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…知ってる
しおりを挟む実は勤務先から近い場所にマンションを借りるつもりだったが、希望通りの物件がなかなか…というよりも皆無で。悩んでいたところに、私が秘書としてお仕えしている榮太郎様がこう言った。
>俺の自宅近くに住めばいいよ。
>どうせ四六時中一緒なんだし、
>社用車で送迎してあげるから。
なるほどと思い、その通りにしたのである。
お陰様で、榮太郎様の愛妻である茉莉子さんとも仲良くさせて頂き。諸々の都合で今では緘口令を敷かれている彼女のバイト先だった店にも、足しげく通うようになり。えっと、こんなに長々と説明したが、とにかくメチャクチャ近かったのだ。
私の自宅マンションと浦くんのアパートが。
願わくば私だって、自分の住所を教えるなんてそんなリスクは負いたくない。そりゃあ皆んなにはリップサービスで浦くんのことを『可愛い』と言ってみたりもしたけれど、本気で襲おうとはこれっぽっちも思ってなくて。
手を出していい相手とそうじゃない相手の区別くらいつかなくて、男遊びが出来るかっつうの。
唯一、徒歩圏内で通えるお気に入りのバーに行きづらくしてくれただけでは無く、今度はぬけぬけと『部屋に入れてくれ』と?
勿論、私は抵抗した。
しかし彼はこう言ったのだ。
>別に俺のアパートでも構いませんけど、
>裏にアヤさんの自宅があるんですよ~。
>もし見つかったら色々と面倒でしょ?
『確かに』とついウッカリ同意してしまい、気付いたら我が家のリビングに辿り着いていた。
そこそこシッカリ話すようになってきたから、酔いは冷めていると思い込んでしまったが。シャワーを借りると言って浴室に入ったまま彼は戻って来なくなり。恐る恐る浴室を覗くと姿は見えず、捜しまくったところアラびっくり。
寝室でグッスリ眠っていたのだ。
腰にタオルを1枚だけ巻いた姿で。
それはもう、幸せそうに。
何とも言えない敗北感を噛み締めたまま、私はソファで一晩を過ごしたのである。
…トントントントン。
包丁で何かを刻む音がしたので、慌てて朝の儀式を行なう。両脚を左右にパタパタと開閉し、続けて両手を握ったり開いたり。軽く上半身を揺らしてから右向きで起き上がる。
「…えと、コトリさん、何してるんですか?」
「ヨガインストラクターの教えを忠実に守り、私は毎朝こうして体を目覚めさせているのよ」
「あの、昨晩はご迷惑をお掛けしたみたいで…。お詫びに朝食を作った…って、あれ?どこへ…」
「体内時計を正しく起動させるため、目覚めた直後は必ず日光を浴びなくちゃ」
リビングのカーテンを開け、仁王立ちする私。その隣りに並び、浦くんは遠い目をしている。こんな風に斜めに頭を傾げ、生気の無い表情をされると慰めなければいけない気がしてくる。
「どうした、青年!!五体満足に生まれて、好きな仕事にも就いて、それだけでも満足するべきじゃないか!!」
「へ?」
…ごめんなさい。だって日頃、取引先の社長とばかり話してるし。社長たちのノリってだいたいこんな感じだし。ダメ?ねえ、ほんのり社長風味じゃダメ??
あ、分かり易くカックンって項垂れた。
「スン…ズズ…」
「えっ?もしかして、な、泣いてる?!」
24歳にもなった男が、失恋ごときで泣くか?
「や、すんません。なんか情緒不安定みたいで。実は俺、アヤさんに失恋しちゃったんですよ」
「…知ってる」
「俺、人付き合いとか凄く苦手で。俺の父親も料理人でこんな感じでして。
無口で陰気で何が面白くて生きてるのかって、陰でコソコソ噂されてしまう感じの男。反対に母親が底抜けに陽気で、朝から晩まで笑ってるみたいな女。
…息子の俺から見ても、ウチの父親は母親がいなければ生きていけないダメ人間で。ウチの両親、夫婦2人だけで小料理屋を営んでいるんですけど、客とのやり取りも、家族との会話も、町内の人たちとの親睦を深めるのも、とにかく何でもかんでも母親1人で担ってて。父親はただ料理作ってるだけで、母親以外とはほぼ会話ゼロって言うか…。
アヤさん、俺の母親に似てたんですよ。
だから絶対に上手くいくって信じてたのに。ひっ、ぐすっ、やっぱ全然、ダメでした!!店長とっ、あのモテまくりで女慣れしまくりのイケメン店長とっ、つ、付き合ってたってッ。しかもそっちを選ぶから、俺は要らないって」
私は顔を正面に向けたまま、短く答えた。
「…知ってる」
ん??おかしいぞ。もしかしてこの人、昨晩の会話を全部忘れてしまったのではなかろうか?
「実は俺、アヤさんと最後までしてないんです。その…元カノに…」
「…知ってる」
疑念が確信に変わったその時、彼は訝し気な表情でようやく質問してきた。
「えっ?!俺、もしかして昨夜…」
「…ちゅんちゅんって呼んでた、私のこと」
羞恥心で震える浦くんに、私は優しく語って聞かせたのだ…昨夜の会話を。
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