記に着目した。

 ルシエルとバール・トラストは、共に先帝を討った同志であり、以降も密接な関係だったという。さらに、ルシエルとタチアナの埋葬に最も精力的だったのもこの男であった。

 彼は二人について、このように語っている。

『ルシエルが籠絡されたのかと思っていたが、タチアナも深みにハマったらしい。タチアナが風邪を引いて以降、完全に二人の世界だ。脅した謝罪をする隙も無い。僕はどうすれば良いんだ』

 これは、二人が固い絆で結ばれていた証左に他ならない。

 余談だが。
 賢帝ルシエルの死と共に、タチアナもまた息を引き取ったという。二人が埋葬される際は、大きな棺一つに纏められ、皇城の墓地に奉られたのだとか。

 これを読むあなた方に、お伝えしたい事がある。

 死さえも彼らを別つ事は出来なかった、という事を。彼らは骨となり、泥になっても、末長く共にあったのだ。
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