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第五話 魔法使いを名乗る青年

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 運命的な恋をしてみたいとは思わないけれど、例えば友人のような、明日がひとつ今日より楽しみになるような恋はしてみたいなあと、葵だって思うことはある。
 幸せそうな友人の姿を隣で眺めていれば、そんな気持ちが膨らむのも仕方ないだろうと、誰に向けてかわからない言い訳を、ちょっとの憧れを混ぜ込んで、心の内でパンの生地みたいに捏ねている。
 まあ、こんがり焼き上げるつもりも、誰かにお出しするつもりも、葵には一切なかったわけなのだが。

「あのね。僕だって、まさかこんなお願い事をされるとは思わなかったよ」

 日が長い夏空も、だんだんとオレンジ色が滲みだしている。そんな西の空に背を向けるように、葵は何故かいま、早々に敬語を殴り捨てたアスターと公園のベンチで横並びに座っていた。
 今日も暑さは深刻なせいか、それとも日暮れが帰りを促したのか、二人の立ち寄った公園には、呑気に地面をつついている鳩以外、何の姿もなかった。なんとなく気まずくて上を見上げてみるけれど、パーゴラが空を均等に切り取っているのが見えるくらいでなんの意味もない。一人分よりもやや多く空いた二人の間のスペースで、一匹の蟻がうろうろと途方に暮れたように彷徨っている。

「そもそも、最初から説明をお願いしたいんですけど」

 ソフトクリームに変わるはずだったお金は、自動販売機のペットボトル二本に変わって、葵とアスターの手の中にある。お茶のキャップを開けていない葵の横で、慣れたようにさっさとキャップを回して、濃いめの葡萄ジュースを飲んでいた自称魔法使いは「おっけー、いつものやつね」と少しだけ面倒くさそうに言った。

「さて。まず、僕が魔法使いだという話からなんだけど」
「……そもそも、そこから怪しいんですけど」
「君が何を思っているのかはだいたいわかるけど、僕のこれは、妄言でも狂言でも、ましてや学生時代にちょっと色々のめり込んで後から頭を抱えることになるあれでもないからね」
「抱えたことあるんです?」
「…………あるよ。いや、今はその話いいから」
「あるんだ……」

 妙に例えが具体的だったから思わず口を挟んだら、まさかの肯定が返ってきた。
 もうちょっと掘り下げたい気持ちが内側から湧いてきてしまったが、まだ知り合って間もない相手にそこまで踏み込むのはやめておくべきだろうと自制する。と同時に、たった少しの会話でなんとなく肩の力が抜けて、葵はやっとペットボトルのキャップを捻った。
 とはいえ、こちらが頭を抱えたい状態であることは変わりない。

「まあ、仮に貴方が魔法使いだとして」
「いや仮ではなくて魔法使いなんだけど?」
「実際に、何か魔法が使えるんですか?」
「勿論。やっぱり、見せたほうがはやいかな」

 そう言うなりアスターは立ち上がって、パーゴラの落とす網目の陰の下から抜け出した。ぐるり、と彼が公園を見渡すと、一つにゆるく括られた鴇色の髪の短い尻尾が、ぴょこんと跳ねる。
 そのまま何かを見定めたのか颯爽と歩いていくものだから、葵は戸惑いながらも立ちあがり、アスターを追った。

「ん。これなんか丁度よさそう」

 追いついた葵の前で、アスターが大きく手首を振った。
 手首までを隠すような大きめのローブがぶん、と揺れた瞬間、大きな木の杖が何もないところから現れて、当たり前のように彼の手に握られていた。葵が瞬きする間もなく、まるで最初からそこにあったかのように。
 木の根を紙縒りあわせたかのようなそれは、上部の先端が鈎針のように曲がっていて、彼の纏うローブと同じ、濃藍と金色のラインで彩られたリボンが鳥の羽と一緒に結び付けられている。逆に地面にとん、と押し付けられた反対側は、黒い布でぐるぐると隙間なく巻かれていて、結び目は中に隠されているのか見当たらない。
 思わずかける言葉を失った葵の前で、アスターがこちらを振り向き、もっている杖でひとつの遊具を指し示した。恐る恐る歩みを進め、アスターの後ろから覗き込むように向こう側を伺う。
 そこに待っていたのは、イルカの姿をしたスプリング遊具だった。葵も小さい頃はよく、動物の背中に乗って、前後左右にゆらゆらと揺れて遊んでいたものだ。

「じゃあ、ちゃんと見ててよ? 何でも出来る僕の、得意魔法」

 アスターは葵とイルカを挟むように反対側に移動し、その杖でビッと葵のことを指し示し、にやりと笑った。思わず、息を呑む。

 ふいに、しん、と。あたりから、夏の音が消えた。

 目を伏せたアスターが、何やら聞き取れない言葉をぶつぶつとつぶやきながらゆっくりと杖を動かす。その、杖の先端が通った軌道に、葵は、淡い光が線を引くように残っていることに気付いて、目を見開いた。そこに、大きなガラスや透明なプラスチックでもあるかのように、アスターは線を引いていく。躊躇いもなく引かれていく光の線はコンパスを使っている訳でもないのに綺麗で完璧な円を描いていき、時折、杖の先から線になりきれなかった光の粒が、はらはらと零れ落ちていく。
 そうして、時間をかけて描き終わったそれの名前を、葵は知っていた。所詮、魔法陣というものだ。図形と、見たことのない文字で構成されたそれは、描く様子を眺めていても尚、本当に手描きで描いたのかと疑ってしまうくらいに綺麗だった。

「さて。この僕が、わざわざ時間をかけて描いてみせたんだ。ちゃんと最後まで、瞬きせずに、良く見てよ?」

 とん、と。勢いよく、アスターは杖の底を地面にたたきつけた。

「『おやすみ。甘い夢の始まりだよ』」

 アスターが口を開き、言葉を発した瞬間。魔法陣が、ぱっと光を放った。思わず目をつむりそうになったところを、なんとか耐え切って葵はそれを見続ける。するとふいに、視界の中で、何かが空へと打ちあがるように飛びあがったのが、葵にわかった。
 つられる様に、空を見上げる。白かった月が、光の輪郭を取り戻していくその空に、およそ現実ではありえないものを捉えてしまって、葵は思わず声を上げた。

「……え!?」
「んふふ」

 葵の反応に我慢できなかったのか、魔法使いの笑う声がする。
 けれどそんなものに構っている余裕が葵にはなくて、おもわず目をこすって、もう一度「それ」を見上げた。
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