32 / 44
第二章
Echo 1
しおりを挟む泣かないで
俺が幸せにしてあげる。
大丈夫、ずっと傍にいるから。
だから、泣かないで。
────
3年後。
「だからね、雅の方からも注意してよ。今年に入って2人も退職したんだよ?ここまでくると新人ブレイカーだわ」
そう言って祐奈は頬を膨らませたが、指導してどうにかなるくらいなら私だってとっくの昔にやっている。
「でも、ほら、男女の色恋沙汰にあれこれ口を出しても…さ?」
恐る恐る顔色を伺いながら答えると、クワッと牙を剥き出しにして反論された。
「はあん?!色恋沙汰なんかじゃないでしょ?一方的にヤリ散らかしてるのよッ。悔しいことに見た目だけは本当にイイからさ、世間知らずの若い女のコはコロッと参っちゃうんだって。どうせヤルなら社外でヤレって言ってよ。アイツ、雅の部下なんでしょ??」
“アイツ”こと森嶋啓太は私と同じ商品開発室に所属し、一応というか本当に部下である。無愛想だが仕事は出来るしそこそこ信頼しているのだが、如何せん、女にだらしない。それも社内の人間に平気で手を出し、別れる際にたびたび揉める。私と同様、祐奈も出産を機に残業の少ない人事部へ異動しているのだが、退職志願者へその理由について聴き取りを行なったところ、若い女性社員の中からチラホラと『森嶋さんともう顔を合わせたくない』と回答されることが有ったとかで、その度にこうして私が叱られるのである。祐奈いわく、商品開発室の部課長は研究畑の人間のせいか浮世離れしていて会話が噛み合わないのだと。それには異論が無いのだが、だからと言って毎回責められる私の気持ちにもなって欲しい。
「あの、でも、祐奈…。前回も同様のことがあって注意したら、森嶋くんいわく付き合う前に『俺を好きになるなよ』と一応は前置きしているんだってよ」
「…それ、付き合ってないよね?好き同士じゃないのにヤルことはヤッてるってことでしょ!」
バンッとテーブルを叩かれ、思わず肩をビクリと震わせる。さすが男の子2人の母親、随分と逞しくなったものだ。終業後にこうして祐奈とゆっくり話していられるのは、今晩が歓送迎会だからで。唯の面倒は人にお願いして有るため焦って帰宅しなくても良いのだ。ちなみに歓送迎会の主役の1人、入社1年目にも関わらず早くも退職する坂口さんが森嶋くんに弄ばれたと訴えている女性社員だ。残念ながら彼女も私の部下なので、主任という立場から考えると監督不行届なのは間違い無いだろう。
「分かった。後で森嶋くんに注意するよ」
「雅ならそう言ってくれると思った!じゃあ、宜しくねーん」
人事部の簡易応接室を後にし、私は重い足取りでオフィスへと戻る。残念ながら森嶋くんは離席中で、代わりに営業部の女性社員が数名いた。たぶん、商品についてのリサーチの為に誰かが来るようにと依頼したのだろう。もしかしてそのまま歓送迎会にも参加するよう誘ったのかもしれない。残念ながら商品開発室には、圧倒的に若い女性社員が少ないのだ。
もちろん、その原因は森嶋くんで。
次から次へと若いコに手をつけるせいで退職しても新人は補充されず、他部署の中堅が異動してくるようになり。若い女性層の意見が欲しい時に、わざわざこうして営業部の女性陣を借りることになってしまったのである。…うん。確かに今迄プライベートなことだからと見て見ぬ振りを続けてきたけれども、よく考えると業務にも支障が出ているな。祐奈の言う通り、上司である私がガツンと注意すべきなのかもしれない。そんなことを考えていたら、営業部の女性社員達が試食用のお菓子をつまみながら雑談する声が聞こえてきた。
「番匠さん、今日もカッコ良かったねえ」
「でも今年で38歳だってよ」
「私、全然あれならイケる!」
…相変わらず、光正はモテモテだな。
「でも今日さ、用事が有るからって物凄い勢いで帰って行ったよね」
「そりゃあ、オンナじゃない?いないワケないよ、あの人に」
「ええっ?じゃあ梨乃は?付合うかもとか言ってたじゃん、あのコ」
梨乃というのはこの春、営業部に中途採用された石原さんのことだろう。光正とは頻繁に顔を合わせているが、そんな話は初耳だったので軽くショックを受けてしまう。石原さんは確か27歳だっただろうか。光正がその指導係を務めており、美しくてとても聡明な女性だ。よし、後で訊いてみよう。取り敢えず今晩の光正の相手が石原さんで無いことだけは知っている。
…なぜなら唯の面倒を見てくれているからだ。私達は同じマンションの6階と8階に住んでいて、たびたび一緒に食事しており。そのお陰で唯が『ミツくん』と呼んでとても懐いているため、飲み会などがある時は彼に面倒を見てもらっているのだ。うーん、光正にそんなロマンスが?でももう若く無いし、そろそろ結婚を意識してもおかしくないのか。そっか、そうだよな…。少しだけ寂しくなったその時、どこにいても目立つその男が戻って来た。
「あ、ちょっと、森嶋くん!」
「はい、何ですか?」
明らかに不機嫌そうな顔だ。私だってこんなことを言いたくは無いが、言わせるアナタも悪いのだと心の中で思いっきりボヤく。
「えっと歓送迎会、一緒に行きましょう」
「は?何でですか??」
「2人きりで話したいことが有るの」
「ああ、はい、そういうことでしたら」
…という会話の10分後。なぜか私は路地裏に連れ込まれ、濃厚なキスをされていた。驚くべきは、その手際の良さだ。一緒に並んで歩いていたはずなのに、いつの間にかその手はさり気なく背後から回され、そうと意識していないうちに路地裏へと誘導されてしまい、気付けば自販機の陰に隠れて向かい合わせで立っていて、次の瞬間にはもう唇が触れていた。
こんなのパニックになって当然だ。あまりにも久しぶり過ぎるその行為になぜか芳の姿が脳裏に浮かび、それでようやく冷静になれた。
ああ、こんなにも違うのか…と。
>雅、本当に愛してるよ。
>どうかどうか、幸せに。
芳、やっぱり私は貴方のキスじゃないと反応しないよ。芳、逢いたい。逢っていろいろ話したいのに。でもそれは叶わないことなんだよね。まるで条件反射のように涙がボロボロと零れてくる。何年経っても変わらない。私が芳を想う気持ちは、一向に薄れる気配が無いようだ。
「なんで泣いてるんですか?」
「森嶋くんになんか教えない。っていうかさ、意味不明なんだけど」
「意味不明?」
「そうよ、なんで私にキスしたの?」
その表情は驚くほど変化せず、業務報告をしてくる時とまったく同じ口調で森嶋くんは答えた。
「『2人きりで話がしたい』ってのは、てっきりそういう意味かと思ったんです」
「そ、そういう…意味??」
「雅さん、旦那さんが亡くなってもう3年も経つでしょ?そろそろ人肌恋しい時期なのかなと」
「ふざけてんの?」
「いや、真剣ですけど」
「絶対にふざけてるよね?」
「でも、3年も男ナシでいるのって、尋常じゃないです」
「それは森嶋くんの固定観念だよね?」
「いや、一般論ですけど」
「随分と狭い『一般』ね」
…段々と虚しくなって来た。なんだろう、この手応えの無さは。何を言っても相手の心には届かず、返ってくる言葉も私の心には響かない。この人、毎回こんな感じで女のコと付き合ってるの??
「これじゃあ、誰とも長続きしないわ」
思わず口から零れたその言葉に、初めて感情のこもった答えが返ってきた。
「余計なお世話ですよ。そんなの他人にとやかく言われたくない」
「でも、人事部の方から苦情が来てるの。森嶋くんが若い女性社員を食い散らかすのを何とか止めてくださいってさ」
「俺だけの責任じゃなくて、向こうが勝手に言い寄ってくるんです。こっちは断るのが面倒で適当に相手をするだけだ」
「うーん、あのさ、森嶋くん。貴方も26歳になるんだし、青臭い言い訳はそろそろ通用しないわよ」
明らかにムッとした表情で森嶋くんは私に反論する。
「…こっちだって困ってるんです。会社前で勝手に待ち伏せされたり、行きつけの店で待機してることもあるし、どこからか電話番号を調べて掛けてくる。ネクタイだの手作り弁当だの欲しくも無いのに強引にプレゼントされて、しかもその見返りを求められるんですよ。俺が彼女を作らないのは、そこまで本気になれる女がいないからだ。でも、そのせいで狙われるんです。取り敢えず適当にあしらっておけば暫くの間は平穏を保てる。俺だって犠牲者だと思うんですけど、違いますか?!」
…ふと、誰かを思い出した。そっか、そうだ、光正だ。あの人も若い頃はモテまくっていて、いつでも困った顔をしていたっけ。世の中には必死でモテようとする人間もいれば、こうして本人の意思とは関係無くモテまくってしまう人間もいる。
顔かなあ??
顔だよねえ。
ちょっと翳のある男って若い女のコの大好物だし。しかも女にだらしないという噂を聞けば、敷居が低くなった気がして『もしかして自分でもイケるかも』とか勘違いしちゃうよねえ。私は何となく森嶋くんを光正に会わせたくなって、歓送迎会の後で早速それを実行するのである。
0
お気に入りに追加
34
あなたにおすすめの小説
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
離婚した彼女は死ぬことにした
まとば 蒼
恋愛
2日に1回更新(希望)です。
-----------------
事故で命を落とす瞬間、政略結婚で結ばれた夫のアルバートを愛していたことに気づいたエレノア。
もう一度彼との結婚生活をやり直したいと願うと、四年前に巻き戻っていた。
今度こそ彼に相応しい妻になりたいと、これまでの臆病な自分を脱ぎ捨て奮闘するエレノア。しかし、
「前にも言ったけど、君は妻としての役目を果たさなくていいんだよ」
返ってくるのは拒絶を含んだ鉄壁の笑みと、表面的で義務的な優しさ。
それでも夫に想いを捧げ続けていたある日のこと、アルバートの大事にしている弟妹が原因不明の体調不良に襲われた。
神官から、二人の体調不良はエレノアの体内に宿る瘴気が原因だと告げられる。
大切な人を守るために離婚して彼らから離れることをエレノアは決意するが──。
-----------------
とあるコンテストに応募するためにひっそり書いていた作品ですが、最近ダレてきたので公開してみることにしました。
まだまだ荒くて調整が必要な話ですが、どんなに些細な内容でも反応を頂けると大変励みになります。
書きながら色々修正していくので、読み返したら若干展開が変わってたりするかもしれません。
作風が好みじゃない場合は回れ右をして自衛をお願いいたします。

淫らな蜜に狂わされ
歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。
全体的に性的表現・性行為あり。
他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。
全3話完結済みです。

五歳の時から、側にいた
田尾風香
恋愛
五歳。グレースは初めて国王の長男のグリフィンと出会った。
それからというもの、お互いにいがみ合いながらもグレースはグリフィンの側にいた。十六歳に婚約し、十九歳で結婚した。
グリフィンは、初めてグレースと会ってからずっとその姿を追い続けた。十九歳で結婚し、三十二歳で亡くして初めて、グリフィンはグレースへの想いに気付く。
前編グレース視点、後編グリフィン視点です。全二話。後編は来週木曜31日に投稿します。

家出したとある辺境夫人の話
あゆみノワ@書籍『完全別居の契約婚〜』
恋愛
『突然ではございますが、私はあなたと離縁し、このお屋敷を去ることにいたしました』
これは、一通の置き手紙からはじまった一組の心通わぬ夫婦のお語。
※ちゃんとハッピーエンドです。ただし、主人公にとっては。
※他サイトでも掲載します。

甘すぎるドクターへ。どうか手加減して下さい。
海咲雪
恋愛
その日、新幹線の隣の席に疲れて寝ている男性がいた。
ただそれだけのはずだったのに……その日、私の世界に甘さが加わった。
「案外、本当に君以外いないかも」
「いいの? こんな可愛いことされたら、本当にもう逃してあげられないけど」
「もう奏葉の許可なしに近づいたりしない。だから……近づく前に奏葉に聞くから、ちゃんと許可を出してね」
そのドクターの甘さは手加減を知らない。
【登場人物】
末永 奏葉[すえなが かなは]・・・25歳。普通の会社員。気を遣い過ぎてしまう性格。
恩田 時哉[おんだ ときや]・・・27歳。医者。奏葉をからかう時もあるのに、甘すぎる?
田代 有我[たしろ ゆうが]・・・25歳。奏葉の同期。テキトーな性格だが、奏葉の変化には鋭い?
【作者に医療知識はありません。恋愛小説として楽しんで頂ければ幸いです!】
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。

ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる