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第一章
贅沢なペイン 1
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自分がその相手を
どんなに良い人だと思っていても、
自分がその相手を
どんなに好きだと思っていても、
周囲の人々に
『アイツはダメだ』と言われると
なんとなくそんな気がしてしまう。
私達は主観と客観の間に生きていて、
なぜかいつでも主観は劣勢なのだ。
────
光正は淡々とした口調で、話をこう締め括った。
「俺と雅の仲はちょっとやそっとじゃ壊れないって、勝手にそう思い込んでいたんだ。でもいざそうなってみると、驚くほど自然に受け入れられた。ようやく己の未熟さに気付いただけなのかもしれないな。いや、未熟だとは自覚していたけど、その程度を再確認したというか。そうなると全てのことが通過点のように思えてきて。
だって、俺はいつでも逃げ腰だった。周囲の意見に左右され、自分の頭で考えようともせずに、ただ誰かの言葉に流されていただけ。俺が雅のことを想うほど、雅は俺が好きじゃないって、その事実に正直ヘコんだけど。でもまあ確かに当時の俺は弱くて脆い人間だったから、そんなダメ男に文句は言えなかったよ」
>マスター、
>柴崎さんがお呼びですよ。
…ここで常連客らしき男性に呼ばれて豊さんが去って行く。その後ろ姿を眺めながら、私はボンヤリと考えていた。
でも、でもね。私は弱くて脆い光正が好きだったの。今みたいに自信に溢れ、視野が広く包容力もタップリ有りそうなオトナの光正じゃなく。目先のことしか見えていなくて、それでも一緒に手を繋ぎドキドキしながら前に進むような。そんな不器用なところが、堪らなく愛しかったんだよ。
よくよく見れば、目の前の男性は心無しか顔つきまでも以前と違う。優しかった瞳は、強い光を放っている。
「経験値を重ねたんだね…」
「え?ああ、そうだな。仕事も恋愛も、それなりに」
「恋愛も?そっか、そりゃそうだよね」
「うん。でも結局、誰も雅に勝てなくて」
どうしてこれほど私に固執するのか。この人ならば誰とでも付き合えるはずだ。
「たぶん思い出が美化されてるんだよ。私なんて取り柄の無い平凡な女だし」
ふるふると頭を左右に振って目の前の美しい男性は答える。
「まだ支社にいた時のことだ。たまたま東京本社へと出張になり、たまたま山尾さんから連絡を貰い、一緒に飲みに行くことになって。そこで元奥さんとの復縁を報告された。なんかそれで凄く勇気づけられてさ、俺ももしかして…なんてね」
あまりにも嬉しそうに話すので、相槌を打つのも忘れて思わず聞き入ってしまう。
「…で、後日。久々に同窓会で里帰りしたんだ。もちろん実家には行かず、友人宅にだけ立ち寄って。そこへ雅を紹介してくれた春菜ちゃんがたまたま遊びに来て、事細かに雅の現状を教えてくれた。それから福岡に戻った数日後、大きなフードフェスタが有ってね。
俺、その担当を任されたんだけど、近くに雅の会社のブースが有ったから、このチャンスを逃したく無いと思って。担当者に接近し、『転職を考えている』と相談した。後はもう雅も知ってのとおりだ。とにかく俺は必死だったんだ、『思い出を美化している』なんて言葉でこの想いを否定しないで欲しい。
雅、好きだ。
お願いだから逃げないでくれ。
俺のこと、本当はどう思ってる?
こうして触られることさえ、嫌か?」
男性にしては長くて美しい指がそっと私の頬に触れる。
「い…やじゃない。けど…」
「けど?」
その喉がゴクリと動いた。
「くすぐったい」
「…ふ…ふふっ」
緊張していた光正の口元が分かり易く緩んだかと思うと、悪戯っ子のように何度も私の頬を撫でる。
「な、何??くすぐったいってば」
「雅にこうしてずっと触れたかった」
自信に溢れているはずの光正の表情が、一瞬だけ昔の表情に戻る。そう、あの頃みたいな弱々しい表情に。イエスかノーか2つしか選択肢は無いはずで、なのにどうして即答出来ないのかその理由を探ってみるが、アルコールで程好くボヤけた頭はそう易々と答えを出してくれない。
本音を言うと、期待され過ぎていることは重荷だ。大手からウチみたいな中小企業に転職し、築き上げたものを全て捨ててまで私に固執する理由が理解出来なくて。もしかして光正は、私と付き合っていた頃の自分に戻りたい…そんな考えがどこかで捻じ曲がり、思い詰めてしまったのかもしれない。
ああ、そうか。私は今、なんだかんだ言って幸せなんだ。たぶん人が変化を望むのは、不安定だったり不幸な時で。高校時代に芳と付き合ったのはそうしなければ周囲が煩かったし、大学時代に光正と付き合ったのは芳に新しい彼女がいることを知り、新しい恋でそれを忘れようとしたからだ。
それに比べると今はなんだかんだ言って仕事も順調で、恋愛関係では無いにせよ常に芳が傍にいてくれるし、祐奈や健介だっている。たぶん人は幸せだと変化を恐れ、現状維持を望むのかもしれない。
「そっか私、なんだかんだ言って幸せだったんだなあ…」
「んッ?」
それは光正にとって予想外の呟きだったらしく、鶏みたく首を前方に出すその仕草に思わず声を上げて笑ってしまう。
「あのね、光正…」
「えっ、何?」
そして私は素直にその心情を伝えるのだ。…このまま変わりたくないと。自分のことさえ理解していなかった私は、『彼氏が欲しい』と騒いでおきながら本当はずっと変化しないことを望んでいたのかもしれませんと。そんな私に光正は優しく説き始める。
「変わらずに生きるなんて、そんなことは無理なんだよ。祐奈ちゃんが橋口君と付き合い出し、これから全員で集まることも少なくなる。キミの元カレ…井崎君だって、いつかは結婚するだろう?そうなると雅は1人になってしまうんだぞ。分かるかい?彼氏や彼女というのはね、理由が無くても傍にいられる存在なんだ。会いたいと言えば『どうして?』と訊き返されないし、当然のように受け入れて貰える。それは許可証みたいなもので、出来れば俺はその許可証が欲しいんだよ」
「許可証…」
眉間に皺を寄せてパチパチ瞬きを繰り返すと、光正は畳み掛けるように続ける。
「そんな深刻に考えないでくれ。友達から彼氏・彼女に変わっても、それほど大きな違いなんて無いよ。今が幸せなら、そのままで。傍にいた友達の1人が、ちょっとだけ昇格したと思ってくれ。あのさ、俺たちは過去に付き合っていた。でも別にその続きを始めるワケでも無く、リセットして再スタートするのでも無い。少しは過去を振り返るかもしれないけど、とにかく前に進んでみようよ。
カノンという音楽様式を知ってるかい?輪唱とゴッチャにされることが多いけど、輪唱は全く同じ旋律を追唱するのに対し、カノンは異なる音で始まったり、倍速になったりするらしいんだ。俺たちもそんな感じでやってみないか?2度目だからきっと安定感は抜群だと思うよ。そして2度目だからこそ、余裕をもって楽しめる気がする」
次から次へと言葉が出てくる光正に、軽く感動すらしていて。この人はどんどん成長していくんだなと思うと、妙に寂しくなった。…なんだか自分だけが、取り残されているようで。
「カノンなんて単語が光正の口から出てくるとは思わなかった」
「そりゃあ俺だって営業だし。あちこちの担当者と会話を繋げる為に、多方面の知識を頭の中に入れてるよ」
そっか、頑張ってきたんだね。
ううん、まだ頑張っている最中なんだね。
…急に、そう、本当に衝動的に巻き込まれてしまおうかと思った。世の中、何でも勢いが肝心だ。
「あ、のっ、私ッ」
「うん」
どんな時でも優しく落ち着いた声で光正は相槌を打ってくれる。
「ご期待に添えないかもしれないけど、でも、取り敢えずっていうかッ」
「うんうん」
私の返事がもう分かっているのか、光正は嬉しそうにニコニコと笑っている。
「つ、付き合ってみようかな」
「うん、有難う」
「でも確定じゃなくて、その、お、お試しでッ」
「それでいいよ。俺、そのまま本採用される自信あるし」
…あの頃好きだった内気で純粋な男は、かなり変わってしまったようだが。振り返ってばかりいてもしょうがない。過去の旋律はそのままに、現在の私達で新たに奏でていこう。速度を変え、アレンジを加え。
そう、大切なのはとにかく楽しむことだ。
…………
その翌日、会社に行くと閑散としていて。訊けば明日から大阪で開催予定の食品見本市が大変なことになっていると。当初、ウチの部署からは中堅社員が2人参加予定だったのだが、このうちの1人がインフルエンザに罹り。となるともう1人にも伝染った可能性が出てきて、2人ともホテルで缶詰め状態に。
問題はその代役が誰になるのかということで。今回の見本市は我が社としてもかなり力を入れており、生半可な知識の人間には任せられない。しかし中堅2人が抜けた上にまたベテランを2人出すとなると、通常業務も厳しくなってしまう。そこで白羽の矢が立ったのが、新人であるにも関わらず有能な芳と健介で。出社早々、部長から直々に説明を受け、そのまま荷物をまとめて大阪へと向かったそうだ。
「1週間も健介に会えないなんて寂しいでしょ、祐奈?」
「うっ。全然と言いたいけど、…うん」
その反応があまりにも可愛くて思わず笑ってしまう。両想いになってまだ数日しか経過していない2人は、とにかく何をやっても楽しいらしい。そんな祐奈を励ましていると、部長と話をしていた光正と視線が合い、どちらとも無く微笑んだ。
正直に言えば、暫く芳がいなくてホッとしていた。だって、光正とのことを何と報告すればいいのか分からなくて。翔と付き合っていると言っておきながら、いつの間にか光正とだなんて絶対呆れられるに決まっている。
この時はまだ、光正との関係をオープンにするつもりで私はその機会を探っていたのだが、…それは祐奈の言葉で一変する。
「なんか聞いた話に寄ると、経理部の佐久間さんが番匠さんを狙ってるんだって。今まではホラ、私がベッタリくっついてたけどその私が健介と付き合い出したと知って、それで『じゃあ自分が』と思ったみたい」
サアッと血の気が引いた。
佐久間さんは1つ年上の先輩で、数々の逸話を持つ女性だ。とにかく陰湿なイジメをするのだと。お気に入りの男性社員を常に数名保有し、その男性が社内恋愛でもしようものなら相手の女性を徹底的に攻撃する。出張費の仮払いをギリギリまで処理してくれなかったり、適当な理由をつけて領収書を受け取ってくれなかったり。
この人の難儀なところは自己評価が低いのに気が強いところで、相手の女性が美人だと負けを認めて許すらしく、祐奈が無事だったのもそのお陰だろう。
うーん。
私、きっとイジメられるなあ…。
いや、私の場合は自己評価が低いのでは無く、自分自身を客観的に評価出来るだけだ。残念ながら小心者の私はすぐ光正に相談し、私達の交際は当分秘密にしようということになった。
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