真冬のカランコエ

ももくり

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第二章

三人目のパートナー 3

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「雅?ごめん、遅い時間に」
「え?ううん、全然大丈夫だよ」

 声に温度があるとすれば、いつも光正の声は低めだ。でも冷たいと感じるほどでは無い。

「石原さんはどうしてる?なんか押し付けたようで悪いなと思って」
「いまお風呂に入ってるよ。気にしないで、困った時はお互い様だし」

 一瞬だけ黙り込んだのは、転勤の話を切り出してくれるかもと期待してしまったからで。もし言われたら何と答えるべきか、ぐるぐると頭の中で答えを巡らせる。栄転なのだから喜ぶべきか、それとも離れて寂しいと正直に伝えるべきか。…しかしその後に続けられたのは予想外の言葉だった。

「…あの…さ。森嶋くんと最近、妙に仲がいいよね?」
「え?あ、…うん」

「さっきもさ、付き合おうとかってその…聞こえてしまったんだけど」
「うん…」

「つ、付き合うの?」
「ううん」


 …いったい何なんだろうか、私は。光正が石原さんと付き合っても平気なようにと、少しずつ距離を置くつもりだったのに。その為にわざわざ森嶋くんと親密になっていく姿を見せつけようと下手な小細工までしておきながら、いざ、直球で質問を受けるとそうじゃないと即答してしまうだなんて、本当にメチャクチャだ。きっとこういうのを支離滅裂と言うのだろう。しかし、覚悟を決めたはずのこの最悪のタイミングでどうやら気づいてしまったようだ。

 …光正を失くしたくないと。

 付き合いたいとか結婚したいとかそんな贅沢は望まない。だけどただ、傍にいて欲しい。見える場所にいて、いつでもその存在を感じるだけで私は安心出来るのだから。

「雅の心の中には、井崎君がいるもんな」
「う…ん」

 悲しいことに3年という月日は残酷で、少しずつ記憶から芳の顔や声が薄れ始め、鮮明に思い出すことは難しくなっていた。毎朝、位牌に手を合わせているものの段々と形式的になっていく感じで、それが良いことなのか悪いことなのかも私には分からないのだ。

「なあ雅…覚えているか?」
「えっ、何を?」

 自分から切り出しておきながら、光正は唐突に話を終わらせる。

「いや…何でもない、忘れてくれ」
「な、何?逆に気になるんだけど」

 『ふふ』と聞こえてくるその笑いは、何故だか哀しそうで。それ以上、問い質すことも出来ずに諦めて電話を終えた。





「井崎さん、少しだけ話しませんか?」

 それと交代するかのように入浴を終えた石原さんが戻って来て、真剣な表情で語り始める。

「番匠さんは井崎さんのことが好きです」
「……」

 『知ってるよ』と答えれば良いのか、それとも『過去の話だよ』と言うべきか。答えに迷っていると石原さんは流れるように続け出す。

「番匠さんの人生には、井崎さんしか存在しないんですよ。仕事以外で話すことは、“雅と唯”のことばかり。それってどういうことか分かります?番匠さんはもう38歳です。これまでずっと1人ぼっちだったのに、これからも1人にさせておくんですか?もうそろそろハッキリさせてあげてはどうでしょう。

 あの…私はもちろん番匠さんが好きですけど、本気で付き合えるなんて思ってません。私、番匠さんみたいに優しい人を今まで見たことがなくて、でもそれは異性としてと言うよりも、人間として好きなんです。だから誰よりも幸せになって欲しいし、番匠さんの幸せが井崎さんと一緒に生きることならば、そうなるように応援したい。それでもし井崎さんが番匠さんを恋愛対象として見れないのでしたら、早目にそれを伝えてあげて欲しいんです。だって、番匠さんにも幸せになる権利はあるでしょう?」


 何も知らないクセに…と思い、それからハッとした。知っていたらどうだというのだ。私が光正を捨てて芳の元へと走り、その芳が壮絶な闘病生活の末に亡くなった。そんな愛する人を失った悲しみを分かってくれと石原さんに訴えても、それは無茶な話だ。

 なぜなら他人の経験は、自分の経験に置き換えられない。

 言葉にして聞かせたとしても、想像すること自体難しいだろう。理解して貰うことを諦めたわけでは無いが、石原さんからすれば会ったことも無い芳の死なんて所詮、他人事で。

 >いま生きている光正を
 >どうすれば幸せに出来るか

 …ただそれだけを考えるのは至極、当たり前なのである。

 きっと石原さんから見た私は、自分本位に光正を振り回す身勝手な女で、彼にとって最大の障害なのかもしれない。あんなに優しくて素敵な男性なのだから、本来ならばもう結婚していて子供がいてもおかしくないはずなのに、たぶん光正の幸せな未来を奪ったのはこの私だ。

 あんなに否定しておきながら、森嶋くんの言葉が事あるごとに浮かんでくる。

 >恋だの愛だのはいつか冷める。
 >寂しくないようにただ一緒にいるだけの結婚、
 >それは決して罪では無い。

 石原さんはたぶん信じているのだろう、

 明るく輝く未来を、
 永遠に続く幸せを。

 それを一度失った私は、いったい何を信じれば良いというのか?急に途方に暮れた気分になって、色々な感情がせめぎ合う。なんだか目の前の石原さんが正規品で、自分が欠陥品だとすら思えてくる。

「…石原さん、正直に言ってもいい?」
「はい、どうぞ」

 スウと息を吸い込んで私は続けた。

「亡くなった夫とは、燃えるような恋をしたわ。彼のために強くなったし、人間としてとても成長したと思う。だけど光正とは全然違うの。彼は穏やかで居心地が良くて、どんなに狡い私でも許してくれるから頑張ることを止めてしまうのよ。それに私、傷付けてばかりで利用…そう、利用しまくってると思う。一方的に与えられるだけで、こちらから与えようとはしない。都合よく扱ってちっとも大事にしてあげていないのに、光正は離れていかないの。だから何をしても離れて行かないんだと…そう思い込んでいたのよ。

 ねえ、石原さん…どうしよう。光正がいなくなったら私、すごく寂しい。寂しくて死にそうなの。私、バカだ。どうしてもっと優しくしてあげなかったんだろう。もっともっと優しく…」

 口に出すと心がとても軽くなり、真剣に悩んでいたことがバカバカしく思えてきた。それなりに年齢を重ねてきて、そこそこ人生経験を積んだはずなのに、どうして光正に対してだけ上手く接することが出来ないのだろうか。十代の小娘でもあるまいし、好きな人にだけ冷たくしてしまうとでも言いたいのか?

 好きな人?
 好き…な人。

 悩む私を見て、石原さんは軽く肩をすくめた。

「人生の先輩にこんなことを言うのはとってもおこがましいと思いますけど。でも、私くらいの年齢って、毎日恋愛のことばかり考えて過ごす恋愛脳なんですよね。友人との会話はまず恋愛ネタから入るし、映画だって恋愛ものを選んじゃうし、雑誌の星占いコーナーも真っ先に読むのは恋愛運の項目です。だから番匠さんと飲みに行ったりすると恋愛のことばかり質問してました。過去の恥ずかしい経験なんかを頑張って打ち明けたらそれで気を許してくれたのか、番匠さんも自分のことを教えてくれるようになったんです」

 その言葉に、私は心底驚いた。

 あの光正の口を割らせるなんて至難の業だっただろうに、もしかしたらこの人は天然の人たらしなのかもしれない。ニイッと口角を上げて、石原さんは一気に話を纏め始める。

「だからゴメンナサイ。番匠さんからの視点ですが、ほぼ経緯は知っています。井崎さん夫婦と番匠さんとの関係を。実は私、過去に付き合った彼氏達がことごとく浮気性で。だから世の中の男性にとっても幻滅してたんですけど。…なんかもう、おとぎ話みたいだなって。

 だってどんなことが有っても、
 番匠さんは井崎さんを愛してるんですよ。

 自分を捨てて元カレとヨリを戻しても、その相手と結婚して子供まで産んでも、…そして、その相手が亡くなっても、変わらずに井崎さんを愛し続けるんです。すごくないですか?私、それを聞いてなんか…うーん、どう表現すればいいのかな…。震えた?そう、震えたんです。

 永遠なものなんて何も無いと諦めていたら、
 それを見つけちゃった…みたいな。

 執着でも意地でも無く、番匠さんはただ井崎さんの幸せだけを願って、さり気なく見守っているんです。なんかもう、究極の愛じゃないですか?この世で最も美しいものを見つけた気がして。その美しいものをもっと眺めていたいと、…そう思っちゃったんですよね。

 ねえ、井崎さん。恋愛は相手によって自分の役割を変えるのかもしれません。亡くなったご主人は貴女を成長させたようですが、番匠さんの場合は逆に貴女によって成長しているのではないでしょうか?」

 
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