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第三章 岡埜谷俊一郎
12 蓬の中の麻
しおりを挟む天賦の才って言葉がある。
生まれつきに備わっている才能。天から与えられた才能。
母親曰く、神様から貰ったプレゼント。
おれの兄である浩一郎や、今は俺たちのマネージャーである高橋ゆきが各々与えられていたそれは、おれにはない。
そもそも、世界の総人口から考えても、与えられている人間の方が少ないのだろうし、だからこそ奇跡の象徴みたいな言葉で組み立てられているのだろう。
伏せたおれの瞼の下で、広瀬が前を走っている。
おれが思い浮かべる広瀬の姿は、いつだって放課後の部活動でタイムを計るときのあいつだ。
いつかの夜のように反射板なんてつけていない姿だというのに、もっと云えばおれだって瞼を下ろし切っているはずなのに、あいつはずっと背中から光を弾いてはおれを眩ませている。
『――あいつは、格別だよ』
おれは自分の言葉を振り返った。
格別。格別だって。
瞼を持ち上げる。
おれは残ったハンバーガーを一口で平らげた。指についたタレを備え付けのペーパーでぬぐって、ついでに口元も綺麗にする。
道路に面した窓際の席からは、車の往来が良く見える。
おれとは対照的に、ぺろりと指先についた塩を舐めた松井田は、おれが不自然に窓の外へと顔を向けたことなんか気にした様子もなく、いつも通りに会話を繋いだ。
「まー、それはそうかもな」
松井田から溢れたのは、肯定の言葉だった。
顔は窓の外に向けたまま、おれはちらりと視線だけを松井田に戻した。ポテトフライを食べきった松井田は、ず、と音を立てて炭酸飲料を飲みながら、もう片手を林檎のパイへと伸ばしている。
パイの箱をなんとか片手で開封しようと躍起になりはじめた松井田の視線は、おれを映すことなくただ彼の手元だけに注がれていた。
「すげーよな、コータは」
松井田が感慨深く言葉を重ねる。
「突然、変な時期に入部してきてさ。しかも最初は運動出来んのかよって感じの走りだったのに、いまじゃお前と張り合うまでになってるもんな」
おれや松井田が高校一年生の時の、十二月半ば。
冷たい空気に、雪の気配が混じり始めた、晴れた冬の日。東先輩たち当時の最上級生が引退して、新体制が馴染み始めた頃。
広瀬晃太という同級生は、ある日突然、入部届けを持って陸上部へとやってきた。
当然、途中入部の彼は興味津々な視線を集めた。途中入部するくらいなのだから、誰もが彼は走れるものだと思っていた。
だが、実際に広瀬晃太の走りを見て、興味一色だった視線は落胆や、奇異なものをみる居心地の悪いものへと変わった。おれも、抱いたのは落胆だった。
だって、あれは初心者の走りだった。普段走ることとは無縁の人間のそれだ。
フォームもない、体力もない、ペース配分なんかもってのほか。まだ、中学生の方が走れる。
「なあ広瀬。お前、なんで突然陸上を始めようと思ったんだ?」
挙句の果てに、見かねたひとつ上の先輩が問いかければ、地面に腰を下ろし水分補給をしていた当時の広瀬は、気だるげに先輩を一瞥すると、ふい、と顔を背けてしまった。
「……それ、言わなきゃだめですか」
その素っ気ない、会話を続ける気もない態度に、先輩たちの態度は二極化した。あまり関わらない人と、気に食わないと鼻を鳴らす人。必勝祈願には絶対に行かないと頑なに意思を貫いた件もあって、広瀬は本当に一つ上の先輩たちと折り合いが悪かった。
陸上初心者である広瀬の指導はおれたち同級生に回ってきた。となれば、広瀬と同じ長距離走という種目を選び、中学から陸上をやっているおれが彼の指導役に決められるのは時間の問題だった。
「……よろしく、広瀬」
母校も違えばクラスも違った。同級生だったけれど、彼が陸上部に来たことで初めて存在を認識した相手だった。
とはいえ先輩たちほど突っぱねる理由もない。流石に握手なんてものはしなかったけれど、広瀬の顔を見て言えば、俯きがちだった相手の顔がもちあがって、長い前髪の下から揺れる瞳がおれを見た。
あのときはそう、ずっと落ち着きなく瞳が揺れていた。今現在の、おれにも松井田にもじとっとした目をまっすぐに向けてきて、容赦なく地味な呪詛を吐いてくるふてぶてしい広瀬からは考えられない姿だ。
「……よろしく」
広瀬とおれを、無数の目が取り囲んでいた。先輩たちも、同期たちも、みんなが遠巻きにおれたちを見ていた。
すぐにおれから目を逸らした広瀬をみて、きっと、こいつは居心地が悪くなってすぐに部活を辞めるのだろうなと、ぼんやりとおれは思っていた。
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