神様なんていない

浅倉あける

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第三章 岡埜谷俊一郎

07 枯れ尾花

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 おれは、広瀬ひろせをじっと見つめていた。
 高橋たかはしゆきが怪我をした。おれが知っているのはそれだけだ。
 高橋の入部当初、おれと同じく中学から陸上をやっていた同級生がどうしてマネージャーなのかを直接無遠慮にも訪ねたのを、おれは少し離れたところで聞いていた。

 怪我。怪我だって。それしか彼女は語らなかった。それ以上の詳細は聞くなとばかりに笑顔で追撃を押しつぶしていた。
 あんなに楽しそうに走ってたやつが、期待の目とマイクとフラッシュを頻繁に向けられていたやつが、走らなくなる怪我。そんな怪我って、いったい何があったんだろう。
 ネットで調べても、情報統一でもされたみたいに何も引っかからなくて、ただ過去の受賞記事とインタビューが出てくるばかりだ。天才。逸材。奇跡の子。ネットの中で波乗りすれば、出てくる飛沫はきらきらと光をはじいている。
 残されたインタビュー動画で笑っている彼女は、いまマネージャーとして笑っている彼女と何も変わらない。
 まるで、何もなかったかのように。

 きっと広瀬は知っている。高校生という思春期継続中のはずの今でも、おれから見て気持ちが悪いほどに高橋と仲が良いのだ。彼も高橋の怪我の理由を語らなかったが、詳細を知らないはずがない。

「え、なに」

 広瀬がおれの不躾な視線に気付いて、再び顔を顰める。さっきも同じような表情をしていたけど、今度の方が眉間に出来た谷が深い。
 おれは何でもないとばかりに首を横に振った。何でもないことはないけれど、答え合わせをする気にはなれなかった。
 あっちこっちで散見された点が全部線で繋がってしまう気がして、それを目の前の友人に重ねてみるのが嫌だった。

「……なんか、意外だなって思って。広瀬がその選択するの」
「どういう意味だよ」
「……人のために尽くす職業を選ばなさそうだなーって思ってた」
「ちょ、シュン! お前言い方!」

 松井田まついだが慌てた声を出す。
 一方の広瀬は一旦びっくりしたように目を丸くして固まったあと、長い長いため息を吐きだした。

「……岡埜谷おかのやなんて、どこからでも切れますの調味料の袋と十五分くらいは格闘する羽目になればいいのに」
「呪詛が地味」

 なんでこいつ、地味に嫌なたとえ持ち出すのが上手いんだろうなー。
 あとここだけの話なんだけど、広瀬の地味に嫌な呪詛シリーズ、忘れたころに降りかかってくる。たぶん遠くない未来におれは、こいつの言う通りに調味料のパックに大苦戦するのだろうなー、と、ちょっとげんなりした。
 自業自得と言われれば、黙り込むほかないんだけど。

 顧問に許可を取っているとはいえ、この後部活動に合流することを考えるとあまり長居は出来なかった。そもそもおれは部長だし、春の競技大会だって控えているから、一度も走らないで今日が終わるなんてことは避けたい。
 松井田がある程度チラシを見繕い終わったのを区切りにして、おれたちは進路指導室を後にした。
 松井田は、オープンキャンパスのチラシを中心に手に取ったようだった。やっぱり職業だとぴんと来なかったようで、とりあえず学校の雰囲気から見てみたいようだ。そう言ったくせになんだか表情は不服そうで、ここまで真剣に悩む姿は珍しい。

「……ほんとに広瀬はすげえよな……」

 しかも広瀬を羨むほどだ。若干、落ち込み始めているようにも見える。松井田は塾でいったい何があったんだろうか。
 進路指導室を出た先でも松井田にそんなことを言われるとは思っていなかったのだろう、困惑する広瀬の隣から、「大丈夫、松井田もこれからだよ」なんて何故か我妻あがつまが松井田を元気づけている。

「……松井田が落ち込む要素、どこかにあったか?」
「さあ?」

 事情を知っているんじゃないかとばかりに広瀬に聞かれたけれど、おれにだってわからないものはわからない。

 首を傾げながら階段を下る。その最中に、ふとおれはあることを思い出して、広瀬の名前を呼んだ。
 前を歩く広瀬が振り返って、数段上にいるおれを見上げる。

 目が合った瞬間、広瀬が振り返っている間に済ませた深呼吸を、もう一度したくなった。
 こういうの、本当に嫌だ。どうして一つ上の先輩は、おれなんかを部長に指名したんだろうな。
 東先輩とかは名誉だろって言ってたこともあったけど、名誉とか地位とかそんな舌触りの良いものは、塗装、ブックカバー、オブラート。そんな本質を包み隠すだけの表面的なもので、一皮むけば実質苦々しい貧乏くじだよなって、こういうときに毎回思う。

 ああ、もう、面倒くさい。

「……今度、春の競技大会あるじゃん。その前日に、恒例の必勝祈願に行く予定だけど。お前、どうする?」

 おれの言葉に、広瀬はぐっと顎を引いて目を細めた。
 それから、声を喉から絞り出すように――いいや、まるで血を吐くみたいに、言葉を吐き出した。

「……俺は、行かない」

 ああ、そうだろーね。
 広瀬、お前なら今年もそう言うだろうなっておれは思ってた。


 朝凪あさなぎ神社の敷地は広い。敷地が広ければ参道も広い。
 おれがこの神社に初めて来たのは高校生になってからだ。地元だからこの神社のことは知っていたけれど、家族で初詣に行くことは今までなくて、友達と初詣というのもそれまでは一度も無かった。
 だから初めてここへ足を踏み入れた時はその広さに驚いたものだし、今までの必勝祈願で訪れたときや、この間の大晦日もそうだ。なんなら階段トレーニングとしてちょっと場所を借りているとき――勿論、人が少ないときを狙ってやっている――事あるごとに敷地の広さを目の当たりにしては凄いなと感心してしまう。

 四月頭。春の競技大会を明日に控えたこの日、朝凪高校陸上部の部員たちを引き連れて、おれは朝凪神社の階段を上った。部長のおれは、女子陸上部の部長と、それから顧問と一緒に先頭を歩いている。
 おれを含めた先頭三人は黙々と上っていたけれど、後ろの部員たちは木々が風に吹かれるように、さわさわ、ざわざわと会話を交わしていた。階段きつい、とか、猫がいた、とか。自分が黙っているから余計にだろうか、後ろの会話は追い風に乗っておれの耳に届く。
 他愛ない言葉から、酷く燻ぶった言葉まで。

「――また広瀬のやつ、いないのかよ」

 それを耳にした時に、やっぱりこうなるよなという、どこか平坦な感情がおれのなかでぐるりと一周した。
 ――ああ、そういえば。東先輩も前年度の部長と折り合いが悪かったけれど。広瀬晃太もまた、彼とは違う理由で部長とは距離を置いていたなとおれは記憶を反芻する。いいや、前部長だけではなくて、他の先輩たちともだ。あのひとたちは、伝統を重んじるタイプの人たちだったから。
 その理由の一つが今日だ。
 異様なまでの、必勝祈願の拒否。

 広瀬は、入部してから一度も、朝凪神社での必勝祈願に行ったことはなかった。
 毎回、俺は行かない、の一点張り。せめて理由を言えばいいのに、どれだけ追及されても黙して語らずを貫いた。先輩たちと揉めて関係が悪化しても、それを見かねた顧問にやんわりと促されてみても、決してその意思を曲げなかった。
 本堂の前に並ぶ。代表でおれが鈴緒を鳴らし、女子の部長が代表として声に出して必勝祈願をする。皆で手を合わせる。
 目を閉じて手を合わせたおれの頭の中に、いつかの大晦日がふいによみがえってくる。

『神様はいる。……僕は、そう思うよ』
『オレもいると思う! つーか、いないと困る!』

 我妻や松井田だったら。素直に勝てますようにって、記録が良い結果で終わりますようにって、神様に向かって心の中で唱えているんだろうか。

『私は、我妻先輩と同じ。神様はいると思うな』

 選手ではなく、マネージャーとして共に必勝祈願にきた高橋も、おれたち部員のためを思って真っすぐに願っているんだろうか。
 ここに来る前に、伝統ってだるいよなって話してた同級生も、こういうときはなんだかんだ真剣に手を合わせているから、やっぱり神頼みに精を出しているのだろうか。

『……神様なんていない。……そう思ってる』

 広瀬。お前は、神様なんていないって思っているから。
 神様を祀る場所である神社に、みんなで参拝に来ているこの場所に、共に来ていないんだって、おれは思っていいんだろうか。

 なあ、広瀬。
 もしもお前が頑なに来ない理由がそうだとしたら、おれは。
 神様を肯定しながらも、神様なんていなければいいのにと、そんなことを心の底から思っている、おれは。

(――なんで、ここにいるんだろーな?)

 合わせていた手のひらを緩めて、おれは瞼を持ち上げた。
 見えない何かが、じっと奥からおれを見据えている。
 神社という場所のせいかおれにはそう思えてしまって、しかもそれがおれの心に出来たささくれをひっぱっては血を滲ませる。
 見えないものに、怯えている。

 そうだよ。見えないんだ。
 何も見えないのに、どうして。
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